No.199 なるべくやってみるならもうやめろ
一年の終わりが来て、まだ追い立てられているのだが、それでもその中で、心が一年の総括をしたがる。一年を振り返ってみて……とやりはじめてすぐやめた。性に合わない。合わないどころか僕にとっては間違いだ。僕は今その間違いをやってはいけないところに立たされている。
不思議だ、なぜこうも、なんとかして生きることをサボろうとするのか。
なるべくやってみる、という便利な言い回しがある。なるべく努力してみます。なるべく本気でやってみます。なるべく向き合うようにします。なるべく本音で接します。
この、なるべくそうやってみるという言い回しの、なんと便利で、入り込んだ毒の、なんと深いことか。僕は今日という日を生き、今という時間を生きなくてはならない。ならないのに、ふとこの毒が回ってくる。「なるべくそのようにしていこう」。これはまったく、まったくダメだ。何をやったことにもならない。やったつもりになるだけだ。
それならいっそ、もうやらないほうがいい。なるべく本気で口説いてみます、なんて態度で口説かれて喜ぶ女がどこにいるか。唾を吐かれて当然の態度だ。
物事に本気で取り組むというのは、気勢の電圧だけガーッと上げることではなかった。そんなのは騒がしいだけだ。違う。「なるべく」「やってみる」を排除したものが本気だ。
そして本気で取り掛かったこと以外に、自分が何かをやったということはない。やったフリしか残らない。
思えば今まで、この毒に犯されて、何人の人を侮辱してきてしまっただろう。いま目が覚めたらちょっと気が遠くなった。詫びてもどうにもならなくて、自分の臆病、器量不足で、反省してみせることさえおこがましい気がするけれども、それにしてもなかなか自分で許しがたいところがある。
「なるべくやってみる」。なぜ、気を抜いているつもりではないのに、いつの間にか気は抜けていて、この便利な文言に逃避するのだろう。こいつは本当に知らぬ間に忍び寄ってくる。
今僕が感じているところの正直なイメージ。これが正しいのかどうかはわからない。ただ、本気で物事に取り掛かるというのは、その対象と、自分とがミックスされて、新しいものになってしまうことのようだ。二つの素材が混ざり合って、化学変化というのとは少し違うが、とにかく新しいものになる。新しいものになった自分は、その物事への取り掛かり、営為をしたということを確かに自分に残した自分になる。それは当然だ、何しろもう新しい自分の中にはそれが混じってあるのだから。
そしてどうも、そうなってしまうことについて、僕は何かを「惜しむ」らしい。何かと混じりあう前の自分が惜しいのか、とにかく何かを惜しんでいる。ここのところ、どうも勇気とか根性とかを、軽薄な勢いで使ってみてもどうにもならないようなのだ。気合と根性で跳びかかろうとするが、混じりあうのはちょっとイヤ、自分を惜しんだまま、なにか都合のいい取り組み方をしようとする。飛び込めとか振り切れとか、それっぽいことを言ってみてもだめだ。そこで飛び込んだり振り切ったりする自分は、そうしながらやはり惜しんでいる。
それでどうやら、「なるべくやってみる」ということに流れ着くらしい。
それではだめだ、というのが今はわかる。今はたまたま、それに気づいた。それがたまたまに過ぎないというのが情けないが、今のところしょうがない。
たまたまにせよ、今だけははっきり分かるのだ。人と人とは、もっと直接に触れ合うことができる。もっと混じりあい、もっとはっきりと、互いの存在を互いに残しあうことができる。それは別に、負担になるものでもない。特別な努力がいることでもない。何を惜しんでいるのかわからないし、今は惜しむも何も、失われるものは別に何もないとしか思えない。
ああ、でも少しわかった。惜しんでいるのは、なんというか、「自分の時間」みたいなものだ。人と混じるにせよ営為に混じるにせよ、混じってしまったら「自分の時間」がなくなるらしい。この「自分の時間」というのは一般に言われている余暇の時間のことではない。「自分」と思っていられる時間のことだ。
それが惜しいというのはなんとなくわかる。「自分」の時間、が惜しいのか。確かにそれが、人生から消え去ってしまうとなったら僕は怯える。
けっきょく自信が無いということなのか。それも確かにあるだろう。自信が無いから、自意識と……
そうか、少しわかってきた。きっと、この「自分」の時間は、「自意識との打ち合わせ」をしているのだ。自信が無いから、というのは少し語弊があるか、とにかく、何かをうまいことやるために、自意識と打ち合わせをせねばならないと思い込んでいるらしい。努力をするにも本気を出すにも、勇気をもって誰かと何かに取り掛かるにしても。それを、むしろきちんとやりたいがために、自意識といちいち打ち合わせをしながら進めているのだ。思い返せば、確かにその感触がある。何かを惜しんでいるというのは、この自意識との打ち合わせを失うことを惜しんでいるらしい。
それで、自意識と打ち合わせを――熱心に、真剣に――しながら、何かに取り掛かる。それでどうやら、例の逃避文言ができあがるのか。「なるべくやってみる」。なるほど、僕の自意識はこれに賛同してきた感触を残している。
どんなことでもいいから、ただひとつのこと、なんでもないことを、ただ純粋にやってみる。それだけのことが、なぜこんなに難しいのか。
自意識との打ち合わせを無しに取り掛かったら、なんだ、自分はまるで丸坊主の子供みたいだ。この不安と無力感といったらない。
でもわかる。人と本当に一緒に居られるし、混じりあえる。そしてこれは難しい。
ぞっとする。ふと気づくと、自意識の影がぼうっと真横に立っていやがる。
「あなたは人を褒めないね」
人に読んでもらう話に、自分のことばかり書いて恐縮だ。少しはまともな話もする。
恋愛相談を受けたときに、アドバイスを重ねるけれど、重ねるほど普通はボヤけてよくわからなくなる。そもそも相談をしにきているぐらいなのに、そんな多量のことを一気に消化できるわけがない。でも何だ、聞いている側は、こんなに一々に奥行きがあるものか、と知ることもあるようなので、それならまあいいかと思って、僕は遠慮せずに思うことを全て話す。まあそうでもしないと手立てがないのだ。だいいち僕は、アドバイスなんてする柄じゃないし、アドバイスという語の持つ精神性自体がそもそも嫌いだ。
恋愛相談なんてのも本当は気色悪い。当たり前だ。僕はこれまでに、それが気色悪いという感覚を失ったことは一度も無い。ただ僕は甘チャンなので、まあそれが入り口であってもいいんじゃないの、と思っている。入り口がそれでも、出口が純然とした、人と人との関わりであれば。出口までそれで、恋愛相談業者、みたいなものだったら、それはさすがにその不潔さだけで万死に値する。他人のことではなくてこれは僕の価値観だ。
そうして恋愛相談を受けて、思う話を全部ぶつけて、最後にはもう少女の側はフラフラになっている。当たり前だ。そこまでに聞いたことも、いくら頑張っても記憶からどんどん流出しているだろう。
それでいいから、せっかくなのでその最後のフラフラのところに、何かひとつ、まともなことは残せないかなといつも思う。それでまるで慈善家のようなことを僕は言うのだ。
「あなたは人を褒めないね」
その日の少女の振る舞いと言葉を、振り返ってみてそう思う。善良で、頑張り屋さんで、顔も頭も十分によくて、悪いところは何もない。ただその日の間、彼女の声が何かを褒めることは一度もなかった。つまりはそのあたりが、彼女の行き詰まりの全てだと僕には思えるのである。
それで、あなたは人を褒めないね、と言う。一日話して、一度も何かを褒めることがない、その情動が出現しないのはおかしいと。異常なことだと。それは彼女の幼児性と自己中心性を示しているが、そのことはわざわざ指摘しない。どうでもいいからだ。彼女が自身の状況を打破する可能性があるとしたら、その最有力は一点、彼女が一日に一度は何かをはっきり褒めてみせることだ。口に出して声に出して態度に出して。
そしてここに返ってくるのが例の文言だ。
「なるべくそうしてみます」
僕たちは何に行き詰っているのか? あるいは、行き詰っていないふりをして、何をごまかし続けているのか? 今はっきりわかることがある、それは僕もその少女も同じ穴の狢だということだ。つまりは、さんざん考えて努力もするつもりでいて、肝心なところは逃避の文言で丸め込むのだ。
小さなこと、些細なこと、ただひとつのことを、結局やらない。なるべくやってみる、とやるフリだけをしてごまかしていく。
もうやめよう。もはや何を偉そうに言う気にもなれないが、お互いもうやめようとだけ言いたい。なるべくやってみるというのでごまかすのは。
「人を褒める」なんてことは簡単ではないか。こんなことにまで、なるべく褒めてみる、褒めてみるようにしました、なんてごまかしていかねばならないのか。そんなにまでして惜しむべき何かは我々は誰も持っていない。
人を褒めよう。僕も褒める。この限りなく小さいことを、まず僕は本当にやろう。人を褒めるのは簡単だ。
そしてそれだけで自分の生きている世界というのはまるで変わる。
人を「本当に」褒めたらどうなるか。何かいいことがあるわけじゃない。ただ二人の人間が、なんて言えばいいのか、ぎゅわっ、となって混じりあう。そのわずかな時間、僕は自意識と打ち合わせできない。このとき僕の自意識はどこへ行っているのだろう? 謎だが、確かにそうだ。ぎゅわっ、となって、目の前に人が現れる。場所が現れる。空間が、時間が、明視がいっせいに現れる。ぞっとする自意識の影はその横に立ってはいない。なぜだろう、人の顔、身体、なんというか筋肉が、まとまってはっきり見える。
[了]