No.167 600人のガールフレンド
物事が成功・実現するとき、その手続きは、具体的な努力の積み重ねの上についに花開くように思われているが、それは実は逆だ。初めにポンと、達成されるべき目標が現実の俎上に乗せられるのである。この時点ではほとんど悪ふざけのように一般的には受け取られる。例えば、
――年内に600人のガールフレンドを作るわ。
というようなこと。これを、出来る出来ないを問われたときに、「出来るよそりゃあ」と当然のごとく答えるのだ。その当然のごとくっぷりは、たとえば今から砂浜に行って海の水をペットボトルに汲んでくる、という程度の当然っぷり。方法は? と問われるだろうが、そんなもんどうとでもなるだろ、と答えておけばよい。ペットボトルに海の水を汲むのが「どうとでもなる」ように、方法なんてどうとでもなるのである。
「年内に600人のガールフレンドを作るわ」。そうして現実の俎上に乗せた途端、人間の隠された能力がはたらきはじめる。実はそれが想像力というものである。年内に600人ということは、今年があと5ヵ月あるとして、あと150日。1日あたり4人、あるいは月ごとに120人。しかし1日あたり4人というのを毎日続けるのは逆に困難だ。それよりは1回でいきなり1000人をガールフレンドにする作戦を考えたほうがいいんじゃないか。
それで、こんなもんデートに誘って断られていたらキリがないので、日程の調整はともかく、初めから俺に誘われたらデートは断れない、というルールにするしかない。またデートといっても1人ずつ600回デートしたら俺が過労死するので、1回でまとめて何十人かとデートするしかない。
となれば逆に、女の子の側としては、俺のガールフレンドということより、他のガールフレンドと仲良くなれるかもという算段でこの話に乗ってくれるかもしれない。見知らぬ女の子同士、九折さんのガールフレンドです、と自己紹介しあう。今この時代は何もかもが冗談じみているが、その中でこの冗談は乗っかるに悪趣味ではないのではないか。しぶしぶでも婚活やら友活やらに参入している勇敢な女性にとってはこの冗談は乗っかるに実益と愉快の類たりえるかもしれない。
年内に600人か……
そうして想像力は進んでゆくのだが、こうして進めてみると、初めはまるきりの空想で不可能事でしかなかったことが、「あれ? そんなまるきり不可能ではなくね?」という感じになってくる。これはまったくそのとおりで、当初確信していた不可能感は単なる思い込みなのだ。そんなふうに、自分も含めた一般の人人が「絶対に!」と確信している不可能事は、高邁なる知と判断力に飾られて厳粛堂々としているが、本当は全部ただの思い込みぽんちである。
そしてまた、面白いことには、このような想像力とアイディアの進みゆくさまを見て、一部の方は「こいつらしいな」「九折さんらしいな」と笑ったところがあると思うが、これもそのとおり、この想像力がどのように進みゆくかがその人の「らしさ」であって、人は何であれこれを好ましく愉しむのだ。想像力というのは人間のイクジスタンスそのものであり、想像力の進みゆきこそがその人らしさの手ごたえを与えるのである。
人間はイメージの中で生きている。例えば一人でディズニーランドに行ったらさびしい感じになるだろうとか、あの人にこう話しかけたらドンズベリするだろうとか。このイメージはリアルであるのだが、実は何のエネルギーも与えてくれない。そして想像力はこの与えられてあるイメージを歪型化する能力である。
ともあれ、重要なのは意志ということ。悪ふざけのようなそれを、現実の俎上にポンと乗せる。それが<<意志>>である。その意志によって、ほとんど本人の意識とは関係のないレベルで、勝手に自動的に想像力がはたらきだす。今あるリアルなイメージ、実は何のエネルギーも与えてくれないそのイメージ群を、意志の実現に向けて歪型化しはじめる。悪ふざけが悪ふざけでなくなってゆく。
意志に向けて努力するのではないのだ。そりゃあ努力の場面も出てくるだろうが、その前に想像力が勝手にはたらくということが先にあるのだ。自慢じゃないが、万事にまず努力が先立つのであれば、僕はこれまで何を手にすることもなく、面白みのかけらもない人間になり、一人の女も口説き落とすことができなかっただろう。僕は意識的努力をするとすぐにゲロをはくほどの努力アレルギーだ。
現実の俎上にポンと乗せられる意志は、常に新しいものでなくてはならない。新しくないということは、実はすでにあるということで、それは手元のイメージ群の中にすでに植えつけられてあるということだ。すでにイメージ群の中にあるのであれば、イメージを歪型化する必要はないので、想像力は働かない。
常に新しい意志を採掘し続けるというのはなかなか大変なことである。日常は忘れることにしている、自分の本当の欲求に向き合い、そこから採掘するしかない。新しいということは常に非常識なものである。常識的な棚をいくら漁っても、そこから出てくるのは意図ばかりであって意志ではない。
むしろ常識的な意図から外れて、意図としては何の意味もないほうがよいくらいだ。もし600人のガールフレンドから、交友関係や性生活の満足を得るというような「意図」があったら、このビジョンの陳腐堕落は誰にとっても皮膚感覚で了解されるだろう。意志と意図というのはそういうものなので、あまり意図の側面から意志に優劣をつけて差別しないことだ。どんな素っ頓狂な意志もまずはかわいがってやるのがいい。
人間の持っている、この勝手にはたらく想像力のちからは、ほとんど当人が操作できない分、当人では結局およびもつかぬほど大きな力を持っている。人間がそれぞれに自信を持つことがあれば、この力に自信を持つよりない。俺にはすげえ力があるのだ。しかし勝手にはたらく力なので、あまりこうですと説明できない。ただそこに<<意志>>を放り込まれたら、なにか知らんが結構すごいことが出来てしまうのだ。
この力は本当は誰でも持っているものだ。
そしてこの大きな力は、周囲の人人を何かしらで巻き込む。この大きな力のあらわれがあったとき、人は無視できないのだ。多くの場合、人はそれに共鳴を起こして、愉しんだり笑ったり活性化を受け、好意的になり、また好意を示しもする。ただ不健全な人も世の中には当然いるので、そういう人たちもまたこの力のあらわれを無視できないということは警告されておくべきことだろう。不健全な人は何かしらこの力へ水を差そうとする。冷やかしたり侮辱したりで、要するに足を引っ張ろうとする。それはあまり嬉しいことではないが、<<必ずあること>>なので、これは覚悟しておくよりしょうがない。誰が悪いということでもなく、この話は分かる人と分からない人――分かりたくもない人――がいるのである。
意志の内実はほとんどイエス/ノーだけで出来ている。「できるか?」という問いがあって、そこにイエス/ノーが対応する。そして驚いたことに、根拠や妥当性をすっとばして、真実はついに次の一点にある。すなわち、
――イエスで答えたときのみ想像力がはたらきだす。
どうせ賢くもない頭で、物事のイエス/ノーに呻吟することはない。イエスは点火でノーは消火、ただそれだけが本当はある。よく考えなさいと親御さんは言うだろうが、僕の言うのはまったく逆だ。考えるのは結構だが、考える前にイエスをまず言え。言ってから考えるのでなければどうせ考えるということもまともにはたらかないのだから。
というわけで、よもや僕からのデートの誘いにノーと応えたりしないように。
[了]