No.115 固い女は食えねえよ
京都市内で用事を済ませた後、電車を少し乗り継いで、宇治川を歩いた。
いつかと同じ、浅瀬に青鷺が佇んでいた。
ごうごうと川は深く鳴り、陽を照り返して眩しい水面には竿を向ける鮎つりの人影があった。平等院を見学すると、鳳凰堂には巨大な阿弥陀如来像が鎮座していた。黄金の湾曲に鳥肌が立つ。古代の人々は、松明に照らされる如来像の尊顔とその陰影に、心底から畏れ敬い下陣の砂利に平伏しただろうか。奇妙な生々しさでイメージが浮かぶ。
修学旅行の女学生たちは、デジタルカメラを片手に境内を跳ね回っていた。ガイド嬢が苦笑いで辟易している。ほのぼのした風景だが、平等院は修学旅行にも観光地にも向かない仏閣だ。仏閣というよりは遺跡に近いのかもしれない。
やがて日が暮れた。日が暮れると、遠い森が紅く染まり、海の向こうに咲く花の繚乱に見えた。僕は駅から、遠回りして大阪に戻る路線を選んだ。理由は、早く帰る気にはならなかったのと、これからやってくるであろう、深く濃密な夜を車窓から眺めたいと、暇人なことを思ったからだった。
乗り継ぎの際に、閑散としながらもどこか温かみのある駅で、僕は一人の女性と言葉を交わした。不案内な僕が、乗り継ぎのプラットホームを尋ねたのだ。近畿の南に特有の、やわらかい響きの言葉で、彼女は丁寧に路線を教えてくれた。僕は礼を言った。
一拍置いて、彼女はやわらかい言葉を続けた。
―――どちらまで行かれるんですか?
その言葉は、胸にじんわり染み入ってきた。忘れていた懐かしさがあった。
大阪の、南のほうまで、と僕は答えた。遠いですね、と彼女ははにかんだ。
僕と彼女は、そのままゆるゆると言葉を交わして車中を過ごした。
窓の外は、とろりと濃い闇だった。
法隆寺駅で下車した彼女の名前は分からない。年のころは二十歳と少しだっただろうか。低めの声に強く描いたアイラインがよく似合う、それでもきつさの印象を全く与えない彼女だった。お人柄とお化粧のミスマッチは、むしろ彼女の愛嬌だった。
彼女が残した、温かい気分と、不思議な懐かしさがあった。その懐かしさは、彼女の人懐こさに触れたからだった。どちらまで行かれるんですか、という余分の一声。
人懐こさの一声だ。
いつかの過去には、そういう一言がありふれていた時があったような気がする。それも、そんなに遠い過去の話ではなく。
僕たちはどこかに、人懐こさという当たり前を置き忘れてきた。
今僕たちは、世の中をいかがわしく感じ、常に警戒心を活発にしている。声をこわばらせて、トラブルとリスクとストレスを最大限回避しようとしている。
そして僕たちは深刻な寂しがり屋になった。
このことを、時代のせいにするのは簡単だ。しかし時代を責めることには何の意味も無い。都会が悪いわけでもない。これはそれぞれ個人の問題だ。僕個人とあなた個人の問題だ。
僕たちは人懐こさを取り戻せるだろうか?
僕は純粋に人懐こかった、名前の分からない彼女にありがとうを言い忘れた。そのことを、今も少し悔いている。
人懐こい女は、それだけで男にとって貴重で眩しい存在なのだ。
いい女とは、やわらかい女であり、痛みを乗り越えてきた女なのだ
人懐こい女に触れて、ふと気づいたことがあった。男に恋をさせる女は、まずやわらかい女なのだ。人懐こいということとやわらかいということには深い関係がある。固い女が人懐こいわけがない。それだけでなく、やわらかい女という概念は、おそらくそれだけでいろんなことを包括するだろう。
僕の思い出す限り、かわいいなと感じた女の全ては、どこかハッとさせられるようなやわらかさがあった。例えば、おはよう、と一声掛けてきてくれたときの表情や、電話に出るときのもしもしの声。あるいは抱きしめたときや、唇を重ねたとき、その体のゆるみ具合や吐息の音色。気の強い巻き髪が、気を許して見せる静かな微笑みの顔。こちらをとろかすような、また見ていて儚げに危なっかしく思うような、女らしいやわらかさがあった。そしてそれは、直接に男の胸に染み込んでしまう。
恋の全ては、やわらかい女のものなのだ。
固い女は、残念ながら、身も心も食えない。
固い女とはどういう女だろうか。それは例えば、タバコのポイ捨てに本気で腹を立てるような女だ。マナーの無い人が許せないの、と目くじらを立てるような人だ。タバコのポイ捨ては、アメリカの中東爆撃などに比べるとかなり罪が軽いと思うのだが、そんなバランスを踏み越えて、本気でそういうことに目くじらを立てる人はいる。そしてそういう人に限って、他人には気遣いが無く、本質的に人に好かれていないのが典型的なパターンだ。
そういうタイプの人にとっては、世の中は許せないことで満ち溢れていることだろう。時には、自分自身さえ許さないまま、脳みそをガチガチにして生きている人さえいる。
固いとはそういうことなのだ。固い女は、いつも気が立っており、潜在的にイライラしている。そして疲れやすい。腹の底から気持ちよく笑うことがない。いつもどこか焦った気分でいる。人の話をゆっくり最後まで聞くことができない。何かにつけ議論してしまうことが多く、また一人でも不毛に思い悩んで行き詰る。セックスを楽しむことができず、男に抱きすくめられてもうっとりすることができない。
そういう女が、豊かな恋に浸れるわけがない。しかし、そういう人は世の中に急増してきている。
また例えばよくあるケース、元気で明るい善良な、真面目な頑張り屋さんの女の子が、性的には魅力的でなく恋愛対象として求められないのも、この固さとやわらかさに原因がある。頑張り屋さんの女の子は、頑張らなくちゃと意気込んで固くなってしまうことが多い。そして固くなってしまうと、恋は逃げていってしまう。そうなると、いい女にならなくちゃ、とますます頑張ってますます固くなっていってしまう。頑張って笑顔を作って、心の底を知らず知らず疲れさせていく。
やわらかい女は、頑張らない。いや頑張りはするのだが、頑張り屋さんにはならない。やわらかい女は、頑張っていても、どこか不真面目で気ままだ。そのくせ、不意に人にやさしかったりするし、笑顔をこぼすときはごく自然だ。真剣さとはまた別に、まあいいか、と笑ってしまえる余裕を隠し持っている。そのことがまた、男の心に染みいってしまう。
いい女とそうでない女を分ける決定的なファクターは、おそらく行き着くところ「やわらかさ」だ。女は固くなってはいけない、ということになる。もちろん男もそうだろうけれど。
固いということはどういうことか。端的に言うなら、固さとは思い込みだ。老化であり、癒着であり、固定概念であり、世間であり、可能性の喪失だ。また苛立ちであり、防御であり、攻撃であり、疲労であり、停滞と不毛であり、摩擦と消耗だ。
固い人がやわらかくなるということは、どういうことだろうか。それは思い込みを捨てるということだ。大事なものを捨てるということでもあるし、攻撃と防御をやめるということでもある。
そして何より、痛みを受け止めて乗り越えるということでもある。
やわらかくなるということは、癒着して固まったものを引き剥がすということで、また今まで大事だと思い込んでいたものを捨てることだから、そこにはどうしても痛みが伴う。
いい女とは、やわらかい女であり、痛みを乗り越えてきた女なのだ。
僕たちが粋な人になれないのは、僕たちは誰も痛みが怖くて、今持っているものにすがりついてしまうからなのだろう。だからこそ、僕たちはいつもそこを乗り越えた人を尊敬し憧れる。
僕たちはきっと、自分の臆病を心のどこかで知っているのだ。
女たちよ、恋をして傷つけ
痛みに負けると、人は固くなる。自分を守ろうとして、自分を固めるのだ。痛みを受け止め、乗り越えてこそ、人はやわらかくなる。乗り越えた痛みに応じて、人は紛れのない人としての魅力を手に入れもする。
なぜだろう、僕たちは本能的に、痛みを乗り越えてきた人の深みと大きさ、その強さとやわらかさを感じ取るものだ。逆に、痛みを受けていない人をガキだと感じるし、痛みから逃げている人を小さいと感じる。それは迫力とか、オーラとかいうようにも感じられる。それはまったく本能的で、ごまかしが利かない。
堂々とバージンを失った女が、堂々と女らしく色気を持ち魅力的になるのも、おそらくはこのことが理由だ。破瓜の痛みと処女の喪失が、女をやわらかく美しくする。痛みの全てにはきっと意味があるのだろう。思春期の胸の痛みを乗り越えるから、少女は魅力的な女になっていく。
逆に、失恋したことのない女や、頑なにバージンを固持する女は、永遠に美しくならないだろう。特に街中でよく見かける、年増の野暮が集まって、似たもの同士で慰撫し合い、傷つかないように生きている人たちは、美しくなるどころではない、そのままみじめに老化していくだけだ。一生を自己弁護に費やし、やがては腐臭を放ち始めるだろう。これは男も女もだ。
ひどい言い方かもしれないが、これは半ば以上僕は自分に向けて言っているつもりでいる。僕は痛みから逃げようとする自分がいつも嫌で、今それをなりふりかまわず制したいと思って言っているのだ。
No Pain, No Gain.これは偉大な言葉だ。このことを、精神に焼印できるかどうか、そのことがおそらく一生を大きく分ける。痛みから逃げる甘チャンが人生に輝きを得ることは決してない。痛みに負けたまま、世の中の厳しさをイライラしながら主張する説教老人も、同じく永遠にクソだ。
痛み、大事なのは痛みを受けきることなのだ。
だから、上手く立ち回るのをやめよ。
上手な理屈を並べるのもやめるのだ。
自己嫌悪も自傷も手の込んだ逃避に過ぎない。
他人と世の中を攻撃するのも要するに自己防御だ。
痛みから逃げるお前が一番みっともない。
努力する前に、まずその痛い所と向き合え。
ああ、ヤキ入れなきゃ分からないか?
僕たちは傷つかなくてはならない。きっと、自ら傷つく方へ、痛みが待っている方へと、呼吸を整えて向かっていくことが正しいのだ。そこを踏み越えてこそ、僕たちは強く美しくなれる。
そしてどうやら、自ら傷つく方へと歩む、そのことのひとつの営みとして、恋愛というものもありうるようだ。恋をして、痛みを経て、やわらかくなり、また恋をする、そういうサイクルの中に僕たちは生きている。
恋と痛みは表裏一体で、痛みがあってこそ恋愛はいのちを得る。
それは美しい女を育むサイクルだ。
傷つくこと、痛みを受けることは、どうしたって怖い。ただ、その先にはかけがえのないものが待っているということ、またそれを手にするには痛みを経るしかないということ、そのことを知っていれば、いくらか自分に対する励みにはなると思う。
だから女たちよ、恋をして傷つけ。その痛みの中に、あなたの思い込みと固さを解放するチャンスがある。あなたがやわらかく美しくなるチャンスがある。問題を努力で解決しようとする弱虫の自分を軽蔑せよ。大事なことは、痛みと向き合い受けきることだけなのだ。
美しくなるために、痛みを経なくてはならない、恋に生きる女は大変だ。
その代わり僕たち男は、戦って豪快に、ズタズタに負けてくるよ。
くだらない思い込みを捨ててくる。
置き忘れてきた痛みを拾いに行って、また新しい痛みも拾いに行って……
僕もあなたも、努力の無意味を知って、ただ痛みに耐えるだけの無様な夜があると思う。
でも、それであなたはきれいになる。
やわらかく男に染み入る女になる。
僕だって、少しはマシになるよ。
じゃあ、またね。
[了]
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