No.170 うひょ
むくれたような身体つきの、中年の男性が、コンビニエンスストアで安いカップ酒を選んでいる。あわせて、インスタントラーメンを選んでいる。日焼けと機械油に曝された風貌はいかつく、四肢はコンクリートを割る無骨さが染み入ったように太く荒くれている。彼は口を半開きにして、商品棚に見入り、あれこれと迷っている。僕はこのようなとき、彼の傍を通るのさえ気が引ける。日常のごくありふれた光景だが、大げさでもなく、彼のこのような時間はもっとも奪われてはならないもののように僕は感じる。一言でいって、僕はそのような光景を愛しているのだ。どうか気の済むまで、存分に選んでほしいと、なぜか胸を締め付けられる気持ちになる。
なぜなのか、というのは僕自身よくわかっていない。けれども、この現象は僕自身に徹底していて、たとえ僕が気に入らない奴、心底嫌いだと思うような奴でも、商品棚に見入ってあれこれ迷っている姿については、それをどうでもよいとは思えなくなる。その瞬間においてのみ、僕はその人をどうにも憎みきれなくなる。これがたとえ、凶悪犯罪の受刑者でも、ポル・ポトでもヒトラーでも、その棚から好きな商品を選ぶ時間については、それだけは、完全に彼に与えてやれよ、と強く願う気持ちがある。
なんというべきか、あの瞬間こそ、実は人がもっとも無垢になり、自意識から放たれる時間なのではないか。凶悪さや陰険な気持ちのまま商品棚に迷う人はいるまい。自意識を膨張させた醜さも、商品棚に迷う瞬間だけは、一休みしてポケッとしている。商品棚の前で、人それぞれ、自分の好きなものについて、いつものこれにしようか、新しいこれにしようか、それとも自分に意表をついて、今日はあえてこれにしようか、などと考えて迷っている。
僕は正直なところ、通りすがり、赤の他人の全てについて、その人が商品棚からどれを選ぶかということに、少なからぬ興味がある。レジの待ち時間などに、時折それを盗み見たりしている。さんざん悩んだ結果、それを選ぶのか、へえ、という気持ちは、なぜかいつも僕にとってぬくもりがある。厳しい表情をしたままのキャリア・ウーマンが、ふと何かに気づいたように商品棚の前で立ち止まり、少し躊躇したあと、ありふれたチョコレートを買物籠に入れる。見ると籠の中には赤ワインのボトルと、パック詰めされたベーコンが入っている。ははあ、このあと一杯やる気で、ベーコンをその肴にするつもりだったが、ふとチョコレートも悪くないと思われたらしい。きっと独り暮らしをされているのだと思うが、この後は録画したテレビ番組でも観ながら、のんびりと夜更かしをされるのだろうか。
そういうものを見せつけられると、僕は彼女のもっとも無垢な部分に、勝手に触れさせてもらったような気になる。また実際、ある意味では、確かに僕は無垢の彼女を目撃はしたわけだ。このことは、飲み会をして、根掘り葉掘り問いかけをしたとしても、逆に目撃はできないものだ。もし僕がなんの理由もなく彼女にクリスマスプレゼントを贈るとしたら、質のよい赤ワインと、質のよいチョコレートを贈ることになるだろう。そう思うと、漠然として、本当はそのようにあるだけでよいのではないか、と思えてくる。むしろそれをややこしくしたものを、人間関係などと呼んでみて、こじらせて僕たちは不毛に遊んでいるだけではないのかと。
僕はその光景を通して、思い切って言えば、独り暮らしの部屋に赤ワインを買い帰り、ついチョコレートも買ってしまった彼女が好きだ。そこにはすでに、僕なりに彼女の幸福を、特に今夜の幸福を、願う気持ちが偽りなくある。別段むつかしい理由もなく、ただそうする彼女はかわいらしいではないか。僕は内心で彼女をチョコさんと呼んで、架空にだが新しい知己を得た気分にもなるのだ。
ただし、もしこれで実際に彼女と知り合って、彼女が赤ワインについて語りだしたり、最近のチョコレートってどれでもおいしいよね、と荒っぽい声で言ったなら、そこにあったほのかな好意は消え去ってゆく。ひび割れて、砕かれ、やがて吹き飛ばされていってしまう。それは無垢な彼女ではすでにないからだ。彼女の生活習慣や自意識が彼女自身を振り回してある彼女なので、そこにはやっかいさが目立ってくる。そのようなことが起こるとき、僕はやりきれない悲しさを覚える。
僕は彼女の、もっとしょうもないところが好きなのだ。すなわち、人は人の、しょうもないところのほうが本当は好きなのだ。
女の声で彼の名前を呼べばいいのである。それだけで彼には「うひょ」が起こる
僕はこの本文のタイトルをつけるときに、思い切って「うひょ」と冠した。タイトルというのは意外に重要なもので、内容の全てを支配するところがある。謎めいた力の、問いかけのある気配のタイトルが、本文読了後には明視された手ごたえのある、確実たる言葉として受け止めなおされねばならない。それで「うひょ」になったのだが、人のもっとも単純な心、前段につなげて言えば、もっともしょうもないところは、まずその「うひょ」というところにある。これが「うひょひょ」になるとすでに少しいやらしい。「うひょ」という静かなところで止まっていることは意外に重要なところだ。
人は「うひょ」となるのである。あれこれと思考が巡る前に。何か気取って語りだそうとする前に。商品棚の前で迷う人人も、その「うひょ」を探している。いくつかの商品に「うひょ」を見つけて、それで懊悩している。その「うひょ」こそが心の原点であり、心があることの証明でもある。だからかわいらしいのだ。
おいしそうなものを食卓に出されれば、人はうひょとなる。男の場合、女の裸をみればうひょとなるし、女の場合は綺麗に整った洋菓子など、フルーツムースの上に生クリームが添えられて色とりどりに飾られていればうひょとなる。
「おいしそう」となるのはそのうひょの後である。その前に、「ケーキ!」という、ただ「ケーキだ!」というだけの、純粋経験の瞬間がある。それを簡潔かつ有効にどう呼ぶかとして、僕は「うひょ」という言葉を選んだわけだ。
この「うひょ」は、価値観に先立つ。このことは重要だ。ケーキに対しての「おいしそう」より、「ケーキだ!」ということの純粋経験のうひょが先に来る。価値観の思念はうひょの起こりにはついてこられないのだ。たとえば、僕が性悪女から名前を呼ばれたとする。そのとき、僕の価値観としては、こいつは嫌いだ、こいつに呼ばれるのはうっとうしい、ということになるはずなのだが、その前にただ女の声で名前を呼ばれたというだけで、僕はまず「うひょ」を体験するのである。それを表面に出すか強固に隠すかはまた別として、うひょという現象は隠れてでも必ず存在する。
だから、と、功利的な言い方をしてしまうが、女のあなたはまずこのことを知り、女の声で彼の名前を呼べばいいのである。それだけで彼には「うひょ」が起こる。彼の価値観との兼ね合いについて考えるのはその後でいいわけだ。むしろその彼の価値観とやらにあまり囚われないほうがいい。前段で指摘したように、人は人のしょうもないところのほうが本当は好きなのだから。
強調すべきはこのことか。<<「うひょ」を掴むと掴まないとでは、見えてくる世界がまるで変わってくる>>ということ。「うひょ」が無い世界、「うひょ」が感じられず掴めない世界においては、人が人を好きになることは難しくなる。人は人の価値観を好きになるわけではないからだ。立派な価値観があり、その立派な実践があったとしても、それだけでは原始的な「好き」の現象は生じてこない。こういう人を好きになるべきだ、と意識的になることはできても。
そしてなによりも、そうして「うひょ」のない世界はしんどい。本当に楽しいこと、心の華やぐこと、温まることがない世界なのだ。価値観だけが喧々としてある世界。そんなものしんどいに決まっている。
現代は、と、臆さずに斬ってかかるけれども、現代はこの「うひょ」を見過ごす時代だ。漫才イベントとして有名だったM−1グランプリなどを代表に想起してもらえば分かるとおり、現代は全個人が評価者の立場に立つ文化である。mixiやfacebookなどのSNSツールには[イイネ!]ボタンという機能が備え付けてある。[ダメダネ!]ボタンは無いのがまだ良心的ではあるのだが、たとえそれが[イイネ!]でも、ユーザーが評価者の立場に立っていることには変わりがない。だからこの[イイネ!]ボタンにしたって、機能付加されたときには大変な違和感があったし、それに慣れてきたところで、やはりある種の違和感を押し隠して、やむを得ずそれを使っているようなところがそれぞれにあるわけだ。その違和感の正体は、それぞれの原始的感性が、それが実は評価者の立場に立っての行為で、このようなことで人は好意を育てあったりできない――それどころかどこか傲慢で失礼だ――と見抜いていることによる。
twitterをはじめとして、つぶやきツールなるものも増えた。ここでつぶやかれる内容も、やはり自分が評価者たらんとする類に多く流れる。「映画見てきた、面白かった!」「芸人の○○、最近マジで面白い!」「××は本当に名作だと思う」「△△、嫌いな人多いけど、わたしはいいと思う。好きだ」。これらは内容としては肯定的で善意的だが、やはり評価者の立場に立っている。これはそういうユーザーが悪いというのでなく、そもそもこういう使い方をするツールである、というべきだろう。
つぶやきの中に、人のかわいらしい「うひょ」の感触は乗っかってこない。肉声ならまだしも、デジタルテキストの短文通信でそのうひょを確認しあうことはほぼ不可能である。先の例につなげて言えば、女性がパティスリーの前を通りすがり、うひょ、ケーキだ! となったとする。それをそのまま、「ケーキだ!」とツイートする人はいない。そんなつぶやきがあっても意味不明だからだ。だから携帯端末で写真を撮り、その写真に付属するコメントとして、「おいしそう! フルーツの組み合わせ色が夢のよう」とツイートする。
重ね重ね、それの何が悪いと言っているわけではない。ただそれがいつのまにか、評価者の立場に立っているということを指摘している。そしてその習慣によって、人人は「うひょ」の現象を見過ごし、忘れ去りつつある。
およそこの習慣の現代、誰もが評価者の立場を無自覚に採り、うひょなしに価値観ばかりが喧々する時代の感触について、自由だ、やりやすい、のびのびしている、と感じる人はいないのではなかろうか? むつかしい議論を捨てて正直にいえば、この現代には何か正体不明のしんどさがある、と感じている人のほうがはるかに多いだろう。
昔、「ブッシュマン」という映画があった。あれの冒頭は、飛行機から投げ捨てられたコーラの空き瓶を、原住民であるブッシュマンが拾うのである。ブッシュマンはそれを拾って、見慣れない透明の、不思議な形をしたものがあるとして、まず「うひょ」を見せるのだ。なんだろうこれは、うひょ、とコーラ瓶を眺め回す。そこにあるかわいらしさによって、観衆はすでにブッシュマンを愛しはじめ、作中へ引き込まれていくのだった。
あなたの声、あなたの言葉、あなたの仕草、あなたのキス、全てがまず彼にとって「うひょ」である。価値観などどうでもよろしい
人と愛し合うことの、あるいは信頼しあうことの、豊かな中で生きていきたい。最近はもう、そういう願い自体を持たない人も増えてきたらしいが、それでもその願いを隠し持っているという人、それも人には話せないほど真剣に、熱烈にという人がいるはず。そのようなうら若き乙女がいるとして、僕は彼女らに向けて、励ましと知恵のつもりでこれを伝えたい。
まずたとえば、あなたはもっとメールを送りなさい。彼に、友人に、知人に。めんどうくさいというのもわかるし、今やそちらのほうが主流だけれど、その面倒くさいというのにも実は別の理由が乗っかっている。とにかくあなたは、もっとメールを送りなさい。内容はどうでもいいのである。むしろその、内容などどうでもよいということを、実感としてわかっていることがもっとも肝要でさえある。
何のために、また何に向けて、あなたはメールを送るべきか。それは「うひょ」に向けてである。人は人からメールを受け取るのが好きなのである。着信があっただけで「うひょ」となる。よほどこじれた特殊な事情があれば別だが、そうでない限りは内容を読む前に着信そのものにうひょとなる。そのうひょにのみ向けて、どうでもよいようなメールを送ればいい。そのことがわかっていれば、メールというのはそこまで面倒くさくはない。送らなくては・返さなくてはというわずらわしさもむしろ消失する。
少し前までは、メール魔のほうが多かったのだ。親和欲求の高い女子中高生などは特にそうだった。それが今は、そういうのめんどくさい、という方へ主流がシフトしてきた。それはやはり、評価者の立場に立つ習慣と、うひょの消失によって引き起こされている。。<<「うひょ」を掴むと掴まないとでは、見えてくる世界がまるで変わってくる>>。メールを受け取った相手がうひょとなるという想像力がはたらかねば、メール入力の作業というのは確かにひたすらうっとうしい。
けれどもうひょがあるならば、相手のうひょが想像力に捉えられているならば、本来人にメールを送ること自体も楽しいことであるはずなのだ。
彼の名前を呼びなさい、ということはすでに言った。そのほか、彼の身体に触れなさい、とも言うべきだし、もう一歩近づきなさい、とも言うべきだし、エヘヘと笑いなさい、とも言うべきだし、お別れのときには大きく手を振りなさい、とも言うべきだろう。手書きで手紙を書くのもいいし、飴玉のひとつでもいいから、彼のために選んでプレゼントするのがいい。喫煙する彼ならライターをプレゼントしてもいいし、疲れているようなら背中を撫でたり肩をやさしく叩いてあげてもいい。
当たり前のことばかりだ。けれどもこの当たり前を正しく活用するためには、そのモットーというか、動機原理が正しく捉えられている必要がある。そうでないと不自然になり、こじれたりするからだ。そのモットーは、ただ人の「うひょ」のため。それが人のかわいらしさであるため。そこに価値観なんてものを持ってくるとやりとりは急に係争論議めいたものになる。
あなたはこのことをよく知るために、まず自分の「うひょ」が、本当にはどのように起こっているものなのか、知らねばならない。そうでなければ、人がどのようにその「うひょ」を起こすのか、想像力のはたらかせようもないからだ。
人は本来、人の話を聞くのが好きである。話の内容をまだ知らぬうち、うひょ、というのが先にある。このことは、幼子が寝床で、母親に絵本を読み聞かせてもらっているところを見れば合点がゆく。幼子はある時期特にそれを強く求めるものだ。幼子は、絵本に描かれた物語の内容が好き、というのではない。たとえば絵本「ぐりとぐら」があったとして、これは名作だね、と評価してその朗読を求めているのではない。暖かい布団にもぐり、母親のやさしい声を聞き、むかーしむかしあるところに……と語りだされること、そのこと自体に「うひょ」となるのだ。幼子はその物語の構成のどこがよいとか、そのサスペンス性やスリルを評価してそれを聞いてはいない。語りだしの声を聞いて、「おはなしだ!」と心をときめかせるのである。
人はまた、音楽や歌を聞くのが好きだ。人はその趣味としての好き嫌いを選別する前に、流れてきた和音、唄われる人の声を聞いたとき、「お歌だ!」という悦びを起こしている。これも保育園などで幼子の素振りを見ていればわかる。保母がオルガンを弾き始めた途端、園児らの心は音に吸い寄せられてゆく。
友達に会えば、「友達だ!」「○○くんだ!」「○○ちゃんだ!」という純粋経験がある。これも子供たちを見ていればわかる。特に子供らは、まったく見知らぬ同士でも、母親に連れられて互いに公園で出会いでもすれば、目を丸くして瞳孔を開いて、お互いに心を吸い寄せあってゆく。お互いに怖がりなくせに、目の前の彼・彼女に対して起こる純粋経験の「うひょ」にまったく素直だ。それで実際に、自己紹介もしないくせに、ほうっておくと勝手に友達になってしまう。
あなた自身、学生時代のどこかに、学校あるいはクラブへ行くのが、正直楽しくてしょうがなかった、という時期はなかったろうか。そのときのことを思い出せば諒解されるはずである。あなたは誰のどこが好きというのでなく、教室のドアをがらりと開けて、みんながそこにいるということ、その友達と会うという瞬間自体に、「うひょ」となっていたはずなのだ。それが楽しさの正体であったはず。
舞台にお笑い芸人が出てくれば、「漫才師さんだ!」、あるいは「面白い人だ!」。美術館に絵画があれば「絵だ!」。部屋に一冊の本が落ちていれば「本だ!」、見開いて小説であれば「小説だ!」。雪が降れば「雪だ!」、東風吹かば「春だ!」。そのように、実は無数の純粋経験、「うひょ」が起こっているのである。
この中であなたの振る舞いの全ても、誰かにとってはその「うひょ」なのであった。あなたの声、あなたの言葉、あなたの仕草、あなたのキス、全てがまず彼にとって「うひょ」である。価値観などどうでもよろしい。価値観などどうでもよいということが分かれば、あなたは彼の名前をのびやかに呼び、大きく手を振って微笑むべき動機原理が整うはずだ。
僕はこのようにも思うのだ。価値観のまったく違う同士、さらには対立さえするはずの二人が、まず互いに「うひょ」を与え合うように関わって、対立するはずが互いをどうしても憎めないということになれば、それは救いとなりうることではないか。お互いに、てめえ、ばかやろう、おばかさんね、やってられない、と言い合いながら、そうして言い合うこと自体に悦びがある。言い合いの内容は憎らしげなのに、互いが互いにかわいらしさを見つけている。単なる仲良しというのではない、時には激しくやりあう関係を保ちながら……
そうであるべきだし、そうなることが、本当はできるのではないかと僕は思っている。人と愛し合うことの、あるいは信頼しあうことの、豊かな中で生きていくということについて。
だからあなたの振る舞いは軽やかで、足取りは羽が生えたように華やかなのだ
<<「うひょ」を掴むと掴まないとでは、見えてくる世界がまるで変わってくる>>。最後にこのことを、素直に功利的なところへまとめよう。せっかく読んでくれているあなたに、何かしら役に立つことのありうるように。
「見えてくる世界がまるで変わってくる」というわけであるから、このことは大事なわけだ。今はもう悩み事でさえなくなってしまった風があるが、少し前までは、人を好きになることができないんです、というような悩みが割りとあった。この悩みを臨床心理学的に分析することも可能だろうけれども、もう少し日の当たるように考えるならこのことが有効だ。その人に見えている世界においては、誰かを好きになれるような現象が見当たらないのである。だからこそ、見えてくる世界そのものを変えてしまう発見をせねば。この手の悩み事に陥る人はたいてい性根が生真面目だ。そういう人こそこのしょうもない「うひょ」を見過ごしてしまう。真面目に考えると価値観の思念ばかりが育つものだ。
若いうち、誰かを見て、なぜあの人はあんなに堂々として、あんなことができるし、あんなことが言えるんだろう、とショックを受けることがある。けっこうズケズケ悪口のようなことも言うのに、なぜか毒がないし、無理をしないで自然に周囲に愛されていっている。ああいう人の真似をするべきだと思うが、真似をするにしても自分にはあまりに似合わなすぎる。キャラクターというやつなのかしら。そういうふうに行き詰まることがある。このようなときにも、やはり気づかれるべきは、彼女と自分とでは見えている世界が違うということだ。イメージしてみれば即座になるほどと思われるように、彼女には彼女の価値観がはっきりありながら、彼女自身その価値観に縛られていない。価値観に縛られずに、なお彼女の行動原理はあるわけで、その原理は何なのかというと、やはりその「うひょ」なのであった。
そういう女が誰かに向けて、「どうしたの、元気ないじゃーん?」と威勢良く云う。労りにからかいも含めたその声は存在感がはっきりあり、何か認めざるを得ない強さがある。本来、マナーということでカチコチにして考えれば、人に向けて元気が無いというような呼びかけは、慎むべきであり、出来る限り避けるべきだ。しかし彼女の場合のそれはマナーを超えて、それでいいという感じがするし、むしろ人を励ます力が乗っている。言われた側もまんざらではなさそうだし、そういうものを見せ付けられると、こちらも励まされる一方で、理屈としては何がどうなのかわからなくなってくる。
そういう女性は、意識的自覚はなくても、「うひょ」の感覚を身体でよく知っているのだ。人に呼びかけるとき、その言葉の内容にはいささか思慮が足りなくても、のびやかに呼びかけられた清潔な声自体に、人を「うひょ」とさせうるものがあることをよく知っている。
また役に立つこととして、さらに掘り下げるならば、そういう女性の振る舞いをこっそり観察することは、やはり一番役に立つ。あなたが発見するべきことは、彼女は表情を生き生きとさせていて、情緒豊かである一方、イライラしたり泣き崩れたりといった、感情的になるところが少ないということ。彼女が誰かに怒るところは容易に想像がつく。けれども、彼女がイライラする、というところはどうも想像できない。
いわゆるヒステリックという感触で、感情的になるという現象は、実は心からではなく思念、思考によって構築された価値観の側から来ている。価値観において、許されざる者が生まれ、許されざる振る舞い、不条理、といったものが生まれてくる。それが平然と踏み破られている実情を受けて、思念が加圧されて奔騰するのだ。それがいわゆるヒステリックな、感情的になる、という状態である。感情的なるものの正体は、思念の錯乱による「不快さ」の訴えに過ぎない。一方で「うひょ」の側は、それ自体が情緒であるから、そのまま情緒豊かになるのであるけれども、情緒豊かということは感情的になりやすいということでなくむしろその反対である。またこのことをはっきり示してくれる誰かが身近にいたとしたら、それは僥倖というべき、あなたの運の財産である。
最近は女性の側から男をデートに誘うことも珍しくない。そのようなとき、何かこわばってしまう、不自然になる、上手くゆく気がしない、自信が無いから……という、弱気へ発想を流すべきではない。それはやはり行動の動機原理が整っていないからこその及び腰なのだ。彼をデートに誘うのであっても、動機原理の第一は、彼が「うひょ」となればいいな、というところになくてはならない。すなわち、彼がその誘いを受けてくれる必要はないのだ。誘われたことのみで彼はうひょとなりうる。そのことが分かっていれば、自信がどうこう、こわばって不自然にどうこう、ということはなくなる。
それが告白になったとして同じだ。告白とは、好意と愛を告げることによって、交際のOKをもらうことが目的ではない。それは申し込みであって告白ではない。告白の目的はやはり、彼がうひょとなればいいな、というだけのところにある。あなたが彼に手を振り、微笑みかけ、告白し、キスを与える、その全てが彼をうひょとさせることのためにある。だからあなたの振る舞いは軽やかで、足取りは羽が生えたように華やかなのだ。
うひょとなってもらいたいではないか。そして彼がうひょとなってくれたら、恋の実りなどはさておき、あなたにとって人間とは、憎めずかわいいものだろう。
[了]
(注:「純粋経験」の語は西田幾多郎「善の研究」から借用していますが、本文での使用は原義からは大きくズレています。本当の純粋経験は「うひょ」のさらに前の前の前……とはいえ方便ということでご容赦。)