No.187 教育が女を光らせるとき
恋あいにおける女について、教育はどう影響するかを考えた。
考えてみたら、影響は絶大だった。厳しい父親の元に育った女は、かわいく美しく佳い女が多い。
厳しくされても、性格はそれぞれなのに、決まって何か美しく光るところを持っていた。
厳しくされたというのは、門限がとか、派手な格好は禁止とか、そういうことではあまりない。
エネルギーの問題だ。単純に言えば、教育で「とんでもない目に遭った」という女が、光る何かを身につけている。
男でも当然そうなのだろう。でも僕は男なので男については考えない。
教育におけるエネルギーの問題とは何か。
たとえば、子供が墓地で遊んでいる。子供は盛り上がってしまい、墓石に登って遊んでいた。
このときに、母親が来て、「いけません、降りなさい!」と叱る。「まったくもう、そんなことしちゃだめでしょう」と。
一般的には、これが教育と思われているフシがある。
もう一つのパターンがある。墓石に登って遊んでいる子供に、祖母がツカツカ歩み寄る。
そして力任せに子供を引きずりおろし、その頬をバシーンと平手で打つのだ。それも何の容赦もなくである。
「あんた何考えとんね! 仏さまを何やと思っとんね!」
剣幕。子供は泣いて謝るが、許してもらえない。このバカタレが! とまた怒鳴られる。子供は祖母に言いつけられて、一人で墓石を水拭きして掃除することを命じられる。それが済むまで家には絶対に入れんからな! もう剣幕が違うので、子供は言いなりになるしかない。
この両者は、教育方針といえば、その方針は同じだ。墓石にいたずらをしてはいけない。
けれどもそこに加えられたエネルギーが違う。
前者のほうは、子供は理屈として、「墓石は登って遊んではいけないものらしい」ということを理解する。それだって大事なことではある。
けれども後者のほうはそれどころではない。子供が知るのはもっと切実な話、
「墓石にいたずらしたら、ばあさんにしこたま殴られる」
である。
子供は理屈を理解するのではないのだ。ただ、墓石にいたずらしたらバシーンとやられる、容赦なくやられる、ということを知るのだ。
ばあさんが墓石を熱心に拝んでいる。お墓には死んだ人が入っているらしいが、子供はよくわからない。そんなことより、またバシーンとやられてはかなわん、ということが切実にある。それで、ばあさんの真似をして熱心に拝む。手抜きでやったらまたバシーンかもしれないので、一生懸命やる。
その、墓石を熱心に拝むという態度、そのときの身体の感触、筋肉の力の入り方を、彼は学習して身につけるのである。
そのうち、「これは一体何をやっているのだ?」と子供も気になってくる。そんなとき、自分もやがて死ぬのか、ということにも気づいてしまう。祖母もやがて死んでしまうのだ、と知って悲しくなる。恐怖もやってくる。
実際に身内を亡くすこともあるかもしれない。
自分もやがて死ぬのか、ということへの恐怖とショック。怖くて夜眠れなくなる。そのことに、墓石に拝む祖母の光景と、自分がそれを真似したときの感触、そして何より、あのときああまで怒って自分を張り倒した祖母の平手打ちがあって……
これらのことが、子供の心にパッと構造を結ぶのだ。宗教を習わなくても、それが宗教と呼ぶべき構造に関連付けられていることに気づくのである。子供はその詳細まで理論づけて理解しまい。けれども、「ああそうか、死ぬのが怖いからだ、お墓は」みたいなことを直接理解する。
そしてそのころには、すっかり理解している。なぜあのとき、祖母はああまで怒り、自分を張り倒したのかが。そりゃそうだよね、と思うようになっている。墓石に登って遊ぶなんてとんでもないことだ、と。
教育におけるエネルギーとはそういうことだ。母親の説得的なやり方も、祖母のバシーンも、教育の方針としては同じである。けれども、本当に子供に何かを教えたのは祖母のほう。それも祖母が、子供を「とんでもない目」に遭わせたことが教育になったのである。
身体が自然に応じているのだ。なぜかといえば、落ちたら痛いからである
そうして育った子供は、神仏や墓参りということを、ついに馬鹿にせずに育つだろう。別に信心深いというのではない。ただ、「ある程度ちゃんとしとけよ」と思っている。この思いにはエネルギーが伴っているのだ。
だからちょっとしたときに、「神社であんまはしゃぐなって」と彼が言うと、あれっ、という気配が漂う。なんかちょっとかっこいいじゃない、みたいな。エネルギーが伴っていて、小言というには光っているのだ。それは教育が彼にもたらした光である。
たとえば女の子が、厳しい父親の元で育てられる。普段は温厚だが、人の話を聞くときに、目を見ない、集中しないということには容赦が無い。バシーンとやって、「なに気ィ逸らしてるんじゃ」とすごまれる。女の子は、もうとんでもない目に遭わされてはかなわんということで、話を聞くときに、目を見る、集中して聞く、という態度になる。言いつけを守っているのではない。バシーンとやられないために身体が勝手にそういう対応をするのだ。
このとき、彼女が人の話を聞くということに向けて、発揮するエネルギーと集中力は100だ。一般を1として、その100倍である。人を真っ直ぐ見て、エネルギーに満ちて、話をしっかり聞く。なんだこのコ、めちゃくちゃいいコだ、と男はメロメロになっていくだろう。けれども彼女は、頑張ってそうしているのではない。そういう教育をされて、そのようになったのだ。彼女にとって、話を聞くというのはエネルギー100の行為なのである。それで一般の100倍光ってくる。これも教育が彼女を光らせた例だ。
こうして教育された者に比較して、意図的に努力する者は不利だ。人の話をしっかり聞きましょう、そうすべきだし、そうしたほうが、愛されるし仲良くできるし実りが多いわ、と。それはそれなりに真剣に取り組むのである。効果はもちろんゼロではない。
けれども、原動力のエネルギーがない。そこに100のエネルギーを起こす女の子は、かつて父親に100のエネルギーをぶつけられたから、それに応じて100になったのだ。お墓まわりの子供と祖母と同じように。
これに比べて、エネルギー1のまま、気持ちは一生懸命でいましょう、というのは弱い。意識的には頑張れても、身体が自然に応じることがない。
このような例を出してみればわかりやすいか。
高さ1.5mの、細い一本橋をあなたが渡る。バランスを崩せば転倒して落下する。あなたは両腕を広げてバランスを取り、慎重に、緊張感を持って、集中して歩くだろう。
それは何もあなたが、頑張ってそうしているのではない。身体が自然に応じているのだ。なぜかといえば、落ちたら痛いからである。落ちたら「とんでもない目に遭う」、そのことを知っているから、勝手にそうなるのだ。あなたの下腹には、身体を確実に操作するための力がグッと入っているだろう。自動的にそうならざるを得ない。
自然にそうなるということに比べて、人の話を聞くということに、同じだけの集中と緊張感とエネルギーを意識的に向けるのはむつかしい。はっきり不可能だと言ってもいい。
エネルギーは、1から2へ、3から5へと強化できるかもしれないが、いきなり反射的にポーンと100になる奴には勝てない。エネルギーに伴って放たれる人間の眼のきらめきが違うからわかってしまう。
教育とはそういうものなのだ。人の話はちゃんと目を見て聞きましょう、という標語にエネルギーはない。バシーンにはエネルギーがある。とんでもない目に遭わされるのだが、遭わせる側も同等のエネルギーを使っているのである。
軍隊では、新兵は上官の奴隷である。上官の怒声を受けて、サーイエッサー! と全力で答えなくてはならない。エネルギー100を要求されるのだ。それは、いつか戦場で銃弾が飛んできたときのためである。パラベラム弾がカカカッと着弾したとき、パッと飛びのいて伏せて通信機からコールを送る。砂煙に狙点を定めて強烈なアサルトライフルの引き金をためらわず引く。これが瞬間的に出来るためには、瞬間的に100のエネルギーを引き出せる身体になっておくしかない。それで上官は新兵に大声を出させるのだ。
空手の道場なんかも同じ。「オイ!」「押忍!」このやりとりをサボると、やはりとんでもない目に遭わされる。それは武術だからしょうがないのだ。敵は不意に襲ってくるものだし、その不意に対応できなくては武術ではない。不意に来たものに対して、パッとエネルギーを100起こせる、そういう身体に仕立て上げるための道場なのだ。だから同じ格闘技でも、ボクシングジムでは押忍なんていわない。ボクシングはスポーツとして、リング外でゴングなしに戦闘することを考慮に入れていない。
あなたは人に会うし、話すし、人の話を聞く。キスしたりエッチしたり色々するが、それに応じて身体ごと起こる、エネルギーと集中力の値はいくつだろうか。
「はい。どうか、お願いします!」
昔、テレビドラマで「スチュワーデス物語」なんてのがあった。鬼教官が、スチュワーデスの研修を、まさに鬼のごとくシゴくのである。もうヒロインが気の毒で見ていられない、というところがあった。けれどもそこに、真の成長、真の教育、真の信頼関係が生まれていく様があり、視聴者は目が離せなかった。
あの有名なマンガ「ガラスの仮面」にも教育のシーンがある。月影先生が北島マヤに「怒り」の演技を教えるのである。そのために、月影先生はもうマヤをバシバシ叩きのめすのである。唇が切れて血が出るまで。
それでマヤにも沸点が来る。そしてそこに起こった怒りのまま、ナマの怒りで「怒り」の演技をやるのだ。剣幕。殺気さえこもる。それで月影先生は、「今のはなかなかよかったですよ、マヤ」という。マヤはハッとなって、自分の態度を謝罪し、かつ「ありがとうございました」と礼を言って気持ち良さそうに笑うのだ。
それが少女漫画だというのだから、けっこうなものだ。
実は僕のところにはたまに、わたしを教育してください、という女の子が来る。まだ少女というような若い女性だ。そんなバカなと僕は笑いたいのだが、彼女の側が真剣なので僕は冗談にもできない。
「厳しくしてください。わたし大丈夫です」
と真剣に言う。僕はそれで、健気だなあと胸を打たれて、精一杯、容赦のない指摘や、厳しいアドバイスやレクチャーをする。柄ではないなあと終始気恥ずかしいのだが、女の子が頑張っているのに僕だけ半笑いでいるわけにもいかない。
それで頑張るのだが、ここまで話したとおり、そうして僕が頑張ったとしても、それは本当の教育じゃない。本当の教育というのはもっと厳しい。
100のエネルギーと言っているのだけど、それはリアルに体験すると、けっこう事件的なエネルギーだ。
厳しくしてください大丈夫、と彼女が言ったとして、まさか彼女はそこまで想像していない。想像の外に決まっているが、本当の教育をもしするなら、僕は彼女にバシーンとしなくてはならない。女のやわい頬だろうが何だろうが、とんでもない目に遭わせるしかないのである。
「目上に物を頼むのに、お願いしますも言わない、頭も下げないって奴があるか」
今のご時世、本当にこんなことをしたら、通報されて逮捕されてしまうだろう。あくまで仮想の話になるが、本当に教育するとなったらこんな話になってしまう。
ちなみに僕がこれを言えるのは、実際に、お願いしますと本気で頭を下げた女の子がいたからだ。何もできませんが、お願いします、わたしを救ってください、とまで言った。僕はその彼女の態度を見て、正しい、と思った。それが正しいし、そういう態度があったんだ、とむしろ僕が思い出したのだ。
それに比べたら、厳しくしてください大丈夫ですというのは、健気だが、華奢だ。土台はどこか友達感覚だ。それは僕のほうが、何をどうしたってセンセイには見えないからしょうがないことだが。
でも本当の教育がありえたら、バシーンとやるしかない。それで、彼女が固まったり、泣いたり、パニックになったりしても、僕は引き下がれない。
「お前は返事もできんのか」
と、より強く叱りつけねばならない。
(僕のような冷血漢には無理だ)
これで、どこかで彼女がハッとなって、立ち上がるしかない。僕のぶつけた100のエネルギーには、100のエネルギーで返すしかないのだ。
殴り返すんじゃないよ。
「失礼しました。改めて、お願いします」
「声が弱い。頭の下げ方も足りない」
「はい。どうか、お願いします!」
これで僕が、わかった、やらせてもらう、と受ける。彼女はパッと顔を上げるだろう。
「ありがとうございます!」
このときの彼女の顔は、横暴を受けた女として曇っているだろうか。
今のご時世、こんな話をしても、正直まったくリアリティがない。昔の映画として、石原裕次郎が演じたならまだ説得力がありえたかも。
でも本当の教育というならそういうことになるのだ。
もしそこで、お願いします! と頭を下げて、ありがとうございます! とパッとなって顔を上げたら、そこにある光はどうか。
こういう教育が成立して後、彼女が友人らにも、いつもありがとうねと笑顔で言ってまわることがあったら、そこにある特別な光は尋常なものでなくなる。
この時代には見当たらない光だ。
教育の光を伴った女には、ひょっとしたら、努力の女は永遠に勝てないかもしれない。
わからない。けれどもきっと、自分で自分を、どこか厳しい世界に接続することだ
就職の面接なんかでは、実はこういうところが見られている。見られているというか、感じ取られているというか。エネルギーなのだ。スーツを着て、遊びではない場で、初対面の、立場が上の人に向けて、どういうエネルギーの態度が示されるか。自己PRの内容も大事だし、志望動機や質疑応答のキレのよさも大事だが、それでもエネルギーが低かったらまず選ばれない。面接官は話を聞き流しているだろう。こいつは先輩にシゴかれてきてないね、というのがわかるからである。単純に目上に向けてだけでも、10や20のエネルギー、集中力、緊張感が発生して当たり前だろ、という人間になっていない。彼はエネルギー1の土台で、そこに気合を入れて、2とか3に倍増させている。けれどもそれは長続きするものではないし、何にしてもひ弱なのだ。
女は男に対してこのことをよく感じるだろう。頭は良くて、いろいろ積極的で熱心で、頑張っているという力感はとてもあるのだけれど、なんだか頼りないわ、と。それを感じるのは女の本能だし、そう感じてしまったらもう何がどうなっても女はその男を選ばないはずである。
それよりは、さんざんシゴかれてきた、エネルギーも集中力も、瞬間的に100で応じられる人が、ふざけたふうを装って、100のうち99を隠して、甘えてくる、そういうほうに、実は頼もしい、そして今はかわいい、と感じるはずだ。
それは結局、エネルギーの器量を互いに感知しているのであって、男も女も同じなのだ。
努力というのはきっと、そのエネルギーの器に、意識的に気力を満たしていくことに過ぎないだろう。器が1ならやはり1、無理に詰め込んで2か3だ。そして教育はその器量自体を拡大するのである。10をぶつけて10にさせ、100をぶつけて100にする。元々が1のものに、一方的に100をぶつけるのだから、99は奔騰するのであって、それが向こうには「とんでもない目に遭わされる」となる。まあでもそれも最初のうちだけだ。すぐに否応なしに対応した身体になってくる。大きい声が出るようになる。引きこもりに逃げない限りは。
子供のころに暴力を受けるとやがて神経症になるというが、バシーンとやられるのと暴力は違う。心理学の実験ですでに明らかにされているが、神経症になるのは、そのバシーンが加えられる仕組みに、法則性がなくコントロールのしようもないときである。要するに、ばあさんの機嫌次第で、イライラしてバシーンとやる、というなら子供は神経症になる。でも、お墓にいたずらしよった、とということでバシーンとやっても神経症にならない。当たり前だ。そんなことで神経症になるなら、人類はもう滅亡していただろう。
教育もひとつの洗脳だろ、という見方もある。けれども僕はこれにも同意できない。洗脳によって刻まれるルールは神聖不可侵だが、教育のそれはそうではないからだ。いくら祖母にバシーンとやられても、気持ち一つで子供は再び墓石に登ることができる。それでまた、コラー! と言われてバシーンとやられても、うるせえ! と子供は反発することができる。エネルギーを120まで高めれば。仏さんを大事にするっちゅうのは、墓石をありがたがることと違うわ! と叱り返すこともできるのだ。そこに対話の起こる余地があっては洗脳ではない。
しかしそれで、教育なんてことを考えてみたけれど、きょうびこの時代のどこで、本当の教育なんて可能なんだ。みんな真面目だしルールは守るし、有益な態度に向けて努力はするけれど、バシーンと張り倒すエネルギーは許可されていない。是非はともかく、一見の余地あり、というような余裕はどこかへ行ってしまった。昔は僕は、ごく少ない例外だったけど、襟首を掴んで怒って怒鳴って仲良くなった女がいた。「珍しい人」と彼女はいたく感心したのだ。今なら即通報か、最小限でも電話とメールの全面遮断だろうに。
教師が子供を張り倒すなんて論外で、親も子供を張り倒すなんてことしない。体罰も必要らしい、ということで、義務的に体罰をする人もあるけれど、そのへんの手加減は確実に子供に見抜かれている。とんでもない目に遭わされるわけではないとナメきっているだろう。
その中で、教師と生徒は友達感覚だし、親と子も友達、先輩後輩も友達感覚で、男と女も友達だ。友達感覚を選んでいるのではなく、友達感覚しか許されていない。
お互い平等だろ、ということからの逸脱を許さないからだ。
いまたぶん教育というのは、教育者が、自分の意見を押し付けることをせぬように、お互いの意見を大事にしながら、教育しなさい、みたいな無理難題になっている。祖母の意見もわかるが、墓石に登りたい子供の意見も大事にしろという感じで。エネルギーを禁じて、難のない標語を伝達してゆくこと、それがあるべき教育、という有様だ。
うーんおかしいなと僕は思う。僕は昔、もっとも親しいような友人同士でも、僕が怒って、友人が泣いて詫びを入れた、なんてこともあったのだが。
僕自身、先輩に詫びを入れた数なんて数え切れない。
きっとこの友達感覚の絶対雰囲気は変わらない上に人心に染みていくだろう。
まあでもここで教育論を真面目に考えてもしょうがない。
こうなると、もう自分で自分を教育するしかないのか、という気がする。でもどこまで自分に厳しくできるだろうね。自分をいじめる人は結構いるけれど、自分で自分をバシーンとするのは難しい。まさか自分で自分の顔面を殴るわけにもいかないし。
わからない。けれどもきっと、自分で自分を、どこか厳しい世界に接続することだ。それは想像力の行為であってもいい。自室に不動明王の仏像を置くのでも、それが「とんでもない目」への想像力として機能し、身体ごとそういう対応を起こさせるのならいいだろう。いいだろうというか、それが本来は最高の形なのか。不動明王の仏像はそのために本来あるのだろうし。
僕には不動明王と接続する根性はないが、幸い、まあ甘くなかった先輩方の記憶や、先生、あるいは私淑する人たちの中に、想像力でアプローチすることはできる。そこに接続した途端、バカタレが! と言われるのがわかる。そうなると、身体にくくくっと変化が起こる。取り組むならもっと真剣に――エネルギーを100にして――取り組まねば。そうでないと、あの人たちは許してくれない。
あなたを教育してくれるのは友達ではない。友達からエネルギーの伴う教育を与えられたとしたら、それはありがたい話だ。あなたは涙をこらえて感謝しなくてはならない。その友達は、あなたを友達感覚で見てはいないのだ。
ではではそんなところで、またね。
[了]