No.193 なんでもない12.27
日々是好日という金言があるが、今日などはまさにそれ。日々是と言われても明日のことはよくわからないので、今日のこと。正午前、冬の青空がガラスに透けて水色である。ラワン枠の古い窓ガラスには縦に縞模様が入っていて、向かいの家の甍がぎさぎざ、空の水色もぎざぎざに透ける。
ふと、僕は昔、大きくてのどかな工場に勤めていたような錯覚をした。黄色く濁った煙、機械油の臭い。作業服を着た先輩が引き締まった声を掛ける。けれども、そんなところに勤務したことなど夢の中でも一度もない。ただ、確然とそんな気がする、というのだ。屋根の高い工場で、金属を打つのどかな音が反響していた。
とぼけた時間が流れてゆく。飛行機の音が遠くの空にごうんごうん鳴っている。冬休みの子供が声をあげて駆けていく。壁にひび割れの線が今日はくっきり凛々しく見え、おだやかな空気は外気と通じてキンと引き締まっている。煙草の火先が何かに触れてしまったのか、ビニルの焼ける臭いがするガスを吸った。ウワと鼻が拒絶するが、それもどこか懐かしい匂いである。
実際、多くのことに縛られているものだ。大事なことがある気がして、昨日から先月から去年からと、それは色々持ってくる。持ってくるが、まあいいやと足元に置いてしまったら身が軽い。山登りの途中で登るのをやめてしまったらきっとこんな心地だろう。まじまじと景色を見下ろすに違いない。いい景色だけど、どうしようかこれから? という具合だ。別に登るならそのまま登ったらよい。けれども当然の話、それに登らなくてはならないという縛りなどどこにもなかったわけだ。
縛られないと登る気にならんというなら、もういっそやめてしまえばどうか、という気がする。それはきっと本当には山登りなど好きではないのだし、好きでもないことにハァハァ言っても誰も本当には褒めてくれない。
だめだ、やっぱり煙草からビニルのガスの匂いがする。
恋愛について考えさせられるのは好きではない。好きな人もいるが、僕はそういう輪にあまり交わらない。だってねえ、いやでもさぁ、と激論、みたいなのがあるが、元気だなあとは思うけれど、僕はそこに口角泡を飛ばす気になれない。ひたすらたじたじになるばかりである。
僕は恋愛が得意ではない。得意な人なんているのだろうか。一般に言われている恋愛という語の感覚からいけば、僕の場合、むしろその恋愛という空気を避けて、避けて、避けまくって、なんだかよくわからないがいい空気になる、そのことに意欲を燃やしている。
当たり前のことだが、こと恋愛ということになってしまったら、僕のようなおっさんが、秀でて美しい上品な女といいことになれるわけがない。昔から、色男には金も力も無いのが相場だが、僕にいたってはその色男ということさえないのだ。何もかもなかりけりである。こんなのだから、もう何かよくわからない空気にしてしまうしかないのだ。人を縛っているもの、人それぞれに持ってきたものを、全部足元へ置かせてしまうのである。そしたら、何が正しいのやら一瞬わからなくなる。でもそういうときほど、世界は鮮やかにはっきり見えるものだ。
登ることをふと止めた登山家のようにだ。
友人のデザイナー職をやっている女性が、美しくてよく男に口説かれているのだが、彼女が、デザイナー臭のする人はいや、と名言を云った。云われてみれば、確かにそういう臭いのする人はいた。独特の世界で、独特の空気が染み付いて、体質のようになった。奇抜な格好をして、奇抜なしゃべり方をする。なんですそれ、と訝しく思うのだけれど、自分はそういう世界の住人なんで、と説明されて納得する。アアなるほどね、と応じるのだが、後になってやはり、なんですそれと再び思う。
そういう独特の世界の――外部に閉じていたら、どこだって独特になると思うが――、独特の空気、独特の振る舞いに、憧れる人もいる。見慣れないというか、それっぽいというか。何か特別なものがある気がして、惹かれるのだろう。何でもいいから、自分に迫力をつけたいのかもしれん。けれども、僕はそういうものが好きではない。何か捩じくれた事情で、そういうけばけばしい風体が身につくのは、実は悲しいことのように僕は感じているし、そうなってしまった人にはちょっと気持ちが近寄りにくい。何か自意識と記号のカタマリとやりとりさせられている感触になる。民芸運動の柳宗悦ならきっと僕に同意してくれただろう。ゴテゴテと、不必要なものを貼り付けるものではない。
子供のころ、日曜の朝に、友達と公園にいて、水銀灯の柱に金属の鎖を巻きつけて遊んでいた。そこに近所のおじさん、少年ソフトボールの監督をやっている人が踏み入ってきて、君たちもソフトボール部に参加すべしと勧めるつもりであったろうが、「お前らみたいのを、落ちこぼれというんだ」と笑顔で言ってきたことがあった。鎖を引っ張っていた僕は、突然何のことやらわからず、はぁ、と説明を待つふうになったし、おじさんのほうも、なぜか言いながら直後にシマッタと痛感した顔になった。それをごまかすふうに、おじさんは無理やり笑顔を強調した。
それでおじさんは、公園の砂礫や草木にまで失笑されるふうになって、虚勢を張りつつもスタコラ逃げた。後に友人と、彼の葬式に来た霊柩車を追いかけて、おそろしくも無邪気な可笑しさがこみ上げてきたという不謹慎な一幕もあったのだが(子供は怖い)、それはともかくとして、あのときあのおじさんにはある種の臭いが確かにあった。タフなお父さんの臭いか、体育会系の臭いなのか。世間体に接続した、立派という観念があって、そこから教育する大人という立場が発生していた。彼の、ソフトボール部での監督としての力量はついにわからずじまいだが、ともあれ僕はやはりその種の近寄りがたい臭いが苦手だったし、今もなお苦手なのだった。
それが高じて、いつか新入社員と人事部と先輩社員を含めての、研修のディスカッションみたいなものがあって、闊達な議論をと言われたのを真に受けてしまい、「まず学生気分を揃って悪く言ってみせる慣習があって、それを僕たちは社会人気分と呼んでいるのです」と言ってしまったことがあった。あれ? と僕は言いながら不審を起こしたのだが、空気は直ちに凍り付いてしまったのであった。その直後には、遅まきながら僕も気づいたのだったが、そのような場は初めから、新人を叱咤するある種の結論に至るように決定されているものであって、真に受けて本当に闊達に言い出してしまう僕が愚かなのだった。
それにしても、ちょっと大人気ないんじゃないかと今も少し思う。少しは逸脱しても、面白がってみるところがあってもいいではないか。何もかもを、自分がすでに知ってある、お気に入りの結論に押し込むことはあるまい。
しかし、そうあるべきではないものを、いつの間にかそうさせてしまうものが、独特の世界にある空気であり、それが染み付いた骨身だ。公園での落ちこぼれおじさんも、その染み付いたものによって、日曜の朝から場違いにわけのわからないことを言ってしまった。
僕もいいかげん、空気の読めない馬鹿ではない。読むには読むのだが、僕としては困るところがあるのだ。僕がそういう、不意打ちをやる人間だと周囲に知られてしまうと、時に場の空気が飽き飽きする空しいほうへ固まってゆくとき、それをブチ壊してくれ、という期待がちらちら僕の方に集まるのだ。僕はどちらの空気を読んだらいいものか。発言の順番が回ってくると、僕だけ無難なことを言ってはいけない、みたいな空気になる。野次馬がどうせなら大火事を観たいと望んでしまうように、面白がりの男が無言で、行け行け、とプッシュをかけてくる。そうなると僕もある種の芸人根性から、ちゃぶ台をひっくり返すことを言わねばと義務感にかられる。
それで後になって、友人に向けて、お前あんな空気出すなよ、なんで俺だけいつも突撃させられるんだ、とブーイングするのだが、友人はいつも面白がって、酒をおごってごまかす。面白くてつい僕も笑ってしまうのだが、それなりに冷や汗を掻くので勘弁してもらいたい。それで僕にごほうびをくれる女性もいたが、それに浮かれていると後日、なぜ俺はそういう特殊事情でしかキスしてもらえないんだ、と納得のいかぬことに気づく。僕だってもっと普通に……
すっかり愚痴になってしまった。やめよう。
それを臭いと呼んでよいのかどうかわからないが、長く独特の空気の中に居て、骨身に染み付く気配というのは確かにある。音楽の好きな人は、ラックにCDがぎっしり並んでいて、大容量mp3プレイヤーにはやはりぎっしりと曲が詰め込まれているだろう。それでいつも物憂げだったり、逆に顎をあげて歩いて常に指をパチパチ鳴らしだすような気配でいるかもしれない。文学愛好者には文学愛好者の臭いがあって、遠藤周作の作品を時系列に並べて語ったりするかもしれない。証券マンには証券マンの、大工さんには大工さんの、ホステスさんにはホステスさんの、主婦には主婦の、独特の空気。長い間その独特の中にいて、空気が骨身に染み付いている。
けれども困ったことに、僕はそれらの染み付いた臭いの全てが好きじゃないのだ。そこに独特の迫力があるのは、ウッとなるのでわかるのだけれども。しかし独特といったって、本来独特というのは、何かが染み付いてそうなるのではなく、何もない元々のその人が、当然の独特であるべきじゃないのか。なんでもかんでも、濃い味噌に漬け込めば、そりゃあパンチの効いた味噌味にはなるけれど、それは果たして独特の味か。元々の、独自の素材の味はどこへ行った。
男にも女にも臭いがある。恋愛にも臭いがあって、むしろその臭いは他にないほど強く濃い。けれどもその恋愛漬けの恋愛味は、パンチは効いているにせよ、果たして飽きのこない新鮮な味か。
僕はその恋愛漬けの臭いが苦手だ。
幸い、本日師走の二十七日は、ぽっかりと晴れて空気の冷えた、なんでもない好日だ。こんな日に、気づけば誰か、やさしい女の子が、なんでもなく何故か隣に座っている、なんてことはないものだろうか。恋愛漬けの臭いはなく、触れると甘みとほのかに花の香りがする。そんなことは中々ないが、できればあってほしいものだ。なんでもない日に、なんでもない女の子と。
いつかのどかで大きな工場に勤めていた気がする。そんな話をして、なんでもなく彼女は笑って聞いてくれるだろうか。なんでもなく隣に座り、なんでもなくお別れする。
そのあとひとりで、どうしようかこれから、となって、そういうとき、世界はとても鮮やかに見える。
[了]