No.198 あのコは例外
世の中に、人の生きることの歓喜は、「例外」としてしか存在しない。普段に交わされる情報の中や、世間に合意される真理の中に、歓喜は一切無い。
無いのだ。本当に無い。若い男女が集まって言う、恋愛って結局さあ、という話の中には、工夫が凝らされ含蓄があるように聞こえるものもあるけれど、そこに歓喜があるかといえば無い。あるのは工夫されたいやらしさだけだ。
そういう話はどんどん声が大きくなる。それは、言っている当人らが、その話の乾燥しきった、もはや哀しささえ無くなった結論に、心の底からは納得しきれていないからだ。苦しいのである。だから大きな声になる。世知辛さに喉が渇いたかのように、うがいをするような、ガナリ声が混ざってくる。それが彼女らをおばさんの声にしていくのでもある。
僕は今、意図的に、ひとつの矛盾をやっている。例外ということに触れるために、例外でない、一般のほうへ踏み込んでいる。あまり健全なことではないがしょうがない。
乾いた談合、恋愛って結局さあ、という声をあなたはドア越しに聞いている。部屋の外の廊下側で聞いている。そこにあなたの名前がぽろりと出る。
「まあ、あのコは例外だよね」
そう言われたときの、あなたの誇らしさ。ガッツポーズしたくなる感触。
そして同時に、哀しさがあって、あなたは結局ガッツポーズができないのだ。
別に例外じゃないのに、と思っている。だから哀しい。けれどもそうして、例外じゃないのに、と思っていること自体が例外だ。
しかし、これはあなたはわからなくていい。わかってしまったら例外でなくなる。今僕は不健全に、例外でない一般のほうへ踏み込んでいるというのはそのことだ。
やっていてわかるけれど、やっぱり不健全だ。あなたとはぜひ例外の、廊下の側でこっそり会いたい。
前者は住居に花壇を勧めるようなことで、後者のほうは花園に直接、妖精のように住む勧めだ
逆に廊下でない、部屋の中側の話はわかりやすい。恋愛って結局さあ、と自分たちを苦しめる話をする。大きな声になり、うがいのようなガナリ声。その中で誰かの名前がポロリと出て、
「まあ、あのコは例外だよね」
と、あなたが言わされる。そう言わざるを得ないと気づかされる。
こういうとき、人は知らず識らず、気持ちを陰険にしてしまうものだ。何しろ自分は苦しんでいるのに、あのコは例外というような例外がいるのだから。あのコの不幸や失脚を願ってしまうものだ。足を引っ張ってしまう性格が身につく。もともとそういう性格があるのではない、後天的に必要に駆られて身につくのだ。誰もそうなりたくてなるのではない。せめてそこは清潔な、いい人でいようとみんな思うのに、気がつくとそうでないほうへ引きずり込まれるのだ。
僕は恋愛という語について、「恋愛」「恋あい」と書き分けている。「恋愛」のほうは一般を指していて、この営みは種々のメリットを持っている。これはこれで大事なものだ。このメリットは、人生を豊かにし、人生の楽しみを増やし、人生を有利にする。
一方で「恋あい」のほう、こちらの営みは、種々のメリットなんて持っていない。あるのは一点、歓喜だけだ。これが人生を有利にする、ということはない。これが「人生そのもの」になるのだ。
僕が「恋愛」という語を使うとき、恋愛はあったほうがいい、人生の一項目に恋愛を、と勧める感触で書いている。「恋あい」という語を使うときは、これは人生の一項目ではない。人生に恋あいが置き換わるのだ。例えるならば、前者は住居に花壇を勧めるようなことで、後者のほうは花園に直接、妖精のように住む勧めだ。
妖精のほうは、それを花の栽培とは捉えていないだろう。
もし僕が、「恋愛」のことについて語ったなら、話はすぐに行き詰るだろう。同じような話を、ぐだぐだとこんなにやっていられない。第一、恋愛のことなんて、みんなよく知っているのだ、わざわざがんばって話すようなことではない。
それでも僕なりにへっちゃらでやっているのは、僕は実は恋愛の話なんかしておらず、いっそ「恋あい」の話にもさしてこだわっていないからだ。今さら言うとおかしいが、そもそも僕は恋あいについて話すなんてガラじゃない。そんな美的な男ではないのだ。僕はずっと、生きることと歓喜についての話のみをしている。それはたいてい恋あいのことと重ねうるというだけだ。
僕があなたと話すなら、歓喜について話したい。話すというか、歓喜についてやりあいたい。歓喜はすぐに、必要な言葉と結びついてくれる。生命力。自由。意志。やさしさ。慈しみ。芸術。物語。想像力。恋あいというのはここにピンク色が差すだけだ。
歓喜には、努力とか教訓とか○○論なんてのが無くていい。
この話が扱いにくいのは、この歓喜というものが、例外としてしか存在しないからだ。
そして例外というのは、歓喜か、そうでなければ、狂気と犯罪者しかないので、取り扱いに慎重を要するのだ。着陸機構のない飛行機を飛ばしてしまったらそれはもう墜落するしかない。
その意味では、世間でこの例外についてが話されないことは正しい。僕はいま例外について例外的に話しているのだ。不安を隠したまま。
あなたのやることは歓喜だったはずだ。思い出すべきは、歓喜の花園であなたが両腕を広げている姿だ
誰だって人間として生きていて、二十四時間を花園の妖精としては生きていない。
かといって、妖精というのは、人間が妖精のふりをしているものではない。そんなものは気持ち悪すぎるだろう。そういう人も確かにいるけれど……
そうではなくて、逆なのだ。妖精が、日常に人間のふりをしているのだ。そして花園に帰ったとき、そうだわたしは妖精だった、と思い出すのだ。
この妖精の側が、自分を例外と思っていないのは、妖精は知っているからだ、人間だと思っている全員が、実は妖精だということを。人間のふりをしている間はそのことを忘れているだけだ。
だから……というと、ちょっとまた怖い話になるが、あなただってそうなのだ。本当は例外の側、花畑に住むのを本分としている。だから談合の中でガアガア言い合っているときの全ては、正しいはずなのに納得がいかない。どこかがずっと哀しい。
花壇を作るのだって、実は花園で生きる本来の代償なのだ。
死ぬ間際にはきっと思い出すのだろう。思い出した、しまった、自分は妖精だったのだと。なぜ花園で生きることをずっと忘れて、拒否して生きてきたのだろうと。だって子供のころは……
妖精という語を使うといかがわしい。僕は肩をすくめながら書いているが、これだって、ふと花園に帰って自分が妖精だったと思い出したときには違和感はないのだ。
妖精とか言ってるけれど、僕は気が狂ったのではないし、僕は今も昔もオカルトが嫌いだ。妖精というのは例え話だが、この例え話を論理説明に直すともっとオカルトみたいになるからしない。オカルトではなく哲学や認知の問題なのだが、そこを理論で説明したらきっともう誰も読んでくれないだろう。
そんなことはまあどうでもいいわけだ。僕は歓喜について話したい。
歓喜は世の中の「例外」としてのみ存在している。だからあなたは、「あのコは例外」と言われること、それを空想してみたとき、そこに何か、正体はつかめないけれど、有力な何かの可能性を感じるのだ。「あのコは例外」と、言われたい、言われなくてはならない、という奇妙な衝動がきっとあるはず。
その直観は正しくて、あなたの本性は、その例外の歓喜を求めている。それが本当に生きるということなのだと心のどこかで知っている。ごまかせない。本当はずっとその道筋を探しているぐらいだ。
だからあなたは歓喜の描かれた映画が好きだ。これはもうどうしようもない。
世間知に長けて生活力も身につけて、何とかやれそうだとなってきた。そのことはとても大事なことだから、誰もが何より奮起するしかない。女性だって東大を出てシンクタンクに勤めていい。それぐらいやってやるわよと思えるほうが頼もしいものだ。
ただ、そうして努力することも生ぬるいことではないから、その努力のうちに忘れるのだ。何とかやれそうだとなってきた。そこで、あれ、何をするんだっけ? となる。努力と充実をサイクルさせていくこと、だったはず、と、あなたの頭は固まってしまった。けれども、それは近いようでいてズレていて遠い。
あなたのやることは歓喜だったはずだ。思い出すべきは、歓喜の花園であなたが両腕を広げている姿。その姿に向けて、「あのコは例外」と言われることだったはずだ。
そして、歓喜の花園で両腕を広げ、誰も例外なんかじゃない、と思い出すことだったはずだ。
そんなこと言ってたら出世できない、生活が成り立たないというのは少し違う。それはまだ何かきっと思い違いがあるはずだ。本当は逆。自分が本当になにをやるべきか、それを見失っては出世も生活もしんどくてやってられない。よほどの意地っ張りならまた別だけど、そうなるともう何が何やらだ。
あなたは自分の歓喜を発見して、そのとき、うわあヤバい、これはヤバい、と思うだろう。あなたはこれから「例外」になるのだ
「あのコは例外」と言われるのが正しい。それでいて、誰も例外じゃないよ、と思えて疑いようのないのが正しい。
例外になるのは厳しいことだ。なにしろ、例外になるにはどうすればいいですか、と尋ねてはいけない。それは人から教わって物事をこなすクセがつきすぎている。「たとえばこうだ」という、そのたとえばが存在しないから例外だ。
本当に自分で考えなくちゃいけない。だから厳しい。
けれども、染み付いた世間生活のクセが抜けてきて、本来が恢復してきたらわくわくする。本当に自分で考えること、確かめるということは楽しい。スリルだ。子供のころを思い出せばわかる。あなたはそのとき、人に道を尋ねて進むようなことはしなかった。そのぶん迷子にもなるのだけれど、そこには四辻ごとに本当の冒険があった。
あの冒険は大人になって消えてなくなるわけではない。大人になっても、本当の本当に、何にも頼らない、自分だけで考える。自分だけで確かめていく、そのことをやったら冒険だ。
自分で考えること。自分「だけ」で考えること。このことを取り戻すとき、ぞくぞくっ、とするきらめきと恐怖が同時に来る。気のせいか、と一瞬思うけど気のせいじゃない。実は自分が生きているということは、インチキを無くせばそのぞくぞくっなのだ。
例外になるには、と考えるのは効率が悪い。歓喜について考える。歓喜について考えようとしたとき、あなたはいくつかの発見をする。それはまず、自分が瞬時に、誰かに聞こう、何かで調べよう、と咄嗟に発想するということ。そういう習慣が、それはもう骨の髄まで染み付いている。それは、ふつう誰でもそう。ふつう誰でもそうだから、あなたはまだ「例外」じゃない。
次にあなたは、これも瞬時に咄嗟のこと、自分の感覚的身近というか、常識の内にある手ごろな知識を、パパッと寄せ集めて手早く結論をまとめようとする。考えることよりも、結論をまとめてツイッターでつぶやくことのほうが、優先順位が高いのだ。まるで学生が提出するレポートのように、間違ってはいないだろうという情報の切り貼りだけが上手になって、それを提出してシメシメとなる。でもそれでは自分で考えたことにはなっていない。知識の切り貼りは単なる整理か編集だ。それがいくらスピーディでも、残念ながら頭がいいということにはならない。
自分で考えるというのはそうではない。ゼロから出発して、ハッとなって発見し、ぞくぞくっとする営みだ。だいいち、これは誰かに結論を提出する類じゃない。よくない習慣だ、いっそ人に出せる形にすることを禁止にしたらいい。
歓喜だ。あなたがこっそりエッチで、こっそり乙女心を持っているなら、それにピンク色を差していい。それにしてもベースは歓喜。歓喜について自分で考え、発見してぞくぞくっとしなくてはいけない。
そしてあなたは、それができるのだ。それは当たり前のことだ。歓喜というのはあなたの心が起こす爆発である。そのあなたの心の現象を、あなたが知らないわけはないのだ。あなたは必ずそれを知っている。それが見当たらないのは、余所から詰め込まれた知識が多すぎて、またその知識が便利なためにそれに頼る習慣がつきすぎたからだ。
あなたはあなたの歓喜を必ず知っている。知っている気がしなかったら、それは心を掘り返すのが面倒くさいだけだ。そう、それはまったく面倒くさい。僕も面倒くさい。これだけ面倒くさいなら歓喜なんか要らないという気もする。
そうして歓喜を放棄して生きるやり方は実際ある。そして、ひょっとしたら、それが悪いとは言えないのかもしれない。それぐらい面倒くさい。だがここでは、そのどちらを選ぶかという話はなしにしよう。歓喜ということ、生きることそのものを取り戻す、得る、ということに話を絞る。
そうでもしないと、僕自身が面倒くさくなって休憩してしまいそうだ。
あなたはあなたの歓喜を必ず知っている。これについて、なるほど確かにそうだ、知っている、わたしは知っている、と確信すると、確信したときに歓喜は直ちに発見されてくる。これ、困ったことに、そこを確信しないといつまでも歓喜が見つからない。見つけてから確信するのではなく、確信してからしか見つからない。
なぜか? それは結局、それを確信したときのみ、初めて余所から詰め込まれた余計な知識を蹴飛ばせるからだ。蹴飛ばすと、ただちにその下に当たり前の自分の歓喜があるのだ。それでアッとなる。けれども、その確信がないと、詰め込まれた知識は大切なものなので、どうしてもこれを蹴飛ばせない。それで自分の歓喜を探すというのに、その詰め込まれた知識のほうに、歓喜について載っていないかな、とちらちら探してしまうのだ。
だからまず、この当たり前のことを確信しなくてはいけない。あなたの歓喜はあなたが必ず知っている。いざとなったら、余計なものをガーンと蹴り飛ばして、その家宝だけ持って火災から逃げられる。当たり前、言えば言うほど当たり前だ。自分の歓喜を自分が知らないなんてことあるわけがない。自分の心だ、世界中の誰一人として他人の心に居候している人間はいない。
あなたは自分の歓喜を発見して、そのとき、うわあヤバい、これはヤバい、と思うだろう。あなたはこれから「例外」になるのだ。例外ということは、他人と共通しないということである。それが何なのかを、あなたは説明できるけれども、実際の歓喜はあなたにしかわからない。そういうものはヤバいに決まっている。
あなたはそのヤバい歓喜の家宝を胸に抱いて、もうしょうもない世間なんかとはオサラバだ、とは思わない。そういう反応にはなぜかならない。もうなんでもいい、誰とでもたくさん仲良くしよう、と思っている。なぜそうなるの? と今のあなたは思うかもしれない。なぜそうなるのかわからないのは、それがやはり「例外」だからだ。外側からではわからないのが例外。
「あのコは例外」と言われて、あなたは廊下の側。あなたは誇らしくてガッツポーズをしたいけれど、ちょっと哀しくてそれができない。誰も例外なんかじゃない。心底そう思っている。あなたはドアを開けて、みんなに向けて、抱きつきたい勢いで飛び込んでいくはずだ。仲良くしたいと全身に喜びを満たして。
そこは、わいわいガヤガヤやるのがいい。恋愛なんて結局さあと、言う気にはなれないけれど、うんうんと頷いて聞くのは楽しいじゃないか。そこはそうして賑やかにやる。
それでまた頃合を見て、待ち合わせて廊下でこっそり二人で会おう。
[了]