No.176 100年を超えて佳い女だから
人の趣味はさまざまだけれど、感性、ということにはもうちょっとある。単に人の好き好きとは言えない。そんなこと言い出したら老若男女の全てがバーンスタインと同じ名指揮者となってしまうので、感性というのにはどうも高い低いというものがあると認めざるをえない。
若い女の子がずっとV系を聴いていると心配になる。それが好きなのだからしょうがないし、それ以外にピンとくるものがないのだからしょうがないが、そればっかりではないよと僕としては言いたくなる。ジジイのように物言うことが許されるなら、ちょっとは古典も聴けるようになりなさいよ、と僕は正直言いたいのだ。それは趣味の問題ではなく、感性の問題として。
音楽でも映画でも、時代を飛び越えて存在するものがある。名曲だの名盤だの言われるが、そのような呼称でさえ物足りないぐらい。なぜそれらの名曲・名盤は時代を飛び越えてあるのか。時代に揉み消されずにありつづけられたのかというと、一言でいえば普遍性ということになる。詳しく言うと、それまでは明らかでなかったある普遍の表現を、彼らが発見して、新しく世に知らしめて広げたから、ということになるのだが、ひとまずは普遍性ということで諒解してもらえればそれでいい。若い人に向けて普遍性ということを説明すると、辞書にあるとおり「すべての物事に通じる性質」のことだ。過去にも未来にも通用する何かがあったから、それは時代を飛び越えて存在しつづけた。普遍性においては、過去も未来も、世界の東西も関係ないのである。どこでもいつでも通用する。それが普遍性だ。
たとえば、シェイクスピアの戯曲なんかは普遍性がある。もう500年ぐらい前のものなのに、現代でも当然通用する。あるいは、子供のかわいらしさなんてのも普遍性だ。いつの時代にかかわらず子供はかわいかったろう。なぜかわいいかは誰にもわからないままに。世界の東西も関係なく、どこの赤ちゃんをどこの時代のどこの国へ持っていっても、かわいいものはかわいい。
逆に普遍性のないものといえば、たとえば日本バブル時代のファッション。今ではまるで当人らが黒歴史のように言うけれど、眉毛を太くして肩パッドを入れて、ワンレン・ボディコン、当時はそれが可愛いとされた。時代が過ぎたらそれは可愛いどころか、冗談のように笑えるものになってしまった。普遍性がなかったのである。もともとファッションという語は流行を指す語ではあるけれど。
人は誰しも、今このときの時代を生きているから、この時代のものに触れて、愛したり楽しんだりすることはよい。よいどころか、積極的にそうすべきだ。けれどもそれとは別に、人の世には普遍性を目指すものがあり、また普遍性に到達したものもあるのだ。たしか昨年のクリスマス・イブだったか、マイケルジャクソンの遺作(?)となったThis
is itがテレビ放映されたけれど、あの中で改めて歌われるビリー・ジーンなんかは、もう二十八年前の歌曲なのだ。けれども今もって、まったく古いとは感じられない。古いとか新しいとか、ちょっとそういう尺度を越えて存在している。それよりは10年前の、当時流行ったポップスを流すほうが、うわぁ古いな、懐かしいな、という感興が起こるだろう。かつて時代と結びついてあったそれは、現在から見ると過去と結びついてあるのだ。
普遍性のあるなしとはそういうことを指している。そしてV系ばっかりを聴いている女の子に、古典がどうたらと言いたくなるのは、普遍性に触れることのあるように、という僕の願いであり差出口なのだった。
僕がビートルズを聴いて、いいなあと思うようになったのはここ数年のことだ。昔はまったくいいとも思わなかった。悪いとはもちろん思わなかったけれど、特に何がいいとも思わなかったのだ。感性が届いていなかったのである。ビートルズにではない。感性が普遍性の何かに届いていなかったのだ。
ビートルズを聴いて、あるときアッとなって、徐々に当たり前のように、いいなあと感じるようになった。そうして聴き入るようになって、僕はまた自分に安心もしたのである。あまり言われないのが不思議だけれど、古典や時代を飛び越えてあるものについて、その良さがわからないとか感じられてこないということは、ちょっとまずいことなのだ。恥ずかしいということもあるけれど、それ以上に感性の問題としてまずい。過去も現在も、世界の東西のどこでもその良さが受け取られるのに、僕にだけわからないということなのだから、一言でいえば僕がアホなのである。僕は各ジャンルの、興味あるなしに関わらず、名人や名作のそれの良さがわからないということがあれば、僕自身として焦りを覚える。それは覚えて当然の焦りだ。
これは趣味の問題ではない。趣味の問題で言えば、僕はやはりビートルズ・ファンではない。その手のファンの人はまったくもって濃厚だから、彼らと僕とが話しても、まったく意気投合はしないだろう。趣味として好むべきというのではなく、その良さがわかったほうがよい、ということなのだ。たとえば自分の彼氏が、何かの偶然で60年もののマッカランを飲んだとして、ウーン素晴らしいですねと言いながら、実はまるでわかっていなかったら悲しいだろう。別に趣味としてスコッチが好きとか、酒に詳しい必要があるわけではない。ただ普遍的に銘品であるそれに触れて、すごい、何かわからんがすごい、と感動できるほうが、そりゃあいいことだし感性が発達していることではあるわけだ。
音楽の趣味なんて人それぞれでしょうと、そんなことはもちろん僕にもわかっている。わかっているが、まあそう反発するほどのことではない。そういう反射的な反発はよくない、それはもう何事につけ我を張るのが習慣になってしまっている。僕が語っているのはただ普遍性についてのみのことで、時代を飛び越えてありうるものに触れ、その良さがわかるようになるといいぜ、ということにすぎないのだから、目くじらを立てるようなことじゃない。
いま流行しているさまざまなものを、熱心に好きでいる人も、それが十年後にはもう残っていないのだろうということは、薄々知ってそれを好きでいる。十年といわず、ともすれば三ヵ月後にも。それは普遍性がないということだが、それに引け目を感じる必要まではないだろう。ただ僕が言いたいのは、一口にたとえば音楽とか歌とかいっても、時代のものと普遍性のものは実は別物だということである。それで、その普遍性のものにまったく感応しないでいくのはもったいないし、ちょっとまずい、ということを言っている。
あなたの感性が普遍性にまったく届かなければ、あなたの感じることは時代と空気に振り回されるのみであって、あなたの恋あいも常にそのとき限りのものになってしまうわけだから。十年といわず、三ヵ月後にはもう消え去っているなんて、そんなことを薄々知りながら恋あいなんてしたくなかろう。
大げさに嘘を言っているつもりは僕にはない。バブル当時には、女性が本気で男の3Kを求めていた。3Kでなきゃイヤ、女のプライドが許さない、なんて言っていた。けれどもバブルが崩壊して一年もすると、一番求めるのはフィーリング、なんてことをまた大真面目に言い出した。フィーリングという言葉も当時流行ったのだ。
今ごろ彼女は婚活とか○○系女子とかをしてるのだろうか。あるいはちょいオタなどか。感性が普遍性にまるきり届かないでいくと、冗談でなくそんなふうになってしまう。
たとえば、ジェームス・ブラウンという名前を出してみる。通称JBだ。数年前に亡くなられて、多くの人が悲嘆に暮れた。JBはよく聴いてますね、なんて人は、若い人にはほとんどいないだろうし、僕も別に熱心に聴いていない。ただこのあたりまでのビッグ・ネームになると、もう何かしら普遍性に到達していると想定するほうが当たっている。もう辞書に載っていそうなぐらいのビッグ・ネームだ。そういうものには、やはり何かの機会に積極的に触れてみるべきなのである。よくわからんし興味もないが、あっち側の(普遍性の側の)歌手らしい。耳を傷めない程度にヴォリュームを大きくして……。これはもう、観光名所のそれに等しい人類の義務みたいなものである。車で一時間ですがナイアガラの滝まで行きますかと言われたら、義務としてイエスと答えねばならない。
著作権の話を差し置けば、今は動画サイトが豊饒なのでとてもありがたい。ジェームス・ブラウン、it's
a man's world。男の世界ということか……と思って聴いてみると、やはりそこにハンパな趣味の歌はない。ものすごい声だ。声量とか表現力とかいう既成用語ではそのパワーは説明できない。声! 声としかいえない声! それはまるで、人間の本当の声とはこのようなものだと、JBによって再定義されるかのようだ。
仮にあなたがJBの声を受け、人間の声ということの再定義を起こしたならば、あなたは声ということひとつについても、すでに普遍性に触れたのである。JBの、声としか呼べない声は、過去と未来、世界の東西、どこにおいても通用する。これが「声」だと。
○○クンのどこか引っかかった歌い方が好き、というのとは違うわけだ。あなたは趣味のことは別にして、人の声とはどういうものかを、時代や文化を超えた普遍性のこととしてすでに知っているのである。そうなったあなたは、引っかかった話し方が印象に残るだけのイケメンにはもう引っかからない女になっている。より本当の声を出せる男を求めるし、そういう男がいたら誰よりも早くその男の価値を発見できるのである。
「桑田佳祐がジョニーBグッド歌ってる!」という連絡を受けた。僕はそれに「当たり前だ」と返した
僕は今でこそよく桑田佳祐を聴くが、彼とサザン・オールスターズの歌曲を聴くようになったのも、今から五年ほど前からだ。尊敬しうる女性がそれを惚れこむようにして聴いていた。話を聞くと、彼女は昔からサザンの歌曲と共に生きてきたというふうなのである。それほどのものがあるのかね、と僕は思った。しかし目の前にいる今の彼女を作ったのはその歌曲群だという事実があるのだ。それで見過ごせなくなって、初めて心を傾けて聴いてみた。サザンといえば、一通り誰でも聴いたことのある曲ばかりである。けれども心を傾けて聴くと、すでにイントロの部分から、何か甘く切ない、はるか遠くのノスタルジックな慕情を刺激する音の流れがある。そこに彼の独特のボーカルが切り込んでくる。僕は海辺に育った者ではないが、聴いているうち、僕はなぜかこのような海辺のありうることを、心のどこか、遺伝子に刻まれてあるかのように知っている、と不思議な感覚になった。僕はロマンチストを気取る柄でもないので、よくある括りつけのイメージとして恋人のたわむれとビーチを結ぶというようなことはしていなかったが、それでも海辺とは何であるか、砂浜とは何であるかの再定義をサザンの歌曲によって起こしたのである。まだその実物を見る前から、茅ヶ崎の浜辺が世界のビーチのモチーフであるかのような感覚を与えられた。僕がそこに得たのは普遍性としてのビーチとそこに起こりうる恋の原像であった。
声真似の芸人がいて、本物と聞き間違っておかしくない品質でそれを歌ってみせたりする。けれどもその中で、ついに桑田佳祐の声を完全にコピーできた人はいない。それは彼の声が技巧や習慣で作られたものではないからだ、と言い得るだろう。桑田佳祐の声を出すには、きっと桑田佳祐という人の純粋個性が必要なのだ。それは何もおかしいことではなく、彼はまったく彼自身の声でしかない声を出した、というだけのことである。彼が「勝手にシンドバッド」という歌曲でメジャーデビューしたとき、聴衆はこぞって、何を歌っているのかわからない、と言った。そして、独特の歌い方をする奴だな、という印象を受けた。あまりにも斬新すぎて、また不遜で不謹慎なパフォーマンスもあって、否定的な見方をする人のほうが多かった。還暦を越えたご年配方に訊いてみればわかるが、彼らにとって桑田佳祐というのは、いまだに「不良者」のような扱いである。そうして否定的な声の渦巻く中、甘く切ない歌の実力を持って彼らをねじ伏せたのが二曲目の「いとしのエリー」であったわけだ。ナイト・クラブで「いとしのエリー」が流れたとき、いかに否定的な見方の者も、そこで甘いチーク・ダンスを踊らないわけにはいかなかった。
そして、独特の歌い方をする奴だな、という見方においても、彼らはほとんど一発で、桑田佳祐という人間の声をその彼の声として覚えてしまったのでもある。桑田佳祐の声を百年前の世界に持っていったとしても、独特の歌い方をする奴だな、と言われて、やはりまた一発でその声を覚えられてしまうのではなかろうか。あるいは百年後の世界に持ち込んでも同じであろう。桑田佳祐の声はどの時代のどの世界に持っていても、桑田佳祐の声だとしか受け取られないように思う。
考えてみれば、独特の声、独特の歌い方だなどと、言うのもおかしい話である。人は本来それぞれの個性を唯一無二として持っているのだから、その者自身の声として純粋に歌えば、誰だって独特の声と独特の歌い方になるに決まっているのだ。ただ我々凡人が、そうまで純粋に自己に帰ることができないというだけで。
僕は桑田佳祐の声に惹かれた。彼が純粋な彼自身として放つ声を受けると、自分はまるで彼のことを直接に、よく知っているという錯覚を起こす。昔から彼とよく会っていたような錯覚を起こす。これは錯覚とも言えないのだが、ここではその話は置いておこう。とにかく僕はその声に惹かれ、その声の持つ力の謎を追った。桑田佳祐は、どういう経緯で桑田佳祐になったのか? それを追跡すると、桑田佳祐は第一に、シンガーとしてボブ・ディランをリスペクトした、ということであった。このことは彼もよく公開で語る。
それで僕は、ボブ・ディランの歌曲をよく聴くようになった。はじめは探求のつもりで触れたそれだが、もちろんすぐに引き込まれていった。それは桑田佳祐の源流とも言えるものであったし、聴き入るうち、確かに源流だ、と納得もさせられたのだ。ボブ・ディランはまるでただ話すような声で歌う。ベルカントの真逆だ。彼について、歌が上手いかどうかということはついに議論できない。上手い下手を言うためには何かしらの尺度がいるけれども、ボブ・ディランを計る尺度の側が存在しない。ボブ・ディランはまさしく、ただ純粋な彼自身に帰って歌うだけの者であった。僕はそこに、確かに桑田佳祐の源流だ、という納得をしたのだ。
桑田佳祐はまた、音楽性についてビートルズから深く影響を受けている。あの世代のロックシンガーとして当然だし、また逆に現代のシンガーがビートルズの影響をまったく受けていないと言い張ることはかなり困難である。もしマイケルジャクソンがいなかったら、今のジャニーズタレントのダンスの形はなかったであろうし、手塚治虫がいなければ今の漫画表現の手法はなかった。ヘヴィ・メタルのロブ・ハルフォードがいなければ、お笑い芸人レイザーラモンHGのハードゲイ・スタイルもなかったのである。いま見慣れてある全てのものは、初めから普遍性のものとして明らかにあったのではなく、過去の天才がその普遍性を明らかにして世に広めたのだ。何しろ明治時代に体育でそれが取り入れられるまで、日本人には「走る」という動作を知らない人が多かったとさえ言われるのだ。とはいえ、ひとまずここではその話ではないので本題に戻ろう。桑田佳祐はビートルズから深い影響を受けているし、それ以上にビートルズを、レノン=マッカートニーを敬愛している。彼が公開番組でビートルズについてを愛しそうに語るのを、聞くのが僕はとても好きだ。
僕がビートルズを聴いて、いいなあと思えるようになったのも、その桑田佳祐の追跡に端を発している。そういえば、丁度これを書いている今日、桑田氏はジョン・レノン命日記念のチャリティコンサートに出演したらしい。
では次に、ビートルズは誰から影響を受けてきたのか、ということにも気になってくると、レノンが黒人らの歌を受けて作った曲というのもあることがわかる。All
I've got to doがそれ。でもその黒人って具体的に誰だ? 僕はそうして、ロックンロールの歴史を逆流して、原点に触れてゆくことになったのである。
ロックンロールの歴史はどこから始まったか。それは1950年代、明らかな二巨頭を上げれば、むろん双方ともブラックの、アメリカ、チャック・ベリーとリトル・リチャードから始まっている。チャック・ベリーは「ジョニーBグッド」、リトル・リチャードは「のっぽのサリー(Long
tall sally)」である。想像するのも難しいことだが、この両名の以前には、ロックという音楽自体が存在しなかった。ロックンロールはすでに辞書に当然載るだけの普遍性のものである。けれどもそれを明らかにして世に知らしめたのはこのブラックの二人であったわけだ。僕はこの両名の両曲を初めて聴いたとき、もうそのときから、これは好きで好きでしょうがなかった。
当時、まだテレビが普及していない時代である。音楽はラジオによって届けられていた。そこにこの生まれたてのロックンロールが届けられて、リスナーはただちに熱狂した。彼らはこのとき、シンガーが黒人だということを知らなかったのである。後に彼らが黒人の歌い手だと知って気持ちを複雑にする人もいたが、多くのものは、それでもカッコイイものはカッコイイではないかと、黒人の音楽を受け入れた。そうして黒人の音楽をオンエアするプロデューサー側の器量もあった。黒人が生み出したロックンロールは人種差別を打ち破るひとつの力にもなったのである。このロックンロールはそのままアメリカの白人勢、まずエルヴィス・プレスリーに受け継がれた。「ブルースウェードシューズ」が有名だ。これが次に海を渡り、イギリスに伝わって、ビートルズに引き継がれるのである。プレスリーもビートルズも、「ジョニーBグッド」「のっぽのサリー」両曲をカバーしている。
ある日僕は友人から、「桑田佳祐がジョニーBグッド歌ってる! 九折さんの好きなやつ!」という連絡を受けた。桑田氏の出演していた音楽番組を観ていてのことらしい。僕はそれに、「当たり前だ」と返した。何も珍しがることではない。ロックシンガーがジョニーBグッドを歌うことには何の珍しさもない。逆に歌ったことがないロックシンガーがいたらそのほうが不思議だ。桑田氏はまた、何かの取材において、「リトル・リチャードみたいなのが、ロックとしては理想だよね。怒鳴っているだけなのに、それがロックになっちゃうっていう」と語っている。
普遍性について話してきた。普遍性とは、どの時代のどの場所でも通用する、その何かということである。どの時代でも――だから時代を飛び越えて存在し続ける。ジョニーBグッドが、古くなってクタビレる、ということはありえない。いつでもロックシンガーの今日のポケットに入っている。それがポケットに入っているからロックシンガーなのだ。彼らが新しい表現を生み出すのも、それをポケットに大切に収めてである。
感性が普遍性へ届くほど、人は多くのものに接続できる。普遍性のものは常に今日もあるものだからだ。古典を聴いてみなさいよ、なんて僕は言ったが、それは博物館に通って過去の遺物に詳しくなれということではないのである。僕はジジイみたいなことをよく言うけれども、自慢じゃないが古臭いものなんて大嫌いなのだ。
昔はいい女だった、なんてあなたは言われたいか。人間だから年もとってゆくけれど、年をとったからといって、過ぎさってゆくものに結び付けられて古びていく人間になりたいか。十年後にあなたのポケットに入っているものは本当にそれでいいか。僕は普遍性について話している。あなたが女性であったとして、たとえおばあちゃんになったとしても、おばあちゃんとしていい女であってほしいし、住むところがたとえ日本からフランスに移ったとしても、向こうで男を手玉にとれるいい女であってほしい。それが、普遍性に何も届かず、地元で女子高生してる間だけ幸せだった、というのでは悲しいではないか。
あなたは名作である彼氏がほしいし、名作である恋あいをしたいだろう。何十年後に語っても、東西いずれもの人が聴き入ってしまうような。
おバカが勢いで言うそれでないかぎり、名作というのは普遍性のことを言うのだ。だから古典を聴きなさい。どれにもピンとこなければ、自分の感性は根が浅いとして一人でこっそり焦りなさい。その音楽が、自分の生きるのに必須必要だとしたら、そのときの自分はどのように生きている者なのだろうか? なんて仮想してみるのもよいかもしれない。
時代を超えてあるビッグ・ネームに、本物でないのなんてまず居ないよ。
白黒映画の恋物語に、タマランなあと思うようになったら、あなたはもうつまらない男を選ばない
音楽の歴史や成り立ちに詳しい人がいるけれど、僕はその類の知識欲があまりない。専門家から見たら僕の知識なんて子供がマンガで学んだ程度に過ぎない。ただ僕には僕なりの、手づかみしたロックンロールの歴史がある。桑田佳祐からビートルズへ、チャックベリーやリトルリチャードへと遡った。それらが過去ではなく普遍のものとして、僕の今日のポケットにあるわけだけれど、今になってようやく僕はこう言えるようになった。僕はロックが好きである。そして、上手い下手でなく純粋にその人自身に帰った声が好きだ。そういう世界が僕の地元だと言っていい。夜が更けるとその地元は、僕の場合ヘヴィ・メタルになってゆくけど。
ようやく僕も、少しは人の声が聴けるようになってきた。元合唱団の指揮者だったというのに情けない話だ。桑田佳祐を追跡しているうち、僕は彼が小さなハコで歌うシーンでの、そのサウンドばかり好むようになる時期があった。大きなステージでも勿論、一流の栄えはあるのだが、それはパフォーマーとして一流の責任を果たしているようなところがどこかある。本来の持ち味は小さいハコでの融通無碍の彼なのでは、なんてことを勝手に思っていた。そしたらあるとき、実はでっかい舞台が苦手なんだよ、と彼自身が告白していた。そうそう、そうだよな! と僕は画面に前のめりに同意したのである。
そういえば、普遍性といえば、「いとしのエリー」をレイ・チャールズがカバーしている。僕の趣味は、レイチャールズを苦手としているけれど。
いとしのエリーといえば、僕にはもうひとつ事件があった。桑田佳祐を追跡する中で、どれも名曲揃いだけど、「いとしのエリー」は何か違う、ちょっと神がかりなところが何かある、なんて思っていた。これはまったく今もなおそう思っている。他の誰がカバーしても、いとしのエリーは「いとしのエリー」にならない。桑田佳祐しか歌えない。いい曲だが、カバーはまるきり別の歌になってしまう。
そんなことを確認していたら、まったく不意に、幼い頃の記憶が甦ってきた。そんなことがあった、確かにあった、と急に昨日の事のように思い出されてきた。たぶん、まだ僕が小学校にも上がらないころだ。年末、大晦日かその前日といったような、ある種のときめきと忙しさの空気の中、母は台所で料理をしていて、僕は居間をうろちょろしていた。テレビが点けっ放しになっており、いつしか僕はその画面に吸いつけられていたのだ。記憶の捏造でなければ、ずいぶんはっきり覚えている。子供の背の高さならではのことだが、テレビのすぐ目の前に立ち、画面にひたすら見入っていた。歌のステージがあり、スモークが焚かれている。しっとりと何かが歌われているが、何が歌われているのかわからない。まだ歌詞の意味もわからない。
ただ、何かすごいことになっている! ということだけがあった。子供でも、テレビの中は遠くを撮影して映し出されているものであることは知っている。その意味においてだが、テレビの中が、何かすごいことになっている! と僕は感じて焦っていた。母を呼びに行かねば、という焦りがあってもぞもぞしていた。しかし呼びにいく間にこれは終わってしまうのでは? そう思うと動けなかった。僕はまだそのとき、それが「好き」、と思って捉えるような言語習慣を持っていなかった。
そういう経験が確かにあった。確かにあったし、そのときテレビの中で歌われていたのは、間違いない、「いとしのエリー」だ。歌の記憶としてはそれは残っていないが、メンバーの配置、歌う人の顔の雰囲気、ゆっくりとしたテンポと、和音の感触として覚えている。
そういうことがあるものだ。そういえば僕は先日、ある書店のビデオコーナーで、小さなモニターに映し出されているマイケルジャクソンの「スリラー」のPVに、三歳児ぐらいの子供が完全に食い入って観ているのを見たことがある。まるで縛りつけられて動けないというふうだった。彼も何十年後かになってその記憶を再結合したりするのだろうか。
ところで、ビートルズといえば、あのポール・マッカートニーの音楽能力の鬼神ぶりは一体何なのだろう。アイドルグループとして出発したというのがまるでデマに聞こえる。「のっぽのサリー」は、やはり原像としてはブラックのあのシャウトがなくては「のっぽのサリー」には成りきらぬものだ。なのに、ポールの歌うそれは、あれ? とこちらを混乱させるほどの完成度がある。それを「Let
it be」と並べるとますます混乱する。レディ・マドンナとかエリナー・リグビーとか……同一人物がこんなに幅広い歌唱表現をできるものなのか? しかも彼の歌う・演奏する音楽には、まったく何の思想も乗っかってこない。純粋に歌と音楽しかない。あそこまで純粋に歌と音楽しかないと、逆にちょっと怖いほどだ。本人はいつまでも飄々としてやっているけれど(しかもライブでの煽りパフォーマンスまで上手い)、あの才児ぶりと鬼神ぶりを見せ付けられては、ジョン・レノンがふてくされるのもある意味しょうがないだろう。
ぜんぜん関係ない話をしてしまった。しかしこれだけ僕が熱を入れて語っているのだから、趣味でなくてもあなたは興味を持たねばならない。それが仁義というものである。いまやyoutubeとヘッドフォンだけで試体験はできるのだから便利だ。
改めて、普遍性ということについて。あなたが例えば、本当にサッカーの、技術や試合の妙味がわかる人間だったとして、あなたがイタリアにクラブ・チームの試合を観戦にいく。そしたら応援席のイタリア人たちと、地元の熱気までは共有できないにせよ、共に試合の応援をすることはできるだろう。
「今のはディフェンスのミスですよ!」
「まったくそうだ! なんだ姉ちゃん、わかってるな!」
こういう展開になったとして、あなたはそれを不快だとかつまらないだとかはまったく思うまい。普遍性とはそういうことだ。
これが逆に普遍性のないものでは、給湯室でお局さんの調子の悪さを祝う会、みたいなものがあって、あなたはそれに混じっているうちは麻痺しているけれども、外側から眺めたら寒気がするはずだ。神様が出てきて「これがあなたの人生です」なんて言われたらもう放浪の旅に出るしかない。
会社の中でだけ威張っている人や、町内会だけで威張っている人、なんてのも普遍性はない。パキスタンによるテロリズムについて議論するインド人の会合に放り込まれたら途端に黙り込んでしまうだろう。そんな突拍子もない話を、と思われるかもしれないが、僕はインドの列車のコンパートメントに飛び込んだらいきなりそれだった。僕が入室したら開口一番、連中の議論の熱気をそのままに、「お前はパキスタンをどう思う?」と訊かれた。
「……行ったことはないが、それでもわかることが一つある。俺はパキスタンよりお前らのインドのほうが好きだ!」
熱気に乗っかって僕が勢いよく答えると、コンパートメントは喝采となった。あいつらはノリだけは抜群にいい。ただしそのまま八時間である。正直しんどい。が、それは僕の普遍性に向けての意地である。僕にウイットが仮にあるとして、それが自分の手篭めにした女にしか通用しませんというのでは哀しすぎるだろう。ただし本意ではないのでパキスタンの人にはごめんなさい。そして、ここには確かにウイットや粋があると思う人は、やはり時代を超えてあるロックンロールを聴き、古典の映画を観るべきである。いつかカルカッタ行きのコンパートメントに乗るときのために。
日本にはお追従(ついしょう)というよろしくない文化がある。まあどこの国にもあるのかもしれないが。でも日本には面白くない話やジョークや駄洒落を自信マンマンで言い放って、しかもそれにお追従で大笑いしてみせる要員を連れていて、本気で満悦している偉い人、みたいなのがいる。それも何かたくさんいる。彼が面白くないのは追従要員もわかっているのに、その面白くもないことを面白そうに言うその憎めない陽気さが面白い人じゃないかぁ、みたいな無茶苦茶なことを主張する。なんなんだその苦行は。そんな特殊性も特殊性、普遍性のまるでない空間が僕は苦手だ。
だから、といってももう文脈がつながってないけれど、やはり普遍性のものに触れる必要があるのだ。その時代だけ、その場所だけ、その空間だけの特殊性のものも楽しんでゆくのも、それはそれでいい。女子中学生のクラスメート同士なんかにはそういう楽しみが濃厚にあったりするだろう。ちなみに普遍性の反対が特殊性だ。けれども、普遍性のものに触れることがない、その必要性さえ知らない、というのはよろしくない。触れたってすぐに掴めるものではないけれど、触れていかないとなあ、そっち側が本当にわかっている大人になりたいなあ、と思っていなくてはだめだ。僕が必死こいて語っている豊かさへの可能性が根こそぎ枯れてしまう。
教養としてそれを知るように、などとは僕は決して言わない。そんな教養なんてただの強化型の知ったかぶりだ。そうではなく、普遍性に至っているものの良さを、「タマランなぁ」と感じるようになるまで、感性に呼吸させろ、感性に機会を与えろ、と言っているのみである。たとえば大江健三郎なんかは僕にとってはタマランのである。そうでなければ、いくらノーベル文学賞だからって、僕が勉強のためにそんなもの読むか。高村光太郎の詩集や、宮沢賢治の詩のいくつかも、僕にとってはタマランのである。
どんな分野でも、何事かを真剣に追求している人は、かならずその道の古典に、一度は深く突き当たってゆく。これは確実にそうだと保証してよい。メイクやヘアアレンジだって、真剣な職人はヘップバーンの映像を睨みつけるように観たりしている。武術の先生なら何度も読み返した宮本武蔵・五輪書が本棚にあるはずだし、映画が好きでたまらないと言っている人がヒッチコックを観たことが無いなんてことはありえない。ジョニーBグッドでもそうだったが、それは古いものから歴史の勉強をしているのではなく、大きく時代を飛び越えてあるものほど、普遍性についての信頼が高いということなのである。それで必然そこに突き当たるのだ。
白黒映画の恋物語に、タマランなあと思うようになったら、あなたはもうつまらない男を選んだりしない。的外れな女の努力をしてキリキリすることもなくなるだろう。あなたは、100年前にも素敵な人でありえただろう、という人を彼氏に選ぶし、あなたも100年後であっても素敵な女性たりうるように、という努力をする。
若く活発な女性に、いまこの僕の話が、そう速やかに受け取られるわけもない、まあ半笑いで読まれているだろうな、ということはさすがに僕も承知している。ただ僕が申し上げているのは、その半笑いは十年も続かないということである。十年後にも僕の信じて語るところはきっと間違ってはいないだろう。普遍性とはそういうことだ。なんだか思うさま書きすぎてヨレヨレになってしまったけど気にしない。じゃあまた。
[了]