No.205 Films
<<僕はもう二度とこの話をしないだろう>>
還暦を越えられた四人組が女性一人を含め集まっておられ、そこそこに酔っ払って、割り勘っていうのはさァ、ということを大声で議論しておられた。アルコールで上昇した血圧が時折パンと爆ぜるふうに、ひときわ大きな笑い声が、ギャハハハッと割れて響いた。議論は急速に、――結局オーラなんだよ! というところへ着地してゆく。ただしその論者当人も、その結論の薄弱と、それが人心にいまいち届いていない気配に不満を覚えてか、当人がまずぐらついたふうに、しかしねじこむように――結局オーラ! と泥のように怒鳴った。向き合う一名が、ただちにこれに呼応するように、さらに上回る大きさの怒号として、楽しげに――でもオーラって言われちゃうとさあ! と響かせた。
ペンキで染め上げたふうの、それはそれで見栄えがする長いドレスを着たピアニストは、先ほどより鍵盤を弾く力を弱め、代わりに丁寧な歌声でハナミズキを唄っていた。薄紅色の/可愛い君のね/果てない夢が/ちゃんと終わりますように……
嘆かわしい、と普段は憤ろしく思えるそれが、このときはなぜか別のことに思えた。それもこのときかぎりのことではなく、自己の内に起こってきた、奥深いところからの変化として。それが真実性への推進なのか、哀しい諦めなのか判らぬまま……<<人それぞれ>>というやつか、と僕には受け取れたのだ。僕自身はむろん、人生の終盤編において、割り勘とは! ということに議論し、結局オーラだ! という結論に熱狂するが如き進みゆきを希望しない。そのような生活文化に与することなく、歌手が唄うのを遠まきに励ましながら、公共の静けさへの寄与を気にしながら、生きていくことだろう。けれどもこのごろは、それがどうした、という気もするのだ。それは僕のことであって、他の誰かのことではない。
人それぞれということの重さ。この重さを如実に教えるのは、この人それぞれということ自体、僕のものであって他の誰かのものではない、ということだ。仮に、僕がその老人どもの議論に席を連ねたとして、僕は熱狂に目を伏せ、押し黙ったままだろう。店内のmoodを破滅させていることを罪深く恐縮しながら。それを老人は、若輩の経験不足、人生の味と知恵をまだ持たぬ者ゆえの、みじめだが好感触の沈黙と受け取るはず。その見方をもって、若輩たる僕へ、からかいまじりの励ましめいた、イジクリをしてくるかもしれない。それについても、結局は彼自身が上機嫌でいるためにそうする、単純なキメツケの手馴れた方法でしかないのだけれども、<<それがどうした>>、その看取もしょせん僕のものであって彼らのものではない。
僕は、洗練されていると自信は持てぬにせよ、僕なりに、人の話は真実聞こうとする心がけを持っている。今やそれは僕にこびりついたニュートラルの態度であって、僕は人が話すのを遮って自分の話を割り込ませることができない。相当の深酒をしてもできないのだ。結果、話に話が割り込むということが延々と繰り返される類の酒宴では、僕はときおり口を半開きにするものの、ついに沈黙したままに終わる。僕としては、無限に忙しく開閉する自動ドアの前に立ち尽くし、ついに滑らかな一歩を踏み入れることなどありえなかった、というような不可能性に晒される感触なのだ。
僕だって生きているのに……
僕は、ある種の職務において、その目的の達成のみに真剣になったときは、特に面談での交渉において、まるで逆の方法を採ることもできる。相手の話を聞かぬように初めから企んでおき、相手が話すたび、大声で――いやだから! と気分を害したふうに割って入る。とにかく何を言っても割って入る。相手を脅かす大声で不意打ちを繰り返し、ひたすら嫌な空気と不機嫌の圧力だけを高めていく。すなわち、交渉の場そのものを、相手にとっての不毛の地獄と損失の場にしてしまえばよい。先方がその損失に耐えられなくなったら、先方は交渉を手打ちにするしかなくなる。特に、先方にそれを苦手とする気配があったなら、こちらは有利を笠に来て、とにかく相手の憂鬱をオーバーフローさせることに集中するべきだ。
僕はいくつかの現場で、結局この方法しか有為にはたらかぬ、ということを経験したが、その方法と技術によって目的を達成したとしても、もちろん心豊かに思えたことはなかった。このようなものはしょせん、程度の低い者同士として、なおかつ分のある立場においてでしか成立しない。
にもかかわらず、この暴行めいた方法なり、それに対抗する方法なりを持たぬ者を、結局僕は信用もしないのだから不思議なものだ。それはまるで、強力な軍隊を持たぬ国を結局は信用しない、ということに似ている。大声で、割り勘とは! と議論する老人たちが、いざという時には声が弱くなる連中であることを、僕は確信的に予感している。
またここに新しい男が登場する。貧相な中年男のスマート・フォンが、シーチャカシーチャカシーと気障りな音を立てた。そして、それよりはるかに大きい声で、アノサァ! と男は通話口に怒りを表した。
アノサァ! 一時半ッテ約束シタジャン! 違ウノ、電話スンノガ遅イッテ云ッテンノ! チョットハ常識的ニ考エテヨ。ソウイウトコガ迷惑ダッテ云ッテンノ!
煮えくり返るはらわたが噴出するというふうの声に、さすがに老人たちも一時的に議論を中断した。
これにしても、やはり人それぞれだ、と今の僕には思える。
もはや、老いと若きとの区分けも取り払い、彼らは――と漠然とした呼び方が妥当と思うのだが――、「彼ら」は、つまりは「ワシラが正しい」と思っている。これは彼らにとって永遠の大前提で、揺るぐこともない。であれば、そこに疑問を差し挟む僕の声など、そもそも種を植えこむ土壌からして存在しないわけだ。この断絶の絶対性を、人それぞれということの重みに、僕は今まさに感じている。
ある一つのヴィジョンが浮かび、それは目新しいものではないはずが、スゥーと全身のノボセを吸い取ってゆく。頭頂部から頬を撫で、首筋の後ろを通り過ぎ、肩甲骨から腰へ、またそのまま爪先へと降りてゆく。全て通り去ったあと、下腹部にのみ平穏の熱量が灯るふうだ。
無数の透明フィルムがある。無色透明のそれには、それぞれの絵が描きこまれているが、全体が苛立たしい無秩序に見えるのは、その複数のフィルムが重ねられているからだ。その中で、それぞれのフィルム動画が、それぞれの気ままに動くのみ。だから重ねられた全体として見ればぐちゃぐちゃだ……けれども、その中の一枚を取り出してみよう。その一枚にはただ一人の人物が孤独に描かれているのみだ。
四人組の老人は、本当に四人でいるのではなかったのだ。一枚のフィルムには孤独な一人ずつが描かれているにすぎず、それを重ねて合成してあるから見た目に四人に見える。本当に一枚のフィルムに四人が描きこまれているわけではなく、彼らは互いに別次元に存在している。だからこそ、彼らは互いの話に互いを割り込ませることができるし、野放図な大声を発することもできるのだ。
この四枚のフィルムを、十枚、百枚とカサ増ししたとして、一枚のフィルムが豊かになることは決してない。一枚ごとは、やはり孤独な一人ごとが写っているのみだ。
<<僕はもう二度とこの話をしないだろう>>。冒頭にそう示したのは、人それぞれということの重みの中で、思えば当然のこと、<<彼らのことは僕のことではなかった>>からだ。僕は、僕のフィルムに描かれていることについて話さねばならぬ。
僕のフィルムに描かれていたのは、さして上手くもないが、丁寧に唄われたハナミズキだ。
電話口で怒りを露わにしていた中年男のところには、若々しく見えるフィリピン人女性が来た。ただちに、男の身に横から貼りつくようにして、男をなだめる彼女の勇敢さに、僕は敬意を覚えた。中年はまったく鼻の下を伸ばしている。老人たちは会計にゆき、その割り勘の実際につき、本当に長々と口論をした。
[了]