No.132 私信
少し私信めいて書きます。手抜きして書くので、手抜きして読んでください。
久しぶりに、自分のサイトを見直した。去年の自分の誕生日にまつわるコラムがあり、そこからカウントしてみたのだけれど、僕はこの一年間で、たった15本のコラムしか書いていないということがわかってしまった。そんなバカなぁ、という気がする。毎日毎日、書こうとしない日は一日たりともなく、過ごしてきたはずなのに。
その量的な少なさに少し怯んだが、このことは前向きに取ろうと思った。これは僕として、急上昇をしているから、量的なものは低下せざるを得なかったのだ、と取ることにした。急坂の山道を登るとき、その歩速は遅くならざるを得ないように。
実際この一年で、公開した文章量と破棄した文章量を比較すれば、単純に後者は前者の五倍を超えるだろう。
急上昇というのは燃費がどうしても悪いものだ。
少し自己満足を言うが、まあ聞いてくれ。
一年前のコラムを自分で読んでみた。さらにはそこからさかのぼって、二年前、三年前のものも読んで見た。人によって内容の好き嫌いはあるとは思うけれども、今の僕としては過去のものは読むに耐えなかった。出来が悪いというのと少し違う。格が低い、と圧倒的に感じられたのだ。
格が低くても、内容が面白くて、またそれによって馴染みやすいということがあったりして、それを気に入ってくれている人がいた。今も昔のコラムを愛読してくれている人がいて、その報告をいただくぐらいだ。
しかし書き手としての僕は、格の低いものは、最終的に書きたくないのだ。僕は過去の自分の文章を読み、その格の低さを見て驚き少々笑うと共に、ああ同じようなことばかり書いていても、格は上がったのだと自己満足した。
自己満足というと多くの人はウエッと苦い顔をするが、こういう自己満足は大事だ。そうしょっちゅう得られる感覚ではない。ここで喜んでおかないと、僕としては喜ぶことが他に無い。まあだから温かい目で見てやってくれ。
自画自賛、いきます。
去年から今年にかけて、一年やそこらで、よくここまで伸びたものだ!
さらには、二、三年前の作品と見比べたら、まったく別格のものじゃないか!
(休憩)
よく僕が受ける質問として、「いつから文章を書き始めたのですか」というのがある。これについて、恥ずかしながらはっきりしたことはわからないのだけれど、プロの物書きになってやろう、といいかげんな思い付きをして、すぐに手をつけて書き始めたのが、確か四年前のことだ。2004年のこと。それがその年のいつごろだったのかははっきり覚えていない。僕はおおむね、人生の決定をこそ、なぜかそういういいかげんなスタイルで決めることを繰り返してきた。(なぜなのかは自分でも本当にわからない)
四年間。四年間だ。これは、昔から物書きを目指している人たちにとっては、ずいぶん短い時間のようだ。十年来、それを目指してきて、なおまだまだだ、とそうおっしゃる書き手は世の中にうじゃうじゃいる。僕はその中で言うなら青二才、ビギナーだ。もちろん僕は、そういうところで自分と他人を比較しないので、だからどうだと自分に当てはめては思わないのだけれども、とにかく一般的にはまだまだ序の口ということらしい。
そうして短い四年間という視点もありながら、逆の視点からすれば、よくもまあ四年間も、という実感もある。この四年間、ほかの事に興味の最優先が移ったことがないのだから、まったく僕らしからぬ奇特なことである。毎日毎日、飽きもせず、書ける日も書けない日も、締め切りもないくせに、よく執念深く本気でやりつづけたことと思う。この点はあまり自分を褒める気にならない。つくづく変わり者だな、と呆れて感じられて不安になる。
この四年間で、そんな人生で大丈夫なのかよ、と大人の方々に百回ぐらい言われた気がする。それに対して、このまま突き進みなよ、と心から言われたことはほとんどない。僕のやっていることはそれぐらいアホくさいことだ。僕が逆の立場だったとしても、大丈夫かよ、と心配めいた実際には否定の言葉を投げかけたであろうこと、僕としても確信がある。
それにもめげすというか、意に介さず、よくもまあしつこくやってきたものだ。
四年間、一日たりとも、興味が逸れたことがないのだから驚きだ。
ひょっとして僕は、誰にも負けないほど稀有の、しつこい奴なのではないだろうか。僕はそのように感じて、古くから僕をよく知る後輩にそう尋ねてみた。すると後輩は、どうやら、そのようですね、僕も九折さんが、そんなにしつこいタイプだとは思ってませんでしたけど……と答えた。
まあそんな感じでやっているわけです。
僕が物書きになろうと思いつきで志して、しつこくしつこく四年が経った。あのときの僕が28歳だったから、今これを読んでいる人はそのときの僕より若い人が多いはず。
その若いであろうあなたは、どうだろう。
今このときから、思いつきで、四年間でも何年間でも、一日もそれから興味を逸らさず、何かやれそうか?
ガキのころあんなに嫌いだった言葉を、今の僕が使うようになるとは、なんとも言えず感慨深い。
「継続は力なり」
ああ、ありふれてるな。
十五時間連続でデスクに向かっていても、
肩こりなど一切しなくなった
自分として、満足できる文章を書くことに、少しずつ手ごたえが出てきている。それとともに、ここのコラムを書くことに、困った問題も出てきてしまった。本来はこんなネタバラシはするべきではないが、愚痴を言いたいので言ってしまう。恋愛というテーマを取り扱いにくくなってしまった。書きたいことというか、僕の全身が書こうとすることが、恋愛というテーマにどうしても馴染みきらないようになってきたのだ。
なぜ恋愛をネタにして文章を書き、それをこのサイトのテーマにしたか。それは単純に、かわいい女とウハウハな展開になればいいという下心が9割だったが、それとは別に、読み手が興味を持って、楽しく読んでくれそうな題材が、それぐらいしかなかったからだ。ガチンコの仏教のサイトなんか作りたくなかったし、大東亜戦争の話なんかもしたくなかった。芸術トハ、みたいなのも息苦しくていやだ。単純に言うと、僕たちの身近にあり、息苦しくなくさわやかな、それでいて文学的になりうるテーマというと、さしあたり恋愛ということしかなかったのだ。その方針はうまいこといったと僕は思っているし、また今更それを変更するつもりは毛頭ない。こういうとおこがましいが、本当にここに書いてあることを、バイブルとして自分の指針にしてゆくことを、本気で実践してくれている若い女性もいるのだ。そういう女の子から熱烈なメールをいただくと、女好きの僕としては投げ出す気になれない。だからまあ、なんとかやっていこうとしているのだが、いかんせん集中すると、文章は一般的な恋愛のテーマから逸脱しそうになる。
いや、もうすでに逸脱しまくっているか? まあでも、今のところ、精一杯コントロールしてあんな感じです。
僕はコラムを書く際に、計画というか狙いというか、一応の算段をする。まず僕は、どこかで聞いたことのある話、たとえば浮気がどうこうとか愛される女のポイントとか男心の掴み方とか、そういう発想がその発想の地点において、精神的に死んでいると思うので、その発想が出てくる地点をまず、蹴飛ばしてやろうと企む。ベルリンの壁が崩壊したニュース映像を見ながら、夫婦喧嘩は出来ないように、死んだ発想が出てこないところまで、読み手のいるステージを引き上げようと企む。そのために文章に工夫を凝らす。言葉が、描写が、リズムが、その機能を果たしてくれるように、ずいぶん気持ちを込めて書く。
そのようにして、まず読み手の気分を変えること。その上で、新しい考え方がスルリと読み手の心の中に入るように、そう願って企んで書いている。このやり方は、ずっと昔から同じだ。他のやり方があるような気がしないので、僕はこの点については何も発展させずにきた。
ただその書くということの実際において、言葉と描写とリズムとが、それだけ強い力を持つためには、僕は魂を込めて書かねばならない。こんな言い方をするとアホみたいだが、本当に魂を込めて書いているのだ。僕としての考え方とか心とかを、出来る限り置き去りにして、魂の声にしたがって書く。その声が僕の考え方や心に背いていたとしても、僕はその考え方や心を無視して書き続ける。書きあがるまでは自分自身にさえ文句を言わせない。また逆に、頭を使って書いたとして、その内容がいかに的確で理路整然としていたとしても、魂がウキウキしないのであれば、それらはすべて破棄してきた。
僕として書くということの実際の現場はそのような取り組みなので、コントロールできないのだ。一時期はそれをコントロールしようと、文章作法の教本にあるように、プロットを立てたりもしてみたが、そんなものは結局何の役にも立たなかった。
そんなこんなで、僕としてはコントロールしきれない、それゆえ狙いも十分に定まらない、恋愛なのか何なのかテーマもよくわからない、そういう文章を提出することになってしまっているのだ。こんな事情はもちろん、あなたの知ったことではないけれども、中には僕の文章を読みながら、僕の友人の気分でいてくれる人もいるようなので、その人に向けて伝えておきたいと思った。そんなわけのわからんことに、僕はなっているわけです。
何年か前、僕は文章を書きながら、肩こりに悩まされたことがあった。それについて僕は、これは僕が何か間違ったやり方をしているからに違いないと直感し、そのようなことを誰かに話した。そのときその話を聞きつけた、物書きとして先輩の人がいて、その人はこのように言った。「文章を書くのはどうしたって神経を使うから、肩こりせずに書くっていうのは無理だよ。もしそれが出来るとしたら、それはもう天才レベルの人じゃない?」。
僕はその先輩の言を聞いて、なぜかカチンと頭にきた。考えが甘いよ、と揶揄された感じもあったのだが、それにしてもカチンときた。その場は引き下がったけれども、書きながら肩こりになるなんて、絶対の絶対に間違っている、と信じて書き続けた。その結果、今僕は、十五時間連続でデスクに向かっていても、肩こりなど一切しなくなった。神経を使って書くものならそれはもちろん肩こりもするだろう。だけど魂を使って書く分には、そんなしょうもない疾患は出ない。
体調が悪い日や、気分のすぐれない日も、僕は何かを書こうとする。調子が悪いときはいいものなんて書けないよ、というのも僕は絶対にウソだと思っている。僕の文筆への取り組みが本物であったならば、むしろ書くことで体調は回復し、気分は健やかに解き放たれていくはずだ。そうでないと僕は本物だと感じないし、もし本物がそのようなものでないなら、文章を書くなんて単なる悪趣味でしかない。
その方針での取り組みも、最近いよいよ、うれしい結果が体感で出てきている。
おおよそそんな感じで、僕はやっています。歩みが遅いのは、怠け者の僕の特徴。
ただ歩みが遅い分、この道だろうと見立てる見立ては、あまり今まで、外れたことがないのであります。
あなたはかわいいんだよ、というだけのひとつのこと
恋愛なんて、どうでもいいじゃないか、と僕の魂はよくこぼす。そんなことより、もっとウアーッとくるものをやろうぜ、あるいはゾクッとくるやつでもいい、そういうのをやろうぜ、と言ってくる。もちろんその中で恋愛が生まれたり消えたりするのは、それは勝手にやってくれたらいい。ただ恋愛なんて、いのちのありようからみたらちっぽけじゃないか、そんなところにわざわざ、限定して取り組むのはやめようぜ。僕の魂さんはそのように言ってきかない。僕は困ってしまうわけだ。
まあでも、本当はそれが正しいのだ。恋愛がときに深刻に悩ましく、僕たちのテーマとして関わってくるのは、僕たちが恋愛という小さなテーマに囚われてしまっているからだ。ありのまま生きてありのまま死のうと、そのことにテーマを据え付ければ、男と女の好いた惚れたの話なんて、平原に時折巻くつむじ風みたいなものでしかない。また不思議なもので、そうして恋愛ということに囚われて気持ちを小さくしていない人のほうが、結果的に恋愛も上手いことリッチにやっているものでもある。恋愛というのはそうしてしがみつくほど手に入らないものなのだろう。そのようにしがみつくほど手に入らないものは、世の中に意外と多くある。
僕は女の子ちゃんに何を言おう。僕は女の子ちゃんが好きなのだ。ユーモアのあるタフガイも好きだが、それとこれとは華が違う。
自然にある女の子を、僕は本当にただかわいいと思う。そしてただかわいいと思うだけのその感覚が、僕にはいつも感動的なものとして感じられている。ややこしくなっていなければ、女の子はみんなかわいい。ややこしくなっていても、それを止めたら、すぐにかわいい。
僕として女の子ちゃんは、そのひたすらのかわいさの故、基本的に見上げるべき存在なのだ。その女の子ちゃんに、果たして僕が何を言うべきだろう。何も言わなくていいんじゃないか。そういう気がいつもしている。そのことの後ろめたさから無縁になれたことはなかった。
僕がいつも言おうとしているのは、たぶんただひとつのこと。あなたはかわいいんだよ、というだけのひとつのこと。それを確認してくださいと、いや正しくは発見してくださいと、僕はしつこくお願いしているに過ぎない。
あなたという女の子は、ややこしいものに触れて、ややこしくなって、そのことが習慣になってしまっているから、そこから離れてくれよと僕は言いたいのだろう。そこから離れてあなたに帰れば、あなたは元あったただのかわいい女の子ちゃんでしかない。
まったく何がどうなって、こんなにややこしいことになっているんだろうね。
あなたという女の子は、まったく真面目すぎて素直すぎて、お人好しで付き合いが良すぎる。自信を持つなと言われて自信を投げ出してしまい、自信を持っていないあなたはダメですと言われてそうかダメなのかと落ち込んでいる。かわいくなるためにいろいろやりなさいと言われて、かわいかったあなたに余計な思想がガチゴチに貼り付いてしまった。
砂漠でくすぐったらあなたは本当はどうやって笑うの。
あなたが素直なあなたに帰ったとき、あなたを愛さない男なんていないよ。
そこのあなたのかわいさを知っているのは、今のところあなたじゃなくて僕だ。
その僕からあなたに何かが伝わることがあるとすれば。
それはとてもうれしいこと。
うれしいことを飛び越えて、いっそめでたいことでもあるとさえ、僕は思うよ。
よろしく
そんなこんなで、僕はやってます。
これからもしつこくやりますので、どうかごひいきに、よろしく。
女の子ちゃんに励まされたり褒められたりすると、一番元気が出ます。
あなたのキスかメールをください。
僕はあなたを見上げる者です。
ではでは、また。
[了]