No.123 今日も土下座でやらせてください
いつもいつも恋愛の話ばかりしているけど、別に恋愛のことだけに興味があるわけじゃない。原始的というか、本来的なものならなんでもいい。わかりやすいようにというか、ウケのいいように、恋愛の視点から物事を見ているだけだ。こういうの、ネタばらししちゃダメなのかもしれないけれど。
女と抱き合うのと、風に吹かれるのと、そのことの気持ちよさに大して差はないように思う。心の奥底がしびれ、血がジンジンと泣き出せばなんだっていいのだ。僕たちはなぜかそれをしない。風なんて二日に一日は吹いてるのにね。
乳歯のままのガキだって、知り合った異性に恋をする。風に吹かれてうっとりするし、夕焼けを見てボーッと心をしびれさせたりする。大人はなんなんだろう。夕飯だから早く帰りなさい、と野暮を言うのが大人だ。夕焼けに見とれて蚊に刺されて迷子になって知らない道を泣いて歩くことのほうがはるかに美しいだろうに、大人はそのことを忘れている。
僕は子供の頃から頭がよかった。小学生の時に、物質とエネルギーというタイトルの、百科事典の第八巻を、誰にも言われず読破した。事典だから当たり前なのだけど、ものすごく分厚い本で、時折眠気に負けて、顔面に本を落としたりしながら、それでも最後まで興奮して読んだ。親はあきれていた。相対性理論の根本の発見として、光速度は絶対的で時間は相対的であるということ、そのことをブルーバックスの本で理解したのは中学生のときだった。
頭が良かったといっても、それは天才というレベルのものではなかったと思う。単にそういうものが好きな科学少年だった。そして今も、頭はきっといいほうだが、そのことは僕をまったく満足させない。生まれつき良かった頭に、感謝はしているけれど、それによって自分の何かが満たされると思ったことはほとんどない。
いくら頭が良くたって、風に吹かれて気持ちいいかはまったく別のことだ。
どうせなるなら、バカになりたい。頭の中がすべて溶けて流れてしまって、風の気持ちよさしかわからなくなるような。夕焼けを見て、取り付かれたように自転車で西日に向かって走りたい。そんなことさえできない大人は、子供に比べて何が立派なのだろう。
僕は女に反応する。それはスケベな気持ちだったり、イラつきだったり、いろいろだ。しかし油断すると、なぜだろう、イラついたりため息をついたり、しんどい気持ちばかり優勢になってくる。
学力のない金髪頭の女子高生が、僕の玄関に空き缶を投げ捨てたとして、彼女のスカートの中身が別に変わるわけでもあるまいに、何を良いとか悪いとか、勝手に批評して火を吹いているのだろう。
僕たちは誰だってデキが悪い。デキが悪いお互いを見て、デキの悪さにイライラしている。そういう心の働きばかり活発なくせに、たまにやさしい女にあったりしても、感激してひざまずいて泣いたりはしないのだ。そのことはいかにも偏っており、一言で言って不公正だ。そんな不公正をしているのに、前向きに生きましょうと、とんでもない雄弁を座右に据えていたりする。
アホなんじゃないのか。誰も彼も、俺も。
誰も彼もがアホなんだとしたら、話はもっときれいになる。とってもアホな女でも、ちょっとマシな女でも、どうせアホなのだから大差は無い。僕はそんな女のすべてに見境もなく土下座したい。土下座して、やらせてくださいと懇願したい。
まあ他人のことを、アホだなんだというと叱られるから、そのことは置いておくとして、僕自身はアホなんだと思う。考えれば考えるほどアホなのだ。おっぱいの大きい女の子を、抱き寄せたら逃げられた、そんなことで三日ほど寂しい気分になっている、そんな生き物は全宇宙から見てアホ以外の何者でもないだろう。
僕はアホで、そのことはもうどうしようもないわけで、それだけにせめて、土下座したいと思うのだ。アホなのはもうどうしようもない。しゃぶってほしいとか入れさせてほしいとか、挙句はさらにたくさん感じてほしいとか、そんなことまで願ってやまない自分なのだから、これはもう改善の余地はなし、だからせめて、礼やマナーだけでもカバーしたいのだ。箸の持ち方をきれいにして、背筋を伸ばして、正しい言葉を使って、あなたを笑わせようとして。
生まれながらに頭のいい、僕としてよくよく分かることがある。数学が分かるとかローレンツ変換が分かるとか、そんなことに対する理解力を、「頭がいい」とみなしている人間の発想が何よりも果てしなくアホなのだ。本当に頭のいい人は、なんじゃそれと初めから興味を持たないだろう。それよりも、どうすれば無駄に苦しまずにいられるか、どうすれば求めるまでもなく満たされるか、そういうことを考える。でも実際に、そのようにして考えて、アホにならずに到達できた人は、お釈迦様とかそういうスーパースターしかいない。比べて僕は、何をやっているんだろう。
恋愛の話も、突き詰めればオスとメス、そして人の心と心の問題なので、本当の頭のよさがにじみ出てくる。だから面白いし、テーマとして普遍だから、僕はここでいつも扱って話している。読んでくれている人が、楽しんでくれているのかどうか、僕には自信がないけれども、僕には結局このようにしてしか話す方法が思いつかない。
本当に頭のいい人は、恋愛についてあれこれ考えたりしないだろう。あれこれ考えてしまうのは、わかっていないからで、わかっていないのは頭がアホだからに他ならない。考えるまでもなく、正解しか選ばないのが、本当に賢い人なのだ。考えたり、正解を探したりしているうちは、どうしたってアホである。そのことに気づけないぐらいアホなのである。
本当に健康な人は、健康に気をつけたりせず、好きなように食べて飲んで、その上で健康でありつづけるだろう。健康に気をつけないと健康でいられないというのは、要するに本質的に不健康でいるからだ。それと同じように、本当にわかっている人は、わかろうなんて思うまでもなく、正解しか選ばないというか、それ以外の選択肢自体が感じられないだろう。
そんなことは、その辺に生えてる一本の草だって、見事にやってのけているのにね。日照りが続けば枯れて、雨が続けば、今度は腐る。そのことに何の疑問もなくそこに生えているままだ。それに比べて、僕は何をやっているのか、無理やり口説けばよかったとかどうとか、うんぬんかんぬん、いのちの無駄遣いをする。
そんな無駄遣いをするぐらいなら、目の前の女に、やらせてくださいと土下座するほうがはるかにマシだ。
世の中で一番最高に退屈で不毛なのは、僕の憂いとため息だと思う。賢くもなれないし、バカにもなりきれない、濡れた路面に土下座する度胸も持たず、そんな僕はプラスチックの破片のようにつまらない。
いつまでもアホのままで、本当にすいません。
せめて土下座して、あなたのパンツを覗けるぐらいにはなりたいです。
では、また……
[了]