No.168 サムキッスそしてTボーンステーキ
性的な接触にゾクリと高まりを受けることは誰にでも経験があると思うが、そのゾクリの度が過ぎると重みがついて「ドンッ」になる。これを受けると、歓喜の正拳突きをみぞおちに食らったようになり、涙目の半笑いになってヘナヘナと崩れそうになる。そしてそのまま地べたでもいいから突っ伏して眠り込みたくなる。このことを友人に話すと、それはわからないが、何千万円かする日本刀の抜き身を見たときにヘナヘナになったことがあるから、それに近いかもしれないと言った。僕には絵画のセンスがないのでわからないが、絵画に歓喜を受ける人の体験するショックもそれに近いのかもしれない。
こういう体験を透かしてみると、性的な体験というのは単純に肉体のセックスに行き着くものではないなとしみじみ考えさせられる。セックスは性的体験の一分野に過ぎないだろう。僕が体験した「ドンッ」はある物語とそのワンシーンに付随して起こったものだ。しかもずいぶん些細なシーンである。その感触は明らかにセクシャルで確かに肉体を駆け抜ける「ドンッ」という感触であるにもかかわらず、成り立ちは実に精神的なものだった。これは恋あいに直結するものでもない、それでも僕の好きな与太話の一つだ。
丸の内で働いていた時分に、一時期、それなりのハイクラスのホテルを常用することがあった。その目的や理由は当時そのときごとに色々くっつけていたが、結局は遊蕩のひとつに過ぎなかった。僕はこの経験から、稼ぎがよくて金の使い道のない友人にはホテル遊びを勧めるくせがある。上等なホテルというのはもてなしに気合が入っているので、その気合に浴することはとても健康と未来にいいのであった。
そのホテルを常用するうち、ホテルウーマンの池波さんという女性と仲良くなった。ホテルウーマンとして綺麗なたたずまいを持ちながら、どこか人懐こさがこぼれている女性だ。そういう女性は学生時代から男子生徒の隠れた憧れの的で、特別に美形をきわめていなくても、日常的に愛の告白を受けるものだ。池波さんはまったくそういう女性だったので、正直僕は一目見たときから大好きだった。また僕がそのような野草のように生えて当然の好意を生やしていたのは、彼女のほうにも自然に受け取られていただろう。別に隠すようなことでもない。それで、僕も彼女も性格として、立場や建前や気取りはすぐにボロが出てしまうタイプである。華奢な肩に鞄を運んでくれる彼女と一緒にエレベーターに乗っていて、ふと目が合って、二人で自然に笑い出してしまった。これは彼女のほうは美人だからよいけれども僕のほうはいかにもだらしない。客とホテルスタッフという関係はもう半分がた崩れてしまい、池波さんと馬の骨という関係になってしまった。
当時僕は煙草はマールボロのライトを吸っていた。ちゃんと買ってくればよいのにわざとらしく、つい甘えて池波さんに買ってきてもらうことをよくした。それで少し立ち話をしたりしていた。サービス外の雑用で使ってしまうのは悪いので、小額ながら一応チップというやつは出す。
血迷って無意味にホテル宿泊などしているが、根本的に金持ちでないのは誰の目にも明らかだ。それで、毎回千円ぽっちとはいえ、こんな小用でチップをもらっていいものかどうか、と彼女は毎回躊躇していた。僕はその躊躇はともかく、確かに毎回同じというのはつまらないので、こんどはポチ袋を二つ用意してくじ引きにして遊んだ。一方にはチップが入っているが、もう一方には僕の連絡先が入っている。彼女は笑ってこの遊びに乗っかってくれた。池波さんは迷うと少し寄り目になる。そして見事、チップの入ったほうをつまみあげた。ちくしょう、と僕は悔しがってみせたが、その瞬間すでに、そちらを引いてもらって助かったという感触があった。
池波さんはまったく素敵な女性であった。かといって、僕はどうすることもできなかった。どうにかしたい気持ちがある一方、せっかくのこれをどうもしたくないという気持ちも強かった。立ち話の雰囲気から、また常識的に考えても、彼女には良い人がすでにいたようだったし、それを踏み越えてのロマンスを求めるというのもなんだかうっとうしい気がした。
ところで、生きてあるうちの素晴らしいこと、いや素晴らしいというのは大げさだとしても、後になってあのときのあれはよかったなあと回想しうるようなものとは、全て何かしらの「発明」に支えられてあるものである。そのときその場限りの新発明だ。友人の出世祝いに大きな寿司屋に行って、気の大きくなった友人が「何でも注文してしまえ」と言い放ったのを受けて、僕が「一番デカい魚ください」と注文して大いに盛り上がったことのように、そのときごとの発明がそのとき限りのきらめきを生む。これはまったくごまかしが利かない。作為的に組まれた定番フレンチレストランのデートより、深夜のけだるいベッドで突然思いついたシュークリーム全品買いあさりという発明のほうが人心に訴えかけるのである。
チップのくじ引き形式はうまい具合に収まってくれた。それでまた彼女がチップを受け取るには躊躇するのだが、僕はさしあたりそれを押し付けるしかない。そこで今度思いついたのはこんな感じだった。
「じゃあ、メッセージカードというのはどうだろう。朝になったらドアの隙間に新聞を入れてくれてるじゃない。それと同じように、いつの間にか、池波さんからのメッセージカードがドアの隙間からそっと入れられていたりしたら、俺にとってはこれほど嬉しいことはない。俺がここまで生きてきた理由の7%ぐらいは占めることになると思う」
これについて池波さんはずいぶん長くクスクス笑った。笑いすぎて頬が染まっていた。よくそんなに色々出てきますね、と呆れながらも乗っかってくれる様子だった。いいですよ。それで、メッセージというのはどんなことを書けばいいですか。内容はもうどうでもいいんだよ。上司についての愚痴を一言とか、そんなのでいい。わかりました、期待せずに待っていてください。
その後シャワーを浴びて、NHKの特番かなにかを観ていた。プラハの春、というようなことが語られていて、自分はのうのうと生きていて戦う根性もないが、戦いの銃声をこの耳で聞いてみたい、というようなことを考えた。夜中にはよくあることである。それで、気づけばちょっと居眠りもしていて、目をこすってラーメンを食べに出るかどうか迷っていたとき、ハッと気づくと本当にドア下にメッセージカードがあった。ホテルに備え付けの便箋だった。開くと綺麗な字が堅く丁寧に書かれていて、
――おくつろぎでいらっしゃいますか。おかげさまで、今日はいつもより素敵な夜です。池波より
とあった。それで僕は安上がりに感激した。僕はこれ以上お得な千円の使い方を知らない。プラハの春はどこかへ飛んでいってしまった。
さてそれで、やはり僕には彼女をどうにもできなかったのだ。どうにもできなかったし、どうにもしたくなかった。頼み込めばたぶん、ちょっとしたデートぐらいにはこっそり付き合ってくれたようには思う。けれども、たとえそれが社交辞令であったとしても、彼女が素敵な夜と言ってくれたそれを、自分で踏み荒らすのはどうにも議会が許さない心地だった。もちろん後悔しているが、この種の後悔は少しは貯蓄しておかないと自分の人生に言い訳が立たない。
ところで、そうして僕は「切なさをつのらせて」いたのだが、こうして男が切なくなっていることは、うっかりしているといい話に聞こえるけれども、根本的にはファールである。女性はみな女の側から切なさをつのらせたいのであって、男が切なさをつのらせてもしょうがないのである。切なさを解決して官能のピエロとして振る舞ってみせる桑田佳祐の歌のようなら別だが、そうでない限りは唇の内側を噛んで平気なふりをしてTボーンステーキを食いに行くしかない。神秘的なイケメンでない限りそれはみっともないことなのだ。
最後の夜、ではなかったと思うが、思い出としては最後の夜。僕の最後の発明はこのようであった。なにしろ彼女の肌と寝たいのである。頼み込んでデートに誘い出して、真剣に口説けば3%ぐらいは実現の可能性があるかもしれない。だがその方法は議会で否決されたので、さあどうしようかと悶々とする。そこで「そうだ」と思いついたのだが、これはなかなか、我ながら脳神経の不具合を危惧するような出来栄えのものだ。
「池波さん、指相撲をしよう」
というのがそれ。指相撲? とこれはさすがに池波さんもきょとんとした。説明はもちろん必要なので、説明するのだが、分け入っての説明はそれ自体が踏み荒らしの行為になる。
「俺から池波さんに、お願いできる限界が、ギリギリでこれだ」
池波さんは、とても頭の良い、人の心に察しが利く、また男の性欲にも寛容で同情的な、やさしい人だったんだろうと思う。僕の苦し紛れの説明を、一拍か二拍ほどおいて、
「……わかりました。いいですよ」
と全て了解してくれた。そして、ちょっとおどけてくれて、やるからには手加減なしでいきますよ、とその手をいかにも構えるようにして差し出してくれた。
ホテルウーマンだからなのか、よく見れば、池波さんの爪はきれいに磨かれて整えられていた。そして指を組み合わせると、その肌はひんやりと湿っていて艶やかだった。それで実際に指相撲をしてみると、華奢に見えた池波さんの手には健やかな力が通っていた。ホテルウーマンはけっこう力仕事なのかもしれない。そういえば学生のころ弓道をやっていたとも話していた。しばらく揉みあって、間接ごと抑え込まれて僕が負けた。もちろん僕が本気で馬鹿力を出す場面ではない。
指を組み合わせたまましばらく。肌が触れるとそれだけで人の関係はずいぶん近くなってしまう。その近くまで来てくれた池波さんはやさしいし、それで崩れない池波さんは凛々しい。
僕はふと、おまけの発明をしてしまった。勝負の終わり、組み合った指にまだ向き合う互いの親指がある。
「この指同士なら、キスしていい?」
池波さんはグッと息を呑んだ。そして逡巡の空気のあと、まあ僕の申し出の馬鹿馬鹿しさに思い至ったのだろう。印象に残る薄い唇の、ピンクの口角を緩めてくれて、ちょっと秘密のことを許すように、ウンウンと無言で二回うなずいた。
少々罪の意識を覚えながら、しかしその罪の意識も馬鹿らしいことだと認めつつ、僕は自分の親指の腹を彼女の細い親指の腹にくっつけた。本来唇でやるときのそれのように、互いをちょっと斜めに重ねるようにして。
なぜこんなときにまで人間は見栄を張るのであろう。僕はその接触を、柄にも無くそっとくっつけるだけで引き下げた。
そんなことが一通り済んで、済んでしまうと我ながら馬鹿らしいことをやったものだった。まだ池波さんと組み合わせた指があって、名残惜しいがそろそろそれを離さねばならない。
さて――と思っていたところ。
「えいっ」
池波さんの、今までになかったかわいらしい女の子の声がした。池波さんがその親指を、僕の親指にぐいっと押し付けたのだ。熱烈な本性をフィクションに許すように。池波さんは女の力の全てを親指に乗せて、躊躇なくぶっつけてきた。これがあたしです、という裸の声が親指の肉から瞬間に響いた。
それで、「ドンッ」というのが来た。歓喜さえ爆風で飛んでゆくありさま。僕はその一瞬に圧縮して、池波さんと情交したのだ。
***
ここまで言っておきながら勝手だけれども、一生懸命にお仕事をしている女性にあまりちょっかいを出すものではない。はっきりいって迷惑だ。僕は下心によって女性に迷惑をかけるバカだが、それを迷惑と知らないタイプのバカではない。男どもは必死で頭を下げましょう。またこのようなことは、当時の僕とあのときの彼女と、その場で起こった発明群によって一度ぎりに成立したことであって、これを受けて「よっしゃオレも」とマネをしても同じ現象はまったく起こらない。当たり前すぎることだが、このようなことでも念押しはしておくものである。
しかし改めて思うに、性の引き付けあいというのはまったくセックスそのものを根源にしていない。動物の場合は交尾に尽きるのだろうが人間の場合はそうではないのだ。むしろセックスを通して性的な現象を引き出そうとお互いに協力しているに過ぎないのではないか。本当にそこにありえて衝撃を与えうるのはほとんど生命力やためらいのない意志の与え合いである。すなわち人は異性の組み合わせの中でまったくの芸術を創りだすことがあるということだろうが、まあでもあまり考究が過ぎてもややこしくなるばかりか。あまり突き詰めると恋やら交際やらまで吹っ飛んでしまう。
少し話の方向を変えて。少年少女はいつだって、そしていい年をした大人の男と女だって、本当は踏み越えて誰かと仲良くなりたいし、手続き的なそれとは違うセックスを自分の体験として持ちたがっている。いよいよあきらめて興味ごと投げ出した人でなければ、どこかでいつもその方法を探しているところがあるのではないだろうか。それのうまい方法なんて、どれだけ探しても結局ないのではあるけれども。
その中で、指相撲なんてのは、実はやりようのある方法のひとつかもしれない。人間以前の動物として、生きものは互いに接触することで相手のことをよく知るし、その感触がやさしくて良好ならそれだけで深い安心感を得るところがある。そして案外、指相撲というような単純幼稚きわまるようなものこそ、その人の人となりというものが出るものだ。ノリがいいのか悪いのか、気が弱いのか強いのか、負けずぎらいかほんわかしているのか、そういうものが露骨に出る。特にやさしいか乱暴かがよく出る。ごまかせない。
もちろんこれを男性の側から申し込んだとき、イケメンを除いては、95%の確率でセクハラとなる。当たり前だ。けれども、女性の側からお遊びでこれを申し込んだとき、男性側として嫌な感触を受けることはまずないのではあるまいか。逆に95%の確率で、それが気持ち悪がられることはないだろう。
コーヒーの一杯でも飲んだとき、指相撲しましょう、わたしが勝ったらオゴってください、というようなお遊びは罪がなくてほほえましい。また周囲に友人らなど人の眼があっても巧く雰囲気をもってゆければいやらしくなくそれに持ち込めるだろう。
それで、遊びが終わってその指を離すときには、別のメッセージをこっそり残すこともできるわけだ。まさに男を手のひらの上にもてあそぶという。
いやあ、まったくけしからんね。色々あるが、かわいい女の子は全て僕のいないところでも楽しくやってもらうよりないのだ。
僕はTボーンステーキでも食べに行ってこようと思う。
[了]