No.159 ごう慢
渋谷桜丘町に、二十一歳のおんなと待ち合わせると、彼女は性的にとんでもない身体を持ってきた。髪は短いが、肌があまりに生白く、夜闇の街頭に浮き出ている。通りすがる二人の男が、冷やかすようにそれを眺めてすぎたが、そのにやけた表情には、かれら自身気づかぬところ、鼻をつまみたがる心のうごきがあった。彼女はそれほど匂いたっている。僕は彼女の会釈を受けていっしょに歩き出したが、そのとき僕はもう傷ついていた。視線は石つぶてをぶつけるようで、その外しかたはこちらの身を切るようで、歩調は合いようもなく僕を苦しめるために歩いているかのようだ。僕は彼女とあいさつをかわしたが、それこそ二人の距離をいちばん遠ざけるものだった。彼女は善意的である。ただ僕は傷ついていたし、彼女はそれを、ちいさな仕事をひとつ終えたという表情をさらして受け止めていた。
ごう慢。この単語の示すところは、畢竟(ひっきょう:つまるところ)、目の前にいる人を無視することに尽きる。それはたんなる無視という場合と、たんなる無視でない、こちらの心のうごきをとにかく暗渠におとしいれようと、それが結局ベストな傷つけかたなのだと、よく知りぬいてそのように振るまう場合とがある。そしてそのふたつの場合をして、当人にその自覚や意図がわざわざあることはあまりない。ただそのように振るまうことが、彼ら・彼女らにおいては定着している。ごう慢とは意図せざるネグレクトだと言ってもよい。これはその者にかかわる人から、かるく、ときにはおもく、希望をうばう。
自己卑下・自己嫌悪の思いがつよい人に会う。そして会話を重ねるほどに、その最中は気づかなかったとしても、のちに強力な疲労が自分をむしばんでいることを、これはきっとだれでも発見する。これは人々にとって、「だからネガティブな人はいやなんだよね」と穏健に捉えられているところのものだ。だがこのことにしても真相はそこにはない。真相は、彼ら・彼女らがやはりごう慢であることによる。彼ら・彼女らは、自己卑下・自己嫌悪の思いをつよくして、つまりは自分以外のだれかに、重要な興味を向けることがついにない。僕は疲労にむしばまれた心身を、香油を加えた湯船に浸すうち、ようやく思い至ったのだ。――あの数時間、ついに僕は、彼女からなにひとつとして、僕自身のことをたずねられることがなかった、と。
僕の場合はすこしかわった趣味があり、町の商店でみしらぬ壮年が、いかめしい顔に似つかぬ迷いぶりで、今日の昼食は何にしようかとなやんでいる、そのすがたを観るのが好きだ。それはひんぱんなこととして、僕自身がどのような昼食をとるかということより重要な興味の対象となる。そして彼が、ついに決心したというふうに、ひとつのインスタント食品を手に取ったら、僕はそれにおもわず頬がほころびもする。誰にも見られていない時間、自意識さえ居眠りしているようなその時間のなかで、彼のおもわぬささやかな本性が露出したようにみえて、それは僕にとってかわいらしい。
そのような僕の趣味があるいっぽうで、僕はついに、あの人からは数時間をかけて、ついに僕自身のことをひとことも訊かれはしなかった、ということがあるのだ。かわりに記憶にあるのは、最近世の中おかしいよね、というような話の断片である。
もし僕が彼女をその点について問いつめるとして。なぜあなたは僕のことをひとつも訊かないんだ? と詰め寄ったとしたなら、彼女がどう答えるかを、僕ははっきりイメージすることができる。彼女はいやらしく、それでもギリギリという調子で笑みを作ってみせて、興味ないから、かな、と応えるに違いない。そしてその奥にはかならず、興味のある人にならもっといろいろ訊きますよそりゃあ! という含みも、これはしっかり見せつけるかたちとしてあらわれるに違いないのだ。
あるいは自己卑下がはげしいタイプのひとがどのように応じるかということも、やはり僕はくっきりイメージすることができる。不機嫌をその形式としているひとは、あー、すんません、という、内心ではそのような詰めよりはうざったいのだ、ということのあきらかな調子で詫びるだろう。あるいは不機嫌というよりは情緒不安定という形式のひとについては、ひっくりかえったような声で、エー、ごめんなさい、と詫びるに違いない。そしてその声の調子は、むしろそのような詰めよりによって、わたしが傷ついたのだ、わたしのノビノビとした自由がおかされたのだ、という不平が聞こえてくるものであるだろう。そしてどちらにせよ、そこからなめらかな手続きで変更されていく話の方向性は、「やっぱりわたしの話のやりかたってヘンなんですか?」という、反省の形をした、やはり自己興味の方向であるだろう。
このようなかたちでの、目の前にいる人を無視する慣れた態度、ネグレクトの、意図せざる習慣めいた態度だったとして、このことはごう慢ということばに必然的にむすびうる。これこそがごう慢なのだ、と言いうる。このことの構造はいくらでも説明しうるかもしれないが、これがせめて読み手の内的な議論の種子になるよりは、ホホウと思える読み物として受け取られるために、僕はあえてその部分の説明に踏み込まない。
ただ繰り返していうべきは、目の前にいる人を無視する慣れた態度、これこそがごう慢なのだ、ということである。そのことがぽっかりとした他意のないフレーズとして受け取られることを望み、僕は冒頭に渋谷桜丘町のイメージを持ちこみもした。渋谷桜丘町はいい場所、いい街で、僕は魅力的なところだと思っている。その夜の風景に、ぽっかりありうるものとして、このごう慢ということへの理解が浮き立っては、ただそれだけだとなればよいと僕はおもっているのだ。
ウザい・ありえないの語を使い馴染む一回ごと、精神はごう慢の素地を拡大してゆく
目の前にいる人を無視するという点からは、すぐにでも近年の、インターネットや携帯電話メール、オンラインゲームなどを含めた、電脳通信ツールにおけるやりとりということに思い当たる。この現代のツールはまさしく、目の前に人をおかずにやりとりする圧倒的なメディアだ。このことから、おそらくだれでも心あたりのあることとして、このように言いうるだろう。
――電脳通信においては、誰でもごう慢にしかなりえない。
ここ数年では、アカウントを取得するという行為から、アバターの取得と作成、またその先にもおよんで、そこにオンライン上の自分の人格をつくりだし、活躍させるということがある。またそこに社会性がうまれてくると、そのオンライン上の自分人格が、居場所を得るというようなこと、つきあいの上で市民権を得る、というような感覚のこともあるはずだ。このようなことは、それぞれの人の精神の骨格や、その人のいろいろなやりかたを形成する上で、影響をあたえていないはずはない。その、ごう慢にしかなりえないツールのうえで、自分のやりかたをじっくり身につけるということがありうるわけだ。
電脳通信ツールが、目の前にいない人をこそ対象にしているという点から、これは宿命的なこととして、そこにやりとりされるものは、あたかも陰口の宝庫というような状態を形成していく。いま実際のこととしてそれはすでにあるのでもある。
陰口の宝庫。またそのような空間で、実際多くのひとが、アカウント人格で積極的なやりとりをしていることもあるわけだが――その陰口の代表として、僕はじつに現代的な新興語としての、「ウザい」という言葉をとりあげたい。またそれにつづくものとしては、第二位としての「ありえない」が重要なものとしても立ち上がってくる。
この二つの語は、その非難や謗りの思いを伝えるものとして、まず当人に向かって伝える用途の語ではない。アルバイトの店長をして、ありえない、ウザい、と単純な悪口として誹謗するとき、それは店長に直接向きあって使うことばではない。バックヤードでアルバイト同士、あくまで陰口として使う語だ。このことは誰しも、なるほどそういえば、と了解されるにちがいない。
そして、ここはそれぞれの直観を頼りに、また僕はきっとそうだと確信をもって理解をもとめることもできるのだが、ウザい・ありえないのあたりの語をきくとき、それがすでに十分聞きなれたものであるにもかかわらず、心のどこかでは、そのような語をよく慣れたものとしてつかう者のことを、――ごう慢なところのある人だ、と感じとっているのではないか? それこそ、いかにもわざとらしいごう慢さの、攻撃的なまでに派手なよそおいをした「ギャル」たちなどを、そのイメージとして当てはめてみてもいいわけだが……
ウザい・ありえないの語は、それ自体の機能として、わたしは目の前のかれについて、人格の存在そのものを否定したいのです、という心を表現するものだ。わたしにとってかれのようなものは「ありえない」ということ、存在ごと認めがたいというほどの、根っからの否定なのだ、という意味をあらわしている。だからたとえばアルバイトがバックヤードで陰口をいうとき、木村店長ウザいよね、というような、わざわざその名を冠につけて罵るような使いかたをしない。なんなのあの店長、超ありえないし、マジウザいんですけど、というような使いかたをする。このとき店長という本来は敬称でもありえた呼称は、まるで昆虫の名称を呼ぶときのような乾いた嫌悪が重ねられてつかわれる。
そのようなことから、やはりこれらの語は、そのごう慢な印象を覚えてまったく正当なものであるわけだ。目の前にいるそのような人のことを、わたしは無視するし受け取りなどしないのだ、という態度の表明である。それは現代文化における、ごう慢さのしずかな蔓延の、ついに結実したところの語とさえ言いうる。だからこれらの語を使い馴染むごと、その一回ごとに、精神は意図しないごう慢の素地を拡大してゆくだろう。
目の前にいる人を無視すること。目の前に人を置き、その人とやりとりはしても、いっそ慎重にそう企んでいるかと思えるほど、その人のことを受け取らないこと。このことがごう慢さの真相である。そしてこのごう慢さのやりかたは、奇しくもそのことの醸成に秀でたメディアとしての、電脳通信ツールの隆盛によって、支えられ加速されてきた。そのやりかたを存分に吸いあげてきたものたちにとって、目の前の人をよく眺め、よく知るために訊いてみたくおもう、そしてそれによっていくつかのかわいらしさが発見され、笑みがこぼれる――というようなことはないわけだ。
ウザい・ありえないの語に代表されるように、いかにも現代に特徴的だと感じられるそれは、その奥にごう慢さの必然性を秘めている。このことは誰でもうすうすは感じ取っていることで、であるから、ひとの多くはなぜか、この現代に特徴的なもののすべてを、うっすら警戒し、好きにはなりきれずにいる。そしてそれでも、人は時代に染まらずにいられないことがあり、自分なりに力強く生きてゆこうとするなかで、知らぬうち「ウザい」と口走ってそれに馴染んでゆきもするのである。
ごう慢の毒針は人の背中に生えている
目の前にいる人を無視しつづけ、頑強なまでに、そのひとのことを受け取らない態度。これをつらぬくことで、人は単純な意味においての傲慢にも陥る。なにしろその者のまわりには、感覚的なこととしては、自分以外の人などいないのであるから。自分と数多くの人々を突き合わせて自問自答の汗をながすようなことがなく、ただ漠然と自分のみを眺めているのであるからには、そこから根拠を必要としないものとして、自分はただなんとなく優秀なところがあるのだ、と思い込むことは容易である。自分が聞いてわからない話は、すべて馬鹿のやることの類ということでまとめて廃棄して差し支えなく、それがわからない自分は情けないのではないか、というようなシリアスな自省は必要なくなる。また、よく酒の席であるような、自分にとってしか喜ばしくきこえないような武勇伝めいた話を、大声で繰り返し語り、そこで悦に入るというようなことが、彼にとっては不自然なことではなくなる。彼にとっては彼しかそこにいないのであるから。
これは言うまでもなく、目の前にいる人を無視して受け取らないということ、それがそのまま自己中心性の態度に直結しているということである。またそのことから、ごう慢ということはたしかに単純に成立するね、という了解をされても、これは粗略なところはあるにせよ、間違いではない。
そしてこのごう慢さは、もはや言うまでもないことではあるが、根絶しえない無尽のさびしさを、自己のうちに生むしくみでもある。自分以外の人が、たとえ目の前にいたとしても、それが自分には受け取られはしないのであるから、自分は依然として孤独のままだ。また先方のほうも同じくごう慢さのやりかたに慣れたものであった場合には、その相互の無視のしあい、受け取らないことの協調は、二重になりはるかに堅固なしくみとなる。わたしはあなたを受け取らず、あなたはわたしを受け取らない。だから二人とも、一緒にいながらもこうして携帯電話をいじくりあって、お互いに矛盾せずにあれるんだよね。そのような関係、無関係とでもいうべき関係が、いますでにめずらしくないものとしてありふれているわけだ。
これが恋愛ということになればどうなるか。もはや詳しく述べるようなことはせずとも、その重苦しいストーリーがここまでの読み手には浮かんでいるに違いない。性的な衝動の後押しがあり、また若さや思春期の助力を得て、ふたりがいっときお互いを気に入り、交際してみようと合意することはむつかしくないかもしれない。おたがいに、特別というほどではなくても、それなりに眉目秀麗であればなおさらのことだ。
だがその中で、あたらしさにときめく特殊な時間は長つづきしない。日常性が回復するなかで、よく言われるジンクスにあわせていえば、このように言うことができるのではないだろうか。3のつく数字が危ないんだよ、という冗談めいた話にかさねて、3週間目でかれらはそのごう慢のこぼれおちるところを体験する、というようなこと。そのことを当人らは、ささいなことでケンカしてしまったと友人に話し、また友人ともども、そういうのがむしろ恋人らしいことなのじゃないか、と楽観的な笑い話として捉えるだろう。
だが、ひとは本来、ささいなことでケンカなどしない。それが険悪なものを引き起こすのは、それがごう慢さ――目の前にいるわたしを無視して受け取らないこと――から出たささいなことだからだ。そしてそのささいなことが、その後もなぜか定期的にくりかえし起こることがあり、それが3ヶ月目ぐらいにもなると、若い二人もさすがにこれを気楽な笑い話にはしなくなる。このささいなことの繰り返しには、じつは深く根を張ったなにかがあるのではないか? と。そしてそれはもう性格の類のことで、ちょっとの努力で変えていけるというようなことではないのではないかと。さてそれでは、それをお互いに、恋人だからということで、ゆるしあっていけるのかどうか――そのようなことはおおくの人が経験してきたはず。そして、なんどもそのように、おたがいに許しあおうとはしたものの、おたがいにすぐにでも力尽き、またいつものやりあいが復活してしまうのだ――このことも多くのひとが体験してきただろう。
そしてふたりは、これ以上はおたがいの人生を無駄にするばかり、あるいはおたがいに傷つけあうばかりだからということで、一部は泣きながら、一部は憤怒をこらえもしながら、別れる。このどこにでもあるような、それでいても個人的には重大な悲劇が、いかにもおこりそうなことだとして、僕は冒頭に余計と思われるような話をまず出したのでもある。ごう慢さの態度、その染み付いたやりかたが、人を傷つけるのにもっとも効率的なものだということを、当の話は示しえていたはず。
ささいなことからのケンカが絶えないということ、またそれがその場におこる感情そのものについては、ささいな、というようなかわいいものではない、はげしくカァッとくるものなのだということ。そのことはまた、近年の声高になった、社会的なマナーにかかわる世論ともむすばれてある。車内で携帯電話を使用することは、それ自体は本来、マナー違反だとしてもささいなことだ。だがそこにおこる感情的な反発は、やはりささいではないわけである。また人はそれを、のちにウザい・ありえないの文脈で罵るわけでもあるが、これらのことは僕のここまでの話を網目状に支えてくれるものだと思う。
恋あいのシーンにせよ生活のシーンにせよ、ごう慢さに関わることでおこる独特の焼けつきがある。それは鷹揚にかまえて受け取ることなどできないほど、カァッと高温にくる焼けつきだ。
ごう慢の毒針は人の背中に生えているようだ。そんなものが生えていることを、当人は知るよしもないのだが、それでもかれが無神経にこちらに背中を向けたとき、かれに近寄りすぎていた者はその毒針に刺される。すると全身がカァッと毒に焼けつき苦しむ。これに刺されると痛くて苦しいのだ、と、毒にやられながらも息を荒くして難詰したとしても、当のかれはむしろそのような難詰を不愉快なものとしか受け取らず、そのような難詰こそごう慢さのあらわれではないのかね、と内心で舌打ちをする。背中に生えている毒針はかれには見えず、それが人を刺すことがあったとしても、彼はそのようなことに関心を持ちえないのだ。
このことは離れているふたりにはおこらない流血だ。だから付き合う以前のふたりは、おたがいにほほえみあっている。だがある距離からはおたがいを無自覚の躊躇のなさで刺す。だから恋人たちは神経症に追い込まれる。
ふたりは別れ、また別のだれかと結ばれようとするだろう。だがかれらは依然としてしくみをしらないのだ。だからあいかわらず、その背中の毒針を、知らぬゆえの呵責のなさで振り回している。さてまともに目の見える者は、わざわざそのようなひとへ近づき結ばれようとするだろうか? かれらに近づいてくる者たちは今後も、そのようなものを見ようとはしない――自分のことばかり見ているか、眉目秀麗のみを探している――者たちとなる。
「のび太さーん!」
安直ながらも、見逃せないわかりやすさがあるものとして。古くからあるテレビ・アニメの中に、ごう慢さがどのように取り扱われているかを見ておきたい。またそれに先立って、古くからあるテレビ・アニメの登場人物たちは、そのメディアとしてのいわゆるキャラ立ちを起こさなくてはならないという特性があるにしても、実にひんぱんにおたがいの名を呼び合うものだ、ということを指摘しておきたい。それらのアニメ作品はむしろ、おたがいの名を呼び合う登場人物たち、それをただ受け取ることが視聴の本質なのだ、とさえ言いうるほどだ。
アニメ「ドラえもん」において。そのヒロインであるしずかちゃんをして、彼女に「ウザい」というようなセリフは似つかわしくなく、そのようなセリフがありえる想像力を働かせることは困難だ。また、いかにも知恵のきいた意地悪をするスネ夫にしても、彼ものび太のことを「ウザい」とは言わない。ジャイアンにしてもそうで、これは彼らが結局ごう慢なものたちではなく、それゆえに登場人物として愛されうるということを示している。
順に彼らの声として、このように綴るだけで、かれらの声が記憶からよみがえってくるところがあるのではなかろうか。「もう、のび太くんたら!」「のび太さーん!」「のび太のくせに!」「やい、のび太!」「のびちゃん!」「野比!」。このように羅列すると、当の作中で、いかに人物らが名を呼び合っているかが発見される。
そして彼らは、そうして名を呼び合うことで、目の前にいる人を現代的に無視などしておらす、たしかに受け止めていることを表現している。それはあの乱暴者のジャイアンでさえそうだ。一般に、冗談話のなかで扱われるジャイアンというキャラクターは、それこそごう慢な者の代表格とされているけれども、真相においてはそうではないのである。
もしジャイアンが、「やい、のび太!」ではく、
――やい、できそこない!
と怒鳴ったあげく、のび太を叩きのめしたとしたらどうであろうか。そのときの作品の転落ぶりは、とんでもないものになると、これば誰にでも了解されるだろう。
同じような声として。「ねぇルパーン」「不二子ちゃーん」「おい次元」「おい五右衛門」「ルパーン、逮捕だー!」「ハイジー!」「ペーター!」「クララー!」「パズー!」「シータ!」。すでに古典に類した名作となっている作品群のなかでは、名を呼び合うというこの性質はあきらかすぎるほどだ。またそのことが、繰り返されつつも、作り手の側によって確かに熱をこめられたものとなっているので、それをかつて楽しんだ視聴の側からは、むしろその名を呼び合う声が耳朶にしみこんだものとなっていて、そこを起点にわたしはその物語といくつかのシーンをはっきりと思い出すことができるのだ、というようでさえある。
アニメだけにかかわらず、名を呼ぶという行為、それも特に自分の実声において、確かにかれに呼びかけるために使ったその名を呼ぶという行為は、ひとの精神の基本的な部分にはたらきかける。思い出してもらえれば了解されるところ、特別に記憶力がよいわけでもない場合、ふるい思い出を振り返ってみたとして、自分がよく名を呼んだ友人ほど、その名とかれの存在をたしかなものとして記憶しているはずだ。そしてまた、そのような行為に原型的な現象がないのであれば、小学校の授業などにおいて、まず出席を取るなどという声のやりとりをする必要はなかっただろう。
名を呼ぶ、それにハイと応えもする。それがごう慢さの対極にある、ちいさいが確実な一歩になる。僕は思い出のなかにそのことをはっきり確認できるのでもあるのだ。短い時間ではあったけれども、その有意義でない時間のなかに、たしかに触れ合ったひとたちとして、僕のなかに犯しがたく残っている人々の肖像がある。その肖像にふれたときに第一にきこえる声は、やはり僕の名をよんでくれる声だ。それにつづくのが、ただ楽しく呑むときの記憶であったり、きびしく叱られたときの記憶であったりするにしても、それらのすべては手触りのあるたしかなものだ。今でも恋人をえらぶときの条件うんぬんということの話、その気楽な愉快さの話のなかで、自分をちゃんと叱ってくれる人がいい、という項目をあげる人がいるが、そのときかれのイメージするところは、たんに気の強い者に叱られるということではなく、自分の名をしっかり捉えて呼び、そのうえで叱るというようなやりとりなのではないだろうか。
彼らにとって、人の名を呼ぶということは不愉快なことなのだ
無邪気なアニメの登場人物たちのように、お互いの名を呼ぶこと、それも面倒くさそうに吐くのではなく、不自然でない程度の熱をこめて呼ぶこと。それがもしできたら、僕たちはごう慢から解き放たれ、またそこにおこる毒針の焼けつきからも無縁でいられるのだろうか? これについてその答えは、まさにそのとおり、おおいにイエスだ、と僕は胸を張って言うことができる。名を呼ぶことには、現代人の好んでもとめるところの「意味」はない。だから議論なれした者たちからは、そんなことになんの意味が、と批判しうるわけだが、僕はそこに意味があると述べているのではなく、そこに作用がある、ということを述べている。
では実際に、そのようにしてみたらいいではないか――どうしても話はそのような進みゆきになるはずだが、これは実際に取りくもうとすると、すぐにでもその困難さに突きあたり、誰でも投げだしてしまう。かれらが手に入れてきたやりかた、育ってきたなかにおいては、人の名を呼ぶ文脈というものが見当たらないからだ。一度や二度は呼べても、そのあとは続かない。かれらにおいては、それを自分の文脈のなかに組みいれたとして、それはどうしても不自然で違和感がありすぎるものだ、と感じられる。
ごう慢。この現象について、ここまで僕なりに語ってきたわけでもあるけれども、僕はこの現象を捉えようとしたのみで、それを解除しうる秘案をここに提出しているわけではない。このことの根深さは、そのような安易なノウハウで解決しうるものではない。
ごう慢のしくみが自分のうちに染み入った者にとって、人の名を呼ぶということは不愉快なことなのだ。なぜそんなことをしなくてはならないのか、という、キョトンとした疑問ではなく、はっきりとした反発がある。一度や二度ならまだしも、三度も四度もそんなことをやってられるか、まして熱をこめてなんて「ありえない」と。もしこのことに向き合ったとしたら、彼らの心にはごまかしづらい苛立ちがおこる。そしてすぐにでも、防衛機制めいた合理化のようなことがおこるはずだ。別にそんなことしなくてもできなくてもいいじゃん、と、やさしくない調子で。もしそれより先を彼らにもとめる者があったとしたら、彼らは内心にこうつぶやくだろう。「ウザい」。その嫌悪の表情はぎりぎりの塩梅でおもてに表れもする。
このことは、ごう慢ということのしくみが、そう単純なものではないということと、さらにその奥には、かれらが実はそのごう慢によって、すくわれたり守られたりもしている、ということによって起こっている。かれらがそのごう慢さの態度を解除したとき、そこにはかれらにとってやっかいなことが起こるのだ。それは、自分にとって、真の友人でも真の脅威でもありうる、ほかの人たちがいよいよ身のまわりに現れてくるということだ。今までそれを無視して受け止めないやりかたでやってきたものたちにとって、その爆発的な変化は受けいれるに容易なものではない。
僕はここで、僕なりの真摯さ、説明のしようもない僕なりの誠実さとして、やはり僕はあくまでこのごう慢ということを、よく見た、よく観てみたのだ、ということだけに留めておきたい。ただ熱をこめてお互いの名を呼ぶだけで、それが解決することがあるのかもしれず、またそのような解決はきっと起こりうると僕自身は確信しているとしても、――だからどうなんだ! という僕自身の声を、むしろ正当な声ではないと知りつつも、ここでは守っていきたく思う。目の前の人を無視しつづける態度と、意図せざる習慣としてのネグレクトが、ついにごう慢そのものなのだとしても、――だからどうなんだ! という声を僕自身のこしておかねばならない。
そうでなければ、僕がこれからもあたらしく人に会うなかで、ごう慢とおもえる人にあうたびに、今度は僕が彼のことを目の前に置きながら無視してしまうという、そのことにとりつかれるからだ。このわずかなところを逸脱すれば、僕はすぐにでも、ひとをあっさり自分の好き嫌いだけで差別し、興味のある人とない人とで振り分けてしまうだろう。そのようなことによって起こるまずしさを、僕は今回えんえん話したのでもあるわけだ。
ごう慢というしくみがある。ある、だけだ。これは僕の嫌味でもなければ悲観でもなく、皮肉や自暴自棄でもない。僕はごう慢なひとがすきではない、はっきりときらいではあるが、それもきらいなだけでしかないのだから、僕はその名を呼ぶことはしよう。僕はまた次の街で傷つくというようなこともあるのだろうが、それにしても傷つくというだけでしかない。それより僕は無闇に内心に胸を張って、無意味にひとの名を、それでもこっそり熱をこめて呼ぶことをしてゆきたい。ごう慢なタロウにはタロウの名を、ごう慢なハナコにはハナコの名を、それを壊さぬように――壊さぬように――心につとめて呼びたい。
僕はごう慢ということを見た。見ただけで、そこにとどまる。そこからそれを解決に押しだそうとするようなことは、むしろ僕自身がだれより嫌悪さえするとさえ宣言しよう。そこには飾り立ててわざとらしい、中指を突きたてるイメージをかさねてもらってもかまわないものだ。
[了]