No.169 可能性の中に立て
やめておけ、と周囲は云う。それも純然たるぬくもりと善意によって。そこまですることはないよとも慰められる。無理だよ、無理なんだから、と怜悧に云われもする。
それらの声に全て感謝をする。常識、あるいは合理で考えれば、彼らの云うところが正しくて、私の方が愚かである。それはわかっているが、それでも――わたしは行かねばならない。わたしはそれをやらねばならない。すまない、と頭を下げて出てゆく。自分に苦笑しながら、申し訳なく思いながら……
全ての声に背いて、わたしは行く。わたしはそれをするためにゆく。今ゆかねばならないという理由があるわけではない。理由と呼ぶべきものがそもそもない。それでも行くのはもはやわたしの意志だとしか呼べない。いま引き下がれば永遠に引き下がるのも同じだ。生きているうちに――と、ふと自分はやがて死ぬのだったということも、実感として思い出されている。それに引きつられて、わたしが今ここに生きているということ、自分の意思と共にここにあるのだということを、これ以上ない確かさにおいて感じている。
自分はそれをやると決まった。決まったからには、可能性の確率というようなことは意味を為さない。確率が1%でも、0.1%でも、あるいはその万分の一であっても、わたしはそれをするのだ。このとき、可能性が1であり、不可能性が99であったとしても、すでにその両方を天秤にかけて量るということ自体が無い。99の不可能性には何の用事も無いのだ。余所からは、わずか1と見えるその1に、わたしは全てを支配されている。その1だけに用事がある。
愚かしいことではないか。不可能性について考えるというのは。不可能性について考えて、どうやってそこから何かできることを見出しうるのだ? バスケット・ゴールに向けてスリーポイントシュートを打つときに、ゴール・リング以外を見る理由がどこにある?
自らそれに取り掛かることなく、外側から見たならば、可能性と不可能性は対立しており、不可能性がほとんどの割合を占めている。けれども、外側からその自明を眺め遣り、不可能だな、無理だなと論評することの、どこが賢者なのだ。それは打算で絶望を導き出したというだけのことでしかない。それを習慣にしたのが賢者なのか。
全ての声に背き、自らそれに取り掛かり、可能性の中に立てば、<<可能性だけしか見えぬ>>。
そちらからはそうは見えぬのだろう。不可能性の方が多いからやめておけと思えるのだろう。
けれどもこちらから見ると、そのやめておけの声の主は、なるほど、全てをやめているように見える。
不可能性に用事はない。なぜ用事の無いものに余所見をするのか。あなたは映画館の外から映画を観るのか。映画館の中に入るべきである。可能性の中に立つのだ。中に立てば、可能性、できるということしか見えない。賢明かどうかなどもはやどうでもよいではないか。賢明であることがそれほど重要か? 何事であれ、可能性の何かを為すのは可能性の中に立つ者である。外側に立つ者は、賢明ぶって渋面を晒し、いつまでもそうして立っているだけである。
***
恋あいの面白いのは、人間の器量が試されるからである。ふだん強ぶってごまかしている者が、こと恋あいのシーンでは見るも惨めな屁垂れぶりを見せる。その者の真実がむき出しになる。矜持や、たくましさ、勇敢さ、あたたかさ、頭の回転やユーモアといったことまで試される。特に卑怯な者の卑怯ぶりが明らかになる。それで古人はよく若者に恋あいに触れることを勧めた。また面白みの一つとしては、これがビジネスであったならば、不潔に稼いだ一億円も、一億円であることには違いはないのだけれど、不潔に利を得ようとした恋愛は、やはり不潔なものしか得られない。ここが試されるのがやはり面白いのである。ある歌の詩に、シャララ夢のように暮らしたもんさ、というのがある。確かに、桃源の夢のように暮らすことのあった者がおり、生涯それに触れられず生きる者もある。不潔な画策からはこの夢のようなものが得られない。
その、夢のように暮らせるということが、これからの自分にありえるのかどうか。幼く純朴な頃、誰でもそのことを信じてきた。そして年を取り、彼らはそれを信じなくなってゆく。<<賢明になったつもりで>>。
賢明であることがそんなに重要か。どうせ賢明になっては、永遠に立ち止まりつづけるんだろう。論評だけに長けて、体温も心拍数も上げないで。本心では、何か違う、わかっているのだと、叫びながら。
<<できますかと問うのをやめよ>>。僕は必ず、できますとしか答えない。それは僕の判断力の結果ではない。手元にそのカードしかなく、できませんという回答を持っていないのだ。それは繰り返し、不可能性について考えることには何らの益もないからである。
どうすればよいかと問うのをやめよ。どうしたっていい、<<どうしたってできる>>としか僕は回答できない。それよりも、その問いかけを起こすのをやめよ。これは重大な点である。そのような問いかけが起こるのは、可能性と不可能性を天秤にかけているからであって、当人が未だ可能性の外側に立っていることを示している。
<<可能性の中に立て>>。あなたは未だ、可能性と不可能性、できるとできないのカードを手元に残している。それで、できるかもとか、できないかもとか、移ろいでいる。それは<<保留>>である。まだ自ら取り掛かっていない外側にいる。あなたに出来ることは、そのまま保留を続けるか、どちらかのカードを捨てることである。
いくらでも、くどくどしく言おう。賢明であることがそんなに大事か。論理的な正誤がそんなに大事か。それより、嘘偽り無く、純然に何かをしてみたいと思わないか。力が欲しくないか。輝きが欲しくないか。夢のように暮らすことに焦がれないか。それよりも賢明ぶる方が本当に大事なのか。
いいじゃないか、間違ってても。全ての声に背いてわたしは行くのだろう。理屈でいくら間違っていても、確かに力を得、輝きを得、純然に何かを為したなら、それでいいではないか。
あなたの心がまったくまともにはたらかない理由。瑣末なことに捕らわれて、憂鬱や嘆きや、あるいは気の利いた嫌味しか発信しなくなってゆく、その理由。それは、心というものの性質にある。心は、現に直面しているもの、現に取り掛かっているものに向けてしか機能しないからだ。外側から、可能性と不可能性を天秤にかけ、賢明ぶって<<保留>>している、その保留の状態でははたらかないのだ。だからあなたにはこのところ、心を通わせあう確かな体験が無い。あなたの声や言葉が誰かにガッシリ届くということがない。
可能性の中に立つといい。できるということしか見えない中に立つといい。できるということならあなたは本当の何かに取り掛かれるし、取り掛かったならば心は勝手にはたらきはじめる。それも爆発的に。頭が固くなったりしないし、だいいち生自体に快楽が伴う。その快楽に共鳴して、勝手に得がたい人に出会っていくだろう。恋あいを外側から考えたりしなくなる。
「やめておけ」と言ってもらえ。外側の賢明なる保留組からそう言ってもらえたら、あなたはすでに保留から離脱しはじめている。悪どいことはするな。だから、そこまでしなくてもいいよと言ってもらえ。常識的に考えれば、彼らのほうが正しいと、その明らかさに苦笑するところまでゆけ。
「それはおかしいでしょ」とも言ってもらえ。そう言ってもらえたら、あなたはやはり賢明な保留から離脱しはじめている。そのためにも、全てのことに「できる」と答えよ。おかしくていいし、間違っていていいではないか。それでも力を得て輝いて、心が爆発的にはたらくのはこちらの側なのだ。
[了]