No.125 気持ちいいから愛しちゃう
オレという現象は宇宙いっぱいだ。窓から吹き込む風とオレとの間には、何の境目もなく一つである。比べて、自分という存在は小さい。この身体でしかなく、この鈍重な皮袋でしかない。気がつくと、この皮袋だけがオレのような気がしてきて、眉間がキューッと苦しくなるから油断ならない。お金を使い切ると残高が無くなるように、命を使い切ると命はなくなるわけだが、死ぬのは自分であってオレではない。自分は無くなるけどオレはなくならない。窓の外はすっかり九月だ。このオレの中を、自分がちょこまか動き回っているに過ぎない。面白い。
冒頭からわけのわからない話で恐縮だ。あきらかに危ない人の文章だが、とりあえず読み飛ばしてもらいたい。話したいのはもっと別のこと。気持ちよさについて。気持ちいいものは気持ちいい。僕たちは気持ちのいいものだけを追い求めて生きている。そんな行動原理によって、僕は冒頭にへんちくりんなことを書かざるを得なかった。
僕たちは気持ちよさにしたがって生きているということ。
正確に言うと、このことには二つの側面がある。一つには、人間は気持ちよさに「引きずられて」行動するということ。もう一つには、人間は気持ち悪さに「追い立てられて」行動するということ。
引きずられるほうがもちろんラクチンで、追い立てられるのは煩わしくてしんどい。
あなたがアマチュアバンドのライブに誘われたとする。僕も何度か誘われたが、例えばその会場であなたがタテノリの屈伸をするとしよう。そのタテノリが、音楽のグルーブ、その気持ちよさに「引きずられて」のものであれば、あなたは楽しい。しかしそれが、付き合いというか、場所の空気や集団圧力で、しぶしぶやるものだったらしんどい。みんながそういう空気になっているから、その中で一人だけ突っ立っているのは「気持ち悪い」、その気持ち悪さに「追い立てられて」、ウソんこのタテノリをする羽目になれば、それはとても疲れることだ。
あなたが日曜日、九月の午前の風になぶられて、キンモクセイの香りなどに酔いながら、ピンク色のシーツに撫でられてうとうと眠ってしまうのは、気持ちよさに引きずられてのことだ。月曜日、目覚ましにがなり立てられて、ため息をつきながらベッドから出る、これは気持ち悪さに追い立てられてのことだ。目覚ましのうるさいこともさることながら、あなたは会社や上司のうっとうしさを知っているから、遅刻すればまた何やかんや言われる、そのときの気持ち悪さにこそ追い立てられて、あなたは行動を始めることになる。
僕たちの行動はそのように、気持ちよさに引きずられる、気持ち悪さに追い立てられる、という二つの面から起因しているのだ。前者をメインにして生活しているとあなたは楽しくラクチンでハッピーだし、後者をメインにして生きているとあなたはしんどい。
このことを応用して、生活の意識を前向きに改善する、という方法はもちろんありうる。しかし今回はその話の前に、もっと根本的なことの話をしたい。
僕たちはまず、その気持ちいいとか悪いとかに、かなり鈍いのだ。日常、自分の行動が気持ちよさからのものか気持ち悪さからのものか、そんなことは意識の端にさえ上らずに暮らしている。窓を開けることさえ、外の空気の気持ちよさを期待してというよりは、くぐもった部屋の空気を換気したいから、という意識が優勢であることが多い。そのことが自分の日々をしんどくしているなんてことは、おそらく誰も考えもしないのではないだろうか。僕たちは鈍い。自分にとって何が気持ちいいのか悪いのか、致命的にわからなくなってしまっている。
この気持ちいいとか悪いとかの感覚、一言で言うならごく基本的な「感受性」を、僕たちは取り戻すべきだと思う。そうでなければ、自分の行動も他人の行動も根本的なところがわからなくなってしまうから。
今あなたが僕の書いた文章を読んでいて、またこれまでも読んできてくれたのだとすると、あなたが途中でやめずにずっと読んでくれている理由は、そのことがあなたにとって気持ちいいからだと思う。読んでいて気持ちが悪かったら、あなたは読み続けないだろうから。
それと同じようなことが、あなたの生活にも当てはまる。特に恋愛についてはそうだ。あなたと一緒にいる人、あなたと関係を続けている人は、あなたといることに何かしらの気持ちよさがあるからその関係を続けているのだ。あなたが僕の文章を読んでくれるように、ごく自然のこととして、彼はあなたの話を聞く。最後まで、何とはなしに聞いて、そのことで彼は疲れずにいてくれる。それは彼にとってあなたが気持ちいいからだ。
彼氏彼女の関係や、結婚生活で無理が出てくるのは、要するにこのあたりのことが問題だ。一緒にいるのが気持ち悪いのに、契約上とか社会通念上、一緒にいざるを得なくなっている。そして一緒にいるのにだまっているのは気持ち悪いから、なんとなくコミュニケーションを交わそうとする。しかし動機がそれだと、「追い立てられて」の行動なので、基本的にしんどい。そしてそんなことを長年続けていると、そのしんどさの由来がよくわからなくなって、そのしんどさが当たり前、人生ってこんなもん、というような考え方が染み付いてきてしまう。
原則、気持ちよさにしたがって行動したいのだ。それなのに僕たちは、何が気持ちいいのかさえわからないほど、感受性を麻痺させてしまっている。あなたが英会話を習おうがダンスを習おうが将来のために勉強しようが、それらが具体的に気持ちよくなければ、それは決して長続きしない。いくら無理やり続けても、何もあなたの身につかないし、ひたすらあなたをしんどくさせていくだけだろう。
行きつけの喫茶店にいる、最近髪を染めた少女が、雨降りに傘を貸してくれた。いつも丁寧にテーブルを拭く気の優しい彼女は、議論の余地なく人に愛される女だ。それは彼女が人を気持ちよくさせるからで、それまたなぜかと言えば、彼女が気持ちよさの中で生きているからだ。
かような少女が傘を差し出せば、透明のビニールも光って見えるというものだ。
僕は居心地のいい自分の部屋で、あなたに向けて文章を書く。似たような話を、似たような言い方で。僕の書く文章には何の価値もない。ただ、あなたが気持ちよくなるように、そのことだけを願って、狙って、純粋に書く。
あなたが気持ちよくなってくれたら、別にそれは文章でもファックでもどっちでもいいのだ。ファックのほうが僕は好きだが、あなたがやらせてくれないのでしょうがない。
あなたに気持ちよくなってもらうためには、僕自身、気持ちよさの中にいなくてはならない。これはなかなか難しいことだ。特にこうやって文章を書き出すと、見栄っ張りな僕はすぐに力み出す。
そういうときに力まないように、僕は教わったことを繰り返し確認するのだ。オレというのは宇宙いっぱい。自分というのはこの皮袋。この自分がオレの全てと思うと、こんなにつまらんことはない。この鈍重な皮袋を、かわいい女の皮袋と、くっつけて色々やりたがるわけだが、それが叶えば喜べばよし、叶わなかったらこうして文章でも書いていれば気持ちいいのだ。
眉間がグワーッ、だ
宇宙いっぱいとかヘンなことを言っているが、それはネタばらししてしまうと澤木興道先生の御本に激しく感銘を受けたからで、澤木先生の言っていることは偉大な真実であり、僕が言っているのはその真似事の寝言だ。先生曰く、ワシなんかは天地の湿度の具合から生まれたカビみたいなもんでしかないということで、その連なるお言葉はあまりにも素晴らしいので、こんなところで僕のクソ文を読んでいるぐらいなら、あなたもさっさと本屋に言って澤木先生の御本を買って読めと言いたいところだ。お金がなければ身体を売ってでも買え。それだけの価値はあるし、身体を売る相手がいなければ僕が買うから大丈夫だ。
さてそれはいいとして、本題。気持ちよさを追求するということについて。あなたは出来るだけ気持ちよさの中にいるのがいいし、それでこそ彼にとっても気持ちいい女として愛すべき存在になりうる。
そこで、その気持ちよさについての認識というかセンスというか、感受性の問題なのだが、それが徹底的に鈍いのが問題だ。野良猫なんかは、天然に育って気持ちよさの感受性が生きているのでそれでいいのだが、文明生活を送る僕たちはなかなかそれができない。町で見かける野良猫は寝ているだけでかわいいが、僕たちはカラオケのマイクで声を大にして歌ってもなおかわいくない。それは気持ち悪さの何かを引きずっているからで、当の本人は無自覚だ。
このことについて、丁寧に考えてゆきたい。くどくなるかもしれないけれど。
まず気持ちよさとは何なのかという話なのだが、それは簡単に言って自分を開放することだ。自分を開放することなのだが、これは具体的には自分のおでこ、眉間のあたりを柔らかくして、グワーッと広げるようなイメージになる。何のことかわからないと思うが、実際僕として知っている結論はこれなので僕はこのように言うしかない。眉間がグワーッ、だ。
話が一気にアホになってしまった。
人間の身体にはチャクラとか言われるところがあって、そこが開くと何かいいことになる、という話を聞いたことがある。僕の言う眉間のそれがチャクラなのかどうかまったく知らないが、とにかく眉間のあたりに、その開放されているいないが明瞭に反映される。簡単に言うと、おでこのあたりが硬くならないよう、力まないように気をつけること。
特に大事なイメージは、そこを開くようにして、そこから何かを「出す」のではなく、開いたそこからありとあらゆるものを「受け取る」イメージを持つことだ。例えば九月の風をおでこに当てて、自分の頭によって考えるのではなく、その流れ込んでくる風にまかせて考えるというようなこと。自分を開放するとは、自分を出すということではないのだ。自分が出ると自分がしぼんでしまう。自分に何かが流れ込んでくるから、自分は大きく豊かになれる、その感覚が大事だ。
うーむ、話がどんどん危ないほうにいってしまう。
あなたにもぜひ意識して試してもらいたいが、ヘンな宗教や電波をキャッチしないように気をつけてくれ。
このことについて、眉間のあたりが開いているかどうかを、意識して人を観察してみると面白い。最近はインターネット、特にyoutubeなどが便利だから、その中で眉間の開いていそうな人を検索して観察してみるといい。僕の知る限り、これは僕の趣味だが、レイチャールズとかスティービーワンダーとか、チャックベリーとかリトルリチャードとか、日本では桑田佳祐とかが、いかにも眉間がグワーッと開いているような感触を受ける。
逆に眉間がキューッと閉じている例については、わざわざ検索しなくてもいい、満員電車を覗けばズラーッと顔を並べているはずだ。
ついでなので、その「気持ちのいい側」の人間に現れる、外見的兆候についても指摘しておこう。気持ちのいい側の人間は、両肩が下がっており、胸が開けていて、声が太く伸びやかで、笑い声が柔らかい。呼吸が深くて、重心も低い。動作もたたずまいもゆったりしている。要するに外見的にもラクチンそうなのだ。見ているだけでも気持ちがいい。
逆に気持ちの悪い側の人は、両肩が上がっていて、「肩身」が狭く閉じていて、声が細くひきつっていて、笑い声が硬い。酔っ払いなんかはとくに、笑い声が硬く甲高くなる。また呼吸が浅くて重心も高く安定せず、動作もたたずまいもどことなく落ち着きが無くて危なっかしい。要するに見るからにしんどそうなのだ。無駄な力が入って、根本的にキリキリ舞いしている。見ているだけでしんどい。
気持ちのいい側の人は、見るからにラクチンそうで、このことは「安息」という言葉にまとめて説明するとわかりやすいと思うが、そのことは後で追って説明しよう。それよりもまずは、眉間が柔らかくグワーッとすることが大事だ。この感覚は、結局誰に教わることもできないから、理解することさえ難しい。そして何度も言うように、僕たちはその気持ちいい悪いの感受性を麻痺させているから、その眉間グワーッとの感覚を捉えることにさえ鈍感になっているし、さらにはそんな意識は一時間もすれば忘れてしまう。
僕の今回の与太話は、特に一時間も経たないうちに忘れ去られてしまうと僕は確信さえしているのだが、まあ別に忘れ去られてもかまわない。今このときだけ、少しだけ気持ちよくなってもらえたらいいと思う。それは僕があなたを抱くときと同じ。すぐ忘れるにしても、そのときだけは気持ちよくなってもらいたい。
どうして俺はこうセックスのことしか頭にないんだろう。まあいいや、次行きます。
煩いながら気持ちいいということはありえない
季節の変わり目に肌に感じる風は真新しい。元旦なんかは特に清冽だ。真新しい風に肌を洗われると、自分が今ここにいること、今ここに立っていることをしみじみと教えられる。季節の巡りを何回も経験してきたが、このことに飽きることはなかった。これからも飽きずにいられるだろうか。
言うまでもなく、本当は元旦の風だけが特別なのではない。特別に感じるのはあなたの気持ちだけが問題だ。今日の風と元旦の風の違うところは日付でしかなく、南半球なら元旦は真夏の風なのだ。季節の変わり目どうこうも本当は特別なことではなくて、つまるところは僕たちの感受性が問題だ。僕たちの感受性が開かれていれば、本当は毎日の風が真新しいはずなのだ。
感受性が閉じていれば、全てが退屈になる。今日の風も、今日の食事も、大切なはずのあの人も。卒業式で流したあの涙はどこへ行くのやら、別れたあの人と誓い合ったことはどこへ行くのやら。
ミスター・チルドレンのイノセント・ワールドを聴き、マジになっていたあなたはどこへ行った?
僕たちは日々何かを思い煩って、そのうっとうしさを、やがて生活の真の味と思い込むようになる。思い煩い、その気持ち悪さに追い立てられて行動する、そのことの中で意識をぼかしてなんとなく暮らしていく。
僕はそのことを否定したいのだ。
ここで僕は、「安息」という言葉を改めて立ち上げて語りたい。「安息」とは、辞書にあるとおり、「煩いがないこと」だ。僕は安息という言葉が好きだ。その意味と、語感が好きだ。
全ての宗教は、世界平和でも人々の幸福でもなく、ひたすらこの安息を追い求める人の営みとして築かれたものだと思う。
平和な中で思い煩うよりは、殺しあって安息の中にあるほうがはるかにマシだ。
安息、この煩いが無いということについて改めて確認しておきたい。安息とは単に、平和で静的な状態、あるいは無気力で停滞している状態を指すのではない。部屋で丸まってアイスクリームを食べていても、また太るなあと思い煩っていたらそれは安息ではない。逆に今まさに死なんとしている戦場の兵士でも、わが人生に悔い無し、と覚悟して突撃できるのであればそれは安息だ。
あなたにもそのような安息、煩いの無い時間はかならずあったはずだ。
あえて赤子のころまで遡る必要も無い。花火大会で打ち上げられた、特大の大玉に歓声を上げていたその瞬間に、あなたは何かを思い煩っていたか。引越し先で初めての夜を過ごしたあのとき、あなたは何かを思い煩っていたか。祖父母を亡くした日、卒業式で涙をこらえて体育館に立っていた日、大事なあの人と別れを確認しあったあのとき、あなたは何かを思い煩っていたか。長かった夏合宿の終わる打ち上げの夜、あなたは何かを思い煩っていたか。
煩いのないというだけの時間、安息だけでしかない時間は、何よりまぶしくて貴重だ。幸せの本質は、何かがあるから幸せなのではない。何も無い中で、何もなくてこれでいいやと思えるのが幸せなのだ。
幸せを追い求める人が幸せだ、なんて誰かが上手いように言ったけれども、多くの場合は幸せを追い求めると苦悩が始まる。何かを追い求め、何も無いその場所でジッとしていられないとき、僕たちは風の温度さえ見逃してしまう。九月の風は世界があなたを愛撫するような心地だ、と何度言っても伝わらない。
先の話と結合して説明すると、賢明なあなたがお察しの通り、煩いがないこと、安息であるということは、感受性が開かれている状態と同一で、「気持ちいい」ということとほとんど同一だ。前段でくどくど語った気持ちいい悪いについて補足として言うなら、気持ちいいことの全ては安息の中にあるということ。気持ち悪いということは、すなわち煩いがあるということだ。
煩いながら気持ちいいということはありえないし、安息の中で気持ち悪いということもありえないものだ。このことの認識も、あなたにとっての気持ちいい悪いを、正しく知覚する手助けになる。
安息の中にあるあなただけが無敵なのだ。煩いの中にある女が、どんな正論を述べてもブサイクだから誰も聞かない。気にも留めない。
ここまで、気持ちいい・悪いという対立概念の軸、そしてそれを裏側から補足する、安息・煩いという対立概念を示した。
ここで、安息になるためには何が必要だろう、なんて考えている人がいたら、その人はかなり先行きが暗いよ。
良心ぶって冷静ぶって大人ぶって、あなたに煩いについて語ってくる人に気をつけてね。
彼もみんなも自覚の無いままあなたに疲れている
さて今この時点で、あなたのおでこ、眉間の辺りはどんな具合だろう。グワーッと開かれているか、それともキューッと硬く閉ざされているか。開かれていればあなたは気持ちいいはずだ。閉じていたなら、大至急開くことにしよう。
自分を開放して、かつ自分が出てこないように気をつけることが肝要だ。
大丈夫、あなたがあれこれ考えなくても、大事なことは世界が勝手にちゃんと考えてくれる。
あなたはただ、自分を開放して、何もかもを受け取っていればいいのだ。
「気持ちいい」と「気持ち悪い」、「安息」と「煩い」があったとして、それをフーンと知るだけのお勉強話にするとつまらない。僕はこのことをできるだけ具体的な話にしたいのだ。具体的ということになると、そのおでこの眉間のあたりの話にならざるを得ない。あなたの気持ちよさや安息は、そこのところに一番鮮やかに反映される。
ま、とりあえずここまであなたが読み進めて、今のあなたが煩いのない、安息の中にいたとしよう。
あなたにとっては、それを出来る限り崩さないことが大事だ。電話のコールが一本鳴るだけで、安息が崩れてしまうのではあまりに心もとない。
何が難しいかと言えば、まさしくここが一番難しいのだけれどもね。
例えば今このときに、明日の仕事の納期や伝票、上司に報告することや、学生さんは受験勉強のことなどを考えてみてもらいたい。考えるというよりは、具体的にやっているところをイメージする感じで。
そうしてイメージしたときに、さあおでこだ。眉間のあたりはどのように変化したか。ここでおでこがキューッと硬く閉じる感覚になったなら、それはあなたが気持ちよさから悪さへ行動原理を転落させたことになる。
将来のことや、自分の夢についてイメージしたときはどうか?
将来、一戸建てに住んで毎日大きな風呂に入るためには、今こそ頑張らねばならない。自分の夢をかなえるためには、一日一時間はせめてそのことに向けて費やさなくてはならない。例えばそのように考えたとしたら、あなたの眉間はキューッと閉じていることだろう。それは自分を未来に押し進めているのでも何でもないのだ。ただ将来の不安や夢が実現しない可能性を考えて、その「気持ち悪さ」に追い立てられて、ジッとしてはいられなくなっただけだ。
そういうのは、本当に続かないし、何事も身につかないよ。
夢についてイメージして、眉間がキューッと硬くなるようでは、それは夢どころか、むしろ悪夢と呼ぶべきではないか。
僕はここに色々とかっこつけたようなことを書くが、全ては要するにやらせろやらせろということを遠まわしに言っているだけだ。その結果話の内容は恋愛というテーマに行き着いていくわけだけれど、そこに引き当てて言うならば、やはりいい女になるにはここのところが大事なわけだ。
あなたが彼の前で夢について語るとき、あなたは眉間をキューッと硬くしてしまっている可能性がある。
彼の前で堂々と、自覚のないまま、気持ち悪い側の女をやってみせていたりするのだ。
一般的には前向きで明るい、頑張り屋さんのあなたがいて、あなたが「頑張らなくちゃね」と明るく言う。彼もみんなもすなおにあなたに相槌を打つと思うが、実はその中で彼もみんなも自覚の無いままあなたに疲れているのだ。
そんなバカなと、あなたは言うか?
僕は繰り返して言う、僕たちは鈍いのだ。何が気持ちいいのか悪いのか、その原始的な感受性を麻痺させて、わからなくなってしまっているのだ。
だから言葉に気をつけて、その倍ほどはおでこと眉間のあたりに気をつけてなくちゃいけない。
まっとうで前向きで善良なあなたが、一緒に居ると実はしんどいなんて誰も気づかないし、まして言うこともない。言うのはこの世界で僕一人ぐらいのものだ。
相当性格が悪い人でなければ、あなたをいい人じゃないとは言えないんだから。
いい女とそうでない女は、なかなか見分けがつきにくい。見分けがつきにくいのに、なぜか結果的に、幸せに上手くやっていく女とそうでない女とに分かれる。それは生まれ持った星とかそういうことではない。感受性が麻痺しているかいないかなのだ。感受性の麻痺していない女は、どれだけ手抜きをして生きているようでも、気持ちよさの原理から出来るだけ離れようとしない。そういう女は、たいした女でもないのに、なぜか男にとって一緒に居て気持ちのいい女になってしまうのだ。
こう風がとろけるように新しい夜更け、彼はどんな女と歩きたがっているか、そのことを純粋に捉えなおしてみることだ。
ある女は目覚ましに起こされ、今日も頑張らなくちゃと髪をとかし、しっかりと生きていくために勉強に仕事に心を費やし、コミュニケーションを大事にして飲み会に参加して、恋もしたいから週末には男のデートの誘いも受ける。
ある女は朝食のイメージに起こされ、髪をとかす感触を楽しみ、ついつい勉強や仕事に真剣になったりして、みんなと笑うのが好きでついつい飲み会で散財してしまい、週末に誘われるとなんとなくうれしくて後先考えずに誘いをOKしてしまう。
この二人の女は、表面上はやっていることはまったく同じだ。しかし行動原理はまったく正反対だ。後者の女は僕たちに安息を分け与えてくれる。前者は与えてくれない。
気持ちよさ、安息、おでこの眉間の辺りが、柔らかくグワーッと……
それだけのことが、とてつもなく貴重で、バカにできないほどむつかしい。
終始わけのわからない話で恐縮だ。でも今僕が手元に知っている、一番大事な話はこれだけ。
僕はそれを真剣に、気持ちよさの中で語ろうとするしか、結局自分の態度を持ち得なかった。
あなたが今このときだけでも、安息の中に遊んでいることを祈ります。
まだ九月のなのに、風はもう十月です。
今度やらせてね。
[了]