No.181 極東のマニュアルフェイク
近所の大連料理屋のウェイターが、おそろしい速度で日本語に熟達していく。「もう年の瀬だね、気ぜわしいよ」みたいなことを言うから、プーアル茶を吹きそうになる。どこで習っているんだか。毎日働いているから学校に通っているのではない。彼は体躯のよい、多分モンゴリアンだろう。柔和な雰囲気だがしっかり者で、いつも熱心に働いている。
同じく中華料理屋で働いている女の子は気分がいい。かわいい。テーブルにティッシュがなかったので、ティッシュをくれ、というと、あー今ティッシュないね、といって、慌てて使いさしのポケットティッシュを持ってきた。ごめんね、という感じで恥ずかしそうに。かわいい。
昔仕事で北京に行かされたときのことも思い出す。若くて肌の綺麗な女性と知り合った。失礼にも名前は忘れてしまったが、彼女は四ヶ国語が話せた。何かの教師をしていたと思う。でも、「その髪留めかわいいね」、なんて言ってみると、「そう?」と慌てて髪留めを手で隠す。顔を真っ赤にする。「そんなに照れたら余計にかわいいだろ」とからかうと、手のひらでこちらの二の腕をバシバシ叩いてくる。「もう! なんでそんなこと言うの。だめねー」と必死ではにかんでいる。そしてお茶もってくるねといって、パタパタと給湯室に掛けていく。紙コップには黄色い液体と、何かの種のようなものがぎっしり沈んでいた。
こういう女性に、実際に肌に触れてみるとどうなるか。それはもう、一気に呼吸を熱くする。うぶで、慣れていなくて、敏感で、と思うのだが、それ以上の何かがある。「だめ、だめよ。○○さん、だめね。ほんと、だめだよ……」と言いながら、もう受け入れる余裕もなければ拒絶する余裕もない様子。身体が焼けるように熱くなっている。それで愛撫が進むと、A! と鋭い声を上げて、その声に彼女自身がびっくりする。
一方、われわれの日本ではこれをどうしているかというと、マニュアル化している。「萌え」と分類して、その成分を抽出する。無垢系の萌えでもよし、ツンデレ系の萌えでもよし。あるいは萌えでもなくて、ちょっと懐かしい小悪魔系なんてのでもよし。その成分を抽出して、それをなぞって真似ていく。自分も照れて男の二の腕をバシバシ叩き、「もう!」なんて言ってみる。男はそれで鼻の下をでへへと伸ばすかもしれない。
でもそれはフェイクだ。マニュアルでなぞって真似をしているだけで、本当に息を乱し、呼吸を熱くしているわけじゃない。
「中国に住めばいいじゃない。よかったね」みたいに言われる。そんな答え方をしてくるのはたぶん世界で日本人だけだ
人の魅力や能力といったことを考えるとき、今はこのように考えることが必要だろう。たとえば、髪色と眉毛だけばっちり整えた、肌の疲れた青年が、気だるそうにファミリー・レストランのウェイターをしている。彼は疲れきっているふうなのに、どこか神経質でプライドが高そうだ。元気ないじゃん、なんて声を掛けてみれば、「はあ?」と怒りの態度が返ってきそうだ。客席のほうでは、付け爪を異様に飾り立てた女の子が、スウェット姿で、もう座っているというよりは、シートにほとんど寝転んでいる。それで友達と一緒に携帯電話をいじっている。若者というと、そういうのをよく見かける。
これに比べて、大連料理のウェイターは、穏やかに熱心に働いていて、おそろしい速度で日本語に熟達してゆき、でも本人はポケッとしている。そりゃ覚えないと仕事できないからね、アハハ、なんて笑っている。火鍋料理屋のウェイトレスは、髪型をばっさり変えたので、それ似合うね、と客に言われて、そうですか、と赤くなって厨房にパタパタ駆けていく。
この両方を比べてみて、もしあなたが企業の経営者だったら、あなたはどっちを雇うんだ。自分の娘の婿にもらうならどっち。言語や文化の壁は依然として大きくある。でも純粋に人となりだけを見たら、あなたはどっちを評価するんだ。
こんなことを言うと、今の日本人からは、「そりゃよかったですね」と揶揄を受ける。なぜかしらんが、いきなり怒られるのだ。「そんなに中国人が好きなら、中国に住めばいいじゃない。よかったね」みたいに言われる。なんでそんな文脈になるのか、僕にはまったくわからない。
そんな答え方をしてくるのはたぶん世界で日本人だけだ。
もし同じ事を中国人に言うとする。あるいはいっそ、これからの日本人女性のセックス・パートナーは、中国人になっていくかもしれない、とでも言ってみる。そしたらきっと、「それは夢があるね」と彼らは笑って言うだろう。あるいは、「もう中国とか日本とか、区分けして考える必要ないよ」と無邪気に言う。「母はね、日本のこと今も悪く言うけど、僕は日本が好きだよ」というふうに。
ちなみに、僕が今まで話した中国人の中で、靖国問題なんて知っている人はひとりもいなかった。「ヤスクニ? なにそれ」としか答えなかった。そしていくら話しても、お互いに「まあ俺たちには関係ないね」で笑って済んだ。何の議題にもならなかった。実話だ。
僕は中国共産党の話をしているのではない。中華料理屋の、おそるべきタフネスの、気分のいい人たちの話をしている。それを自分と照らし合わせてみたら、いやあ脅威だなあ、という話をしている。僕は中国に飛び出して、現地で中国語に熟達し、当地の人に愛されて笑ってタフに生きていけるだろうか。
日本人の多くが、老いも若きも、内心であっさり人種差別をしているような気がしてならない。「でもしょせん中国人でしょ」というような。いまどきそんな人種差別なんて、道徳以前に時代おくれ以外の何物でもないのだけれど。でもそうして見下してみたって、実際どうか。中華料理屋のメシは旨くて、スタッフは若くて有能で気分までいい。それで定食が六百円だったりするが、日本人は同じ価格で同じクオリティの食事と接客と気分を提供できるのか。できないじゃないか。
今や日本の優位性、日本人の優位性なんて、薄弱たるものである。文化の差というのは大きくて、中国人にはまだ著作権の概念が薄いし、契約の尊厳についての観念も薄い。衛生観念やマナーといった面でもまだ日本人のほうが高いだろう。教育の蓄積という差もまだある。木目細やかな配慮が、製品の隅々に現れてくる、またその末端までの品質にプライドを持っている点は日本人のほうが優秀だ。けれども、そんなものあっという間に吸収されて追いつかれてしまう。日本語をあの速度で熟達してゆくのだから。「年の瀬だね、気ぜわしいね」なんて、すでに日本のチャラ男さんより気の利いた日本語を使っているではないか。
僕はたまに好奇心から、インターネットで、中国のテレビ番組を見る。インターネットでそれが滑らかに観られるだけ、サーバーPCが充実しているというのでもある。そして、何を言っているのかはわからないけれど、番組の品質やCMの品質はすでに日本のそれに追いついてきている。野暮ったさはどんどんなくなってきている。女優はまったく女優に見えるし、ドレスはちゃんとドレスである。むかし、経済の専門家は、北京オリンピックが終わったら中国は確実に大崩壊すると言って憚らなかった。今頃どんな顔をしているのか知らないが、まったく原発は安全だと吹聴していた連中と変わらない。
そうして隣国が新しいものを手にしていく一方で、日本人が今年新たに何を得たかというと、「あけぽよー」なんて言いながら一年を過ごした。んなアホな、と僕だって思いたいが、でも本当に何もないのだ。日本の男は、すでに女は要らないとはっきり言い始めている。一部精鋭のスポーツ界を除いては、ファイトはどこにもない。
こんなもの、数年ですぐに追いつかれるに決まっている。たぶん、有名女優が中国人実業家と結婚して、それが二、三人立て続けに続いて、またその実業家がかわいらしくて男前だった、みたいなことが出てくる。孫正義さんみたいに。それを受けて世間のほうでも、中国人はアリか、じゃあわたしも、みたいになってくる。日本の男はもう女は要らないと公言しているのだからしょうがないだろう。
本当の本当には、まだ日本は、俄かには追いつきようもない、日本独自の文化や技術を持っている。神業のような木造建築や、敵と衝突せず解決する武術、我を収めきる礼儀作法、単なるホスピタリティでは説明できない空間作りなど、世界のどこにも見当たらない、独自のものを持っている。けれども、肝心の我々がそれをまったく引き継いでいない。我々がいま実際持っているのはあげぽよーと萌えだけだ。そのほかに持っているものはすでに他の国も持っている。独特の気の弱さ、気のやさしさは持っているが、それも内心で人種差別して「中国に住めば」なんてイライラしているなら台無しだ。むしろ単に腹黒いだけである。
もう何年になるのかわからないが、ずいぶん長いこと、フェイクでごまかしてきた。マニュアルで作り出したフェイク。たとえば映像にかわいらしい女性を撮るならば、その無邪気さ、呼吸の熱さ、頬の赤く染まるさま、人に触れてひたむきなさまを撮るべきである。けれども、それを手早く合成するために、マニュアルを作ってフェイクを生み出しごまかしてきた。らぶらぶきゅん、みたいなポーズをされたって、その呼吸が熱くはないということは誰だって本当は知っている。けれども面妖なことに、むしろそのフェイクのほうが好ましいという人も増えてきたのだ。
でも結局フェイクだから、一対一で本当に付き合っていく、なんて必要は無い。そりゃあ面倒くさいに決まっている。それで、女は要らない、となる。
マニュアル主義が今の我々に浸透している根深さは、まったく目も当てられないものがある。
「何でもかんでも、明るく元気に呼びかける、それが本当に心ある接客なのでしょうか?」
僕は執念深いので、昔のことを、当時の感触のまましつこく覚えている。たぶん1999年のことだ。僕は阪急六甲のマクドナルド店で、友人と一緒に立ちほうけた。レジの背後に、店長格とおぼしき男が、監督者のようになっている。そして店員が、「いらっしゃいませー」とはっきり明るい声を出している。
「何これ、何やってんの」
と僕は友人とどぎまぎするのを確認しあった。
ファーストフード店は、もともとがマニュアル色が濃いところだったが、それを超えて明確に、マニュアル式が施行されたのだ。何が始まったかというと、「感情労働」である。学術的にそう呼ばれている。前向きで明るい感情を表現しなさい、という、感情の振る舞いが労働項目に加わったのだ。
それが当時の僕たちにとって、どれだけ不自然なものだったか。もはやその違和感を伝えきることは不可能だろう。けれども当時は、何これ、何の冗談よ、と笑い飛ばされるような具合だったのだ。そんなフェイクの明るさを向けられても、こっちは何もありがたくないだろうと。まだわずか十数年前、そういう時代だったのである。
僕は就職活動の最終面接で、ワタミフードサービスの渡邉美樹社長に、このことを直訴したことがある。
「何でもかんでも、明るく元気に呼びかける、それが本当に心ある接客なのでしょうか?」
と。渡邉さんは笑っておられた。さすがの器量で、僕の言わんとすることを即座に理解された様子。なるほどね、と豪儀な笑いである。
「でもそれは、外食産業として考えることじゃないなあ」
渡邉さんの回答はごくまっとうで、また僕は差出口をするべき立場でもなかったので、聞き遂げてもらえただけありがたい話だ、と満足して引き取った。いちおう内定をくれたのだからやはり度量である。
けれども今もってなお、僕の感じている本心は変わっていない。僕は執念深いのである。
最近僕はもう、あまりバーにいかなくなった。というのも、バーテンダーの側も世代交代が起こり、バーの雰囲気が変わってしまったからである。ドアを押し開くとカランコロンと音がして、「いらっしゃいませ」と色気のある声が掛かる。それは表面上変わっていないのだけれど、声はマニュアル化している。それは皮膚感覚でわかるものだ。それはマニュアル化されたシステムとして色っぽい声があるだけで、極論すれば自動販売機と変わらない。
かつてはそうではなかったのだ。バーなんて空間では特にそうだった。カランコロンと音が鳴る、そしてバーテンダーは、客の様相を受けて、それに応じて声をかけていた。「……いらっしゃい」というように。
たとえば僕が、雨の日に傘も差さず、ずぶぬれになってやってくる。カランコロン、とドアを開けると、バーテンダーは僕の「勇姿」をまず受け止めるのだ。それで苦笑まじりに、「いらっしゃい」という。それで一番奥を案内してくれて、僕のために電気ヒーターをつけてくれたりした。
マニュアル化するとこれが無くなるのである。カランコロンと音がなり、何かしらの影が入店したら、均一化した色っぽさで、バーテンダーらしく「いらっしゃいませ」と言う。そこで客人が、ハゲづらをかぶっていたり、女装していたり、鼻に笛を差していたりしても、まったく変化がないのだ。「いらっしゃいませ」が、単なる色気づいた入店音なのである。
また真面目な人に限って、そのマニュアルをしっかりこなし、完璧であろうとする。「お仕事だから」と真面目にやる。それはひとつの健気さなのだけれど、でもそれは健気な感情労働であって、マニュアルで作るフェイクだ。
僕はそれでバーに行かなくなった。
「儀礼的無視」とも言う。もう古くなった学術用語だけれども。これは例えば、入店してきた客を、いちいち見て取るのは無礼ではないか、という逆の視点にまず立つのである。かといって完全に無視しては成り立たないので、どうするかというと、一瞥するに留める。そして「いらっしゃいませ」と様式の声をかける。どのように他人を無視するか? と、むしろその距離感に儀礼があるとして、儀礼的無視ということが言われた。もうずいぶん古い言葉だ。この儀礼的無視は、マニュアルで作るフェイクの正当性を背後から支えるものだろう。
だから多分、根本的に人が苦手な、ひきこもりの性質がある人、むしろ儀礼的無視を遵守してくれ、という人が、僕の代わりにバーに行くようになったのではないか。僕は大連料理屋の兄ちゃんが、日本語に熟達していく、それを肘でつついて遊んだりするが、そんなところよりマクドナルドのほうが一万倍居心地がいい、という人もいるだろう。
事実そういう人がいるから、マニュアルフェイク化は実施され成功したのだろう。そして一方で、その成功が街の風景として根付くことで、マニュアルフェイクに馴染む人、むしろそれこそを好む人を増やしていったということもあると思われる。
それが近年の、メイド喫茶の爆発的人気の土壌となり、演出過剰のアイドルグループの流行につながったわけだ。
マニュアルフェイク。いま、この一言で、あまりにも多くのことが説明されてしまう。
これが一部の人の特殊な趣味ではなくなっているから、状況は特殊だ。
「本当は、どうしたらいいのかわからないんです」と彼女は泣いた
マニュアルフェイクは、接客業の品質を、その表面においてのみではあるが、飛躍的に向上しただろう。今から十数年前は、もっと露骨に気分の悪いババアなどがいたものだ。子供のころの記憶に遡れば、近所にある「上田パン」と「ヤマザキパン」の両者では、「ヤマザキパン」のババアのいやらしさといったらなかった。僕は友人らとよく悪口を言っていたものである。けれども子供向けの玩具シールやメンコといったものはヤマザキパンのほうが充実していたから、僕たちはときどきそちらにも行かざるをえなかった。良くも悪くも、人の個性が生々しくあったのである。ヤマザキパンが閉店になったときは、清々する気持ちがある反面、どこか物悲しいものがあった。
マニュアルフェイクによる上質な接客、感情労働として笑顔を向けることの義務化は、そういう気分の悪いババアを街から消した。露出することを禁じた。だからマニュアルフェイクには、あくまで功罪の両面があったというべきだろう。人の個性と接触するストレスはなくなり、かわって、生活にある情緒風情も除去されてしまったのだった。
明るくかわいい店員さんに、届かぬ恋をすることは、時代変われど若い男の定番である。僕はしばしば、その攻略について相談を受ける。それで実際に僕も店舗に足を運んでみると、確かに綺麗な顔の女の子が親しげな笑顔を向けてくる。かわいいなあ、と素直に思いながら、出てきて一番、僕は友人に「やめとけ」と告げる。手紙を渡して待ち伏せしてもいいけれど、走って逃げられるのがオチだと。
性根が生真面目で善良な女の子ほど、そのマニュアルフェイクをきっちりやろうとする。健気にも、そうしてお客さんに喜んでもらおうとするものだ。感情労働だけれど、それがお仕事だからちゃんとやる。それをちゃんとできない人は嫌い、尊敬できない、わたしはちゃんとやれる人でありたい、と望んで真剣にやる。けれども往々にして、そうしてマニュアルフェイクの振る舞いを堅牢にしていく分、内面のフェイクでない自分のほうは、まるで鍛えられていないということがある。僕は性格が意地悪なので、マニュアルフェイクを無視して内面のほうを直接見てしまう。それで、走って逃げるだろうな、と予測が立つわけだ。言うまでもないが、これが中華料理屋の中国人の女の子だったら、走って逃げられるということはない。誰にも想像がつくだろう。
さて、このマニュアルフェイクの習慣は、なにも業務に関わってのみ人に浸透しているのではない。特に若い女の子は、みんな性根が生真面目だ。どれだけ不貞腐れたふうを振る舞っていても、内心の中枢までやけくそになりきっている人はそうそういない。どうしたらいいのかわからないので、ツンケン尖がってみせる、その捨て鉢の振る舞いが習慣になっているだけだ。
前のコラムで書いた、体裁を整えるということに、まったくつながっていることでもあるけれど……
たとえば大学生のサークル、みたいな飲み会があって、その待ち合わせ場所に女の子が集まってくる。そこでやっほーと言って彼女はやってくるのだが、彼女の振る舞いに、女の子とはそうしたものだ、という概念としてのマニュアルはしっかり入り込んでいる。意地の悪い僕は、手巻き煙草を吸いながら、それを眺めるのである。僕としてはまったく興味のないマニュアルフェイクを完全無視して彼女を眺める。そうすると、何も疑うようなことはない、はっきりと明らかだと見て取れることがある。彼女はもともと、そんなに外交的でもないし、テンションを上げて引っ張っていくタイプでもない。自信は無さげだし、人にどう思われているかをすごく気にするタイプに見える。精神が華奢で、傷つきやすくて、実はひとりでこっそり落ち込んだり、くよくよすることがあるのではないか。
彼女は感情労働をしているのだ。
そうして眺めていると、誰も彼もが、無自覚に感情労働をしている。彼女は女を感じさせない、女を捨ててるよーと可笑しがられるタイプに見えるけれども、いやいや、内面はむしろ誰より女々しいだろう。集団に認められた「キャラ」を遵守して、振り落とされまいとして頑張っている。
男の側は、いかにも馬鹿でござい、というふうに振る舞っているが、いやいや華奢だ。本当にタチが悪いほど筋金入りのバカではない。彼もキャラをまっとうしている。耳に痛いほどの大声で笑うが、それは彼の筋肉がそういう習慣と癖を叩き込まれてこわばっているだけだ。
マニュアルフェイクなのだ。だからそこには、騒がしさがあるものの、呼吸の熱さはない。それぞれが何を言い出すか、何をやりだすか、というような緊張感はない。熱がないのでどうしても空気は気だるくなる。携帯電話を取り出してメールチェックするときに何の障壁もないのが見ていてわかる。夜が更ければいわゆる「深い話」なんてのもするかもしれない。けれどもそれだって、空気を読んでのマニュアルフェイクが入り込んでいるのだ。最後には必ず、ありふれて前向きな結論をくくって、お互いに頑張っていこう、と友情の言質に至る空気にまとめる……
それでも、彼らは友達を大切にしたいのだ。友達とこうしていられる、ということが何より大切なのである。みんなで楽しくするためにどうすればいいか、と生真面目に考えているところがあって、その実現のために、感情労働、マニュアルフェイクを使っている。もしあんな中に僕のような奴が入ったらブチコワシになるだろう。僕には彼らを軽蔑したりする気持ちはまったく起こらない。
ただもどかしさがあって、もったいない、そうじゃない関係も別に作れるぜ、とおせっかいに思ってしまうのである。マニュアルなしの、実は何も鍛えられていない自分を見せても、きっとお前の友達はお前を嫌いにはならんぜ、と、伝えうるものなら伝えたく思う。
実際に、僕が誰か女の子といるとき、善良な彼女が僕に向けて、明るく前向きなマニュアルフェイクを振る舞うことがある。いいコだなあ、と僕は思っているけれど、ずっとそれだけではやはりやりきれなくなってくる。呼吸の熱さがないものだから、お互いに底冷えしてくるものだ。それであるとき頭をかいて、
「なんでそんな無理してんの」
とぶっきらぼうに言うことがある。言いながら、あちゃあしまった、なんて思ってもいる。一瞬、空気は確かに変な感じになる。
でもそこから、人のさまざまな姿を見ることができる。色んな人に出会えるものだ。ぽろぽろ泣き出して、えっくえっくと嗚咽する女の子もいる。「本当は、どうしたらいいのかわからないんです」と泣いている。「男の人が怖い」とか、「昔あったことがどうしても許せないの」とか。僕はそれを黙って聞いている。僕は自分の解決できていないことを人にアドバイスすることなどできない。
しどろもどろになって、弱気なことを自白しているのに、それと相反して、腹を据えて眼に宿っている光はどうか。息は乱れ、呼吸は熱くなっている。四肢に満ちている力強さと躍動感はどうだ。もう一杯飲みたい、ということで、店員を呼び止めるときの声に、バネのある響きがよみがえっている。
そのときの彼女は、確かにマニュアルフェイクで作られた彼女より、整っていないけれど、まあいいじゃないか。何か知らんが、男の人が怖くて、何か許せないことを抱えていて、本当は何をどうしたらいいかわからず、自信のかけらもないらしい。
でも何も諦めてない様子だ。誰かと愛し合って、豊かに生きていきたいらしい。だめかな、なんて聞くけど、別に何もだめではない。
好きにしたらいい。どうせ引き下がるつもりもないくせに……
ハンカチを借りて、涙を拭いてやると、さっきまでビクビクしていた女が、目を閉じてしれっとしている。こういうとき女はじっと従うものだ、と嘯くように微笑んで。さっきまでデスマス調で話していた彼女が、涙を拭く僕の手をぐいっと両手で掴んで、その甲に口づけする。そして、ありがとう、本当にありがとう、なんて暑苦しいことを言う。人目を憚らず、注目されている僕の側が恥ずかしい。
つまんねえんだよー、と突然言った女の子もいた。バンドマンとして活動している、気難しい彼がいて、ここにはいないその彼に向けて、突然吐き出された本音。彼のやる音楽とステージが、気取っているくせにまったく面白くないらしい。僕は大ウケしてしまい、ヤンヤヤンヤと拍手してしまったけど、当の彼が聞いたらひっくり返るだろう。いやあ怖いなあ、でも素敵だなあ、なんて思ったものである。
マニュアルフェイクはある程度必要だ。人付き合いの初手はそこから始まるかもしれない。けれどもずっと感情労働をしていても疲れる。呼吸が熱くないのだから冷えていってしまう。
日本人であることなんか、いったん今は捨ててしまえ。あなたはアジアに暮らす一人の女性でしかない。そのアジアに暮らす一人の女性が、内面未熟であったからといって何がどうおかしいのだ。どうでもいいことではないか。
洗練されたふうを振る舞って見せるのは気が早いというか不相応だ。ナマの自分を突き出して勝負、馬鹿でも呼吸が熱いほうが上等だ。
[了]