No.200 2011年を総括、しない
十一月の終わりに、ふと思いつきで目標を立てた。年内にコラムを三十本書こうと。これはその三十一本目だ。せっかくの目標だから、到達だけでは不十分、突破してプラスアルファをする。
さきほど、ざっくり文字数をカウントした。十一月の末から、約232,000字。原稿用紙で700枚、文庫本なら500Pか。
もっと余裕をもって終えるはずが、大晦日まで食い込んでしまった。睡眠不足だったが、途中でどこかへ行ってしまった。キーボードを打ち込みすぎて指先がまんべんなくだるい。
かといって、書き物だけして余裕の無い様になるのは好みじゃない。クリスマスから三日間は、友人がくれたメタルギアソリッド・ピースウォーカーもクリアした。今は、クリア後のミッションで、戦闘ヘリと戦うのに嫌気がさしてきたけれど……
もし、単純に文章の分量だけ出せと言われて、内容を気にせずにいけば、分量はこの三倍はいけるだろう。実際、分量の問題ではなかった。アイディアというのも、キャッチーなだけでいいならいくらでも出てくる。そんなことは苦でもなんでもなかった。
結局、何がしんどかったかといえば、自分を「今」に据え付けるのが難しかった。これまでに自分の考えたこと、しばしば思うこと、これを言いたいというようなこと、これは誰にでもあると思うのだけれど、いざ書くぞとなって白紙の用紙なり画面に向かったときは、それらを一切持ち込まない。持ち込んだら、それは途端にレポートになってしまうからだ。そういうのは、きっと読んでいてつまらない。少なくとも僕はそういうものをつまらないと思うし、それどころか、拒絶反応があって実は読めないのだ。ウエッとなって丸めてゴミ箱に捨ててしまう。
実は、今書いているこれもそうだけれど、前からも、とくにこの一ヶ月はそうだったけれど、僕はこうして文章を書くときに、何を書こうと前もって決めることが一切無い。完全に手ぶらで無計画に始める。前もって何かがあったとしたら、それはもう捨ててしまう。使わない。なんというか、それはもう残飯なのだ。いくら丁寧に保存してあっても、客人に出せるメシじゃない。その場でゼロから必ず始めて、その場で全部発明するのだ。ちょうど、無人島に手ぶらで来て、よし! とそこから全てを作り上げるように。
結局、このことを徹底するのがしんどかった。一つのコラムを書いて、さあ次のコラムを書くぞというときに、今しがた書き上げたものに関連して湧いた想念を全部捨てなくてはならない。まずその捨てるということ、クリーンアップするということにこそ集中力を求められた。
そこのところ、クリーンアップがちゃんとされて、ゼロの状態から、「今」にズンと座り込む。そこから書き出せれば、もはや内容は何でもいい。どれだけ、なんじゃこれと思わされるような出来栄えでも、拒絶反応は起こらない。その判断基準は今のところ僕自身の読み取りしかないが、なにしろ判断基準といっても僕も拒絶反応で判断しているので、もう本当のところは誰が判断しているのやら。
内容はいっそ、なんじゃこれ、と思えるようなものがいい。そっちのほうが面白い。見慣れないことが見慣れない調子で書いてあれば、それはなんじゃこれになるだろう。でもそうでなければ、すでに見慣れたものが見慣れたふうに書いてあるだけで、それではやっている意味が無い。かといって、読みにくいとなったら話が違う。できれば、読みやすくて、なぜか読んでしまった、面白かったけど、思い出そうとしてもなんじゃこれと、そういう具合のが一番いい。
もしこの一ヶ月の分量を、全部追跡して読んでくれた人がいたなら、ありがたいことだ。何しろ文庫本で500P分かというような量だから、本来ウェブサイトで読むような量じゃない。目が疲れたことだろう。申し訳ない。でも僕も誰も読んでくれないとさすがに消沈してしまう。それで、読んでくれる人をありがたいと思いつつ、面白かったかなあ、ということだけ気にしている。面白くなければそもそも読んでもらえる理由もないが、それでもそこは気になってくる。当たり前だけれど。
何の役にも立たなくていいので、面白かったらそれでいい。何かに役立ちそうかなという動機で読み始め、最後には面白かったけれど何だったんだ、と笑ってもらえていたらそれが一番僕にはうれしい。これを娯楽と読むかノウハウと読むか文学と読むかは読み手のそれぞれだけれど、元気になってもらえたなら実のところそれが本意だ。それも出来れば、あまり普段にない体の感触、奇妙な元気。わたしもなんじゃこれと言われるようなことをしてみようかしら、という気が少しでも起きたなら僕には甲斐があるのだ。
感想は教えてくれなくていい。僕が願っているのは、読んでくれた人に感想が残ればいいなということであって、それが報告される必要はない。いつも、何か冷たいようで気が引けるところがあるのだけれど、これはしょうがないのだ。僕は、感想を教えてね、みたいなことを文中に絶対出さない。それは、書き手が読み手の感想を期待した瞬間から、この遊びはまったく下種になってしまうからだ。
だからいつもぶっきらぼうに、一方的に書いている。それでも、やっぱりメールなどで、感想というか、何かしらのメッセージをくれる人はいて、普段は言わないようにしているけれど、実はずいぶん励みにしている。嬉しくないといったら嘘だ。たまにはこの場を借りてお礼を言っておこう。まともに返信もしないけれども、ごめんなさい。ありがとう、頂いたメッセージはものすごく励みになっています。
ウェブサイトの題目から、話題が恋あいのそれに限定されていることは、それなりにやっかいだ。もしこの制約がなければ、何を書くにせよもっと滑らかにできるところはあった。けれども、その制約のおかげで鍛えられたり、発見され見出されることも出てきた。まず僕は自分のどすけべ具合に感謝した。我ながら、超がつくほどの女好きでなかったら、さすがにもう無理があった。僕のこれを女好きというのかどうかよくわからない。キャバクラに行きたいと思ったことは一度もない。でも、なんでもない女の子というのは見かけるだけでもなぜか好きだ。
話題が制約されることで、いよいよはっきりと見えてくることがあった。僕にはなぜか、こうして何かを書かずにいられない衝動があり、女の子のある種の表情と接触することを求めずにいられない衝動がある。他にも色々な衝動があるのだが、この衝動は全部同一のものなのだ。僕はこの一つの衝動について、一つの態度に磨き上げ、完成させたいようだ。本当に完成するということは、きっと最後までないのだろうけれど、この衝動と、そこに生まれてくる態度を、もっと高みに引き上げて、そこで起きる体験の中を生きたい。どうもそうでないと、僕は自分が生きた心地にならないようなのだ。もうこれは個人的な生命活動だといってもよい。
たとえばこういう感じ。僕が誰か女の子と遊ぶとしても、そこにもやはり、例の「残飯」を持ち込みたくないのだ。完全に手ぶら、ゼロから会いたい。手ぶらで堂々と、無人島へようこそと。これから全部作ります、発明しますという調子で。恋愛経験豊富なんて、僕にとっては唾棄すべき概念だ。理屈の上ではそりゃあ豊富なのかもしれないが、そんなものは持ち込まない。持っていても絶対使わん。
どこかにも書いたけれど、そこに例えば、過去これでうまいこといったからといって、その手法を持ち込んでしまったら、それは過去の録画を再生しているだけじゃないか。僕はそんなことには、うわあああとなるのである。自分にウエッと拒絶反応が出る。だからウエッとならないためには、まず集中力を持ってクリーンアップ、ゼロにするのが大変だ。それはまた、そのクリーンアップ自体も前もってできないのである。誰かと会うとき、その人と視線が重なる瞬間だ。この瞬間にゼロに戻らなくてはならない。だいいち、そうでないと失礼だろう。過去の女経験をその女性の前に引っ張ってくるのは。
それで、どうせ僕のような奴のことだ、なんじゃこれ、と思ってもらえるぐらいが一番いい。何か役に立つかしらと、女性の名簿録に打算でエントリされてかまわない。それで、やりとりしているうち面白くなって、面白かったけど、後で思い出そうとしたらわけがわからない、なんじゃこれ、というのが一番いい。そして出来れば、元気になってもらえれば。身体に慣れない感触の元気があって、わたしもなんじゃこれと言われるようなことをしてみようかしらと、そう思ってもらえることがあれば僕はいいのだ。なぜいいのかはよくわからない。ただ、そうであれれば満足なのだ。
とにかく僕は、その一つの衝動と一つの態度を練成し、見慣れない高さまで行きたいのだ。こんなわけのわからないことをするのであるから、せっかくだ、僕が人に元気を与えて活性化できるのなら、その身体に起こる慣れない感触を、今までにない、まったく慣れない世界に新しい感触にしたいものだ。
僕とまったく同一の人間はこれまで生まれていないわけだから。
2011年がまもなく終わる。それで、と思ってみたけれど、どうも今僕はそのいよいよの年の瀬を感じていない。本年最後の計画三十一本目、妥当に2011年の総括としようと思っていたけれど、書く瞬間に変更してしまった。どうせ総括はみんながやってくれるだろう。それにまかせて、僕は引き続き、なんじゃこれというほうへ向かっていこう。
ふと先ほどから、タロットカードを買いに行こうかな、なんて思っている。大晦日になんて買物だ、と可笑しいが、その可笑しさが結局似つかわしいのかと思って、買いに行くつもりでいる。僕はオカルト嫌いだから、占いをするわけではない。ただ、なぜだろう、モデルが欲しいと思ったのだ。しょせん、自分の頭で考えるだけでは意識は偏りしか起こさないものだ。タロットカードというのは、詳しくないが、きっと古人が森羅万象を数枚のカードに落とし込もうとして作ったものだろう。
なんとなく、僕はfool(愚者)のカードに会いたいらしい。これが僕の、新年に向けての準備なのだろうか。気になってwikipediaで調べてみたら、foolのカードの意味はこうだ。
正位置の意味:自由、型にはまらない、無邪気、純粋、天真爛漫、可能性、発想力、天才。
逆位置の意味:軽率、わがまま、気まぐれ、無節操、逃避、優柔不断、無責任、愚行、落ちこぼれ。
今年をもし総括したら、僕はこのfoolの正位置だったのか逆位置だったのか。真面目に考えると怖そうなので、今年は何だったかについてはfoolだったの一言で済まそう。
じゃあそんなところで、よいお年を。今年もいろいろ、本当にありがとう。
[了]