No.189 イグジスタンス
人に期待するのはよくない。他人は他人だ。他人の心は他人のもので、こちらからはどうすることもできない。
他人の心は、放っておこう。無視するというのではなくて。大事にするために、放っておくしかないのだ。野原に飛んでいる蝶を大事にしようと思ったら、これはもう放っておくしかない。低く飛んでても高く飛んでても、そこに干渉を持つべきじゃない。
他人の心が、どうでもいいというわけじゃない。大切だから、いじくろうとはせずにおくのだ。
どんなタイプの女性が好きですか、と聞かれても、わからん、としか答えられない。僕はどれだけよく知った相手でも、彼女がどんな「タイプ」かなどということは知らない。わからない。タイプは、あるのかもしれない。でもそれは僕が関心を持っていいことではない。彼女の住む部屋の間取りを勝手に覗き込むような行為だ。どの部屋に住んでいても、好みもあれば、事情もあるのだろう。そこに関心をもつのはいやらしいことだ。それよりはもっと目の前にあるものに心を向けたほうがいい。
僕のことを、好いてくれる人もいれば、嫌う人もいる。これは、僕にはどうしようもない。好いてもらえるのはありがたいけれど、ありがたがってみせて、特別な配慮を企むのもまた違う。そういうのは不潔だ。せっかく好いてくれている人に、そんな台無しのことをしてどうする。
相手は僕のことを好いてくれているのか、嫌っているのか、そのどちらでもなく空白なのか。そんなのは知らん。知ったことではない。そこに関心を持ったら、それは人への興味ではなく自分への興味だ。そういうのは、一人で家にいるときにこっそりウヒヒとやったらよろしい。
でも目の前に人がいるのだ。
仮に目の前の人が僕を好いてくれていたする。僕は彼女に向けて、顎のラインがきれいだね、と言う。一方、目の前の人が僕を嫌っていたとする。僕は彼女に向けて、顎のラインがきれいだね、という。どちらも同じだ。そこに変節があってはおかしい。自分を好いているか嫌っているかで、自分の態度をコロコロ変えるのか。そんなのは不潔である。それは一種の商売だ。お金をたくさん落としてくれる太い客には特別な嬌艶を与えるべしという商売だ。
心理学では、好意の返報性という。人は人から好意を受けたとき、原則それに好意を返す、という仕組みだ。けれども、子供じゃあるまいし、こんな幼稚な誰でもわかる原則に自分を操られてどうする。それではまるで詐欺師にひっかかるマヌケなおばさんみたいじゃないか。
意地の張りどころが違う。女の子に、思いがけず褒められて、好意を向けられて、素敵ですね、なんて言われる。それで、デヘヘと鼻の下を伸ばして、何がどうかっこいいんだ。その甘っちょろい自分の心理とやらに、ふざけるなよと意地を張るのだ。心理なんてのは人間の弱みに過ぎない。意志がそれを超克するから、どんな人間でも光を放つ可能性を持っているのだ。
僕みたいな奴はせめてその気概ぐらいは持っていなくてはならない。そうでないと、あまりに値打ちが無い。
自分の心理を置いてけぼりにすれば、人にはもっとやれることがある。人に向けて、伝えるべきことがもっとたくさんあるものだ。あなたのその物の言い方はよくないよ、とか、顎のラインがきれいだね、とか。あなたと一緒にいると元気が出てくる、とか、あなたの声が聞けるのがうれしいとか。自分はきっとあなたのことを死ぬそのときまで忘れない、とか。
今のその表情はとてつもなく素敵だ、とか。
そのコが俺のことを好きでも嫌いでも知ったことか。幼稚な変節を禁じよ。
意志が心理を超克する。そのときはじめて、あなたという人間がそこに出現し、そこにいる人に受け取られる。心理の言いなりになっているうちはあなたという存在の実体はない。揺れ動く心理のあからさまに、心理学者がいやらしく口の端を吊り上げて眺めているだろう。
そいつらに、いいスーツですねと言ってやれ。
[了]