No.171 敵、佳人を燃やす火
久しぶりに坂上の水車公園に行くと、なつかしくて、本を読んでいたつもりが、いつの間にか眠りこけていた。それでふと、蒸気が煮えたような空から雨滴がひとつ、頬に濡れたのである。ゆめうつつであった僕は、不意に古い物語を思い出し、壮絶な気持ちになった。あのとき僕は誰か、きれいな肌をした女の、細い膝の上に眠っていた。それで、僕のために泣いてくれた彼女の涙が、ひとしずく、僕の頬に落ちたのである。その涙は彼女の性質を移したように冷たくて、透き通っていた。
あるいは、あれは雨滴だったのか? あのとき僕は身体が痛くて起き上がれなかった。あれはどこの何の場所だったのか、彼女が誰だったのか、僕はもう思い出せない。彼女だけではない、あのときは何人もの人に助けられたはずだ。彼女は、眠っている僕に向けて、もういいじゃない、というようなことを言っていた。たしなめるような、でもそう言っているだけで、あきらめているふうだった。僕は彼女の言うことをまったく聞いていなかった。ただ彼女の涙が落ちてきたことに、ずいぶん救われて、そのまま眠った。
戦っていたのだなあ、と懐かしく思った。あのときは。でもあのときと今とが、どこかで切り離されてあるわけじゃない。僕の読んでいた本は地面に落ちていた。
人がいるなら、人に向かわねば。戦うとはそういうことだ。僕には、自分との戦い、というのがよくわからない。自分じゃなくて、人と戦うもんじゃないのか、と思う。人と戦うのに向けて、自分の頬を張り飛ばすことはあるけれど。でも自分自身と戦うために何かできるほど僕は人間ができていない。
負けられない、のだ。この負けられないということを思うと、僕はおかしくて笑えてくる。負けられない、というのは意味がよくわからないのに、負けられない、確かに! という気もするからだ。なぜ負けられないのか、と理由を探し始めたら、それはもう負けてしまったんだろう。理由はないのに負けられないから戦いなのだ。
僕は争いごとが苦手だ。競争や博打は苦手だし、諍いなんかもっと苦手だ。そういうのからは全部走ってでも逃げてしまいたい。逃げるべきだ。競争や博打といったゲームは、ある状況を限定的に切り出したものでしかないのではないか、と思う。短時間で決着がつく。しかしその決着というのはゲームのルールに設定されてある決着でしかないし、実際に生きることには本当は決着なんてない。決着はないのに、実際に生きている中で、勝つとか負けるとかいう感触は確実にある。ゲームで勝っても本当のことで負けていたらつまらない。ゲームの勝った負けたで頭を焼いていたらそれはもう本当のことからは負けっぱなしだ。僕はわざわざ海外旅行の南インド、ブッダガヤのドミトリーでそれを見た。トランプ遊びでむきになって、大人ぶった顔で喧々していた。
雨の降り始めた中で無理やりマニトウを吸った。煙の味が身体に、ひたすらどっしり効いた。あのときのあの娘にはお礼も言わなかったのか。お礼を言いたかったな、と思うと、記憶の彼女に触れようとして手がびくんと動いた。
間違っていてもいいのだ。正しいことをなぞっても戦いにならん。ただしウソはいけない。ウソは卑怯だからだ。間違っていてもいい、ただ負けなければ。いや負けることもあるし、最近はずいぶん長いこと、負けることを当たり前にしてしまっていたが、もういいかげんにしなくては。負けられないのだ、一度たりとも。勝ったり負けたりでいいとか、思いがちだけど、思ってはいけない。それはもう戦っていない。
今後は一度たりとも負けない。決して負けない。そう決意することに一番勇気が要る。けれど、何も複雑なことは必要なくて、必要なものは決意だけだ。間違っていてもいいから決意する。決意しなければ戦いにならない、はじめからどん底まで負けていることになる。
甘えてはいけないのだ。戦いだから。戦う相手に甘えるなんて話があるか。弱みを見せるな、弱気もみせるな。説得するな、わかってもらおうとするな。敵にそうするのは、失礼だし、何より気分が悪い。戦う者の態度じゃない。
戦いになれば、相手は突っかかってくる。そりゃもう容赦なく突っかかってくる。だからそれをすっころばせばいいのだ。それが戦いというものだ。同じようになって相手をやっつけようとしてどうする。それは安物のケンカだ。オバハンでもよくやるケンカだ。
相手が突っかかってくるから、その途端かわして、それでも相手が反応して突っかかってくるところを、極端にやわらかくなってかわす。つまるところ、相手の予想を、髄の髄まで裏切るしかない。いよいよ衝突するという、ここ! というところがあるだろう。そのクライマックスで、まさか、お前マジか、というような、奇想天外のほうへチェンジする。それでケンカは収まる。
考えるだけでドキドキする。恐怖がないといったらウソだ。けれど、そうする自信が無いかと言われたら、無いわけではない、と答える。
あれは何年前だったか、ワールドカップの決勝戦で、ブラジルのフォワードが見せた、ゴール前でのスルーパス。敵ゴールキーパーも転んだが、あのとき世界中で、何億人が同時にすっ転んだのだろう。
負けてはならない、突っかかってもいけない。むしろ突っかかってもらわなくては。我ながら欲が深いというか、おそろしいことを考えるものだ。
頭に血が上る本能より、それを裏切るという本能を勝たせるのだ。
時代はやりにくくなった。あのとき、街を歩いているだけで、何だよコラ、と喧嘩を売られるときがあったが、あのときのほうがやりやすかった。かわせない者は怪我をする時代だったが、かわせる者には実りが多かった。
負けてはならない、突っかかってもいけない。1打てば2返ってきて、4打ち返せば8返ってくる。それが普通の当たり前で、ところがここにマイナスの16を打ち返す。向こうからすれば、そんなバカな、そんなわけないだろう、というもの。すっ転ぶ。こっちがそんなことを企んでるなんて、露ほども思わせないようにして……
やっぱり手品のミスディレクションと似ているな。か弱い女の子がホウキを振り回して抵抗して、へへへ馬鹿めとにじり寄ったら、実は女の子は短刀を隠し持っていて、それで刺し殺すのが本命だったら怖いものな。
僕も何かを振り回さないとな。
戦いなんだから。手の内を見せちゃダメだ。手馴れた手法のようにイヤーマイッタとギブアップして、頭を下げて半笑いで和を乞うのは、不潔な談合であって勝負ではない。その談合で利を得ることはできるのかもしれないけれど、そんなことで、あの身体がカッと燃えるような、指先が震えて咆哮したくなるような、自己の可能性と生の実感を得ることはできない。
だいいち、そんな無様では、僕は僕のために涙をこぼしてくれた、あのときの彼女に言い訳が立たないな。
男は女の敵として、堂々と戦い、認められうる敵になるしかない。犯されるならこの男がいいな、と思ってもらうしかない
恋あいの話をしなくてはいけないのだった。
まず、「○○ちゃーん、つれないなぁ〜」と言い寄ってくるオジサンや、「オレ彼女ができたらすっげー大切にするタイプなんだよね」と語る好青年(風)には、あなたは好意を覚えないはず。後者のほうは、あなたが疲れていたらちょっと揺れるかもしれないが、すぐにも思いとどまって、いやいや何いってんだアタシ、と自分を叱責して立ち直るはずだ。なぜあなたがこれらのタイプに惹かれないかといえば、彼らの態度が戦いではなく談合だからである。
恋あいというのは戦いなのだ。むかしから女にモテて旺盛なやつは、「女の敵!」と呼ばれたものである。戦いがあるから「敵」なのだ。そして佳人はその「女の敵」として認めうる男、尊敬しうる男を、自分を犯してよい男性に選んできた。
「敵」という字は、本来そのまま衝突や対立を指さない。自分と別個の存在で、対等な存在であり、関係性を持っている者をただ指すのだ。
だから「匹敵する」とか「好敵手」とかいう言葉がある。身内のようにくっついた存在は敵ではないし、オレが守ってやらなくちゃ、みたいなものは敵ではない。幼児も敵ではない。あるいは、サングラスをしてヘッドホンをして周囲の全てを無視して歩く女性がいるが、あのように振る舞えば周囲の全ては無関係であって、無関係であれば敵もへったくれもなくなる。
実は、古く花街において、遊女と女郎買いがお互いを呼ぶのに、「お敵さん」と呼び合う風習があった。またそのとき男性から女性に向けて「あいかた」と呼ぶとき、それを「敵娼」とも書くのである。
それぐらい、男女の関係、とくに恋あいの起こる関係というのは、土台が「敵」なのだ。それぞれ別個で、対等で、それでいて関係性は向き合うように濃密にある。このようなことは、例えば互いを「あいかた」と呼び合う、漫才師などにも見て取れる。彼らは確かに舞台の上で相互に「戦って」いる。また彼らが身内ではない証拠に、優秀な漫才師ほどその控え室はそれぞれ別に用意されている。
先に言ったような、「オレは彼女ができたらすっげー大切にするタイプ」とか、あるいは「女に手を上げる男なんてサイテーだろ」とか、「オレは付き合ったら一途だし、それでなくても女の子にはやさしくするべきだと思う」とかいうのに、あなたは「いい人」の称号を与える一方で、女としては何ら関心を惹かれないということがある。それはなぜかというと、彼らは女の敵ではないからだ。女の味方を自称しており、またそれを実践もしている。だからあなたは安心感を覚えるだろうし、居心地がよいと感じるかもしれないが、恋仲になる相手ではない。
相互に敵でないと戦いが起こらないからだ。代わりにケンカばかりする。そして、そうしてケンカばかりになるのも、結局は男は女の味方にはなりきれないからだ。その証拠に、彼がいくら女の味方を自称しても、彼は決して女風呂には入れてもらえない。番台のところで彼が女の敵であることが明らかになる。幼児もしくは虚勢したオカマでないかぎりは男は女の味方ではない。
アニメ映画「耳をすませば」は、恋あいの原型を、原型だからこその鮮烈さで描ききっている作品である。作中でヒロイン月島雫は、物語を書くのである。それは恋人である天沢聖司が、バイオリン職人になるためイタリアに留学するということに影響されて、一念発起して取り組むことだ。けれども彼女はただ自分のトライアルとしてそのようなことをしたのではない。彼女は作品を完成させ、地球屋の主人に読んでもらい、その感想を受けて、崩れ落ちて号泣するのだ。地球屋の主人いわく、「聖司のバイオリンみたいだ」。これを受けて月島雫が号泣するのは、そもそも彼女がそうして物語を必死で書いたこと自体が、彼女が天沢聖司と「対等」の存在でいるための戦いだったからである。彼女は天沢聖司を眩しく尊敬する一方で、彼と対等でありつづけなければ、彼と恋仲ではいられないと、本能的に知っていたのだ。それで必死に戦った。その結果として、「聖司のバイオリンみたいだ」という感想をあてられて、張り詰めていたものがほどけて、その場に崩れ落ちるのである。
「ボクはキミのことをこんなに愛しているのに、どうしてわかってくれないんだ」。そう哀願する男がいる。実際に泣く男もいる。あなたは彼のありさまに、心を痛める一方で、この男だけは恋人にはありえないな、という確信を強めもするだろう。そして正直なところ、見苦しい、うっとうしい、という気持ちも起こってしんどいはず。
これも、彼が「女の敵」という立場を投げ捨てて、ギブアップするから甘くしてよ、と談合を持ちかけてきていることによる。
男は女の敵なのだ。その男が敵に向かって、「なぜわかってくれないんだ」などと言い出したらオシマイである。フラれて手のひらを返し、「あの女はクズだ」なんて陰口を言いふらしはじめてもオシマイだ。陰口や中傷というのは攻撃工作であって戦いではない。
結局のところ、男は女の敵として、堂々と戦い、認められうる敵になるしかない。女から尊敬の対象たりうる敵になり、犯されるならこの男がいいな、と思ってもらえるようになるしかない。
敵という立場を降りて恋あいを求めるのはまったくの破綻だ。どう工夫しても、言い寄り、擦り寄っての談合の求めにしかならない。
人間が疲れ果てていたり、結局怖がっていたりすると、これがダメなのだ。誰かの前に敵として立つことができない。戦いに向かい、敵前に胸を晒すことができなくなる。味方ばっかり探してしまう。人間の力というのは、戦いに向けて湧き、戦いの中で伸びてゆくものだ。だから談合と味方探しの人間になったら、そのときからもう力は出ないし、伸びない。自分の所属する内輪だけを拡大することに熱心になり、その中での立場を確保することに汲々とするのみだ。
男が女の敵であるということは、ナンパという行為において最大に明らかになる。女から見ればナンパなんて迷惑以外の何物でもない。だからナンパをする男の側は、女に迷惑を直接かける、女の敵にいかにも成るよりしょうがないのだ。
だから、あなたとしてスリルを誘われない男性の99%は、ナンパができない。そして、これはもう賭けてもいいことだが、彼らは必ず「相手に迷惑じゃん」と答える。彼らのうち幾人かは、「もうそんな年じゃないしな」「迷惑かけてもいいっていうならできるけどさ」と言うかもしれないが、これは言い方を工夫しているだけで、やっぱり出来ないものは出来ないのである。まだ「怖くてできん」と言う男のほうが見込みがあるだろう。ごまかさずに本質を見抜いているからだ。
誰かに「敵」として向き合い、その面前に胸を晒すのは勇気のいることなのである。緊張感もあるしリスクもある。迷惑はかけないので、なんてのもすでに最悪のタイプの談合だ。敵がアプローチしてくるのに迷惑でないなんてことはありえない。特に男なんてものは、結局いつでも女を抱きたがっているのであるから、存在するだけで女にとっては迷惑なものである。エレベーターで二人きりになるだけで女にしてみれば迷惑だ。迷惑をかけずに生きようとしたらもう引きこもりしかない。
女の側も、この迷惑にはウンザリしながら、でも彼女らはヤワではないので、まあしょうがないでしょうと諦めてくれている。ただ、ナンパするならするで、気分のいい、ちゃんとしたナンパをしてくれ、とだけ切望している。間違っても頭を下げて擦り寄るような、それでいてしつこいというようなナンパだけはやめてくれと思っている。堂々とくるなら、それなりに受けて立つからと。
ただしこれも、やはり疲れていない女性、怖がりでない女性だけに限定される。そのあたりも見極められずにナンパしてくるような男は、やはり外道というべきだろう。
「ナンパ好意を法律で禁止してほしい」
「ナンパする男とかマジ考えられない。迷惑考えろっつーの」
「あたしが男だったらもっと格好いいナンパするけどな。ナンパって楽しいと思う」
「ナンパはたしかに迷惑だけど、自分の彼氏がナンパもできないような男だったらイヤだな」
これらのコメントの中で、女として元気なやつはどれか。引き続き、ナンパが迷惑な行為であることには変わりない。けれども、迷惑なんだよと言われてシュンとなるような男を女は決して認めない。
男と女は、互いに「敵」なのだ。「お敵さん」である。ただしそれは、対立や衝突や不毛なケンカと結びついてあるものではない。憎しみや嫌悪とも結びついてはいない。むしろ敵だからこそ、いかに対立や衝突に至らず、ぶつかりあいながらも、互いに尊敬と実りを残せる関係になるか、ということに器量が問われるのだ。
これは難しいことである。だから誰も、なかなか天沢聖司と月島雫のようなことは体験できない。
「試してくれる人がいないから、自分でもわかんない」
「週末、連休だ、愉快な俺とお出かけしようぜ」
あなたがそう誘われたとする。あなたが疲れていると、その返答は、
「はい、まあ、わかりました。いいですよ」
「はぁ、いいですけど。何しに行くんですか」
というふうになる。あるいは断るにしても、
「あ、ちょっと、すいません。用事あるんで」
「ごめんなさい、彼氏いるんで……言いませんでしたっけ」
というふうになる。
これらは、何が間違っているというのでもない。ただ、このどこに重大な何かを見るかというと、これはあなたの側が<<関係性を拒絶している>>ということである。たとえ誘いを受けたとしてもそうなのだ。誘いを受けているのに関係性は拒絶しているのである。
彼は男らしく、女の敵らしく、擦り寄りもせず弱みも見せず、実は工夫を凝らして誘いかけている。助平心も単なる親和の求めも素直に見せて、あなたの前に胸を晒しにきている。無防備だ。敵の前に出るのだから、もし断られても傷つくって筋合いではないだろ、と腹を据えている。
だがあなたのほうは、彼のほうに向き直るでもなく、アンサーだけを回答している。イメージされるものは、無防備とはとてもいえないものだ。
このようなやり方の、何が悪いのだとは、倫理道徳的には言えない。そもそも倫理道徳の中に恋の項目はないから空論ではあるけれども。ただそのやり方は、関係性の拒絶という方法である、ということだけ指摘しえよう。
現代においてはむしろ、この方法こそが最善で有益だと、推奨されてさえいる。関係性を拒絶しろ、と。そうすれば敵と向き合うリスクや緊張感と無縁でいられる。ストレスが削減される。そして、付き合ってメリットのある友人だけ、仲間にして増やしていけばいいと。敵なんて互いに迷惑をかけあうだけだから無関係なのがよろしいというわけだ。その結果、草食系と言われるような、女の敵になりえない男が増えた。そうでもしないと、関係性を拒絶されるばかりだからだ。
肉食系とされている男性だって、本当のところで女の敵になっているような人は、今はほとんどいないのではなかろうか。犯罪者を除いては。
戦後11年、経済白書に「もはや戦後ではない」の名句が載った年、日活から映画「狂った果実」が公開された。石原裕次郎をスターダムにのし上げた、実質のデビュー作である。この作品の冒頭は鮮烈である。
裕次郎と、ヒロイン北原三枝が街角ですれ違うのだ。裕次郎が、女を引っ掛けるような目を向けてくるのを、北原は一旦は受け取るものの、すぐ冷たくフンと鼻で笑うようにしてあしらう。すると、裕次郎が北原をとっ捕まえ、そのままいきなり唇を奪ってしまうのだ。北原は驚いて、裕次郎の頬をバシーンと強く張りとばす。北原は息を乱し、なんてことすんのよ! という驚き怒り呆れ果てた顔つきをするのだ。
ところがその直後、北原の表情が妖艶に変化する。こわばった驚きの表情に、ふと不敵な心が差したかと見えると、その表情が一気に、隠しきれぬ好奇と感激の女の顔に変わるのだ。――こういう男を待っていたのよ、という無言の歓喜が圧倒的に伝わってくるのである。
近年においてメディアの性描写が過激になったと思われているがそれは誤解だ。性描写は、だらしなく、ひたすら尾篭に、あるいは陰残になっただけで、過激にはなっていない。裕次郎と北原のキスシーンのほうがよほど過激だ。これを肉食系の原型に据えてしまったら、今ある誰を肉食系と呼べるだろう。この作中の裕次郎は、まさしく「女の敵」であった。
「週末、連休だ、愉快な俺とお出かけしようぜ」
こんなお調子者など、敵としてごく小さいものだ。こんなものに疲れていたり、怖がっていたりではもう先行きがない。一部の女性からは、この程度の「女の敵」さえいないのよ、と聞かされもするが、そのことは今は置いておくとして……
もっとも素直で、まぶしいエネルギーに満ちている女は、男のほうへ向き直って、
「……はい!」
あるいは、
「……うん! いこう! ありがと!」
と答える。誘った側がウッと気圧されるような生命力を放って。なにしろ声の響きのよさ、伸びやかさが違う。二人は互いに敵であった男女だが、ひとまず男のほうが負けたのである。男はこの週末に、その雪辱をしなくてはならない。(まず勝てないが)
自身がそういうキャラクターでなかったり、あるいは、敵の敵っぷりが弱すぎて不甲斐ないと感じるときは、本能的に思いつくふうにして、このような言い方がありうる。
「うん! いいね。誰といく?」
こう言われると、男のほうはゲッとなる。からかいというわけではないが、女のほうから、さあどうする、どう切り返す? という煽りが仕掛けられている。
男のほうが、女の敵であるも華奢だったり、あるいは力量不足ですぐにでもギブアップしてしまうようなら、ここでシュンとして暗くなってしまう。そして内心で、「そういうことじゃないだろ、察してくれよ。っていうか、わざとか。はぁ」と落ちぶれてしまう。
こういう男は、骨があれば帰宅してから猛省し、なぜ俺はあそこで挫けてしまったんだ、と顔を真っ赤にするのだが、この時点ではさしあたりギブアップであった。再戦の機会はあるかどうかわからない。
男の側がもう少し優秀な敵であれば、このように返してくることがありえる。
「このプランは二名様専用だ」
こういうやり取りはいくらでもありうる。
「週末、連休だ、愉快な俺とお出かけしようぜ」
「うん! いいね。誰といく?」
「このプランは二名様専用だ」
「スケールが小さいなあ」
「ウィンブルドンのシングルスだって二名専用だ」
「いいよ、行くけど、なぜわたしを?」
「人並みにデートとか告白とかしたいから」
「わかる。でもそういうときに限って、いい雰囲気にならないんだよね」
「そんときは卑怯にメールで告白するんだ」
「女のほうが先に告白するかもよ?」
「思えばオレの人生は告白されてばかりだったよ」
「でもわたしって素直じゃないタイプだからね」
「強引な誘い方のほうが好きだった?」
「試してくれる人がいないから、自分でもわかんない」
あるいは断る場合でも。
「週末、連休だ、愉快な俺とお出かけしようぜ」
「あ、ごめん、愉快なわたしには先約があって」
「せっかくのチャンスを気の毒に」
「チャンスはまた掴めるもの。自分次第!」
「確かに。俺もまたチャンスを掴みにくるからよろしく」
「うん。そういう態度は偉いと思う」
本当に疲れている人は、これらのやりとりを聞いただけで疲れが増したはず。「なんなの? OKならOKで、NOならNOで、はっきり言えばいいじゃん。こんなの時間の無駄っていうか、ウザいだけじゃない?」というふうになるかもしれない。けれども、これを無駄だと切り捨ててしまっては、デートに行ってからもすることがなくなってしまう。付き合うなら付き合えばよし、フるならフッてしまえばよし、ということしか残らないからだ。
男女が対等に、敵として向き合い、ぶつけあいながら、対立しない。お互いに認め合うところで出てきて、実りが起こったなんて、意味があるかといえば、ないのだ。その文脈が続いていくと、恋あいにも意味がないということになり、ただ厳正な契約とその履行としての結婚だけが真実、そうでなければ全部ウソ、というふうになっていく。人間は気持ちを弱らせると曖昧なことに耐えられなくなり、二元論で結論を急ぐようになる。これは心療内科のレポートにも常識のように書いてある。
けれども僕の知る限り、それを無意味だと思うことがあったとしても、それは実際に戦っていないからだ。戦いの中に我が身を晒したときに、そのときにのみ理解しえる自分の奥底からの声がある。
「負けられない」だ。この声が、向き合う二人に火をつけている。二人は無意味にふざけているようで、実は内側から燃え始めているのだ。男女が敵だとして戦いそのものに意味はない。そこに起こってくる正体不明の、「負けられない」に意味があるのだ。
あなたはとっさに「殺される」と思った
「敵」という関係性の清潔さについて。
たとえば高校生であるあなたが、ちょっと不良やギャルに憧れて、またそういう友達もできて、髪の毛を金色に染めるとする。あなたがそれを気に入っているところに、父親がやってきて、「なんだお前、その頭は」と叱ったとする。あなたはそのとき、そういう気分になっていることもあり、「うっせーな」と思うだろう。さすがに口には出さなくても、「こんなときだけ父親ぶんじゃねーよ」と思うだろう。あなたが口に出すところはせいぜい、いかにも不機嫌に、話を打ち切りたいという調子で、
「いいじゃん別に。やることやってればさあ。本人の自由だし、誰でもやってることでしょ。就職するときはどうせ元に戻すんだから」
というところか。父親はきっとため息をついて、「オレはお前のためを思って、言ってるんだぞ」とこぼして去っていくかもしれない。あなたは携帯電話から、メールやツイッターで「ウチの親まじうざいw」と綴るだろうか。
こうしてあなたが、いっときの非行を楽しんでいるときに、同じような非行仲間から、お前髪色戻せよ、みたいなことを言われる。えーマジ何でー? 似合ってんしょ? と答える。が、彼はこのときだけ珍しく、似合ってねーよ、と強く言う。声にドスが利いていて、なぜか忘れられない一言になる。けれども、この時点であなたはさして気にしていない。意外にあいつ言うね、ぐらいに思っている。
それからも、からかい半分で、しかしどこか本気の気配で、お前髪戻せって、と繰り返し言われる。髪色戻したら俺の女にしてやっから、とも言われる。「遠慮するわw」とあなたは冗談めかしてかわしているが、あるときついに、
「ねぇ、ちょっとマジ何なの? しつこすぎるんですけど?」
と、いわゆるキレ気味に言う。険悪な空気になるが、彼は静まり返ったまま、お前は何もわかってないんじゃ、とこぼして去る。あなたのほうはワケがわからない。何なの彼? 病んでるんですか? と仲間内で笑いの種にするかもしれない。
ところがあるとき、彼からメールで呼び出される。あなたはそのとき友人と一緒にいたが、チョーうざいと言いながら、さっさと済ませてくるといって、一人で出かける。彼は近くの公園で待っていたのだが――
あなたは、エッ!? と声を出して立ち止まった。彼自身、脱色髪にパーマを当てていたものが、すっかり丸刈りにされている。
「何、それ、どうしたの?」
あなたはいつもの調子で絡もうとしたが、
「お前、髪色戻せや」
と彼は一方的に答えた。
まさか、わたしにそれをさせるために、丸刈りにしてしまったの? それが伝わってくると、あなたはさすがに動揺せざるをえなかった。
なんでそこまでするの?
それでもなるべく、いつもの調子を保って、マジどうしたの――と言おうとしたところで、突然、彼の強い手が伸びてきた。彼は信じられないような乱暴さで、あなたの襟首をガツンと掴んだ。ショックで眼の奥に火花が散った。
「オレのことなんかどうでもええんじゃ! 髪色戻せいうたら、戻せいうとんじゃ!」
彼の気勢があまりに強く、あなたはとっさに「殺される」と思った。圧されて声も出ない、抵抗もできない、という状態をあなたは初めて知った。
「もともとお前がそうして遊んでるのが似合わんのんじゃ! 今すぐやめてまえ!」
あなたはまるで強盗に拳銃を突きつけられた市民のように、小さく頷くのを繰り返すしかできなかった。彼があなたを投げ捨てるように突き放すと、肝の冷えたあなたよろけた。
「だってさあ」
あなたは震える声で、いつもの調子でそう言おうとした。が、何が「だってさあ」なのか自分でもわからなかった。声の震えも身体の震えも止まらなかった。彼が髪色を戻せと言うのに、いやだ、と反発することができない。
怖かった。膝のガクガク震えるのが恐怖を煽り、怖い、怖いよ、ということしか出てこなかった。腹が立つのに、怖かった。そうなるとパニックになって、ウー、ウーと唸りだして、そのまま顔をぐちゃぐちゃにして壊れたように泣き出してしまった。彼の顔を見ると、怖いよ、怖いよ、という声が内側に起こって止まらない。けれども目をそらすことはできなかった。
だってさあ、の続きが出てこない。続きがある、すごくある、ものすごくある、とわかっているのに、それが何なのかわからない。すごく言ってやりたいのに何が言いたいのかわからない。泣いておなかが引きつって、やはりウーウー唸ることしかできない。だってさあ、だってさあ、のところで寸止めになる。
「お前、ええ顔してるのに、もったいないやろが」
彼の指先が、今度はやさしくあなたの顎をつまんだ。必死にこらえられているが、彼の声も、怒りか哀しみかに震えていた。彼の眼にも必死にこらえられた涙が浮かんでいた。
なんで泣いてんのよ。なんであんたが泣くのよ。そう思うとわけがわからなくなった。わかるけど、なんで、なんであんたが泣いてるの。その問答が循環すると、もう息が苦しくなって、あなたは本当に自分が壊れてしまうのではないかと思った。自分が彼を傷つけているような気もした。
「ぐっ、ごごめんなさい」
なぜか、ごめんなさいという言葉が口から出た。そんなことを言うつもりではなかったのになぜか出た。すると、何か詰め物が抜けたように、だってさあ、の続きが出た。
「だ、だって、さびしかっ、たかっ、ら」
どこかで置き忘れてきたような、溜め込んだままほったらかしにしてきた、さびしさ、それも得体の知れないほど巨大な寂しさが、一気に取り戻されてあなたの心に奔騰した。強烈で明らかな、腹痛ほどにもはっきりと感じ取られる、冷えた鉛のように内側に居座ってあるさびしさ。どこにどうやって、こんなものを隠してあったのか。さびしかったから、だって、さあ、さびしかったから、さびしかったから、とあなたの心は声も出ずに咆え続ける。
「そんなもん、わかっとるわ!」
彼はまた乱暴に言い、乱暴に、今度はあなたを抱きしめた。無慈悲なまでの力で、あなたの身体が軋むほど抱きしめられた。彼の身体は震えている。彼もいま嗚咽を上げて、恥も外聞もなくはっきり泣いている。
なんであんたが泣くの。なんでそんなに悲しそうに泣くの。やめてよ、泣き止んでよ。かわいそうだよ。なんであんたは、わたしと一緒に悲しいのよ。
あなたは彼の両腕に縛り付けられたような拘束の中で、ついにワーともアーともつかないような、絶叫のような哀号をした。意志から離れた口があんぐりと、化け物のように開いてふさがらず、全身がひきつって、はらわたまで吐き出さんばかりに泣き続けた。どれだけ苦しくても泣き止むことはできなかった。溜め込んできたさびしさを全て泣き切るには、果てしなく時間が掛かりそうだった。それほど耐え難いさびしさが心を深く蝕んでいた。苦しい、助けて、と救いを求めたかったが、心も身体もいまやそれを許してくれない。すべてが自動的に強制的にはたらいて、最後までひたすら泣くことを強いられるのみだった。何かの禁断症状で、最悪を極めたらこうなるかというような苦しさだった……
この話は、やや変形してあるものの、ある方から借りた実話である。この方は今もそのときの彼と一緒に暮らしている。あまり個人的なことは明かせないが、今たくましく生きられている。彼女は、あの人がわたしをまともにしてくれた、救われたんだよね、と語っていた。
なぜ、彼女の父親が彼女を叱ったときには、それは救いとならなかったのか。父親は彼女の味方であったはず。父が娘のことを思って苦言したというのも決して嘘ではなかっただろう。心配していたのも嘘ではなかろうし、娘への愛情はかけがえのないものとして確かにあったはず。
けれども、違うのだ。それは味方からのものであるから。いくら思いが強くとも、味方からのそれに「戦い」は起きない。父は娘に、敵になるまではできなかった。
一方「彼」は、彼女の敵でありつづけた。わかってくれよとか、お前のためを思ってとか、一度も言わなかった。彼はひたすら、<<別個、対等、関係性>>を保ち、敵のまま彼女に勝負を挑んだのである。
そのことが彼を清潔にした。
父親が娘の非行を叱るのには理由がある。その行為は「正しい」ことになってしまう。父親が正しくて娘が悪い。このような前提がつくので、すでに<<対等>>の勝負にならない。正当性を盾にできる分、いつまでも父親は卑怯で不潔だ。正当性の立場によって、どこまでも「お説教」の不潔さをまぬがれない。
だが「彼」が彼女の非行を叱るのには正当性はない。正当性がないから、純粋に彼の声だけしかそこにない。「髪色を戻せ」。そんなことを言われる筋合いはないから、「なんでよ」と彼女は反発する。そこに<<対等>>のぶつかりあいが生じる。彼のぶつけてくるエネルギーに呼応して、彼女の側もエネルギーを起こすのだ。そして彼が全身全霊できたものだから、彼女も全身全霊で――だってさあ、と――打ち返すしかなかった。そうして全身全霊を取り出したから、彼女の奥底に隠れていた心の哀号まで取り出されたのだ。
痛そう……と顔をしかめたのと反対に、途中で何か可笑しくなってきて、ゲラゲラ笑う、可笑しくて顔がゆがむ
僕の考案した、コミュニケートの実験法がある。
まず、友人と二人で横並びになる。そしてお互いの背中を平手で叩き合う、という約束をする。そしてこれは、実験であるから、途中で乱暴に叩くこともする、とも前もって言っておく。たいていの場合は面白がって、ふんふんと乗っかってくれるだろう。
そうしておいてから、背中をトントンと叩くと、トントンと叩き返してくる。「同じ強さで」とは言っていないのだが、必ず同じ強さで返ってくる。単純なミラーリングでもあるが、これは先ほどからの<<対等>>ということにもつながってくる。
トントンをバシバシにすると、やはりバシバシと返ってくる。ここから、大変勇気の要ることだが、次はそれを「乱暴」に叩く。人に向けて、「えいっ!」と。明らかに、日常的なボディタッチのそれから逸脱した、それは痛いでしょう、というような強さでバン! と叩く。
ここでは、それが「乱暴」であることが重要だ。というのは、乱暴であってこそ、相手の日常的な予想を裏切れるからである。それでバン! とやると、相手は何も言わないが、痛っ、と反射的に思う。相手はほんのわずかであるが、それに腹を立てるのである。乱暴にやる、と前もって言っていたのにも関わらずだ。それは、この瞬間にあるチャンネルが切り替わるからであって、チャンネルが切り替わるまではこのことがわからないからである。
切り替わるチャンネルは、名づけるなら<<別個>>だ。互いが別個の存在であるということ。
互いが別個の存在であるなんて、理屈では誰でもわかっている。けれども感覚としては本当にはわかっていないのだ。ここに「乱暴」な一撃が入ってこそ、その別個という感覚が真に立ち上がる。その乱暴さは予測を裏切っている。予測にないことをされたということは、相手には自分と別個の意志があるということだ、と身体的に思い出すのだ。
向こうは乱暴の一撃を受けて、ほんのわずか腹を立てる。そしてチャンネルを切り替えて、同じ程度の――対等の――強さで、やはりバン! と返してくる。それを食らったあなたは、あらためてその乱暴の衝撃にびっくりするはずだ。やはりほんの少し腹を立てるだろう。わずかな恐怖が起こるかもしれない。「ほほーう」と思うかもしれないし、「来たねえ、意外と」と腹の底を燃やすかもしれない。
あなたはまた新しくバン! とやる。きっとそれは、先ほどのそれよりわずかに強い。あなたはそれを打ち込むとき、「これならどう!?」と心中につぶやいている。打ち込むだけでヒヤリとするような乱暴さで、あなたはそれが確かに相手に「伝わった」という感触を得る。
そして次のバンがこちらに返ってくる。返ってくるのだが、あなたは平然としているふりをして内心では実はものすごくドキドキしている。このときすでに、互いが<<別個>>の存在であることが身体的に理解されている。だからひょっとすると、とんでもない強さの一撃がくるかもしれない。本当にくるかもしれないのだ。だからドキドキせざるを得ない。
そして、こうして相手の一撃をドキドキして待っているこのとき、あなたと彼との間には強い関係性が生じているのだ。関係性がなければドキドキしない。次の一撃が来るという関係性はたいへん具体的で明らかである。
あなたはドキドキして、少し怖がりもするものの、平然としたふりをしている。なぜ平然としたフリをするか? それはすでに隣の人間が「敵」だからだ。敵とやりとりをするのに、こちらの内心を見透かされるわけにはいかない。だからヘッチャラさという顔をしている。痛そうな顔を見せてしまったら、相手は遠慮してしまうだろう。それは手心を求めて談合を申し出ているわけで、それはもう勝負を降りて負けたということである。それがなぜか直感的にわかるから、平然としたフリを自然とする。
「負けられない」がすでに始まっているのだ。そうしてあなたは次の一撃を待ちながら、どれだけキツいやつが来ても、平然と、同等の力で打ち返してやろう、とすでに心の用意を決めている。本能に備わった<<対等>>の機能が、身体の奥に火をつけるようにして……
このような実験があるとして、気の弱い女の子は、痛そう、イヤだ、相手が痛いことのほうがかわいそう、わたしたぶん叩けないと思います、と想像するかもしれない。それは人それぞれ、どういう反応になるのかはわからない。
けれども多くの場合、痛そう……と顔をしかめたのと反対に、途中で何か可笑しくなってきて、ゲラゲラ笑ってしょうがない、可笑しくて顔がゆがむ、という具合になる。何が可笑しいのかわからないが、可笑しくてたまらなくなるのだ。別個・対等・関係性、そんなことは意識しなくていいけれど、お互いに一緒になって、やりあっている、という馬鹿馬鹿しいほどの感触がある。こういうことをやらせると、女の子のほうが根性があったりして、「お前どんだけ負けずぎらいやねん」と、こちらが逃げ出してしまうことも多い。そういうとき女の子は、痛みに耐えて勝利したことに、フッフッフと不敵に笑っている。自慢の手のひらを赤くして開いたまま。
これが、本当の意味でのコミュニケート、その原型の実験である。どこにも載っていない実験法だが、頭から馬鹿馬鹿しいと決めてかからず、友人とやってみることをぜひ勧める。誰かが「乱暴」の一撃を放ったところから、別の現象が必ず起こり始める。
この原型実験で、もし現代に特徴的な風潮が出現したらどうなるか。先に述べた<<関係性の拒絶>>であれば、打ち込まれた乱暴の一撃を、あえて強引に無視することになる。バン! と食らって、身体が本来の反応を起こしているのに、馬鹿馬鹿しいから、と意識でねじ伏せてこちらはトントンと返す。
あるいは乱暴なものを食らってから、「無理です……いやちょっと、本当に無理です」と、実験そのものを離脱してしまう。あくまで実験であるから、そうなったら無理強いするのはとんでもない話である。そうして離脱してしまうものはしょうがない。このしょうがなさは、現代全体のしょうがなさにそのまま重なってあるものだ。
また逆に、関係性の拒絶ということから、乱暴な一撃を食らったときにただ腹を立て、ヒステリーのようにして「暴力」を振るってくる人もいるかもしれない。あるいは、「順番に叩き合うとは言ってないよね?」と、ひたすら殴りつけてくるかもしれない。もちろんそういうときは実験を中止して彼を諌めるしかない。諌めるもなにも、ほったらかして逃げるしかないと思うが、もしそんなものが出現したら、それが彼の真実ということでもある。
やってみるとわかるが、乱暴の一撃が入ったところからは、次の一撃を待つのが怖いものだ。相当な緊張感がある上に、平然としたフリをしなくてはならない。これは疲れ果てている人や、怖がりの人、あまりに根本が鍛えられていない人などには、ついに耐えられないことがある。その結果として激発が起こる。ケンカ・諍いになってしまうのだ。
あなたは背中をバン! とやられて、平然としたフリを続けること。「素」でありつづけること。そのときあなたは、「素」と「敵」とを重ねて、「素敵」ということを自分で実演している。
次には、バン! と一撃を食らったら、良い一撃ですね、とまるで向こうの味方のように微笑むこと。あなたはそのとき、「不敵」ということを自分で実演している。
敵と敵が出会うのだ。そして敵同士、ぶつけあう、やりあう。それで一方が下劣だったり、逃げ出したりしたら、解散。しかし互いが素でありつづけられたら、「素敵」。
人に向かう覚悟はよろしいか。その倍ほどにも、人に向かわれる覚悟はよろしいか
本当のコミュニケート、清潔なコミュニケート、恋仲に至りうるコミュニケートというのは、互いが敵同士であればこそ起こる。敵同士だからこそ勝負が起こる。「負けられない」という声が起こる。何かを頑張るのではなく、ただ「負けられない」という声がある。現象の中心にある機能はあれこれ考える思考のそれではない。バン! ときたらバン! と返す、返してしまうという、自分に自然に備わった<<対等>>の機能である。
あなたが確実に感じていなければいけないことはただ一つ。自分の内に起こる「負けられない」の声のみだ。いかなるショックにも――人から何かを受けるというのはショックだから――「素」のままでいろ。素のまま全て受けて立て。そして素のままショックを与え返せ。「負けられない」のだ。
この機能は、敵とやりあう中でしかはたらかない。だから敵とやりあうことでしか鍛えることもできない。
小さなこととしては、お調子者に口説かれたときなど。憎まれ口の叩きあいにしたって、「負けられない」の声は起こる。友達同士でも良い関係ならそういうやりとりはあるだろう。そういう友達はとても貴重だ。「負けられない」という声と共に、やるなあ、と相手を尊敬する声があったら、その友人は本当の友人だ。あなたは彼らによって鍛えられている。ショックを与え合う中での戦いを、高めあいを、教えたのは彼らだ。あなたが未来に触れたり掴んだりする幸せの、その半分は友人らの功績である。
でもずっと、冗談口を磨くばかりではいられないので、より大きな敵、より大きな戦いにぶつかっていくより、あなたの本質が磨かれる方法はない。大きなエネルギーをぶつけられ、それに対等たらんとする本能でしかあなたは鍛えられない。
互いに「敵」であること。別個であり、対等であり、関係性が濃密にあること。ショックを与え合ってなお「素」で踏みとどまり続けること。これは本当は男女に限ったことではない。漫才師がそうだといったように、舞台と観客の関係も敵だ。お店なら売り手と買い手の関係も敵だ。そして今こうして、僕が書いている、あなたが読んでいるという、書き手と読み手の関係も敵だ。そしてそれぞれに、負けられないと思っていて、不毛なケンカにはしたくなくて、「やるなあ」という声が残ることを祈っている。何か腹の底が可笑しくなってきて、笑うのをこらえられない、たくましい心が立ち上がって、いいよ何でもかかってこいよ、となっている。それはエネルギーが湧いているということだ。敵同士ならではの。
もし互いの関係が「敵」になりきれなかったら、それは身内だ。舞台と観客で言えば子供のピアノ発表会になってしまう。別個と対等どころか、癒着と庇護になってしまう。子供のピアノ発表会なら、じっさい子供であって身内であるのだからそれでいい。けれども本当のライブ会場が発表会になってしまったらそれは堕落だ。
そして現代は、残念ながら、その堕落した発表会に、拍手を求められる時代だ。ぶつけあい、互いにエネルギーを起こしあうことなど、ほとんどのところで消えうせてしまった。
今拡大してあるのは、癒着と庇護、そして正反対の、関係性の拒絶のみである。
ショックを与えるような行為などほとんど犯罪扱いだ。
お笑いコンビ・ダウンタウンの浜田雅功が、後輩芸人をビンタする。それも観ているこちらがヒヤリとするほどの強さでバシーンと。人間の弱ったオバサマなどは目をしかめてテレビ局にクレームを入れるのかもしれない。けれども彼によって後輩芸人が強力に鍛えられていないと誰が言えるか。彼が亡くなったとき、ビンタされてきた後輩らこそが泣いて惜しむのではなかろうか?
あれほどの強さで、公衆の面前で、人の頬を張り飛ばすことに、どれだけ勇気がいるものか。先のナンパの話と同じ、どう言い方を工夫しても、できない奴には結局できないのである。
あれはビンタされた後輩をして、「痛かろう」というのが面白いのではないのだ。強烈なエネルギーをぶつけられて、強制的に向き合わされ、それに呼応するエネルギーが湧くことが面白いのである。「暴力はやめてくださいよ」という言葉だけでは何も面白くない。後輩がバシーンと叩かれて、明らかにショックを受けている、それに呼応したエネルギーが湧いてきて、それが彼の個性と綯い交ぜになり、「暴力はやめてくださいよ」と愚痴めいて結実するから面白いのだ。
浜田氏がああしてバシーンと叩くのは、「これだけのエネルギーでこい!」と言っているのだ。それを「受けて立つから!」と浜田氏は言っているのである。舞台の上で。もし本当に後輩をこづきまわすのが好きだったら、楽屋に戻ってからもっと陰湿にやるにきまっている。そうではなく、バシーンとエネルギーを示して、これでこい、「遠慮すんな」と言っている。
まあ、浜田氏は、そうしてバシーンとやって向こうがエッとなる、そのこと自体が面白くてしょうがないところもあるんだろうけど……
お互いに、迷惑を掛けないように、やさしくやさしく、と。お互いに今同じ場所にいるわけだけれど、<<無関係をマナーにして>>、お互いショックを与えないように、お互いのエネルギーに付き合わないように。さあそれでは、自由に話しましょう、意見を交換しましょう! こんなことに何の意味があるか。そんなことをしたいだけなら、オンラインでショートテキストのやりとりをするだけでいい。それで十分だしそのほうが合理的だ。
あなたには安心感だけあって本当の友達は一人もいないのである。たとえば、僕がここにそう書いたとして、少し前なら読み手の側――敵――は、「ほほー、言ってくれんじゃん」と、受けて立つところがあった。腹の底を燃やすところがあった。それが読むという行為であったし、観るという行為だった。その向こうに立つ人間のエネルギーと呼応してやろう、かかってこい、という構えだったのだ。
戦っていたのだなあ、あのときは、と思うのである。
ところが数年が経って現在は、「はぁ? 何いってんのコイツ。うざw」としか受け取られなくなった。それが読むという行為であり、観るという行為となった。そうなりつつある、というのでなく、すでにそうなったのだ。
これは今のところどうしようもない。マスメディアをはじめ、表現者でなくとも、発信者の側が、<<無関係がマナー>>、そういうスタンスで観てくれ、と望んでいるのだからどうしようもない。
驚いたことだが、表現者の側が今、受け手にショックを与えないものをこそと、苦心して作っているのだ。受け手にショックを与えてはいけない。受け手が安心感の中で喜んで受けられる、ショック風味、のものしか作ってはいけない。そして、快適さ、何かふんわり気持ちの良いものを、ギッシリ詰め込めばよい。こうして今さまざまなメディア作品が作られている。またそれらの出来が悪いとは一概に言えない。
表現する側とそれを受け取る側は、いまやすっかり仲良しである。味方だ。ツイッターで製作者のつぶやきがこぼれてくるし、握手会イベントはあるし、○○クンはすごく頑張った! 演技力ある! という感触で作品を観ている。子供のピアノ発表会と同じであるから、頑張った、ということへの思い入れが一番重要なのである。舞台の上で誰かが泣いてしまったら、それが一番のドラマなのである。作中世界が大事なのではなく、例えばヨン様が作中で頑張っていることにキュンとくるのだ。
まちがっても、ロバート・デニーロくんはすごく頑張った! とか、ピーター・フォークくんすごい! 演技力ある! とかは誰も言わないだろう。それは彼らが表現者として受け手に敵として立ち続けてあるからである。
人間の能力は敵に向けて解放される。当たり前だ。敵でなければそこに能力を駆使する理由がないのである。相手のことをよく見て、よく聞き、皮膚感覚を鋭敏にして、向き合わねばならないのは、彼が敵であって油断できないからである。これが味方であったら何も鋭敏になる必要はなく、目を擦って居眠りしても何のリスクもないのだ。
<<関係性を拒絶する>>という方法を採っても同じこと。無関係イコール敵がいないのであるから、能力が解放されるべき必要性がない。街中でも自室でも成人式の式場でも同じだ。だから多くの女性がまるで自宅のようにのびやかに電車の中でお化粧をしている。それは彼女にマナーがないのではなく、彼女は自宅のマナーでそこにいるだけなのだ。
そのほかにも色々ある。無数にある。日本だけなのか、他の国でもそういう傾向なのか、ということも気になる。
けれども、あまり言っていてもしょうがない。さしあたり僕は自身に問い続けるしかない。小さな声でいいから、「戦ってるか?」と。負けられない、という声が聞こえているかと。その声だけあればそれでいい。
色々あって、ありすぎるのだが、それを含めてなお、やはり「負けられない」なのだ。人に向かう覚悟はよろしいか。その倍ほどにも、人に向かわれる覚悟はよろしいか。
[了]