No.180 女二十五、男三十に起こること
青春の中で結ぼれた恋あいは清冽だ。自分も相手も不器用で未熟であったのに、振り返れば光に満ちている。あのときのあれがなかったら、今の自分はなかったな、なんて冗談でもなく信じている。それに比べると今は、あのときのようなきらめきがない。大人になったからかしら、なんて思うけれど、そうして唇を結んでみても、どこか冷え切った寂しさが残る。
あのときと今とで何が違うのか。それは物語への接続である。あのとき自分は物語に接続されていた。今はそれが断たれている。僕はあいまいな話としてこれをしない。青春のさなかと今とで何が違うのか。感傷的になってみせるのは気が早いだろう。まだまだ理で解き明かせる。陶冶されたふうに韜晦してよいのはまだまだ先だ。
たとえば少年が、映画「ベスト・キッド」を観る。気弱でいじめられていた青年が、古い武術家に与えられた特訓を黙々こなし、万座でついに乱暴者を気迫の下に打ち倒す物語。作中の物語に引き込まれた少年は、ショックで内臓を青褪めさせるのだ。深夜まで膝を抱えて部屋の隅で震えている。物語に接続しているとそのような現象が起こる。少年にとって、作中の物語はすでに自分の物語である。
少年は自分を省みて、自分を突きつけられるのだ。少年は、別に暴力に曝されているわけではないけれども、どこか友人らに舐められ、馬鹿にされているところがある。それを薄々自覚している。冗談めかして、しかし悪趣味な力感で、しょっちゅう頭をこづかれている。それを自分は、情けなくも笑ってごまかしているのだ。その弱さを、少年は自らに突きつけられるのである。
しかし部屋の隅で震えていた少年は、ショックと共に、やはり励ましと歓喜も与えられているのである。まだ自分の心拍を突き上げてやまない感動の感触。「ベスト・キッド」に向けて、お前が正しい、かっこいいのはお前だ、と認めざるを得ない。少年は完全に打ちのめされ、自分の敗北を受け入れるのだ。そしてやがて決意する。
「俺も、ベスト・キッドだ」
そうして生きてやる、と彼は決意する。そうなるしか、彼にはもう道が残されていないから。
彼は物語と接続して、今夜から新しい少年に生まれ変わるのだ。その作用は、ただちに翌日にも反映されるだろう。頭をこづいてくる同級生に、やめろよ、と言ってその手を振り払う。が、その振り払う動作が、いつもより力強く、加害者を何か怯ませるところがある。お? と加害者の側は戸惑うだろう。加害者の側は警戒的になりつつ、それでも自分の立場を守るために、より攻撃的な気配を漂わせてくる。しかし当の少年は、それがどうした、くるならこいよ、と静かに満ちているのである。まるで何者かに、励まされ支えられているように。
このような少年は、映画「ベスト・キッド」について、名作だ、と人に語ってまわることをしない。というのは、「ベスト・キッド」なんて「映画」は、もう彼には存在しないからだ。彼にはもう彼の接続した物語としてのベスト・キッドしかない。彼の心は、ベスト・キッドを友人としており、自分もベスト・キッドとして生きてゆくのだ、ということに集中している。ベスト・キッドを映画だなんて自分から切り離して考えることはすでにできない。
これに比べて、大人がそれを観たときにはどうか。感動もし、心洗われもするものの、ショックで内臓を青褪めさせるということはない。部屋の隅で震えたりしない。「いい映画だったなあ」という読後感を楽しんでいる。翌日には「名作だよ」と人に薦めてまわるかもしれない。
彼は物語と接続していない。名作といいうる映画がある、よかった、というだけに留まる。ベスト・キッドは彼の本質になんらの影響づけも与えない。その映画を観たことによって彼の人生が変質することはないのだ。
だから、「あの映画がなかったら、今の自分はなかったな」ということにはならない。
恋あいも同じだ。「あの恋がなかったら、今の自分はなかった」ということにならない。
だからときめかないのである。
女二十五、男三十のころ、恋あいも「要らなく」なる
女二十五、男三十のころ、人はある現象を経験する。それは、物語との断絶という経験である。ふと気づけば、音楽を聴いたり映画を観たり、小説を読んだりしていない。忙しいからかな、なんて思ってみるけれど、どうも感触が違う気がする。昔はあれほど好きで、それなしで生活するなんて、思ってもみなかったのに、あのときの感覚がどうも無くなっている。それで、久しぶりに大好きだった音楽や映画を視聴したりするのだけれど、そこにある物語に自分が吸い込まれていくあの感覚がない。今でも、やっぱり好きなのは好きなのだけれど。
これは、物語との断絶なのである。自分の物語が、作中の物語へとつながってゆかない。その作品に触れるたびに、自分が新しく生まれ変わるという現象が無い。名作は名作のままであるのに、名作を自分から切り離して眺めているのだ。それは断絶であり、いかに名作だと睨みつけても、そこから自分に影響づけは起こらない。
僕はいま、しれっとして、実はおそろしいことを話している。恋あいについても同じことだからだ。<<そこにあるべき物語に自分が吸い込まれていくあの感覚がない。今でも、やっぱり好きなのは好きなのだけれど>>。
この断絶の起こる原因が、年齢なのか環境なのかわからないけれど、その究明はさておき、この現象は強烈だ。まったく抵抗のしようのないほど、圧倒的で、滑らかに我が身に迫ってくる。気がついたときには、自分はすっかり物語から断絶されてしまい、その断絶自体がもう物語として受け取られなくなっている。考えてみても、なんだか疲れるし、別にいいでしょ、そんなもんっしょ、としか感じられない。感性が変わったのではなく、機能が失われるのだ。
そう聞かされて、うわぁそれはいやだな、と激しく思う方は多いだろう。けれども警告するならば、激しくそう思えるということは、まだ物語と断絶されていないからそう思えるのである。断絶されてしまうと、それは悲しいことですよね、というようにしか感じられなくなる。ため息まじりにしかこのことを考えられなくなる。
そうなったらもうおしまいで、そこから帰還してくる人はまずいない。いたとしたら、九死に一生を得るような事故や病気を経て、人生観が変わって、という具合で戻ってくる。
そんなのはすごくオオゴトになっていて、しんどいから僕はいやだ。そんなになってから帰ってくるなら、初めから失うなよというべきである。
物語と断絶されたとき、人は物語を必要としなくなる。当たり前だ。自分に影響づけを与えないものなど不必要に決まっている。
すなわち、どう取り繕っても、断絶されている以上、そんなものは正直「要らない」。だから、女二十五、男三十のころ、人は音楽を聴かなくなるし、映画を観なくなる。小説も舞台芸術も興味を失う。娯楽としてのそれはあってもいいし、気分をもたらすものとして部屋に音楽をかけたりはする。けれども、それがなくてはいけないとか、それと共に生きるでしか生きられない、ということはない。
恋あいも同じなのだ。おそろしい話、女二十五、男三十のころ、恋あいも「要らなく」なるのである。娯楽と気分をもたらすものとしてのそれはあってもいいけれど。
こういう例も持ち込んでみよう。たとえば事故で片足を失ったとする。この事故、事件について、「どうでもいい」とはなかなか言えまい。なぜどうでもいいとは言えないか。それは、その片足の喪失が、これから自分が生きていくのに大きなインパクトを与えるからである。ずっと松葉杖か車椅子でゆかねばならぬ。春の公園を少し駆けてみる、ということもできなくなる。
これに比べれば、自分に接続されていない物語など、何のインパクトがあろうか。人はきっと事故で片足を失くせば、内臓を青褪めさせて震えるだろうが、いくら映画が名作だからといって、それによって内臓が青褪めることはない。名作映画は、賞賛すべき、しかしただの映画でしかない。ただしあくまで、物語と断絶されていれば。
物語と接続されている場合はこの限りではない。たとえば先のベスト・キッド少年は、物語と接続していた。そして彼は、戦う者のハートを得たのである。戦う者のハートを得るということのインパクトは、片足を失うことのインパクトと比して、そのサイズは劣っていないだろう。
女二十五のころにふと思う、あのときにあった何かが無いという、その「何か」とはこれなのだ。物語との接続なのである。
自分の生きることと接続されていない物語は、いくら面白かったとしても、自己に与えるインパクトはゼロだ。当たり前だ。接続していないものから影響づけを受けるわけがない。そんなインパクトがゼロのものなんて本質的に「要らない」。いくら言い張ってみせても、要らないものは要らないと自分の全身が理解してしまうものだ。
だから興味は、急速に、別のインパクトへとシフトしていく。別のインパクトとは何か。それは健康の保全であったり、生活水準の向上とその保証であったり、共同生活と婚姻の契約であったりする。これは確かに生活上のインパクトがあるものだ。可処分所得が倍増すれば快適になるし、単身から共同生活に移れば生活の様相は大きく変わる。
それはそれで大事なことではあるが、それは物語ではないし恋あいでもない。極端に言ってしまえば、性質的にはホームレスが一億円を拾ってハッピー、ということとあまり差が無い。少なくとも、ベスト・キッド少年が生まれ変わった夜のインパクトとはまったく別種のものだ。
僕は別に何かをあげつらって悪く言っているつもりはない。ホームレスが一億円を拾ったなら、僕はその肩をバンと叩いて、やったな、とりあえずヴェルサーチのスーツを買ってこい、と祝福したい性格だ。そういうハッピーは確かにハッピーなのである。
ただベスト・キッド少年のほうは、美しいのだ。むしろハッピーからは遠いかもしれない。しかし美しい。なぜ美しいかといえば、物語だからだ。
接続する勇気を
物語との断絶。人からも作品からも、影響づけの可能性を失うということ。歌も映画も要らない、恋愛も実は要らない、好きなのは今も好きなんだけど……と。なぜ女二十五のころにそういう現象が起こるのか。それは結局わからない。生物的に全盛期を過ぎるからなのか、就労の世知辛さが堆積してのことなのか、わからないけれど、そんなものの究明をしていないで、もっと直接にあがくならあがくのがよろしかろう。
もし意識的に、物語への接続を、コンチクショウめと保つことができるとしたならば、それができたとしてもなかなか覚悟のいることだ。なぜなら、作品に触れるにしても人に触れるにしても、そこからの影響づけを受け止めなくてはならないからである。断絶して眺めているだけなら、○○クンはかっこいいなあ、ということで済む。しかし接続してしまったら、自分はなんてかっこ悪いんだ、ということを突きつけられてしまう。読後感よりそっちがメインになってしまう。
思うに大人は、それを突きつけられるのがいやで、物語との接続を自ら切断するのかもしれない。いい年になって、人並みに生きる知恵も知識もついてきた。このままシメシメと生きていくこともできそうな見込み。それに自分もそこそこの者ではないか、と、横着と増長がふくらんできて、自分と向き合わされる物語なんかもう結構、要りません、といって切断するのでは。もしそうだったらかっこ悪い。想像してみれば確かに、増長をきわめて醜い奴が、物語にショックを受けて部屋の隅で震えるというのは何か辻褄が合わない。
僕はさしあたり自分自身に、このことは厳しくしたいのである。といっても、体質的に、自動的に厳しくなるのではあるけれど。僕は、自己が増長して横着になり、音楽や映画の物語が聞こえなくなったとき、自分に耐え難い腐臭が漂っているのを嗅ぎ取る。そのときはよく、板の間でうつ伏せになって底冷えの中で落ち込んでいる。自分から腐臭がすることほど落ち込むことはない。俺はもう大人だし、最近忙しいし、感性がウンタラ……と言い訳したくなるけれど、うつ伏せになっている僕は冷酷で、それは腐臭にデオドラントを撒いてごまかしているだけ、と言う。
まあでも、実際そうだと思うのだ。
<<接続する勇気を>>。このようにしか、僕には言えない。ベスト・キッドに自己を接続した少年は、自覚がなくても勇敢だろう。では我々は何に接続すべきか。その選択がきっと人の個性となるのだろう。接続する先の物語はひとつではなかろうが、あらためて枢軸はどうあるかと考えてみるのは、ちょっと怖いけど有意義だろう。
女二十五、男三十に、物語との断絶が起こる。断絶したら、ずっと「あのときの何かが無い」とぼやきながら生きることになる。恋あいはもう無いし、それだけでなく、もう生きることの歓喜が全域丸ごと無い。残るのは生活と自意識に関わるインパクトのみ。うーん憂鬱だ。どうせなら上等な生活がありますように。
まあでもせっかく根性入れるなら、物語との接続へ向けて。何も失って諦めろと決まったわけではない。難しいけれど、くりかえし、<<接続する勇気を>>。
ではまた。
[了]