No.130 あのときの続き
六本木から五本木へと抜ける路地を歩きながら、懐かしい曲を耳にした。街灯のない四辻に、元はレコード店であったかのような佇まいの、小さなバアがあった。灰色のコンクリートに黄色い光が垂れているだけの、簡素な造りのそのバアからは、青年らのよく酒に酔った笑い声が賑やかに聞こえていた。その喧騒を縫うようにして、若いころのビリージョエルの声が聞こえる。「オネスティ」だ。あまり人に見せるべきでない、僕のおセンチな部分に、いつかは強烈に響いて、やはり今も響く歌。ああもうすべてのウソをやめよう、という気分になる。この気分は、懐かしいものであるのに、同時に過去のものでは決してなかった。
僕たちは本当は、過去なんか持っていないのだ。未来だって持っていない。過去や未来は空想だ。ただ普段は、その空想のある現在に浸っているというだけだ。その空想を捨ててしまえば過去も未来もない。
あのときの続きだ、と僕は思った。久しぶりに再開された、その無謀な心の気分は、あのときから何も変わらず、衰えずにあった。その「あのとき」というのがいつのことだったのかは、いつも思い出せない。
僕たちはどこにも進んでいないのだ。ぐるぐる、ぐるぐる、回っているだけなのだ。地球が太陽の周りを回るみたいに。それが僕たちに四季を与え楽しませるように。決して押し込められるようでなくて、ただ大切なものを抱えて、それを慈しみながら回っているのだ。
地球が太陽の周りを十回回ろうが、百回回ろうが、僕たちはそれをして、何かが進んだというようには見ない。だから僕たちは地球におめでとうも言わない。僕たちもそれと同じことだ。地球が十回公転するころ、僕たちは何も変わらずにある。
何も変わらずにあるから、せめてせっかくの太陽を見上げて暮らしたいものだ。どうせ外側に目を向けても、そこには到達できない暗闇しかない。
あなたがぐるぐるぐるぐる回る、その軌道の真ん中には宝箱がある。あなたの宝箱だ。その中にはあなたの大好きなものが詰まっている。おじいちゃんのことや、昔の友達のこと。大好きだったお話や、死んだネコちゃんのこと、誕生日に食べたケーキのこと、そんなことが詰め込まれている。あなたは毎日その周りをぐるぐる回っているだけだ。そして新しく大好きなものに触れることがあれば、それをあなたは宝箱に入れる。宝箱の中にはいろんな区分けがあるけれど、その新しいものを入れるところはなんとなくすでに決まっている。あなたはそれをして、これはここね、あのときの続きね、というふうに感じる。宝箱の中の宝は、古くもならないし、入れ替えられもしない。いくつか新しいものの下に埋まって忘れられているものもあるけれど、掘り出してみたらやっぱり同じだ。大好きなものは、ずっと大好きなものでありつづける。
あなたはどこにも行けないし、なんにもならないのだ。宝箱の周りをぐるぐる回る、その速度を人より早めてみたとしても、何も偉いということにはならない。宝の量を増やすことに何か意味があるわけでもない。あなたの宝は誰かと交換できるものではないから、量を増やしても貨幣価値が高くなるようなことはない。
誰かのことを好きになり、愛し合うとはどういうことか。
それは多分、その宝箱を見せ合いっこすることだ。あなたの持っている取っておきの宝。昔話のふりをして、本当は今のものとして宝箱にある、その宝箱を見せ合って、すてきね、と言い合うようなことでしかない。
どこにもいかず、ただぐるぐる回るだけ、それだけで幸せな人生だけど、完全にそれだけというのは退屈もする。だからいつか、あなたの宝箱を見せてくれたらうれしい。そしてお互いにお世辞なんかも言い合おう。何もない外側には目を向けずにいよう。
あまり人に見せるべきでない、おセンチな部分が僕にはある。
こうして話していて、やっぱり見せるべきじゃないと改めて思った。
外はもう、冬の雨です。
[了]