No.149 君の肩口に花束を
僕は現行の「結婚式」の風習を、おかしなものだと感じている。特に教会でやるそれがそうなのだが、ふと正気に戻ってそれを眺めると、なんだかコントめいて見えなくもない。なにしろ根本的にキリスト教徒ではないのだし、全能の神ゼウスなんてものを信じたことは一度も無いのだ。信じていない神様の前で誓いを立てるというのは破綻している。およそどれぐらいの夫婦が、結婚式を挙げたあと、一度でも教会に足を運ぶものだろうか? それは皆無に等しいのではないかと想像する。もちろんやって悪いことではないが、どう見ても奇妙だ。逆にもしブラジルの黒人さんが、何がどうなってか神前式の結婚式を挙げていたとしたら、僕たちはそれを奇妙な光景だと感じるだろう。僕たちは実際にそのようなことをしているのだ。
披露宴、というやつについてもよく分からない。意味合いとしては、嫁入りの儀式として、新しい参入者を共同体が受け入れるという儀式なのだろうが、それにしても何か泥臭くて田舎臭くて、正直僕は苦手だ。ましてそこで、まったく知らない人のスピーチを聞かされたり、新婦がご両親に手紙を読み上げてご両親が泣き出したりしたら、どういう状態でそれを眺めればいいのか困ってしまう。一緒になって感涙するのもバカみたいだし、かといって小便に立つのも失礼という空気だ。
その一方で、全く知らない町で全く知らない花嫁が、しずしずと式場に向かう姿を見かけて、縁もゆかりもない自分として、祝福の拍手をして見送る、というときは気分が悪くない。要するに、結婚式が悪いのではなく、それを見世物にするのが悪いのだ。結婚というのはあくまで二人がするものであり、その儀式は二人でこっそり営めばいい儀式だ。立会人は神父さんや牧師さんという立派な人たちが務めるのであるから、僕たちなどはそれを遠くから見守ればよろしい。一世一代の晴れ舞台、というような言い方をされるが、その表現も僕としては気色が悪い。晴れ舞台というが、それは別に舞台ではない。息子の成人式に母親がついていったら気色悪いのではないか? それと同じで、あくまで二人の儀式でしか無い以上、それを見世物の舞台として扱うのはどうしても気色悪いのである。
そもそも僕は、他人の結婚に興味がないのでもある。誰と誰が結婚するにせよ、勝手にしてくれ、という気がする。義理があるなら、結婚しますとハガキで知らせてくれるだけでいい。わざわざその挙式に巻き込んで、二人のなれそめなどをスライドショーで見せてくれなくて結構だ。それはプライバシーに類することでもあるし、とにかく僕はそのなれそめなどに興味は無いのだ。僕は親友が結婚するときでも、その挙式に参列する意味を、世間体的な側面を除いては感じていない。もし自分が参列しなければならないとしたら、何か特別な事情があって、その現場を確かに見届ける必要があるときのみだ。例えば親友が戦死する間際に、恋人が無事に新しい人と婚姻を結んで、幸せになれるように力を貸してやってくれ、と頼まれたような場合においてのみ、僕はそこに参列する意味を見出すだろう。そうでなければ僕の場合、もし自分に子供がいたとして、その子供の結婚式でも、正直その挙式に参列する意味は感じないだろう。勝手にやってくれ、と思う。特に僕は、壮大な音楽とともに、といっても音源をスピーカーで再生するだけだが、そうして新郎新婦がジャジャーンと入場してくるシーンが苦手である。茶番、と言ったら怒られるかもしれないが、それは演繹的にはやはり茶番である。それは僕たちが、お葬式にベートーベンの「悲壮」をスピーカーで流したりしないことからも証左が得られるだろう。
これはあくまで僕個人の感触でしかなく、中にはああいう見世物的な結婚式がダイスキというような人もいるかもしれないが、そういう人にとっても一度は立ち止まって考えてみるべきことではないだろうか。冷静に考えてみて、人が結婚するところを「見たい」か? そのなれそめを「聞きたい」か? 何かそれは、ものすごく不健康な気配がある。今は儀式化していて感覚が麻痺しているが、もしあなたの彼氏がその友人の結婚に際し、友人に電話をかけるなりして、「ねえねえ、結婚するところ見せてよ! どういう経緯で結婚することになったのか聞かせてよ!」と熱心にお願いしていたら気色悪いだろう。そのように、麻痺を解除してみれば、やはり本質的には気色悪いのである。結婚式はひっそり二人でやるものだ。友人も親族も、せいぜいその式場に入場するところを外から見守り、終わって出てきたらああ薬指に指輪がはまっているなと、そのことを確認して三々五々解散すればよい。そうすればまだ美しいと感じるのは僕だけだろうか。
さてそのようにして、僕なりに現状の結婚式における気色悪さを指摘してみたが、このことは単にそのゼクシィ的な風潮をただ非難しているわけではない。そうではなく、「儀式」がそのように意味不明になると、人は混乱するものだ、ということを僕は見ているのだ。例えば食事の前に、僕たちは合掌して「いただきます」と発声する儀式を持っているが、これは子供に「食事とはこういうものですよ」ということを教える働きを持っている。お葬式でも同じで、その儀式は子供に「死とはこういうもの、死者とはこういうものですよ」ということを教えているのだ。そしてこの儀式は教育として強力なのでもある。僕たちは食事を残すとどうしてもモッタイナイという心を起こすが、これも食事に際して前もって「いただきます」という儀式をしていることによって起こっている。そのようにしてご丁寧にいただいておきながら、残りは食えないから捨ててください、というのは罪深い気がする。だからモッタイナイのだ。それと同じような具合で、結婚式という儀式のイメージは、「男女の結合とはこういうものですよ」ということを、いやがおうにも教育する力を持っているのだ。だから儀式のイメージというのは存外大事なもので、これが意味不明になっていると人々は混乱する。幼稚園児でも、七夕の短冊には「およめさんになりたい」と書くことがあるので、これはまさに三つ子の魂ナントヤラというレベルでの教育になり、僕たちの根本的な世界観に刷り込まれてしまっている。そのコントのような、茶番めいた、気色悪くなった儀式がだ。
僕たちは混乱しているのだ。何しろ最近は、妙齢の女性は結婚するために、積極的な「婚活」をしなくてはならないらしい。そうして殺伐とした風習を作り上げた一方で、結婚式では急に神秘的な気分になりなさい、と言われる。一方では女の子はいつまでも高校生のように、無邪気に「キャハッ」としていなくてはダメだと言われるし、その一方では結局気が利いて男を立てて尽くすことが上手な女でないとお嫁にいけないとも言うのである。結婚式で神様の前で誓うときにも、女はその内心で、「彼のために尽くします、ただし浮気したら離婚しますけどね」と考えているに違いない。結婚しても仕事を続けるのが条件だとか、結婚しないと負け組だし、離婚となったら女が有利だしとか、そんな打算的な理性が脳内にカッキリあるのに、ジャジャーンと壮大な音楽と共に入場してくるのだ。そしてケーキ入刀。これはもうどこからどう見ても混乱している。耽美的な少女小説を読みながら、若々しい恋物語のテレビドラマを聞き流し、執念うずまく女のド演歌を口ずさんでいる、というような様相。男女の結合のイメージがそのように混乱しているのであるから、その前提とされる恋愛が、より深い混乱に陥るのは必然のことだ。
ちなみに余計なことかもしれないが、このことはもう恋愛に限らず、あらゆる分野で混乱が起こっている。例えば仕事のことについても、マジメに働く奴なんてバカだよ、という声がある一方で、まったく同量の、マジメに働かない奴はバカだよ、という声もある。年金を払う奴はバカだし、払わない奴もバカなのだ。携帯メールに絵文字を入れる奴はバカだし、入れない奴もダサい。学歴のない奴はバカで、学歴ある奴もバカで、とにかくそんなこんなで、何もかもが混乱しきっている。残っているのは「自己責任」という単語だけだ。それならそれで、人のことに口出ししなければいいと思うのだが、なぜか混乱しきっている当人ほど、主張の声は大きいことが多い。
今はもう定番になった、中高生などの作成するウェブ上のプロフィールなどを見ると、女の子はその性別のところに、パコられる方、と書いてある。僕はその売春婦のようなプロフィールを見て、やった、ついに新世代、気軽にパコらせてくれる意志を積極的に配信する女の子たちが現れた、と希望に満ち溢れるのだが、実際にそのような女の子に会うと、そのセックス観はねじくれていて面倒くさかったりする。何も重大なことをしようというのではない、ただパコらせてくださいと言っているのに、エーでもさー、とややこしい声で不平を言う。ハテこれは、と思って話を振ってみると、やはりそういう女の子ほど奇妙に結婚願望が強かったりするし、彼氏の浮気に深刻に怯えていたりする。割り切りって言うのもわかるけどさぁー、と女の子は言うが、いや何もパコるだけなのに割り切りも何も要らないだろ、パコるだけだよパコるだけ、と重ねて僕が言うと、女の子は毛先をいじくりながら結局悩み始めてしまう。わたしを買ってくださいというような、売春婦のいでたちで、片膝を折り曲げて。
僕はもちろん、そんなややこしい女の子と無理やり寝たりしない。そういう女の子は、もっと悩んで考えればいいと思うし、彼女なりにどうやって生き抜いていくかに真剣に向き合っているのだから、やがて解決を発見することを真剣に祈る。アドバイスなんかしようがなくて、結局のところ男女の結合のイメージの混乱を、所詮植えつけられたものにすぎないと彼女自身が見破るまではどうしようもないのだ。彼女は混乱しているわけだから、これからどんどんイヤな女になっていくし、みるみる不幸へ近づいていくだろう。それもどうしようもなく、ただその途中にありうる真実への分岐路と、幸福への折り返しに、彼女が飛び込めるだけの強さを手に入れることを願うぐらいしか、僕などにはできないのだ。
寝るにしてフラれるにしても、やはりちゃんとしている女がいい。結婚式の式場で、苦笑いを自分の中に黙殺してシレっとしている女がいいのだ。美しい女がそのようにして、とにかくお幸せにって思うよねとお互いに合意できたなら、僕は土下座してでも彼女とのデートをお願いするだろう。そういう女とこそ、男女の結合について、混乱せずに語ったり、実践したりできるのであるから。
「お前の話を聞いたら、俺も彼女に会ってみたくなった」
サンプルとして面白い話がある。僕がかつて丸の内で働いていたときの合コンの話で、僕と友人Nは同じ女にちょっかいを出した。その女は美人で、国内線の客室乗務員をしていた。落ち着いているが頭がよく、自分の知らないことをもっと知りたいと望む、穏やかな希望の匂いがする女だった。
ここで中立の、友人Tというのが登場する。このTは人付き合いがよく、また人の話を聞くのが上手だったので、彼は僕とNのそれぞれから、あの後あの女とはどうなったんだ、という話を中立のまま上手く聞きだすことができた。これから話すことは、その話を後になって総合したものだが、改めて典型的な、サンプルとしていい話だと思う。
友人Nが、Tに語ったのはこのような内容だった。
「あのコいいコなんだけどさ、昔の彼氏とひどい別れ方をしたらしくってさ。そのことを引きずってるらしいんだよ。それで今も、一応彼氏はいるらしいんだけど、最近はほとんど会ってもいないらしくて、それもどうしたらいいか悩んでるんだって。もともとはその彼と結婚しようと思っていたらしいんだけど、なんか彼女の妹さんがね、学生結婚したんだけど、それがあっという間に離婚しちゃって、その話聞いたら結婚そのものがよくわからない感じになっちゃったんだってさ。彼女の親父さんは、地方公務員らしくて、もともと妹さんの結婚に反対していたのもあつて、その離婚にブチ切れしたらしいしさ。彼女もいろいろ大変みたいだよ。え? 俺? 俺かぁ、俺はまだ結婚とか考えてないけど、彼女みたいな人だったら考えるよね。彼女美人だしさ。ただ正直、まだ俺は遊びたいっていうのがあるし、でも彼女みたいなのと付き合っちゃうと、彼女の過去のこともあるからさ、遊べなくなるじゃない? そうなると、ちょっとどうかなーって。だいいち俺、彼女のこと、過去のことも含めてさ、受け止められる自信ないよ。そりゃ付き合ったら、お互いに支えあえる関係になりたいし、俺もできる限り励ましたりアドバイスしたりするつもりだけど、そういうのって合うタイプと合わないタイプあるじゃん? 俺あんまり自信ないんだよね。昔の彼女とも、そういうので別れたことあるし。それにウチの親も、あんまし何も考えないタイプっていうか、結局明るいコが好きだからさ、その点では自信を持って紹介できないっていうのもあるよね。まあそこは、親のこと気にしててもしょうがないんだけどさ」
一方で、Tが僕から聴き取った話は、Tのまとめによると次のような話だったらしい。
「肩口がね、いいんだよ。あんなきれいな肩は見たことが無い。丸みというか湾曲というか、そのラインがめっちゃきれいだし、それがあの長い髪と重なって、フィラメントに照らされたりすると、コントラストのせいなのかと思うけど、濡れてるみたいに光って見えるんだよ。そんでね、彼女がそうして肩を光に晒して、ベッドに座っているじゃない。そんでこっちから、後ろから呼びかけると、ン? って言って肩越しに振り向くんだ。このときの表情の、やわらかさ、かわいらしさったらないよ。たった今、生まれてきました、よろしくお願いします、って感じの顔なんだ。彼女はあれでね、外向けのくっきりした顔とはまったく別の、映画のワンシーンみたいな顔を持ってるんだよ。それが服を一枚一枚脱がすたびに現れてくるわけだ。なんだこいつ! って俺は驚いたよ。それは一言で言えば、M気質ってことなんだろうけど、そんな陳腐なものじゃない、あれは神聖なMだよ。なんていうか、ハダカでベッドに横になるとね、真っ黒な瞳を全開にして、視線でずっと謝ってるんだよ。そんで、視線をこちら向けてピーンと張り詰めたまま、命令されるのを待ち続けてるんだ。キスするにしても愛撫してもらうにしても、こっちの命令から始まるんだ。なんかね、勝手に何かしちゃ悪いと思ってるんだろうな。本人は絶対自覚ないよ、自覚してたらあんな集中力ある目つきにならない。そんな感じで、何をするにしてもこちらの命令からだし、それを終わるときもこっちの命令待ちなんだ。こっちが何も言わないと、ずーっとそのことに集中してる。あれはなんだろう、愛とかそういうんじゃなくて、彼女の本性だろうな。俺は感動してしまったよ。そんなわけでね……、え? 彼氏? あー、いるのかな。どうだろ? 知らないし聞いてない。あとこないだ、生まれて初めてミュージカルを見て、めっちゃ感動したって言ってた」
さてこのような典型的なサンプルを示してみれば明らかだ。男が同じ女にちょっかいを出しても、そこに見ているものはまったく違う。それはそのまま、男女の結合のイメージ、「男女の結合とはこういうものですよ」というイメージが、根本的に違うことを示している。
自分で言うのもなんだが、前者の友人Nのようなケースのほうが、一般的で「まとも」だろう。恋愛の向こうに結婚の地平を見て、半分を人文的に、半分を打算的・理性的に捉えている。僕のほうは何やらぐちゃぐちゃで、あの女はこういう具合に感動的だった、ということしか捉えていない。
このことについて、僕のほうがイケてるぜ、とは僕はまったく思っていない。ただ、人それぞれに違う、そしてそれは根本的に違う、ということを確認したかったのみだ。
中立の友人Tは、Nから聞く話とお前から聞く話ではまったく印象が違うなあ、と笑った。
そして、
「お前の話を聞いたら、俺も彼女に会ってみたくなった。俺も合コンにいけばよかったよ」
とも言った。
肩口の美しい彼女は結局、その彼氏やらと強引に復縁し、その後も寄り添っていける道を模索しながら進んでいったらしいが、その後はどうなったのかわからない。それ以来彼女のことについては特に誰とも話していないが、もし友人Tに、こう尋ねてみたらどうだろう。
「もしあのとき彼女が、俺かNかと付き合っていたとしたら、どちらと付き合ったほうが幸せになったかな?」
僕の友人Tは気の利いた奴になので、間を置かずこう即答するであろうことを、僕は誰よりも知っている。
「そりゃNのほうだろ。Nはいい奴だからな」
まったくそのとおり。彼女がもしNと付き合っていたら、いい奴であるNは彼女のために、盛大な結婚式を挙げたに違いないから。
―――新郎新婦のご入場です! ジャジャーン!
僕はまたそこで、苦笑いを黙殺して、孤独で真剣な祝福の拍手をしているだろう。
ではではそんなわけで、とりとめもないですが、また。
[了]