No.194 言葉と情動
人に名前を呼ばれるのはうれしいものだ。もちろん、病院の待合で名前を呼ばれてもうれしくないので、そうではなく、情動の乗った声。僕の場合なら「九折さん!」という声。情動に触れて、こちらの気持ちも弾む。人と会うことや一緒に過ごすことの理由のほとんどはここにある。
名前に限らず、言葉というものは、本来は情動と共に放たれるものだ。悲しくないのに悲しいと言ってはいけない。それは社交辞令である。たとえば去る3.11の大震災を受けて、その被害と亡くなられた方について、悲しい、と僕は言わねばならないが、これは儀礼的にそのように言うべきなのであって、僕がその悲しさを語るべきではない。語るならば本当にその情動を伴って語らねばならないのだが、それは被害の当事者たる方々に比べてはどうしても及ばぬところがあるだろう。ある少女が、いなくなった母を求めて、失われた町に向かって叫ぶシーンが報道であった。オカアサーン、オカアサーンと、むしろ怒るように叫ぶ彼女の声には、もはや説明を要さぬ悲痛と悲劇の響きがあった。胸に来た、などということさえ憚られる、突き刺さるほどのものがあった。言葉に情動が乗っかると、真実そこまでの力を持つ。
僕が名前を呼ばれた例では、たとえば、僕はあるとき一人の少女に呼び出された。そして、実際の作品や、概論としてについても、物語とは何なんでしょう、ということを尋ねられたのだ。彼女があまりに真剣に聞くので、知らず識らず、僕も深入りして語るようになった。
それで、ふと気づいて視線を上げてみると、そこにはまさに瞳をきらめかせているという、まぶしいばかりの少女の顔があった。なんだなんだ、と僕は驚かされたほどだ。そんなに感動するような話をした覚えはなかったのだが、そんな僕の事情はほったらかして、彼女はそこから「九折さん!」と何度も僕の名を呼んでくれた。身体から放たれる、熱い情動の声。なんという、これはもう愛そのものだ、と内心で僕は思った。彼女の情動が僕の情動に直接触れてきた。このような少女を、なんであれかわいいと思わない男はいるまい。彼女の個人的な身の上などどうでもよいことである。
現代には、ある種の癖がある。それは、言葉を情動と切り離して使う癖だ。たとえば笑い話を聞かされたとき、チョーウケる、という言い方をする。この言い方をするとき、当人はさして笑っていない。そしてチョーウケるというのは、情動ではなくて感想であり評価だ。彼女は笑い話に、笑ったのではなく評価した。
これが現代の癖だ。
本来、笑うということひとつをとっても、情動と共にであればどんな様子か。それについては、僕はあるチャイニーズのことを思い出す。昔仕事で中国に行ったときのことだが、五時間に及ぶ長い会議のあと、休憩に喫煙しながら、直接の担当をし合っていたワンさんに向けて僕は言った。
「あのボスじゃ、あなたも大変だね」
これについてワンさんは、すっとぼけて、見事な大嘘を言った。
「そんなことないよ。ボスはベリーテンダーだ。ベリージェントル」
その、テンダーだのジェントルだのの、嘘も極まったところの語が、互いの空気を完全に可笑しくした。変な沈黙が張り詰めて、直後に互いにプッと吹き出すと、もう笑いが止まらなかった。ワンさんは顔を真っ赤にして、イーヒヒヒ、イーッヒッヒッヒ、と笑い転げたものである。
なかなかユーモアのある奴だった。
情動とはそういうものだ。突き上げてきて、もうどうしようもなくなる。
僕は子供のころ、アニメ映画「天空の城ラピュタ」を、VHSテープで100回以上観たと思う。「紅の豚」が上映されたときには映画館に八回行った。「タイタニック」も何十回と観た。それはもう、どうしようもなかったからだ。僕の趣味という次元ではない。僕は趣味としてはそんなに映画を観るほうではない。
ただ、情動が僕を突き動かして、そうせざるを得なかったのだ。作品の物語に衝撃を受け、なんなんだこれは、と髪の毛を掻き毟り、わなわなと身体が震える。そしてもう何度でもそれに繰り返し触れて、確認し、受け止めきるまでいかなくては、他には何も手につかなかった。快楽的な熱病に浮かされたように。
そして、これが異性について起こったとき、人はそれを恋と呼ぶのだ。男が、本当にかわいい女の子に出会い、衝撃を受ける。なんなんだこれは、と髪の毛を掻き毟り、わなわなと身体が震える。そしてもう何度でもそれに繰り返し触れて、確認し、受け止めきるまでいかなくては、他には何も手につかなくなる。快楽的な熱病に浮かされて。
恋とは、その情動の現象の、異性間の性愛について起こることを言うのだ。
現代の癖。現代は、言葉を情動から切り離して使う癖を持っている。それで、ある曲を名曲といい、ある作品を名作という。いっそ誰でも彼でも、天才とかカリスマとか景気づけにでも呼ぶところがある。
けれどもその全てに、情動が伴っていない。
現代においてそれぞれが、何かを名作と呼び、スラングとしては神作という言い方もする。あるいは単に、すごく良かった、というふうにも言うだろう。さて言葉の上ではそこまで絶賛したものを、当人がその後も繰り返し触れて受け止めようとするだろうか。かつて僕が、そうせざるを得なかった、情動に突き動かされるようにして。
そんなことはほとんどない。名作呼ばわりだけがはびこるけれども、それから何度でも、あるいはもう一度だけでも、是非観たい、そうでなくてはもう……と突き動かされるところがない。名作呼ばわり「だけ」があるのだ。それが現代の癖である。言葉だけが、情動を伴わずに放たれる。しかもその言葉は、言葉としては嘘ではないからやっかいなものだ。
僕はマイケルジャクソンの遺作となった"This is it"を観たとき、彼のパフォーマンスに、それがリハーサルであるにも関わらず、目を奪われた。それはもう、眼球に痛みを覚えるほどに見入った。口を半開きにして。自分の様子がすでにおかしいこともわかっていたが、それでももうどうしようもなかったのだ。
一方で、現代の癖、「名作呼ばわり」というのはそうではない。言葉としては、もっと過剰な賞賛が放たれるのだ。けれどもその評価者の姿勢は寝転んでいるのである。そして、チョーウケるという語勢と同じ感触で、マジ天才だよね、という言葉が放たれる。髪の毛を掻き毟ったり、わなわなと震えて眠れなくなったりしない。マジ天才だよねという感想と評価は嘘ではないだろう。けれどもそこに情動は伴っていない。
この現代の癖は、すでに時代の文化となっていて、個々人の精神にすっかり根を下ろしている。個々人の恋愛にも影響を及ぼしている。
まず「かっこいい」「かわいい」などがそれだ。これらの語も本来、衝撃的な情動を伴って使われる語だ。けれども今は、情動を伴わずに使われている。寝転んだまま、マジかっこいいよね、マジかわいい、マジ天使、というように。それらはやはり感想であり評価に過ぎない。感心する、という程度はあるかもしれないが、やはり突き動かされる情動は伴っていない。
女性が友人と話す。具体的にか、あるいは精神的にか、寝転んだまま。あの人チョーカッコいいよね、と言う。あの人と付き合うのはアリかナシか。もちろんアリだよね、と言う。アリどころか、理想的じゃない? わりとマジで、とさえ言うかもしれない。
けれどもそこに、情動は伴っていない。
彼女はその男を「理想的」とまで言った。けれども、彼女の寝転んだ精神は寝転んだままだ。身を起こして座り込む気力さえ回復しない。情動と言葉はまったく切断されているのだ。
あの人は本当にいい人。かっこいい。好き。憧れる。イケメンだし。理想的。恋しちゃうよね。これらの言葉の全てが、情動と切り離されて、情動と無縁で寝転んだまま放たれるのだ。それらの言葉は彼女にとって嘘ではない。嘘ではないのに、真実でもないのだ。
これら、情動を伴わない言葉は、まず彼女自身を騙す。彼女は今、自分には好きな人がいる、と思い込んでいる。その人に憧れていて、付き合いたい、理想的だ、恋焦がれている、ということになっている。しかもそれは、嘘というわけでもないのだ。
ただ、情動がない。あの、突き上げてきてどうしようもない、快楽的熱病のような情動が。情動がなければ恋もない。恋もなしに恋愛をやろうとすると、これはしんどい。
これで彼女が、幸運にも彼とお付き合いできることになったらどうなるか。周囲からは、やったね、最高じゃん、と祝福されるだろう。彼女自身も、すごいハッピーだよ、と言うかもしれない。けれども引き続き情動はない。恐ろしいことに、その情動の欠如は、数ヶ月、早ければ数週間で、無視できぬ生々しさで突きつけられてくる。会いたいのは会いたいけど、割と会わなくてもへっちゃら。正直、最近疲れきっていて、それどころじゃない、そういう気分になれない。割とこないだ、会ったばかりだしね。
「でも彼のこと好きなんでしょ?」
「好きだよ」
言葉が情動を伴わない。これが現代の癖だ。
そもそもの間違いはどこからだったか? それは彼女が彼について、かっこいい、という言葉を起こしたところからだ。彼がかっこいいということは、客観的には間違っていない。だから言葉の構成する論理としての間違いではない。
ただ使用法としての間違いなのだ。人は本来、衝撃を受け、わなわなと震え、なんなんだこれは、と熱病に浮かされたとき、「か、かっこいい……」という言葉を起こす。その本来の使用法を違えて、情動なしに、言葉だけを濫用したことが過ちなのだ。
現代の癖、その第一の副作用は、言葉が彼女自身を騙すことにある。彼女の心のないところに、心があるように誤解させる。そして心身と思考の空転に彼女を疲れさせる。ときに人は、これによって若いうちから青春を完全に諦めたりする。
第二の副作用。それは、彼女の言葉を周囲の誰もが聞き流すようになるということだ。言葉が誰にも真剣に受け取られなくなる。人は本能的に、その言葉に情動が乗っているかどうかを嗅ぎ取るからだ。情動が乗っていなければ、それは彼女の心に触れることにはならない。人は人の心を粗雑にはしないものだが、心でないものには正直興味を持たない。
彼女が誰かの名前を呼んでも、相手はそれを喜んでくれない。心を弾ませてくれない。
また彼女自身、メールの文中に、相手の名を書き込めなくなる。名を呼ぶという行為がもうわからなくなってくるのだ。
第三の副作用。彼女は人の言葉についても、偏って真に受けるか、聞き流すかしかできなくなる。彼女はすでに情動と言葉の関係性を見失っている。言葉の構成する論理的意味を理解する、ということしかできなくなっている。誰かが彼女の名を親しく呼んでも、そこに起こる喜びがなくなる。名前を呼ぶという行為は、固有名詞をコールされたということでしかなくなる。
一方で、論理的意味だけが受け取られ、それに振り回される。いやらしく構成された論理、「女は所詮○○で」「恋愛なんて○○に過ぎない」といったものを真に受けて苦しむ。
情動の伴わない言葉を振り回していると、このような報いがやってくる。
言うだけなら平気なものだが、実際にこうなるとけっこうな地獄だ。
言葉と情動の分離。言葉に情動を伴わせないこと。むしろそれが今風で、いっそウケが良いところがある。
それが現代の癖であり、すでに文化だということは僕も重々わかっているつもりだ。けれども、誰もがやはり反省しなくてはならないだろう。独りでこっそりと……あなたはここ数年に、何回ほどになるか。二度は観るつもりはない映画を名作呼ばわりし、寝転んで聴いていい気分にはなったという歌曲を名曲呼ばわりした。有為な娯楽を与えてくれただけということを、天才呼ばわりした。わなわなと打ち震えるでもなかったものを、素晴らしいと言った。心拍が上がり呼吸が熱くなるでもないものを好きと言った。
なぜ情動を伴わず言葉だけを使ったのだ。あなたは自分の心について自身でデマゴギーを流した。
寝転んだままでも放てる言葉は、なるべく使わない
一旦でも正常に戻そうとするならば、勇気の要ることだが、自分の放った言葉を、自分の内に取り下げてゆくしかない。あなたは嘘を言ったつもりではまったくなかったが、今さらながら訂正する、あれはデマだったと。そのような情動はなかったのに、さもあるふうに言ってしまったと。
これには大変な勇気が要るものだ。自分が好きだったはずのもの、素晴らしいと思っていたはずのものを、一斉に失わなくてはならない。冗談では済まない、人生の貧しさに気づくかもしれない。けれどもその喪失感のうちに、やがて安心感と逞しさの感触をも恢復させてゆくはず。自分の言葉は情動とつながっているという安心感。そして、言葉はむなしいものではなく、自分の血肉とつながってあるという逞しさ。自分の声と言葉は人に確かに届く。自分が彼の名を呼べば、彼は心を弾ませてくれる。その当然の感触が、懐かしく取り戻されてこよう。それを今すぐこの現代の、生活空間に放り込んでゆける気は、にわかにしないにしても……
言葉という道具の、本来の用途は何か。もちろん、道案内をするように、単に説明の用途に使われる部分も多大にある。けれどもここに取り扱っているのは情動との関連のことだ。
人はその感性によって、目の前の人の気配から、情動が高く起こっているか、そうでないかは、本能というまでもない、自然のこととして読み取るものだ。ただ、その情動の内訳が読み取られるわけではない。そこに熱が起こっているのはわかるが、何が燃えているのかという燃料配合まではわからない。そこで言葉が使われる。目の前の人が何かに打ち震えているのはわかる。けれどもそこから放たれる言葉が、「うれしい」なのか「くやしい」なのか「なさけない」なのか「ありがたい」なのか「かっこいい」なのか「おそろしい」なのか「ほこらしい」なのか「かなしい」なのか、それによって人は人の心をより詳細に知るのだ。
何も難しい話ではない。たとえばある少女が、想いの人に告白して、フラれてしまった。彼女はそこにたたずんだまま、唇を噛んで打ち震えている。どう慰めたかわからないところを、彼女が振り絞る声で、「うれしかったの」と言い、それで泣き出すなら、そうか、それはよかったな、本当によかった、と誰もが心をぬくもらせるものだ。人はそのとき、人の心に触れているのである。
ワンさんと僕が共に笑いあったとき、ワンさんはただイーヒッヒッヒと顔を真っ赤にして笑い転げた。少女が僕の話を聞いてくれたとき、少女はただ瞳を輝かせて、僕の名前を繰り返し呼んでくれただけだ。しかしそのとき僕が彼らの心に触れたことは疑いない。そこに、ワンさんが「チョーウケるね」といい、少女が「マジ感動しました」というのでは、意味は通るけれども、心には触れていないだろう。
この当たり前に過ぎることを、僕はわざわざ取り出して指摘している。それはすでに、現代の癖が、この当たり前のことを消失させる勢いであるからだ。
そもそも、情動とは何なのか。そのことにも考えは及ぶ。情動と言ったって、そもそもその情動自体を持ち合わせていないのでは、と思わされる人がいるのも事実だ。表面上は強気で積極的でも、仕事も友人も恋愛も娯楽的、それなりに楽しければそれでいいんじゃない? としか捉えない人はいよう。あるいは逆に、全てに冷め切って、若いうちからでもポツーンとして、頭だけ賢くしている人もいるはず。彼らにとっては、同じ映画を何回も見て震えているなんて、一種の奇特か変態に過ぎないだろう。
それらについて、そもそも情動がなければ、言葉は如何様にあるべきなのか、ということも思念としては考えがゆこうとする。
けれどもいっそ、それを考えても無為なことではないか。情動について考える、情動を起こすにはどうするか、などと、考える前からひたすら不毛の予感しかない。
そこは考えるまでもなく、また考えるべきでもない。人間には情動というものがある。それが無いように思える人は、何かしらの理由で、それを抑えこみ、心を閉ざしているだけのことだろう。それも当人が自覚しえないような、遥か遠くにある根深い理由からかもしれない。
しかしそれに対抗するにしても、やはりこのことしか言うべきではない。「人には情動がある」。あるのだ。あるのだし、あるのならばあるというだけで十分だ。何かしらの只中に自由に立てば必ずそれは起こっている。幼児の頃から、どの遊びにも熱中することがない子供なんていなかったはずだ。
情動を伴って言葉が放たれるということ。ここに、寝転んででも放ちうる言葉のそれは、情動の伴ったものではない。人は情動と共に何かを素晴らしいと言うとき、その心を寝転ばせてはおれないものだ。身体的には、打ちのめされてうずくまっているかもしれないけれども。
情動といっても、苛立ちというのは違う。苛立ちというのは、むしろ思念の行き詰まり、その不毛のオーバーヒートから起こるものだ。だから、「マジむかつく」「マジありえないんだけど」というのは、不思議に寝転んだままでも言えるものだ。むしろそういうとき、凛々しく背筋を伸ばしている人はいない。苛立ちというのは情動ではない。むかつきという語が示すとおり、それは思念の消化不良の不快に過ぎない。
寝転んだままでも放てる言葉は、なるべく使わない。現代の癖は濃くはびこっていて、つい寝転んだまま「いいよねー」と言いたくなるものだ。いまやその惰性を撤廃することは不可能に近いだろう。だとすればやはり、せめて控えつつ、副作用を警戒してゆくしかないのだろう。
言葉が情動から切り離されるというのは、だましだましに進むのに、行き着いてみればけっこうな地獄だ。好き、憧れ、尊敬、最近ではリスペクトというのか、それらの大切な情動の言葉が、言葉だけになって浮遊する。それに振り回されて苛立ち、情動のほうは冷えて凍えて埋もれている。自分の言葉が全ての人に聞き流される。誰の名前を呼んでも、誰も心を弾ませてくれない。
情動が伴っているなら、言葉さえなく、名前を呼ぶだけでいい。あるいは笑い転げるだけでもいい。そこに熱が起こっているのはわかるからだ。彼はあなたの心に触れるだろう。
そして最後にようやく出てきた言葉が、好きだよ、大好きだよと、お粗末なものでもかまわない。お粗末な奴だと笑われるけれど、お粗末で結構、お粗末なあなたは彼にとってかわいい。
[了]