No.143 単純なことができない
世の中には冗談の上手なおっさんと、そうでないおっさんがいる。冗談を言う、ということはものすごく単純なことだ。この単純なことにしたって、できる人とできない人がいて、できない人は一生できないままのこともある。これは性格がどうこうという問題ではない。冗談を言うのが死ぬほど嫌いだという人がいれば話は別だが、普通はそんな人はいないので、これは純粋に能力の問題である。冗談を言う能力がない人がいるのだ。
相手の眼を見るということ。ただ見るだけでなく、そこにつながろうとする意志、コミュニケートの意志を表すこと、このことにしてもできる人とできない人がいる。これもまた単純なことだ。単純なことのはずだが、実際に出来ている人は少ない。
単純なことができていないのだ。相手の話を最後まで聞くことや、自慢話をしないこと、相手の名前をちゃんと呼ぶことなど、基本的で単純なことができていない人がたくさんいる。これらの人を前提にして、恋愛のことを考えるのは不可能だ。これは要するに、恋愛が不可能な人が実際に世の中にゴロゴロいるということである。若い人はこのことをよく見て、よくよく気をつけなくてはならない。恋愛が不可能な人に恋愛を期待しないこと。そして自分がゆくゆく、恋愛が不可能な人になってしまわないこと。
恋愛とは単純なものだ。お互いにかわいいと思える二人がいれば、放っておいてもくっついてしまう。かわいいというのはそういう単純な現象で、そのこと自体に時間は要らない。「こんにちは」の挨拶の時点から、ものすごくかわいい女の子はいくらでもいる。その逆もまた然りだ。かわいくないな、という印象も、時間をかけずすぐに伝わるものがある。
勘違いしてはいけない。時間をかけて知り合うことでしか、知られないことはいくらでもあるのだ。時間をかけてしかつむげない絆というのもたくさんある。ただそれは、あくまで前提として無数の「単純なこと」をこなせることが条件になっている。目を見て挨拶ができないのに熱烈なロマンスを求めるというのは無理だろう。これは水泳で言えば、まず水に浮けること、というようなレベルの話だ。まず水に浮かぶこともできない人に、高度なフォームの理論を教えても意味が無い。水を恐がる人は水泳以前におぼれてしまうし、それと同様、人を恐がる人は恋愛以前にプレッシャーで窒息死してしまうものだ。
なぜそんなことになるかといえば、おそらく幼い時期に、できていないことをできていませんよと教える機会がないからだろう。僕は中学生のときに体育の先生に、人の話を聞くときは目を見んかい、と繰り返し大声で怒鳴られたことがある。今ならパワハラと言われて世間が許さないかもしれないが、僕はそのようにして教育されたのだ。これは一見当たり前のことなのだが、こういうことは今世間でどんどんないがしろにされている。アホウにアホウと言うのはやめましょう、傷ついてしまうから! と、そういう及び腰が大人の基本姿勢になっている。
システム的に、色んな問題があるのだろう。あなたは自分の周りを見渡したときに、面白い会話や上手な冗談を言うおっさんが、実に数少ないことを発見するはずだ。本人としては面白いつもりで言っている冗談や、尊敬してもらえると思っている自慢話を、酔っ払って話し出すおっさんは多いが、たいていそれは過去に繰り返し聞かされた話で、しかも内容もその話し振りも低劣なので、結果的には顰蹙を買っているだけのことがほとんどだ。でもそのことを、「やめたほうがいいですよ」と周りの者が言うわけにはいかない。そういうことが言えないようになっている、分厚いシステムが僕たちの周りにはある。このシステムはにわかに変えられるものではないので、僕たちはガマンするしかない。昔、「Noと言えない日本人」というフレーズが流行したが、このことはおそらく今もまったく変わっていない。
単純なことができていない。いや、出来ている人もいるし出来ていない人もいるのだが、その二者の間に境目が無いのだ。出来ている人も、出来ていない人に「出来ていませんよ」とは教えないし、出来ていない人は自分が出来ていないと自覚していないし、出来ている人を見て「あの人は出来ているなあ」と自分を省みることをしない。
もうここは、個人の志だけしか頼れるものはないのだろう。精神的に高貴なものを保っている人が、自分は何か単純なことが出来ていない気がすると気づいて、そのことを人知れず努力してゆくのだと思う。そうして、もともと高貴な志を持つ人だけが努力して、そうでない人は何もしないわけだから、ますます差は開くばかりになる。
その努力が、どれぐらいの差をつけるか? それはおそらく、二年もそのことに真剣になられたら、もう住む世界が違うぐらいになってしまうだろう。相手の眼を見て、話をちゃんと聞いて、よく冗談を言って、よく笑う。その中で顔が引きつらないまで自分を訓練したら、別物になるのは当たり前だ。誰だってその人のことを好きになるし、会話・対話ができるということは極めて大きなことだから、採用面接をする人事担当はその人に二重丸をつけるだろうし、男なら両親に紹介するならこの女、と思うことだろう。
このことに手をつけるのは、おそらく若ければ若いほうがいい。というのは、大人になると、頭の中は余計なことばかりがギッシリ詰まっているからだ。単純なことだけを出来るようになろうと思っても、すぐにでも違うことを考え始めてしまう。「いい年してこんなんじゃダメだ」とか、「こんなことをしている場合じゃないかも」とか。大人になると、努力の時間や努力のための心のゆとりさえなかなか与えられないものなのだ。かといって、他にどうしようもないのだから、どこかでやりくりして、この努力をするより他はないのだけれども。
そこそこ事務職が手についていて、家事全般、料理全般が得意な女がいたとする。それが「かわいい」かと言えば、それはかわいさには関係ないことだ。それよりは、挨拶がとびっきり親しい人、重ねてくる視線に濁りのない人のほうが「かわいい」。すなわち、「かわいさ」は単純なのだということだ。その人がかわいいか否かは、単純なことが出来ているか否かにかかってくるのである。
「単純なこと」とは何か? それは先に言ったように、例えば人の眼を見ることや、冗談を言うこと・受けること、人の話を最後まで聞くというようなことだ。言い換えれば、子供でもできること、子供でもできていなくてはいけないこと、ということになる。事務職や家事や料理は、十五歳の女の子はできなくていい。留学なんてさせる前に、人の眼をちゃんと見なさい、ということを骨の髄まで教えることが先だ。
子供でもできていなくてはいけない「単純なこと」、このことを自分に問うのは勇気がいる。単純なことが出来ていない自分を知るのは、なかなか心理的に苦しいことだ。このことから逃げを決め込んだとき、人は老人になるのだと思う。そして老人の出来ることは、田舎のルールを押し付けることと、お前も早く老人になれと、必死に説得工作をすることぐらいなのである。
あなたが最近関わっている彼は、単純なことがちゃんとできている彼か?
女の子がデートに連れて行かれて、フレンチ・レストランでコース料理などを食べさせられて、辟易することがよくある。小食の女の子にたいていのフレンチは重たすぎるし、男の側がその状況に慣れていないので、どこか気負ったままでくつろげず居心地が悪いのだ。ホテル最上階のバー・ラウンジなども同じ。こういうところに連れて行かれると、女の子はたいてい失望する。「こんなことしてほしいんじゃないのに」。女の子が内心でそう苦笑いしていても、たいてい男のほうは一人で雰囲気に浸りこんで、ハード・ボイルドみたいな表情になったりする。そして語りだすのは「俺ってさあ」という話。
こういうデートの話はよく聞くし、実際にここで「わかるわかる」とうなずいている女性もいるだろう。テレビ・ドラマでのデートシーンは、撮影ロケの都合上、そういう店のシーンしか出てこないのだが、それは別にフレンチ・レストランがデートコースとして優秀だというわけではない。そんな店に連れて行かれるとは露知らず、よく女の子がサンダル姿でオステルリーに引きずり込まれているのを見かける。男性側としてはサプライズのつもりなのかもしれないが、残念ながら気が利いていない。第一、遠いバブル時代ではあるまいし、そういう見栄やハッタリで喜んでくれる女性は少なくなった。普段の食事としてこっそりフレンチに通うなら趣味としてよくわかるが、デートだからフレンチというのはあまりに短絡的過ぎて頭の中を疑われそうである。
単純なことといえば、デートにおける営みやその動機などが、その単純さの最たるものだろう。女の子はお話がしたいのである。そして遊びたいのである。男はそこに口説きたいという動機があるし、女の子の側も口説かれたいという気持ちを隠し持っている。この単純なことがクリアされていなければデートしても意味が無い。疲れるばかりだ。
目を見て話すこともできないのに、女をデートに呼び出してどうするんだろう。堂々と口説くこともできないのに、バーに行って何をするんだろう。話を最後まで聞く落ち着きもないのに、どうやって彼女のことを知ろうとする? そんな単純なことがクリアされていないのに、レストランだけ五万円も出費したらアンバランスだ。会話するだけなら程度の高い純喫茶で十分だ。そして僕の知る限り、程度の高い純喫茶があるから行こうと誘って、いやな顔をする女なんていないのである。交通の便と居心地のよさと、後はトイレのきれいさがあればそれだけでいい。何も複雑なことはないのだ。単純なことができていないから、単純な男女のキスにたどり着かない、ただそれだけのことでしかない。自分の恋愛観とか将来の夢とか、そんな応用的なことは後々でいいのだ。それよりは、あのパーコレーターをいじくっているチョビひげのマスターに、なんとあだ名をつけるべきか? そのことに苦心するという単純なことが、本来のデートの営みである。
このことは女の子のほうに、注意を喚起したい気持ちでいる。あなたが最近関わっている彼は、単純なことがちゃんとできている彼か? ちゃんとあなたの眼を見て、あなたの話を最後まで聞いて、居心地のいいデートコースをアレンジしてくれて、堂々とあなたを口説き、また周囲の人たちにも快活にやさしく振る舞う人か?
日本人女性は世界的に見てやさしい女だといわれる。僕は外国人女性と寝たことがないのでわからないが、とりあえず日本の女性がやさしいというのは事実だろう。そしてそのやさしさゆえにか、男のお粗末な振る舞いにも鷹揚で、ともすれば鈍感、果てはまったく気づいていないということもよくある。
女の子ちゃんはやさしいのだ。居心地の悪いデートに誘われて、無理やり終電の時間に間に合わないようにされて、「何もしないから」とわざとらしく言われてホテルに連れて行かれて、「ごめん俺ガマンできなくなっちゃった」と涙ぐましいセックスを要求されて、それでもなお男に呆れない女の子は多いのだ。
「悪い人じゃないと思う。ちゃんとゴムはつけてくれたし。その後、ごめんねってメールがあって、それからは音信不通なんだけど、こっちから連絡するべきかな?」
と、そんなことを真面目に言い出す女の子も少なくない。
どんな男と付き合おうが、それはもちろん各人の自由だ。ただその中で、相手の男が、単純なことができている人なのかできていない人なのかを、正しく見ることは必要だろう。
よくある話、そんなこんなのデートの末、付き合うことになって早一年、こんな愚痴を聞かされることがある。
「彼、やっぱりちゃんと眼を見て話してくれないし、わたしの話をちゃんと聞いてくれないし、人前だとあまり堂々としてないし、あとあんまりおしゃべり自体してくれないのね。その割には、わたしのことけっこう拘束したがるし、ちゃんと彼のこと男として立てないと機嫌悪くなることも多いし、困ってるの」
その後話は、付き合うのって難しいね、と続くことが多いのだが、それは付き合うどうこうの話ではないのだ。初めのデートのときから、彼はそのような人物であると、元々分かっていたことなのだ。そのことを、新しい問題として取り扱うのは筋が違う。男を見る眼が無いのだ。そんなとき、さっさと別れろと僕は言う気にはなれないが、「予定通りじゃないか」とはさすがに言いたくなる。
単純なことができていない人は多い。できている人は少ない。
そしてその、出来ているかいないかを、ちゃんと見ている人も少ないのである。
クソかわいい女を目指さなくては意味がない
かわいい女のことを考えなくてはダメだ。全てのヒントは実際にかわいい女から示されているものだし、かわいくない女から得られる知見は何か生気を吸い取るものがある。ダメなものを分析して手を加えてもすばらしいものにはならない。日本のサッカーが弱かったとして、本当にヒントを得たいのであれば、日本ではなくブラジルやアルゼンチンのサッカーを見るべきだというのと同じだ。
かわいい女とはどのようなものか。そしてかわいい女がこなしている、「単純なこと」とは何なのだろうか。このことは言い出せば無数にあるように思う。このことについてはその単純なことにいきなり直接触れることはせずに、実際に僕が「かわいい女」を見たときに感じる印象を正確に述べることから手がかりを得たい。
かわいい女にはたくさんの種類がある。穏やかな女、活発な女、優等生の女、本能的な女。これらのタイプや性格だけで、かわいさが決定するわけではない。家出少女にもかわいい女はいるし、良家のお嬢様でもかわいい女はいる。かわいいかどうかというのは性格のことではない。もっと別の、共通した印象がある。
かわいい女を見たときに感じる第一の印象。それは「幸せそう」だ。しなやかな肌のつや、はにかんだ顔、生き生きとした瞳。幸せそうなのは説明されなくても見ていたらわかる。寝顔だけでもわかるぐらいだ。
世の中には、不幸そうな女性に同情したり、病んでいる女に肩入れしたりする男も多いらしいが、僕はそれは不健全だと思うし、第一僕はそのような情緒反応を実際に起こさない。穏やかであっても活発であっても、幸せそうで、満たされている表情の女が「かわいい」と僕は感じる。自分の目の前に具合の悪そうな表情があって、その女をかわいいと感じる神経はおかしいだろう。かわいさの第一の条件は「幸せそう」である。これはこれ以上説明できない。
そして第二の印象は「親しげ」である。「距離がない」「心を開いている」「無防備」「健気」の印象。重ねてくる視線に一番表れるのがこの表情だ。僕の実体験として、十歳も年下の少女が、初対面から親しげな、それも親兄弟より親しげな視線を向けてきてくれることはよくある。この視線は強烈で、ドーンと胸を突かれるようなショックがある。僕はこの視線を受けると感動し、それと同時に内心で、「おいおい、さらっちゃうぞ」とつぶやいてしまう。なぜなのかわからないが、かわいい女には「さらってしまいたくなる」感触があるのだ。それは例えば、道端で突然甘えてくる子猫の表情をイメージすれば誰にでも想像できるものだろう。かわいさの第二の条件は、この「さらってしまいたくなるような親しさ」である。
最後に、第三の印象は「賢そう」だ。勉強ができそう、というのではもちろんなく、話をちゃんと聞けそうな、相手の意図や気持ちをちゃんと理解できそうな、すっきりした理性や知性の感触がある。穏やかであっても活発であっても、心が行方不明になる様子がなく、動作や仕草に余計ながたつきがない。肩の力が抜けていると言ってもいいし、騒がしくないと言ってもいい。冗談を言えばちゃんと通じそうだし、読書も音楽もまともな趣味をしていそうだし、金銭感覚やマナーや人に迷惑をかけないことなどを、正しいバランスで身に付けている手ごたえがある。かわいさの第三の条件は、この「賢そう」である。繰り返すが、賢そうというのは頭脳が怜悧そうということではない。賢そうといえば、例えば犬にだって賢そうな犬はいるわけだから。
こうして三つの点を上げてみれば、実に単純なことではないだろうか? 裏面から補強するならば、例えばこの三点を逆にしてみたとして、「どことなく不幸そうで、何か不満げで」「心を閉じている、どこか壁があるような印象で」「なんとなくアホっぽくて動作が乱雑」な女がいたとしたら、そんな女がかわいいわけがない。いくら東大を出てモデルをやっていてボランティア活動に熱心であっても、この三点が裏切られていたらかわいいとは思わない。
いやもちろん、東大を出ているモデルであれば、社会的には上等な女だから、いっちょモノにしてやりたいという野心は湧くが、それはかわいさからの動機ではなく単なるチャレンジング・マインドである。
だから結局、かわいい女とは単純なことができている女なのだということだ。「幸せそう」であることとは、単に愚痴を言わないということに過ぎない。それも口に出して言わないということではなく、内心でも言わないということである。「親しげ」であるということは、相手の目をちゃんと見ること、それも「ちゃんと」見ることであるに過ぎない。「賢そう」ということは、相手の話をちゃんと聞く、ちゃんと最後まで聞いて受け取ろうとするということに過ぎない。これらの「単純なこと」を高レベルで出来ていれば、それは誰だってかわいい女になる。
かわいい女になる、どころではない。それは僕が内心で呼ぶところの、「クソかわいい女」になるだろう。かわいさに破壊力のある女だ。このかわいさを見せ付けられたら、男は誰もが恋をしてしまう。そういう女は実際にいるし、僕は正直に言ってそういう女ばかりを好きになってきた。そういう破壊力のある女、クソかわいい女を見て、逆に挫ける男もいるが、あなたはそんな男に好かれたくはないのではないだろうか。
この、クソかわいい女を目指さなくては意味がない。どうせ完璧なものにはなれないにせよ、目指すなら正しいゴールを目指さなくては。
かわいくない女がいて、ダサい男がいる。彼らはお互いに、ただ単純なことができていない。本当にできていないのだ。男は上手な冗談が言えず、堂々と口説くことができず、女をときめかせるどころか、リラックスさせることや笑わせることさえできない。女はまともな顔で男の目を見ることもできないし、話を聞くこともろくすっぽできないし、慌ててがさつなアホっぽい動作をやめることもできない。みっともない話ではないか。僕も週に七日あれば、五日はそんなダサい男として生きているような気がするが、それにしても志ぐらいは捨てたくないように思っている。ごまかして考えるのは不潔だ。男がダサくて女がかわいくないのは、ただ単純なことができておらず、その自覚から逃げ回っているだけなのだ。
かわいい女に出会ったときは幸せだ。その内実が、結局は単純なことができているだけでしかないにせよ、その単純なことに僕はいつまでも感動する。ひざまずいてバラの花束を贈ったとき、彼女がおなかを抱えて笑ってくれるとしたら、そのためにはいくらでも僕はそのような冗談を実行してみせようと思う。逆に僕が男の立場として、女をそんな気分にさせられているかというと、まったく自信はないのだけれど、事実僕の前にひざまずいて、あられもない粘膜のキスをしてくれる人は確かにいたのだ。恋愛というのはそういうものだと思う。単純なことに感動しあうこと。
このことから逃げても先はないぞ。
笑えない冗談に出くわしたとき、かわいくない女に出くわしたとき、僕たちは等しく、ただ苦笑いするのである。
[了]