No.203 価値観に背け
友人は必要だ。なぜ必要かというと、互いの「拡大」について語り合うために必要だ。「拡大」、生命はこの方向へ惹かれることを義務付けられている。生命は拡大に惹かれる。拡大こそ、生命のきらめきだ。
拡大していない男は、どうやっても女に愛されない。これは残酷なことだ。けれども、生命がそういう性質をもっているので、これはもうどうしようもない。拡大か、せめてその予感が必要だ。
拡大がなくても、価値観においては愛せるのである。愛せるというか、好感を持ち尊敬することはできる。
けれども、生命が直接惹かれる、という現象は、価値観うんぬんでは起こらない。生命のはたらきは、無慈悲で美しいのだ。
生命はただ拡大に惹かれる。
たとえば、急激に勢力を拡大しているマフィアのボスとか。それがどんな無法な手段を使っていたとしても、それが彼の「拡大」である以上、生命は無条件で彼に惹かれる。価値観は関係ないのだ。あるいは、敵対的買収で企業の旨みだけ吸い上げて捨てる、みたいなことを繰り返す男。彼の顔が金銭にとりつかれた亡者のようになっていても、不思議に生命は彼に惹かれる。なぜか彼に関心を持ってしまう。頭の弱い女をだまくらかして風俗に落とし込み、とにかく利益が何億円あるかしか考えない男でも、それは拡大だから惹かれるし、ついには奴隷狩りで財を成すとか、ヒトラーのようにファシズムで帝国を拡大するとかでもそうなのだ。それがただ「拡大」だということだけで、生命は無条件に惹かれてしまう。それがどれだけ他人の不幸を生んでいたとしても、当人が拡大しているという一点のみで、生命はそこに惹かれる。
生命のはたらきは、まったく無慈悲で美しいものだ。
価値観は、人間にとって大切なものだ。自分の幸福を考え、他者の幸福も考える。その全体の向上を志すものだが、これは生命のはたらきと関わりがない。ボランティアをやっています、というような男に、女性が本能的にゲッと忌避の心を覚えるのはこれが原因だ。価値観においては、ボランティアはたいへんすばらしいことである。けれども生命がそれを忌避する。生命はただ、彼に拡大の手ごたえも予感もないことを知り、それをもって彼を忌避する。
ただしこれをもって、ボランティアなどクソだ、と僕は言っているのではない。それをさえ乗り越えてやるからボランティアなのだろう。あとはただ、そんなことをしているなんて人に言わなければいいだけだ。ボランティアなんて、価値観的にはすばらしいことだが、生命的には犯罪行為なのだから、自分が犯罪をやっていますなんて堂々と言ってはいけない。
男が性的に末期症状に至ると、男は価値観をもって女を口説こうとする。まさに末期症状だ。自分は頭が良くて善良で誠実で、経験豊富でいくつかの技術に秀でていて、愛にこだわっています、みたいなことで女を説得しようとする。冗談も言えるし陽気で気配りもできるほうだよ、なんて継ぎ足しながら。
けれども、本当にそれらの長所が極北をきわめていたとしても、それをもって女が彼に惹かれることはない。女は彼を、尊敬するし信頼するし、賞賛もするし、彼から大切なことを学び取ろうともするだろう。けれども女の生命が彼に惹かれることはない。惹かれるとしたら、寂しい女か焦っている女、あるいは慰めを求めている女、ぐらいしかない。
そういう仕組みで男女が支えあう関係になることは実際あるが、それは美談に見えて、生命のきらめきという根本から見れば、なんだかガックリ心が折れる光景だ。それに気づかず、支えあいとやらにウットリするようになってしまったとき、かの者は末期症状にあり、すでに老いきってしまっている。拡大をあきらめて、生命のはたらきはすでに終焉を迎えたわけだ。
ただし、拡大に惹かれる生命のきらめきは、いいことばかり、というのでもない。ここで語る部分は、直後には「そんなこと考えなくていいだろ」と、自らちゃぶ台をひっくり返すことになるのだが、その前提で聞いてもらえばいいだろう。
たとえ悪徳な方法でも、生命にとっては拡大さえあればいいわけだ。たとえばマルチ商法の仕掛け人として、いま年収一億になった、それで逮捕されてはかなわないので今はカリブ海に住んでいる、というようなこと。これだって拡大だから、生命は彼に十分惹かれる。人間としては最低だと思うけどね、といいながら、女は彼に恋い焦がれて結ばれる。ここで、価値観と生命のはたらきは矛盾しており、その錯乱じみた部分が、女に特別の官能を与えることはよくある。最低の男なのに抱かれたくてしょうがない、という自覚は、まさに自分の生命のはたらきを認め知るにおいてうってつけだからだ。
ところが、そういう拡大がずっと続くとは限らない。ほとんどの場合は、意外に短い時間でゆきづまり、拡大は停滞し、やがて急速な縮小に転じる。同時に生命のきらめきも途絶え、忌避の心に代わるわけだが、このとき先ほどの女との関係はどうなるか。それはもう、悲惨だ。生命のきらめきが忌避的嫌悪に代わった上に、「人間としては最低だと思うけどね」という軽蔑だけが残るのだ。こんなところに起こる痴話げんかは、まったくもって救いがない。
街中で見かける、なんだか胸を打つところがある老夫婦は、このような悲惨の末路を回避できた者たちだ。すでに老い切られているわけだから、彼らに拡大やその予感はもうない。けれどもお互いに、「それでいいの、もう十分」と決心した。いつかの日、彼らが互いに蓄積してきた尊敬と信頼、そして慈しみが、生命の希求を凌駕したのだ。「それでもいいから、自分はこの人と一緒にゆきたい」というあたたかい決心が勝利した。彼らも当然、拡大と生命のきらめきについてはよく知っているが、それはすでに過去の思い出としてふたをしてある。ときおり、それを取り出して懐かしむのみだ。お互いにか、あるいは一人でこっそりとしてか……ただしこれは無論、価値観の勝利ではなく、生命の敗北と捉えることもできるわけだ。
このように、生命のはたらきと価値観は、相互にせめぎあっている。矛盾しあい、無視しあっている。拡大と生命のきらめきだけではなかなか恒久的な幸福には至らず、かといって価値観だけではそもそも人に関心を持たれること自体がない。
価値観の側のデメリットはもっと露骨だ。たとえば正義の官僚が、組織の腐敗を看過しえず、公僕として内部告発を起こし、壮絶な綱紀粛正の立役者となった。ただしそれによって、彼は省庁をクビになるし、彼自身そのように義に厚いわけだから、お騒がせしたという一点をもってみずから退職の道を潔しとする。
さあそれで、再就職だ、一から出直しだというときに、真っ先に彼の奥さんが言ったりする。「あなたのしたことは、とても立派なことだとは思うけど……」。生命のはたらきはまったく無慈悲で美しい。そこに正義があったかどうかなど、価値観の主張は一切無視して、ただ官僚が一介の無職になったということを見て、その縮小を忌避するのだ。そのようなはたらきを、当の奥さんが自覚しているわけではない。「一から出直すとき、わたしはそばにいてはならないと思うの」、というぐらいの言葉で、つまりは生命の決断が無慈悲に美しく遂行されるわけだ。
試みに、自分自身に問うてみればいい。このような正義の人と、悪辣な方法でもいま隆盛をきわめていくアイドル・グループのリーダーとがいたとしたら、果たして自分はどちらの人と会ってみたいか、どちらと親しくなりたいと思うか?
生命のはたらきはまったく無慈悲で美しい。
僕はこいつを恐れながらも、こいつのことが大好きだ。
さてそれで、先に述べたところに戻る。「そんなこと考えなくていいだろ」と。まったく、今考えるべきこと、いやいつだって考えるべきことは、そういうところにあるのではない。
考えるべきは、まず僕の場合、まちがっても価値観をもって女を口説こうとするのはいやだ、絶対にいやだ、ということだ。ふざけるなよ、と心の奥で声がする。それよりは、僕が拡大できなくなったとき、全ての女性に無視される、正当に、というほうがはるかにいい。何の救いもなく、生涯無視される、誰からも関心をもってもらえない……というほうが、それがどれだけ辛いことであったとしても、健全だ。いかなる状況になったとしても、そんなことは配慮してもらえず、ただ僕は自分をどう拡大してみせるかだけを考えるしかない。そのような厳正さの中にあることこそ、僕にとっては本懐だ。
いいじゃんね、それが正当なのだから。それでついに、僕が敗北するしかなくなって、東西南北もわからぬ砂漠の真ん中で、一人ただ枯れ果てて死ぬしかなくなったとしても、僕はそのときたぶん笑っているだろう。「よろしい、本懐である」と言って死ぬ。最後には僕自身の納得と受容しか残らないのだ。最期のとき、それぐらいの器量は持っている、その程度には僕は自分を信頼している。
拡大の功績、生命のきらめきもなかったくせに、不当に慰めだけ身の回りにかすめて集めている、そしてごまかして死んでいく、なんて気色悪さに比べたらはるかにマシだ。
不当に慰めを集めようとしなければ、物事はすっきりだ。何も恐れることはない、0点の答案が返ってきたら、それが自分にふさわしいのだから受け取っておけばよい。他人がどうで、他人が何点であっても関係ない。ここのところの厳正さをごまかすから、ますます迷いの霧が濃くなるのだ。
われわれは自分と互いの拡大について、考え、実行し、語り合う義務がある。それは生命の義務だ。すでに納得の終焉を決心されたご老人を除いて、全員がこの義務を負っている。草食系男子とか引きこもりとかアニメオタクとかが、根本的に否定非難の対象になっているのは、この生命の義務を履行しようとする意志を持っていないからだ。趣味とか考え方の問題ではない。拡大に向かっていないという一点のみで、生命は彼らを全否定する。いくら価値観で抗弁してみても、生命というやつは聞く耳を持っていないので無益だ。
日本は過去の戦争で敗北している。それだけで巨大な不利なのに、近年の情勢はそこに輪をかけて不利だ。世の中全体が冷え込んで縮小ムードにある中、個人として拡大してゆける者は要するに例外である。すなわち、いまは例外の者しか、生命のきらめきに触れることができない。一生だ。それは不幸というか、運が悪かったというほかないが、そのような事情があったとて、無慈悲で美しい生命の性質は変わらない。拡大しない者に天然の甘露は決して与えられない。
唯一当てはまらないのは思春期までの子どもだ。あるいはせいぜい、二十歳前の若者までだ。彼らは身体的にも器質的にも、社会的にも成長のさなかにある。つまり無条件で拡大の中にある。だからおっさんたちは女子高生に憧れるのだし、活劇物語の主人公はどうしたって少年少女にせざるを得ないわけだ。
「ドラゴンクエスト」が、レベル50から始まって、あとはレベルが下がっていくだけ、というようなゲームだったら、それはプレイするのが辛いだろう。「こんなモンスター、昔なら一撃で倒せたのになあ」みたいな哀愁を重ねていくのみなのだ。誰がそんなゲームで遊ぶか、と思われるのだが、実際に今われわれが生きている環境はそれに近いと認めるしかない。出費を控えて、煙草を控えて、電気の使用量を控えて、ガソリン消費を控える。何もかも控えていく、そのぶんを消費税で巻き上げる。そうして縮小してゆくばかりの中にあるわけだ。その中で生命が冷やされていく勢いというと、もうただごとではないのだが、これは今のところどうしようもない。女子サッカーがワールドカップで優勝したからといって、正直なところ焼け石に水というか、氷河期にマッチ一本というふうでしかなかった。
さて、こうして長々と説明してきて、説明は終わり。どれだけ説明を細々しても、われわれがやるべきことは単純で変わらない。
僕には友人がいるし、あなたにもいるだろう。僕とあなたも友人になるかもしれない。そして友人とは、自分と互いの「拡大」について語り合わねばならない。確認しあい、励ましあうこととして。ときにはその中で、互いの拡大について、局面の打破につながるアイディアや気勢も得られるものだ。
友人たるべきに、約束事がひとつ。
「拡大に向かわない男に関心は持てないの」
とあなたは言い、
「拡大に向かわない女に関心は持てないね」
と僕は言う。
「拡大に向かう話をしてね」
と互いに約束する。
生命のきらめきと価値観は、互いにせめぎあって、ときに矛盾する。けれども、僕はいま全体を眺めて確信する。価値観とやらはもう十分だ。十分どころか、ひどいほど植え込まれていて、自分をガチガチに縛り上げているではないか。
だから今はもう価値観を語るな。価値観に背け。価値観に背いて、ただ自分と互いの拡大についてのみを語れ。
確かに僕も、女は微笑んでいるほうが素敵だと思うが、そんな価値観の履行として義務的に微笑むものなら見たくない。そうじゃなく、あなたが拡大するための結論として、あなたは微笑んでいてくれ。僕はその生命のきらめきが見たいのだ。
[了]