No.163 どうしようもなくかわいい女
本当に愛らしい女性とは、いるもので、僕は彼女たちに会うたび、どうしようもない敗北感を覚えてきた。またこれは負けて気分の悪い敗北感ではないのだけれど、それにしても敗北は敗北だ。そもそも勝負にならず、出会った瞬間から僕はきっちり負けている。なんというか、どうしようもなくかわいいのだ。そのかわいさは出会った瞬間からすでにはっきりあって、その後もそれが変わることはない。出会ったときからすでに決着はついていて、僕はそのような女性に出会うたび、ああやっぱり初めから好きだ、ということを確認してきた。彼女の名前も年齢も趣味も考え方も知らないうちからもう好きなのだ。そして僕はもうその好きの気持ちを隠すこともできなくなってしまう。
こういう、根本で大事な現象は、つくづく正しく見抜かねばならないと思う。一目瞭然に見えるようなことほど、本当は何がどうなっているのかを精密に知る必要があるものだ。「かわいい」と一言でいえばそれだけで済むけれども、その「かわいい」の現象は実に緻密で繊細なのだ。わかりやすくかわいいもの――かわいく「見える」もの――と、本当にどうしようもなくかわいいものとは、まるで違うものなのだけれど、このことも精密に見抜こうとしなくてはすぐにでも見誤る。見誤ったからどうということもないかもしれないが、不毛な努力は笑えないものだし、肝心な違いがわかっていないというのはいい年をしてなんだか悔しいものだ。
まず強調して言うべきは、本当にどうしようもなくかわいい女というのは、表面上は実に「なんでもない」ということだろう。なにかすばらしく輝いてあるところがあるようには見えないのだ。それこそ、「かわいい」という言葉さえ当てはめるのがしっくりこないことさえある。その、なんでもない存在感、なんでもないかわいさのようなものが、ごく当たり前にあって、しかしこれがどうしようもなくて、こちらはアアアと心が敗北していくのである。そのとき僕はすっかり彼女のことが好きだし、もうそれを隠そうとする気力はない。バレバレで、もちろん彼女の側も、わたしのことを好いてくれているな、ということを当たり前に受け止めている。にこやかで、たいてい少しシャイだ。彼女がそのときにいちいち慌てないのは、彼女はそのようにして人に好かれることが当たり前の中を生きてきたからだろう。
そして、ここに起こる僕の側の「好き」という気持ちは、いわゆる一目惚れのような激しい感情ではない。恋というのでもない。好意、という言葉さえ当てはめにくい。ただ「好き」というだけしかなくて、それはこちらを高ぶらせるというよりも、こちらの心をふにゃふにゃにしてしまうものだ。ドキドキもさせてくれないのだ。そこでもし不意に「わたしのこと好き?」と聞かれたとしても、「ええ」と屈服して答えるより僕にはない。こうして彼女はこちらの心をふにゃふにゃにしてしまうので、その他のいろんなことが心底どうでもいいことのように、それもまた肯定的に思わされてしまうのだった。まるで世界が祝福に満ちるというふうなのだが、この祝福もまた「なんでもない」という感触だから説明に困る。それは何か重大なことが起きたというよりは、世界から重大なことが全て消え去ってしまうかのような現象なのであった。
そういうどうしようもなくかわいい女は、たいていオシャレがちょっと好きだ。好きだが、入れ込んでいるわけでは当然なく、当人の魅力は別にジャージ姿でもなんら本質的に損なわれないということを、本能的に知っているかの様子。すっぴんのままで、ちょっとまぬけなお顔のままで、やっぱりかわいいし、そこにしっかりしたお化粧を乗せても、それはそれでやっぱりかわいい。彼女らは、芯はしっかりしているのに、考え方というのをあまり持っていない。完全に持っていないわけではないのだが、持っていながら、それがさして重大なことではないと、前もって知っているかのようだ。そしてにこやかで少しシャイで当人の心もいつも幸福にふにゃふにゃしてしまっているので、その考え方とやらが主張されること自体ほとんどない。
彼女らはたいていセックスが好きだ。好きだが、それにあまりこだわっていない。出会ってすぐの男と寝ることもあれば、年単位で友達づきあいを保つこともあるのだが、その両方をして何かが違うと比較すること自体しない。彼女らにとってセックスは素敵なことだが、重大なことというわけでもないらしい。彼女らはそのように、たとえば水道水と極上のスコッチをして、どちらも喜んでおいしそうに飲むようなところがある。おいしいものが好きで、でもそうでないものも割と好きで、要するに何でも好きなんじゃないか、と疑われてくる。このあたりでそろそろ僕の言うところの敗北感というものも了解されてくるかもしれない。
彼女らはまた、男に口説かれるのが好きだ。いや好きというより、うれしがるというべきか。それがどれだけ洗練されていないものでも、素直な気持ちがこもっていればそれで単にうれしいらしい。それが「うれしい」というのは実に強調されるべきところだ。なにしろ、たとえば最低な例として、
「正直に言うと、お前のそのおしりの形と、その短いキュロットの組み合わせは、さっきから本当にやばい。こう、直接くるものがある」
というような破廉恥な言いようでも、「そう言ってもらえてうれしい」と本当に喜んでしまうのだ。もちろん誰にでも欲情されてうれしいわけではないので、「この人に」そう言ってもらえるのはうれしい、ということである。ただしそれはまた、よくある単純な「好きな人になら○○〜」という話ではない。その特定の誰かへの感情のことではなく、「この人に欲情されるのはうれしい」ということが彼女らにはあるようなのだ。
ところでさっきから、彼女ら、と複数形で呼んでいるが、実際にはそんな女の子が世の中にあふれかえっているわけではもちろんない。
彼女らにおいては、何かにイライラするとか、何かを冷たく見て笑うとか、心の中で「死ね」とつぶやくとか、そういうことが一切ない。自己嫌悪や自己卑下なども持っていない。そもそも、自分に対しても誰かに対しても、「馬鹿にする」という態度自体が存在していないように思われる。彼女らは何かにため息をつくということがなく、それだけに何かに疲れるということがほとんどない。一方で、自分の心の状態には鋭敏な感覚を持っている。自分の心が乾いたりさびしく傷んでいるようなときは、ごく初期の段階でそれに気づいて、ごく当たり前のささやかな反省をなさる。そして人に頼ったり甘えたりもしながら、もとの潤った心の状態を取り戻す。またそうできるのは友達がいてくれるおかげであるとか、目の前の誰かのおかげだと、本気で感謝もしていたりする。
そういえばそのような女たちは、友達を死ぬほど大事にしている気がする。数年ぶりの友達が、何かつらくてさびしくて危急の電話を入れてきたら、何とかしてその友達に会おうとするだろう。このあたりには馬鹿正直というようなところもあって、彼女らはこの関係をネタにすればエイプリルフールでも確実にだまされるだろう。もちろんそのようなだまし方をすると、友達を疑う精神機構を持っていない彼女らは大変傷ついてしまうので、そのようなことは誰もしないけれど。
彼女らのもつ精神の、柔軟性やすばやさについても注目しておきたい。ふつう、男から突然電話があって、突然デートに誘われたようなときには、女性はエーットと少し思案して、わかったよそれじゃまたメールするね(してね)、というふうに、一段階の猶予を置くはずだ。ところが彼女らにおいては、その猶予をもうける習慣がないのである。たとえば突然電話をして、「鳥取砂丘に行こう」と申し出たとして、彼女らは「えっ?」とも言わない。「いつ?」といきなり乗っかってくる。まるで一流のビジネスマンが商談を受けたときのような反応の速さなのだが、彼女らはそのように1から10の段階を踏まずとも、いきなり100の行動に合意できてしまう。かといって、彼女らはやはり実物としては「なんでもない」女の子たちで、特に活発な性質というわけでもなく、日によっては一日中ボーッと過ごしてそれで反省しながらも満足していたりもするのだから手ごわい。
このようなことから、まずわかりよいところをまとめてみると、彼女らは表面上「なんでもない」女の子なのだが、そこには徹底的に「ややこしいもの」が排除されているのだった。その結果、彼女らは恋あいで揉め事になることが一切ない。僕はそのややこしさをまったく持たない彼女らに触れたとき、心地よくも悔しい敗北感とともに、そうだこれでよかったんだという、疑いようのない希望をも、思い出し回復させられるように与えられるのだった。
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一般的な、女性に対しての「かわいい」ということは、やはりモデルとしてはテレビや雑誌等のメディアに出てくる女性タレントのありようを中心に据えているところがある。髪型や化粧の仕方、ファッションとしての服装や、あるいは言葉遣いや、女性としてのマインドというようなところまで。言うなれば、女性雑誌とそこにある女性モデルの数だけ、「かわいい」の種類があるように思えるのだが、これらの中には僕が前段で述べたところの「どうしようもなくかわいい」の女は入っていない。
ここで説明のために、いわゆる一般的な「かわいい」のほうを、「魅力的」という言葉に言い換えよう。メディアに登場する女性タレントが「魅力的」であることは明らかだ。僕がここまで話してきた女の子たちは、その「魅力的」の度合いでいうとプロである女性たちには当然ながら劣っている。その方面でも劣っていない女もいるのだが、それはまた例外であるのでここでは割愛しよう。
今ここで話しているところの、どうしようもなくかわいい女というのは、魅力的ということではないのだ。むしろ別に魅力的なところなどない――なんでもない――のに、どうしようもなくかわいいのだ、ということになる。
すなわち、彼女らが持っているかわいさの作用は、魅力的という方面の作用とは別物なのだ。彼女らの作用は、心をふにゃふにゃにして、重大なことなど何もないのだという幸福感と、これでいいのだという希望を回復させる力を持つ。彼女らはその作用において、「魅力的であるべき」という観念さえ破壊してしまうということだ。それよりはるかに愛しいものが目の前に示されているのであるから、その説得力は絶大である。彼女らの存在はまるで、「かわいければ魅力的になる必要はないでしょう?」と危険な広告をしているかのようだ。
今、多くの努力的な女性が、「魅力的」たらんことを心がけているように思う。そのことは素敵なことだし、すばらしいことで、やめよと言い出す筋合いは僕には無い。ただ、魅力的という現象は、華やかなものではあるけれど、実は決定的な現象ではないのだと僕は見ている。見ているというか、僕はそのことを知っているつもりでいるのだ。現代、ややこしさの中を生きていくことにおいては、魅力的であることは重要だし、そのぶん有利にもはたらくもの。ただし、そのややこしさ自体を取っ払ってしまう女もいるのだ。僕はそのことを指摘しているし、そのような女たちに常に敗北してきたことを告白している。
「素」で勝負しなくてはダメだ。と、これは僕はよく自分に向けて言う。僕を負かし続けてきた彼女らがそうであったように、「素」でのやりとりこそ、本当に豊かな決着は得られる。作り上げた「魅力的」では、得られるものもどこか薄弱、やはりそれは作り上げたものでしかない。
努力的な女性は、勉強をし、進学し、就職し、熱心に働く。習い事もするし教養も深めるし、趣味にも遊びにも、あるいはいわゆる自分磨きにも余念がなく活力的だ。それはそれですばらしいことではあるのだけれど、その一方で、もう日常的になったささいなことでの苛立ちや、内心に高まってしまう「死ね」というような罵りのヒステリー、疲れの感触とそれに加速される具合の焦りが、それぞれに高まっているように思えてならない。それはもう慣れっこのようになっているけれど、僕のような根性なしからは、とても健全に人が耐えられるような状態ではないと思うのだ。
銀座や六本木で高給を取れるような、美貌もおしゃれも勢いのよいトークもできる女性が、勉強もして資格もとってはたらいて、華やかに生きていながら、彼氏とケンカしてばかりで疲れる、という深刻な愚痴をこぼす。正直ろくでもない男としか付き合ってこなかったかも、と告白した女性もいた。明るく振る舞っていたある女性が、内部ではすさまじい圧力がかかっていたのだろう、ふと僕が尋ねたところの、「幸せが無いんじゃ?」という問いかけに、身体を震えさせ始めた人もいた。なぜ身体が震えるのか、自分でもわからない、と彼女は言った。
そんなところまで追い詰められている人もいるのだ。
努力的な態度と平行して、「素」のままで勝負すること、「素」のままを生かして生きること、それをしてこなかった人は、男女に関わらず、「素」の自分がまるで鍛えられていないということがある。経験豊富、努力と華やかさの中で生きてきたはずの女性が、いざ裸に剥かれてみると、不恰好に怖がるさましか見せられないというのを、僕は何度も見てきた。「自信がないんでしょう?」と問うと、彼女は横を向いたまま黙って頷くのみで、むしろその指摘にホッと安堵さえするふうだった。さっきまでの彼女の態度とはまるきり裏腹なのだ。「素」の自分で生きたことの経験しか、本当の自信を与えてはくれない。
「素」の自分というのは、もちろん探しに行って見つかるものではない。もともとあるものだ。それは慣れ親しんだ自分というのではないから、ほったらかしにした自分が大きな声を出したり、酒に酔ってギャハハハと笑うというようなことではない。もっとはるかに懐かしく、はるかに確かな手ごたえが「これ」としてあるものだ。
そしてそれは、繰り返し述べたように、一見したところ「なんでもない」ものなのだ。
素の自分というやつは、ありがたいもので、重篤な精神病にでも罹らないかぎり、何をどうやっても失うことがない。一番奥にあるから、ややこしくなるとすぐに見つからなくなるが、でも慌てなくても別に無くなるものではないのであった。
逆に、今自分が持っているもの、知識ややり方の全てを捨ててしまおうとしたところで、素の自分はどのようにしても捨てられない。
だから、と僕自身気づかされるけれど、素の自分をして「これでいいや」と、何とかなるさと信じられたら、その他のややこしいものは要らなくなり、不要の大方を捨ててしまうのだろうな。
そうしてややこしさのほとんどを捨ててしまって、どうしようもなくかわいくなってしまった女たちが確かにいて、僕は彼女たちに敗北しつづけ、また励まされ続けてきた。これまでもそうだったし、今もそうだし、これからもそうだろう。僕は彼女らを尊敬しつづけている。感謝もしつづけている。内心で謝り続けているところもあって……そして、今後もどうせ勝てないんだろうな、とあきらめている。
そして、誰もが「魅力的」にはなれないとしても、誰でもこの「かわいい」には本当はなれるんだろうなと思うと、ああなんてもったいないんだと、僕には寝言のようにぼやけるのだった。
[了]