No.160 男女性愛の本当のこと
駅前にきれいな女性たちが歩いているとして、彼女らは「おんな」ではありません。これは自意識の問題とか、物事の見方のひとつとか、そういうことの話ではなく、本当のことの話なのです。彼女らは女性ではあるがおんなではない。ではそもそもおんなとは何なのかということになるのですけれども、このことには段階的な説明がいるようです。
まずおとことおんながいたとして、彼と彼女はどこが違うのか、それぞれにどういうものなのか。それはまず第一に、身体がちがいます。言うまでもないことですが、これは重要かつ、けっきょくは決定的なことです。おとことおんなは、その身体の違いによって、「やる側」と「やられる側」に分かれています。そして駅前のきれいな女性たちが「おんな」でないというのは、その肝心なところの身体の違いが、意図的に洋服で覆われており、また「やられる側」としての機能をブロックもしているので、その意味でまだ「おんな」ではないということなのです。これはたとえば、まだ緞帳の開いていない舞台ということになぞらえることができるでしょうか。その緞帳、幕の向こうにはたしかに舞台があるはず。だがまだ幕は開いていないのであるから、それはまだ本質的な「舞台」と呼ぶにはふさわしくないということです。
であるから、女性が「おんな」ということに実際なるのは、その性差のあきらかなる身体を露出し、やられる側としての機能を発揮しだしたところからなのです。古めかしい、どこかいやらしい言い方になりますが、そのことを指して「おとこになる」とか「おんなになる」とかいう言い方があります。女性の場合は処女喪失のことをもって、そのように「おんなになる」というふうに慣用表現されるわけですが、この表現はもともとそのようなあいまいなことを指すための表現ではない。もっと直接的な現象としてそれはあるのです。「おとこになる」「おんなになる」ということ、これが本当に起こるわけで、これが起こったとき、男性と女性はおとことおんなになります。
たとえばここに、ハナコさんという女性がいたとしましょう。彼女はまだ「女性」です。おんなではない。たとえ処女でなくても、日常生活をしているときには彼女はおんなではなく女性です。その女性にハナコという名前がついているとしていいでしょう。
このハナコさんが、男性に触れられ、衣服を脱がされて、さあ「おんな」になったというとき、ハナコさんという存在はどこかへ引き取ってしまいます。ハナコさんは「おんな」になったわけですが、それは[ハナコ→おんな]という変化が起こったかのごとくで、単純にハナコさんがおんなモードに入った、というようなことではない。いっそハナコさんという女性はそこにいなくなってしまったとするほうが正しい。彼女に触れているのがタロウくんだったとすると、その女性ハナコと男性タロウの関係は、性の解放を受けて、ハナコとタロウではなく「おんな」と「おとこ」として接合します。そういう捉え方もあるね、という話ではない。じっさいそのような現象があるのです。別に自我の認識があやふやになるわけではないのですけれども。
このときのハナコさんの心のありようを説明したほうがわかりやすいかもしれない。ハナコさんは途中まで、自分の中に女の気持ちが立ち上がってくることを感じています。ハナコという人格の中におんなというものがある、という感覚でいる。ところがあるところから、このことは逆転するわけです。おんなというものの中に、ハナコという人格がある、というかたちになるのです。この瞬間からハナコさんは、もうハナコさんという人格を生きているのと違う時間を、すこしのあいだ生きることになる。このときのハナコさんに、「あなたはおんなですか、それともハナコですか」とたずねたら、「おんなです」と答えるでしょう。そのように、彼女はその時間はまさに「おんなになっている」のです。ちなみに男の側の現象も同じようなものなので、やはりタロウさんも同じことを尋ねられたら「おとこです」と答えます。
やはりよくわからないという人は、その「おんなになる」という言葉について、そういえば「女性になる」という言葉は使わないな、ということにも思いを致されればよいかもしれない。このことからしてもおんなと女性とは意味が違うということがわかる。女性というのは人格の属する社会的性別のことを指しています。ところがおんなというのは、その肉体の性差と、肉体の機能、やられる側としての機能が今まさに起こしている現象のことを、じつは指すのです。
さてそのようなことが、男女性愛の本当のこととしてはあるわけです。ところがこのことは言うまでもなく、常識的・社会的な立場の側からは危険きわまりないものとみなされる。それは当然のことです。この常識と社会というのは、人とはその「人格」のことを指すとしているわけですから、その人格を越えてまで「おんな」「おとこ」という性が優勢になってはよろしくない。自己紹介をもとめらた女性が「おんなです」と答えるようなことがあっては困るわけです。またこのことを突き詰めていけば、いや突き詰めるまでもなく、本当はすぐのことですが、男女の接合は実はレイプをその基本形態にしていることや、けっきょくは誰と接合するのでも本当は大差ない、というようなことが顕れてきてしまいます。なにしろ接合するのは「おんな」と「おとこ」であるわけです。「誰」と「誰」という話ではない。「やる側の機能」と「やられる側の機能」が、それぞれに機能しあうというだけのことしかないわけです。そのようなことは、近現代の常識社会の理念から見るとたいへん具合がよろしくない。真実かどうかなどどうでもいい、黙れ! ということになります。
だから僕も、あるところから先はあえて説明しません。説明できないというか、説明をしたとしても、どうせ阿世の徒には誤解されるに決まっているからです。そしてもっとも低劣な人間は、そうかどうせおんななんて、レイプしていいしレイプすれば屈服するんだろう、というような自己都合のためだけの理解をしてしまいます。そんなことに加担する気にはまったくなれないので、僕はあえて肝心なところからは説明しない。わざわざ言うようなことでもありませんが、レイプは犯罪であり重罪です。社会はそれに刑罰を与えることに呵責がなく、殺人罪ですら懲役12年で済むようなところを、レイプの常習犯などは懲役20年が課されることはよくあります。それに加えて、もっと厳罰でよいのではないかという議論もされているほどです。
そのようなことから、僕の今回の話はいかにも尻切れトンボになるのですが、察しのいい女性にはすでにご理解いただけているであろうところ、今僕がお話していることは、女性の多くがそのマスターベーションのときに、なぜか自分がレイプされているところをイメージしてしまう、ということとつながっています。なぜかそのようなイメージを持ち込まないと、ある部分の自分のチャンネルが開かないのだという、その秘密があることは女性にとって自然なことです。それは女性がその鋭い感性で、自分の性が活躍するということは、自分の「やられる側の機能」が活躍するということなのだと、直観で見抜いているということです。もちろんそれが、本当にレイプされたいということでは決して無い。それは現実のこととなるとただ吐き気がするばかりのことです。これは男性に説明するときはこのようにすればいい。やんちゃな男性は、極道になって人を殺すことに憧れたり、戦争映画に憧れたりするでしょう。かといって、実際にベトナム戦争でゲリラたちと流血をやりたいわけではない。それと同じことなのです。
男女性愛の本当のこと。このことに向き合うとして、これはどうしても女性の側にシリアスなことになるわけですが、ここに僕はひとつの視点、僕としての視点を提案したく思っています。これはまったく正しい視点であり、そのわりになぜか主張されない視点だと、僕はめずらしく自信を持って提案できます。
女性と比較してある「おんな」ということの本質。それは身体の機能、「やられる側」としての機能と、その発揮にあります。これはたとえば、あなたという女性がいたら、あなたにはその「才能」がある、ということなのです。「おんな」は才能なのです。性という巨大な才能をあなたは持っている。ただその才能が巨大すぎるゆえに、その才能はあなたという人格さえ飲み込んでしまいかねないということなのでした。だからあなたは苦労するわけです。この才能を、才能のまま、むやみやたらに発揮することをしたら、自分の人格の保全がまったくままならない。かといって、このせっかくの才能を、活躍させずに埋めたまま過ごしてゆくと、どうにも自分が肝心なところで満たされていない気がして苦しいと。そのような二律背反の苦労、才能に特有の苦労を、あなたは今まさに背負っているということなのです。
性という「才能」。これをあなたという女性の立場において捉えなおしてみましょう。普段は考えないことですが、改めて見てみればこれはすごいことです。なにしろ服を脱いだだけで、あなたはおとこを欲情させることができる。このことは、当たり前に見えて実はすごいことなのです。なにしろ男性の側はこれはできない。鍛え上げた男性の肉体が、肉体美として女性の歓心を刺激することはありますが、それは性の力の直接的なパンチ力にはおよぶべくもない。女性はただその服を脱ぐだけで、10歳から100歳までの男性を欲情させることができるのです。この才能に男性の側は抵抗するすべもありません。男性が抵抗するとすれば、自分の性的な機構を抑圧して、バグらせて欲情を起こさないように(あるいは自覚できないように)するか、あるいは欲情していないフリをするかぐらいです。
あなたの肉体は「おんな」としての才能をそのようにもっている。おとこはその才能にやられるばかりで、おとこはあなたの肉体に触れたくなりますし、吸い付きたくなりますし、さらにはペニスを差し込んで中で射精したくなります。このようなことは、おんなというあなたの才能でしかありえない。どのような技術とセンスでたとえば粘膜的な「穴」を作ったとしても、それを駅前にそっと置いておいたとして、通りすがるおとこがそれを見ずにはいられないというようなことはない。持ってかえってペニスを差し込んでこすりつけて射精したくてたまらない、というようなことには決してならない。おとこがそのようなことをしたくなるのは、本当はたんに穴にこすりつけて射精したいという欲求ではないのです。すべてがそのおんなという才能にやられてしまってそのような現象をおこしているのです。なんであれば、男性がそのような自慰器具を持ち帰ったとしても、脳内ではやはりおんなという才能のあらわれをイメージしてそれにやられるよりほかには、おとこは性的な欲求を起こせないのです。シリコンの器具そのものに、恋をしたりムラムラしたりすることはできませんし、どう頑張ってもおとこがシリコンの器具をレイプしたいという衝動を覚えることはできません。
さてそのように、おんなということはまさしく才能でしかないわけなのですが、かといってそれだけでスッキリ解決というわけにもいかないようです。というのは、そのような才能がたしかに巨大なものとしてあったとしても、それは「おんな」の才能であって「ハナコさん」の才能ではない。このことに、とうぜんの躊躇、とうぜんの及び腰があるわけです。なにしろあなたは社会生活を営んでくるなかで、そのハナコさんとしての自分をどう活躍させるのか、ということに心を砕いてきた。それが、その才能がむしろ大きすぎるあまり、ハナコさんがどうこうなんてことは、どうでもいいのだ、というようなことになってくる。スゴイのはお前というおんなであって、ハナコは正直しょうもない。そういうことになってくると、やはり躊躇するわけなのです。求められているのは、なんなんだ、ハナコというわたしではなく、ただおんなというものでしかないのかと。
このようなことがあるから、女性は昔から、まあ最近はあまり言われなくなりましたが、こういうフレーズを言ったのです。「わたしの身体だけが目的だったのね」。これは迫害されたハナコさんという「人格」の側からの非難ですが、この非難がそもそも矛盾を内包したままでいるのは、次のように言われたときに女性は憤慨しながらも、混乱する、ということで明らかになります。
――そりゃあ、おまえの身体がもっている「おんな」、その才能のすばらしさに比べたらね、今キーキー言ってるおまえなんてはるかにしょうもないよ。おまえというおんなが、ひとつの映画のようだとしたら、今しゃべってるお前はその監督だろう。そして作品がすばらしすぎたら、監督のたわごとなんかどうでもいい、むしろ聞きたくもない、そんなことはいくらでもあるじゃないか……
このように言われると、ハナコさんは憤慨と同時に誇らしくもあって混乱する。気が利いていれば、映画館には入館料がかかるのよ、ぐらいのことは言いそうですが、そのような話の進みゆきは、あまり素敵なことではない。映画のことと映画興行のことは別であって、むしろその監督こそ、できれば興行のことなど考えずに生きていけたら本意なのだがな、と望んでいるものです。
次に、おとこのほうはどうでしょうか。おんなという才能がそのようである一方、おとこという才能もやはり同じようなかたちであります。おとこは「やる側の機能」という才能をもっている。なんの訓練もしていないのに、なんの熱意もあるわけではないのに、おんなの肉体とそのやられる側の機能に触れると、やる側の機能を発揮させてゆくことができる。おとこはたとえば、おんなの乳房をみると、無条件にわしづかみにしたり吸い付きたくなったりしますが、この純粋な衝動は女性はもつことができません。これはおとこの側の才能です。ボールを見たら蹴りたくなるというのがサッカー選手の才能だとしたら、おんなを見たら触れたくなるというのがおとこという性の才能だということです。
ちなみに男女とも、生殖にかかわる機能をそれぞれに有しているわけですが、このことはよく男女性愛に関連して取りざたされるわりには、じつは説得力がないので僕はここではむしろ排除します。動物は交尾をしますが、それは生殖しようとして交尾しているのではない。交尾が生殖につながるということを動物は教えられていません。結果的に生殖がおこるだけです。人間はそのことを知識として知っており、観念に混ぜ込んで性的な興奮につなげたりしますが、直接の衝動としてそれを持っているわけではない。たとえば試験管で人工授精をする技師が、それは生殖の作業だからといって、性的な興奮を覚えることはないわけです。いたとしたらまあ単なる変態です。余計な話ですが補足しておきました。
ハナコさんがそうであったように、タロウくんも「おとこになる」ということを体験します。タロウくんのなかにおとこという性質がある、というところから始まったはずが、途中で逆転します。おとこという自分の存在のなかに、タロウという人格がある、ということに入れ替わるわけです。「あなたはタロウですかおとこですか」とたずねると、「おとこです」と彼は答えます。そのときハナコさんを抱いていたとして、「抱いているのはハナコさんですかおんなですか」と尋ねたら、やはり「おんなです」と彼は答えるでしょう。
さてそのようなとき、タロウくんとハナコさんの接合は、世間の声を飛び越えて、じつに完結しています。タロウくんは「おとこ」になり、ハナコさんは「おんな」になった。もうタロウとかハナコとかは、互いにとってどうでもいい。ただのおとことおんなとして接合するわけです。それぞれの「性」という才能が、その受け皿を互いに見つけあい、互いにそれをぶつけあった、というようなことになります。そこでは社会的人格としてのやりとりなどずいぶん後回しのものにされますので、もうこれはほとんど純粋な「性」の交わりだ、ということになる。だからこの行為をそのまま、性という意味の「セックス」と呼ぶのです。maleとfemaleがmakeloveをした、というようなことではない。これは「セックス」であり、まさに男女性愛の本当のことです。
ここで、なるほどそのようなことであれば、彼らはしょせん動物の、オスとメスの世界に回帰したわけだ、けっこうけっこう、ということで話が済むのであれば簡単なのですが、実のところそうではない。このことをよく知らない人は、「獣のようなセックス」ということに憧れたりしますが、それは実際には獣のようではありえない。なぜなら、というのも馬鹿馬鹿しいですが、われわれは人であって獣ではないからです。そしてそのような誤解が生まれるのは、人は社会的に人格の存在を「人」だと思っており、この姿かたちや肉体や機能を「人」だとは思っていないからです。彼らの思い込みは単純に誤解であって、われわれはこの肉体と機能と姿かたちを持っている以上、どのようにしても「獣」のようにはなれません。たとえば人間と獣の違いは、音楽を受け取ることができるというような点ですが、純粋なセックスに突入したばかりにある男女の二人にも、やはり音楽は音楽として受け取られます。いやむしろ、それは人格ばかりが人なのだと誤解している世間より、はっきりとした音楽そのものとして受け取られさえするのです。
むしろそのときの二人は、純粋なセックスに突入したことによって、だれよりも「人」らしくなっている、その真っ最中だとさえ言いうるわけですが……
わかりやすいところへ話をむすぶようにしましょう。たとえばここに一組の夫婦がいて、彼らには一人の幼い息子がいたとする。これは素直でかわいい息子で、夫婦はごく自然に彼を愛しています。名前はそれこそタロウくんということでかまいません。
この夫婦にとって、タロウくんは、もっとも近しい人間であるに違いない。毎日彼をかわいがり、互いに心を向けているわけですから、そのつながりが薄いというようなことはありえない。
ところがこの息子が、学芸会の発表で、歌をうたうとしましょう。ありふれた童謡です。ところがこのタロウくんは、歌ということに巨大な才能を持っていた。その歌声は純朴で、しかし美しい旋律と豊かな響きをもち、聴く者のこころへ直接うったえかけた。聴衆はそれが学芸会だということさえ忘れ、「なんだこれは!?」とざわめくでしょう。ではそのようなとき、その歌声と才能をまざまざと聴いたご両親はどうか。もちろんあっけにとられているでしょう。しかし同時に、タロウというわが息子の真髄に、自分たちは今初めて会ったのだ、と彼を新しい存在として受け止めなおすでしょう。それは彼の才能が、彼という存在を両親に再定義したとも言えます。とにかくこの時点で両親は、その誰よりも近かったはずのタロウくんに、今あらためて本当に会うということになるわけです。
そのように、人は人と会うとき、またお互いに関係性をもつときに、日常的な人格のそれとしての関係性を育む側面と、それとは違う、才能の顕れによって直接その彼の自己と出合う、というような関係性を獲得する側面があります。このことは本当は、歌の才能がどうこうというようなことを、例に出すにはふさわしくないのですが、わかりやすさのためにこのような例を引き当てました。人は長く近しく付き合うなかで、お互いを「よく知っている」というような関係になってゆきますが、才能によって直接体験される自己同士の出合いというような関係は、その近しく長い付き合いとは別の次元として起こります。
それで、僕が主張するように、「おとこ」「おんな」ということが、そのまま才能ということであったらです。おとことおんなは互いを受け皿として、その才能をぶつけ合うことをする。その中でやはり、お互いの自己に直接に出合う、ということがあるわけです。日常的・社会的な人格から離れ、「おとこ」と「おんな」として接合したはずが、逆にそこからぽっかりと、本当の彼と彼女という互いの自己に出合うことがおこるのです。
それはお互いの自己が、性というもの、性という才能に、実はかなり強く結ばれているということでもあります。性という才能をお互いに引きずり出しあい、それをよろこぶことをしていたら、そこには互いの自己が結ばれてあり、気づけば互いの自己もむき出しになってきょとんとしていた、というようなことになるわけです。
だからそれは獣のようなうんぬんというようなものでは決してない。最後にお互いに触れ合うのは、お互いの真実の自己というようなものです。人の自己が「獣のよう」であるはずはない。
ハナコさんはハナコさんということをやめて「おんな」になり、タロウくんはタロウくんでなく「おとこ」になる。なぜ彼女を抱いているかと問われたら「おんなだから」と答え、なぜ彼に抱かれているかと問われたら「おんなだから」と答えるでしょう。おとこは目の前に「おんな」があるからそれを抱く、そしておとこがそのような純粋なことをしているということを、抱かれている彼女も知っているわけです。そのとき彼女は自分がおんなになっていることを疑いようもなく確信します。彼がわたしをおんなにしてくれたと確信しており、また彼は彼女が自分をおとこにしてくれたと確信もしています。
またこのとき、おんなの側には、「わたしをおんなとして認めてくれている」という、普段は気づきようもなかった自己承認の欲求と、その充足があります。人によってはこれに落涙することもある。おとこの側も同様です。「おれをおとことして認めてくれている」という、承認欲求とその充足。これは実際に体験すると、初体験のうんぬんよりもはるかに感動的であることがあります。それはたとえば見習いの一兵卒が戦場から帰り、飛行機のタラップを降りたところで、民衆や僚友から一斉に敬礼を受けるのに似ています。おまえは戦士だ、と認めてくれている彼らのまっすぐな眼差しがある。それはきっと誇らしい瞬間でしょう。そのようなことが男女の接合にもありうるわけです。あなたはおとこよ、と認めてくれている彼女のまっすぐな眼差しがある……
そんなことをしていると、気づくとひょっこり、お互いの自己がそこに残って出合っているということがある。なんだか照れくさいが満たされている。全てのことがどうでもよくただ幸せでもない幸せな感じ。なにもかもがなんとなく「いい」、説明不能のよろこびの中にあります。ただあるのは互いの自己と、互いに認め合った「おとこ」と「おんな」である二人。そのまま眠ってもよしコーンスープを飲んでもよし。それが男女の性愛の、語られない本当のことです。
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男女性愛の本当のことを、ひとしきり語ってみましたが、これが実際に生きてゆくなかで誰でも経験できるのかというと、これはそんなに甘くない。こんなことは調査のしようもないですが、大半も大半、ほとんどの人は、このようなことは実際には体験できずに終わるのではないでしょうか。というのは、僕が個人的にこのような話を、心当たりがあるかと尋ねたとして、まずそこまでの現象は知らないと答えるか、あるいは知っているふうでトンチンカンなことを答える人ばかりだからです。この話がまともに語られているところを、口頭でも文章でも僕は聞いたことがない。かといってこれは別に僕だけが知っているというような特殊きわまるようなことでもない。なので実際はよくわからないのですが、どうもほとんどの人はこのことを体験はせずにゆくようです。そしてまた、それだからといってそれが不幸なわけでは決してないということも、僕は強く言っておくべきでしょう。
僕はむしろ、本当にはこのようなことが、性愛にはあるのだから、やはり危険なのだ、と警告したいところがあります。そしてもし、このようなことを体験してみたいと求めるところがあるのであれば、よしまずは何より自分の自我を頑強にしたまえ、自分を鍛えて社会的な立場も得て、ガラの悪い不動産屋と交渉できる程度には、理知もユーモアも鍛えたまえ、と言いたくなります。
というのは、実際、このことは危険だからです。危険だから、説明できないところは説明しない、と肝心のところを放棄したのでもあったわけですが、とにかくこれは危険な話。なにしろ日常的・常識的な「○○さん」を、いっときであれ確かに手放してしまうわけです。そんなことをしたら危険であるに決まっている。「○○さん」がいくら常識のある、人に気を使う「いい人」であったとしても、そこにはもう○○さんはいなくなるわけですから、なにが起こるかわからない。しかし実際そんなことでは困るわけです。そうして自我・人格を一眠りさせるからには、その自我は鍛えられた兵士のようにタフでなくてはならない。そしていざというときには、かすかな火薬のにおいをかぎつけて、眠っているところをガバッと起きて、即座にトラブル回避の行動をする、そのリーダーシップが独自にとれるようでなくてはならない。こどもが花火をやるときには大人の付き添いがいるように、大人でないのに性愛の真髄をいたずらに求めるのでは危険きわまる。率直に言えば、頭の弱いお花畑に、このような大人の遊びをやる権利はないのです。
だからもし、女性であるあなたが、どうしてもこのようなことに興味があり、やがてはそこへ踏み出さざるを得ないようなのだ、と自分として感じられるのであれば、そのときは自分を鍛えゆくことに合わせて、なにより相手をよく選んでください。この人はひょっとしたら覚醒剤を打っても正気を保ち続けるかもしれない、というような、鍛えられた男性をその相手に選んでください。そしてなによりも、朝がくればきちんと常識と社会と自我の世界へ帰ってください。僕はこの話の冒頭に、駅前のきれいな女性たちは女性であっておんなではないと言いましたが、そのことがまさに正しいのです。駅前を歩くとき、あなたはきれいな女性でなくてはならず、おんなであってはいけないのです。
最後にもう一度とりまとめてお話します。おとこはおんなを抱くわけですが、その理由は「おんなだから」で完結します。そしておんなとは何かというと、その身体と機能です。見るだけで触れたくなる肌、わしづかみたくなる乳房、吸い付きたくなる唇、あるいは引きずり出したくなる声や匂いというのもあるでしょう、そしてペニスを差し込み射精したくなるヴァギナなどです。それはおとこに否応なく作用し、おとこはそれをもてあそんだり、それに自分をぶつけたくなったり、どうしてもしてしまう。そのような強烈なものをあなたはもっている。それが「おんな」という才能です。
おんなという才能をあなたはもっており、それはおよそ身体に直接備わっている。だからあなたは眠っていてさえ、その才能を発揮してしまっているわけですが、このことはあなたを混乱させます。あなた自身は、ハナコさんというような自我において、人格として立派なことをやっていこうとしてきているのに、才能のほうは肉体に備わっていて、ハナコさんの人格をほとんど無視して活躍してしまうからです。あなたはむしろ、その才能をわずらわしくさえ思い、その才能がわたしの人格に迷惑をする、とさえ感じる。あなたはその中で、おんなとしてではなく、ハナコさんとして誰かと付き合いたいのよ、と望むところが当然でてくる。
それでいながら一方で、あなたはおんなという才能を、たしかに自分のものとして持っている。そしてその才能が活躍しないでは、どうしても自分の全体が満たされない、ということも業として持っている。だからますます混乱するわけですが、そのことに向ける対策のひとつとしては、まずそのような部分まで満たされなくても人は十分幸せになりうるということです。僕はここに、おんなという才能のありようと、それが満たされる手続きを書いた。しかしそのようなものがあるのだと、知っておくのはよいにせよ、それが満たされなくては人生は不毛だ、というようなことでは決してない。
むしろ僕は半分方、そのような部分を正しく説明することによって、その方面からの衝動に冷静になり、距離を取るときは取れればいい、と思っています。この段の初めにも言いましたが、このような部分はほとんどの人が、おそらくは経験せずにゆくことでもあるわけです。誰に遅れをとるわけでもない、むしろ「おんなになる」なんてことは時代おくれかもしれない。竹刀剣道で優勝を目指すことは決して無価値ではないでしょう。その剣士が内心で、なんなら自分は人を惨殺するその真剣で、全ての敵を切り伏せるというようなことを、実際にやりたい衝動があるのだと認めたとして、なにもそれはそのようなことをしないと彼が不完全というわけではない。完全だとか不完全だとかを言い出したならば、人間なんて何をどうしてもけっきょく不完全でありつづけます。
そのようなことまで含めてようやく、現実的にはどうしようと、タフな女性に向けて僕は、このようなことが言いうるかと思います。まずは女性といえどもやはり、自分を鍛えることが必要になる。柔軟で人にやさしく暖かい、それでいて強靭な自我を持ち、理知とユーモアを自分に備え付けてゆく。そのようにしていれば、というよりは、そのようにしていなければ、同様にタフで気の利いた男性にはめぐり合わないということもあるわけですから、ここは単純な「いい女」を目指すところからやはり始まるべきだと思うのです。
そして、これはひょっとしてと思えるような、ただならぬ尊敬を覚えられるような男性に出会ったとき。このときから「おんな」の遊びはようやくです。
――この人に対してなら、わたしはもう単なる「おんな」ということになってもいいかもしれない。彼になら、わたしはこの身体をして、「やられる側の機能」に殉じてもいいかもしれない。いやむしろ、彼の「おとこ」の才能、彼の「やる側の機能」を解放させる、受け皿にわたしがなれるのであれば、それはわたしにとって誇らしいことでさえある。彼のような人には、「おとこ」として生きる権利、その才能を活躍させて生きる権利があるでしょう。彼が「おとこ」として、わたしの身体を単なる「おんな」として、好き勝手にする。そのような夜は、わたしの人生にあっていい。……その夜のことを想像すると、わたしの心にはただならずときめくところがある。それはわたしがマスターベーションをするとき、レイプされるところをイメージしてしまう、そのときに開くチャンネルと、同じチャンネルからくるときめきだ。そうか、このチャンネルは本当はきっと、このときめきを起こすために備わっているんだ。
そのように思える人に出会ったなら、あなたはその純粋なセックス、やる側とやられる側の才能のぶつけ合いに、色気を出してもよいわけです。「おんな」になる準備はよいか。そして「おんな」の夜に酩酊してぽっかり彼と出合ったあとは、よりきれいで身を修めた、秘密もちの上品な「女性」に、きちんと戻れる準備はよいか。
男女性愛の本当のこと、そういうお話でございました。
[了]