No.217 人格は心じゃない
このあいだ友人が、「どうも仕事にやる気がでない、根本的に、万事にやる気が失せている」と言ってきた。そもそも、なぜこんな苦労をして生きるんだろう? 別に仕事も、今のポジションが安楽に続けばいいし、恋人というのも正直いらない。恋人がいたらいたで、また苦労もあるわけだろう? そう言ってきた。そういう悩みというか、立ち止まって考えることは誰にでもある。そして考え始めると、自分が何かに燃えることには理由なんかなくて、しんどい思いをせずに生きていけばいいじゃないか、と気づいたふうになってしまう。
でもそう言いながら、友人は、その発見が心の底から喜ばしいという感じではもちろんなかった。むしろ自分の理屈に自分がねじふせられて、クタクタ、というふうだった。しばらくは僕も彼に合わせて、でも安楽なだけで生きていくのはつまらないから、と話した。今はもう流行らないけれど、熱く生きていくことは、合理的に見ても利益があるよ、と話した。彼はそれに納得したし、合意もしたけれど、もちろんそれで何か火がつくというわけじゃない。そんなことはわかりきったことで、そういう合理的な計算で火がつくなら、彼は自分でとっくにそうしている。
僕はむらむらきて、気がつけばこう話していた。
「お前さ、いい年をした男が、仕事にやる気もない、女性を口説こうともしない、心から自己を研鑽する気もない、そんなこと許されると思っているのか」
そう言ってみて、僕自身、まったくそうだ、と目覚しい思いがした。切り拓くには、はっきりこう言うしかなかったのである。「お前にはそんな権利ないんだよ」。
友人は、根腐れまでしていたわけではなかったから、これにハッとなった。かつての、疑問を持たずにまっすぐ生きていたときの自分を思い出し、その熱を一瞬とりもどした。もちろんそれだけで全てが片付くわけじゃない。人生の問題は難しいから、もっと厳しい問いかけや決断が彼自身にこれからもぶつけられてゆかねばならない。
こういうとき、相手に付き合うことが、必ずしも相手を助けることにはならない。彼は、自分が生きること、その演奏が、パッとしない、力を失ったと嘆いているのだ。自分がそれに付き合って、同じように力を失った演奏を真似してどうする。ズシンと踏み潰して、こちらはこちらの音をパーンと放ち、「それだ!」と彼に言わせねばならない。もちろん、相手が病気というレベルまで落ち込んでいるときは別だ。踏み潰しても新しい芽が立ち上がってこないことがある。けれども、このことの見極めは、ものすごく難しくて、ひょっとして人間にとっては一番難しいことかもしれない。誰だって人を傷つけるのはいやだ。そして、わかるよ、かわいそうにね、と自分を気を弱めて過保護な気分になることはすごく楽だ。楽な上に安全だから、どうしてもそちらに流れそうになる。それをあえて、落ち込んでいるものを踏みつけるというのにはものすごく勇気がいる。信頼関係もむろん必要だし、しくじれば本当に相手をさらに落ち込ませるだけになる。
けれども、そうしてあえて踏みつけてくれた人ほど、人は心から尊敬し、その人を自分にとって重要な友人にする。自分の人生の成り立ちに、こいつの踏み付けがあったものだと、そういう記憶は決して消えない。
人間の「心」というのが、本当には何を指して言うのか曖昧だけれども、これについて僕はこういう言い方をする。心という、白く眩しく光る玉があって、そのまわりを、人格という防護壁が取り囲んでいる。
そして、油断していると、その「人格」が自分の心なのだと誤解してしまう。
そうなると、本当の心の営みはもう出てこない。心のまわりをガッチリ取り囲んだ人格の防護壁、これが心だと思っているから、その防護壁を大切にしてしまう。防護壁の中から心が顔を出すことはなくなってしまう。
人格は防護壁として、心のまわりを取り囲んでいるものだから、いよいよ心の力が必要だというときには、その防護壁を打ち砕いてやらなくちゃいけない。むろん本当は、それは打ち砕く必要のないものだ。防護壁は、社会的に生きていくときには必要なものだが、正しく機能している場合には、不必要なときにはそれを脱ぎ去ることができる。けれどもこれが、純粋に正しく機能し続けていることなんてほとんどない。こびりついて、そこを防護しつづけてしまう。だからそれを取り外すには、打ち砕いたり、力強く押しのけたり、メキメキと音を立ててバラけさせてしまう、ということが必要になってくる。
人格は心じゃない。もし人格が心だったら、おかしい、まだ人格の整っていない乳幼児は心を持っていないことになる。心がなければ物体に過ぎないのだから、どれだけ意地悪をしてやっても平気だ。でもそうじゃない、乳幼児のころほど、その心を痛めつけるようなことをしてはいけないと、みんな知っている。それは乳幼児が、まだ人格という防護壁を持っていないから、全てが心を直撃してしまうのだと、みんなして知っていることに他ならない。
人格とは何か。これは「こだわり」を持つものだ。こだわりを持ち、価値観を形成し、善悪や上下、モラルやマナーや節度といったものを判断する。これはこれとして、人間は持っていなくてはならないものだ。
もしここまでの話で、「そうだ、人格は心じゃない」と納得し、身体の奥からむやみに愉快な力が湧いてきた、それを感じたという人があったら、それは心が防護壁から解放されて、その活動を開始したということだ。そして、その解放を許可したのは人格である。人格が、話を納得し、自分が防護壁であるに過ぎないことを認め、その防護の機能を、いま不必要である部分は解除した。それで「心」が顔を出した。
そのように、人格が防護機能をオンにしたりオフにしたり、的確にはたらくことを「理知的」という。理知的というのは、その人格の価値観が常に幅を利かせているということじゃない。
人格は心のまわりを取り巻いて防護している。そして、誰かの人格と接触したときには、マナーや節度を守って、互いの人格を分かり合おうとする。それはいわば社交だ。
けれども、この防護壁の機能として、いちばん理知的で、いちばん節度があるのは、それが誰かの「心」によってノックされたときだ。誰かの「心」が、自分の人格をノックしたとき、理知的な人格はもっとも誠実な対応によってそれに応じる。人格の防護壁を解除するのだ。「心」がノックしてきているのは、向こうがこちらの「心」に会いたがっているということ。それを門前払いにするのは失礼にあたるし、重大なマナー違反だ。だから人格は引き下がる。防護壁が取り払われて、互いの心が対面する。
だから、互いの人格同士をいくら交流させても、それでは心の出合いにはならない。どちらかが勇気を持って、みずから防護壁を取り払い、「心」で相手の防護壁をノックしなくてはならないのだ。これにはどうしたって勇気がいる。なにしろ防護壁は取り払われるのだ。それは危険な行為だから、初めはお互いに人格のありようを確かめようとする。そして、その人格が清潔で理知的だ、とわかったら、できたら向こうの心に先を越される前に、こちらから「心」で出向いてその人格をノックしにいこうとする。
でもたいていは、そうして心を出発させる準備をしているうちに、向こうからコンコンとノックされてしまうものだ。それで、しまったまた出遅れた、自分は情けないなあ、勇気がないなあ、と人は己を反省し、また相手の勇気が自分より勝っていることに敬服する。
とことん臆病な人は、これがうまくいかない。臆病な人だって、人の心には出合いたい。だからそれをずっと待っている。待っているのだけれど、いざ相手の「心」が自分の防護壁をコンコンとノックしたなら、途端にそのことが怖くなってくる。自分の防護壁を開けて心を出合わせる勇気が無い。
人の心に興味はあるから、のぞき穴から、やってきた心をじっくり見る。ノックは続いているけれど、それは無視してじっくり眺める。なんなら、怖くてしょうがないから、鍵を二重にかけて万全を期するほどだ。そしてじっくり眺めたら、もう満足して、帰ってください、という。防護壁がシャッターを突然閉めて、相手の心を蹴り飛ばして追い払う。相手は傷だらけだ。でも自分は何も悪いことはしていないという。自分だけ守っておいて相手を傷つけてよく平気ね、と弾劾されたら、「だって怖いんだもの!」「相手が心で来てもこっちの心を会わせる義務はないわ、わたしの勝手でしょう!」と反発する。
こういう人の人格は理知的じゃない。ふつう、会社などでさえ、課長が来たら課長クラス、部長が来たら部長クラスで応接するのが節度なのに、理知的でない人はそれを見物だけして門前払いするのだ。一国の首相が会談を求めて他国を訪問したとき、それを軍隊の銃口が出迎えるということは許されない。そんな国は理知的じゃなさすぎるので、もはやまともな国家として尊重してはもらえなくなる。そんなことは誰でも知っている常識だ。
それどころか、もっと野蛮な、逆の例もある。自分は防護壁をガッチリ固めておきながら、相手の防護壁に砲弾を撃ち込み、破壊して相手の「心」を露出させようとする。なんなら徒党を組んでそれをする。イジメなんかはその典型だ。虐待というのもそれだと思う。だから決まって、そういうことをする人は理知的じゃない。そういうイジメをする人は、砲弾の打ち合いでは勝ったつもりになれるかもしれないけれど、存在としては敗北者だ。防護壁を解除する勇気が持てなかったので、人の心に出合えない苦しさがあり、苦しさが彼にそれをさせた。
だからときに、イジメられていた側が、いっそ防護壁を全て取り去って、反撃に飛びかかってきたときに、イジメは収束することがある。相手の心が全力でこちらの防護壁を蹴り飛ばしにきた。サシで向き合ってみろよ! と怒鳴り込んできた。それを「怖い」と感じたことを、彼はうすうす認めざるを得ない。それで、もう彼はイジメができなくなってしまう。
彼がそれに気づくのは何年後のことかわからないけれど、本当に何かを怖がっていたのはイジメをする側の人間だった。それが怖いからこそ、彼らは徒党を組んでしかそれをやれなかった。
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人格というのは「こだわり」を持つ。こだわりこそ人格と言ってもいい。たとえば、高学歴で高収入の仕事をしている人はそれを誇りに思うし、そこからさらなる上昇を目指す。これが「こだわり」で、それは何も悪いことじゃない。女性だって、自分の旦那様が高学歴で高収入で、空気のいいところに住まわせてやりたいと言って、頑張って良いところに家を買ってくれたとしたら、その暮らしは彼女にとって誇りだ。彼女には誇りがあるから、自分のその高価で気持ちのよい暮らしを、達観ぶって無意味だと捉えたりはしない。人それぞれの暮らしがあるけれども、自分は上流だ、それを腹立たしく思う人もあるのは知っているけれど、自分はこの与えられたものと手に入れたものについて堂々と誇らしくありたい。そう思って胸を張っている。
こういうことについて、フンなにが上流だ、学歴だ収入だ、そんなものは俗人の典型的なイヤミで……と反発的に捉える人もいるが、これはその人が世俗のこだわりから脱却できていることを意味しない。それも「こだわり」なのだ。「そんなものは俗でつまらないものだ」という反発が彼のこだわりである。それもまた、何が悪いというわけでもない。人それぞれ、こだわりがあっていいし、それぞれのこだわりがあるからこそ人は人間らしく、またその人らしいのでもある。そして、自分はこの人のこだわりが好き、この人のこだわりが嫌い、というのも、またその人自身のこだわりであって、このことの中で人は人間らしく生きていく。もちろん僕だってその一人だし、好きな人、好きな女ということには当然のこだわりを持っている。
ただ、それらの「こだわり」は、あくまで人格が持つこだわりなのだ。「心」の現象じゃない。人格を心だと思っていると、そこのところを取り違える。
人格の「こだわり」を満足させるために、努力に邁進する人は力強い。力強いが、その人格の満足が心の満足だと思っていると、途中でよくわからなくなってくる。人格はいろいろなものを手に入れて満足していくのに、なにか幸福な感じがしない、ということになってくる。それはそう、彼は自分でゴージャスにした防護壁に眼を奪われて、ますます心というのが何だったのかを思い出せなくなるからだ。
ときに、若くして成功して富豪になった人が映像に映し出されると、あれっ? と思わされることがある。目にギトギト脂が浮いていて、笑っているけれど幸福そうじゃない。何もかも手に入れたはずなのに……と不思議に思えてくる。また、人もうらやむほど幸福な暮らしをしていたはずの人が、とつぜん自殺をして世間を驚かせることがある。いったい何が彼女を追い詰めたのだろう、と人人は不思議がる。人格を心だと取り違えているとそのようなことが起こってくる。
「こだわり」が、自分を苦しめているところがある。そのことは、多くの人が気づいている。普段は忘れていても、言われてみれば「そうなのよね」と誰でも思い出す。それで、こだわりを捨てればよいのかしら、とも発想するのだが、こだわりを捨てたら人は何もしなくなってしまう。それこそ、冒頭に話した僕の友人のように足をとられる。
そうではなく、こだわりはこだわりとして、思い切りやればいい。自分はなんとしてもフェラーリに乗りたい。せめてアルファロメオに乗りたい。そう「こだわり」があるのであれば、それに向けて邁進すればいい。こだわりに向けて努力邁進する人は力強い。それを失ったら人間はさびしいものだ。
ただ、それは「幸福」のためにすることじゃない。幸福のためにこだわりに注力するというのは、何も難しい話ではなくて、ただの「見当違い」にすぎない。なんのためにこだわりを満足させてゆくかというと、「こだわり」のためだ。こだわりはただこだわりのために頑張るのである。別にそうすることが良いのでも悪いのでもない。
こだわりなんかつまらないから、自分はそんなものに注力しない。そう思う人はまったくそうすればいい。それもまたひとつの「こだわり」だからだ。そのこだわりのまま全力でやってみたらいい。ただ後になって、「こだわりに囚われないように、必死でやってきたのに、幸福にならない」と嘆いたりしたらそれはやはり見当違いだ。こだわりにこだわらない、というこだわりを一生懸命やった。それでいいじゃないか、と満足しなくちゃいけない。それが幸福につながると思っているのは、的外れな思い込みだし、僕がよくいう言い方でいえば、それは「ド厚かましい」のである。
貴様の人格なんぞが……という言い方を僕はよくする。人格というのは、あるていどの年齢になれば、それは自分で構築したものだ。そのように、小我で作り上げたものが、幸福という幽玄の現象に、何か足しになるというのがド厚かましい。自分で作り上げた人格はそれ自体その当人の「こだわり」だが、それはこだわったらよろしい、けれども、それで幸福が手に入るという思い込みは思い込みを超えて厚かましいのである。自分の加工品が神様を唸らせるとでも思っているのか。
人間は、血や肉や心臓を自分で作った覚えが無い。それと同じで、幸福というのは自分で作った覚えのないものだ。だから人は、幼い頃にでも、あるいは幼い頃にこそ、純粋な幸福の記憶を持っている。
人の幸福は「心」に起こる。「心」の現象である。心が活動しているとき、それだけで幸福はすでにあるが、なんであればそれは物足りない。だから、人と幸福を確認しあったり、より純度を高めあったりしようとする。それで、人の心は人の心に出合おうとするのだ。
「こだわり」については、むしろ思いっきりやったらいい。その注力を0から100まで調整できるなら、いっそツマミを壊して120まで引き上げたらいい。なぜそうするのがいいか、ということの理由は無い。ただの僕のこだわりである。そうするのが面白い、と僕が思っているだけだ。
僕がそれを面白いと思うのは、むしろこだわりに120までエネルギーを向けられたときこそ、そのこだわりに囚われていない、自由だ、と思うからだ。こだわりにはこだわり以上の価値はない、そのことを掴みきれていないと、そこに120のエネルギーは向けられない。だから、そこに120のエネルギーが向けられて機能しているときこそ、こだわりはこだわりでしかない、それを掴みきっているということをエネルギッシュに証明するのだ。こだわりがこだわりとして純粋になる。そのようなエネルギーを受け止めきれていることは、エンジンの機構にまったく不備が無く高精度だからだ、と証明する。
ここで油断して、「これだけ頑張れば、幸福が得られるのでは」とわずかでも思えば、その途端にエネルギーはがくんと落ちて転倒する。それは、ギアが接続すべきでないところに接続したからだ。いやあ甘かった、と痛みと共に自分の未熟を思い知る。
筋道としてはもちろん、そこにエネルギーをつぎ込む理由は無い。こだわりにいくらエネルギーを燃やしても、それは心に起きる幸福の現象とはまったく関係が無い。むしろ、本当にこだわりをゼロにできたとしたら、その人は喪失しようのない幸福と共に生きることになるだろう。仏教の悟りに触れた高僧などはきっとそれだった。
でもそれは他人の話だ。他人の話をしていてもしょうがない。自分にはこだわりがあるのだから、こだわりから解脱した他人のことはまるで関係が無い。自分にはこだわりがある……これをどうしよう? 自分はこだわりにはソコソコこだわりますし、それとは別にある心の幸福も、うまくやっています、なんてのはいかにも怪しい。それを確かめるには、むしろこだわりの側のアクセルをグンと踏み込んでみたらいい。その途端、エンジンがブスンとなって、ネジが飛び散って煙が噴き出す、そうだとしたらそれはいんちきじゃないか。それはなんだかんだで、人格の満足が幸福につながるとこっそり思っている。人格も心なのでは、とこっそり思っている。だから人格だけをフル回転させることができなかった。でもそんなことでは、おっかなびっくりアクセルを踏み、おっかなびっくり生きるしかないわけで、つまらないじゃないか。
つまらなくてもかまわない。そうかもしれない。けれども、どうせ何を損するわけでもないのだから、せっかくだからつまらなくはないほうへ進んでみようというのが僕のこだわりだ。アクセルをグンと踏み込んでみれば、ほらやっぱりというふうに、エンジンはブスンと止まって煙を上げる。やっぱりポンコツだったんじゃねえかと、バレてしまって笑い転げるときは面白い。
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こだわりを満足させられた人はうらやましいし、心の幸福を共有しあっている人もうらやましい。それはうらやましいと思うのが健全だ。自分もそのことへ向かってゆきたいのだから、それを否定しては自分の進む先が無くなってしまう。
具体的にはこうだ。飛行機ではファーストクラスに乗り、地上ではハイヤーかリムジンに乗って、友人に会う。おしゃれで生地の良いスーツを仕立てている。社会的地位もあり、頭がよくてウイットに富み、人人に尊敬され慕われている。友人に会うと、「このクソ野郎、元気そうでまだ天罰が下ってないらしいな」「うるさい、俺はお前の葬式で唾を吐くために生まれてきた、その仕事がまだだ」と言い合う。お互いの尻を蹴りあって笑いあっている。幸福そうだ。仲が良いとかそういう次元ではなくて、深くつながりあっている、生の物語が交わっている、ということが見て取られる。彼の恋人はもちろん抜群の美人で、彼はハイクラスホテルのスイートルームに当然泊まる。彼は男の気持ちをそのままにぶつけ、彼女の髪の毛をつかんで全力で彼女の全身をくまなく犯すが、彼女はその全ての求めに呼応して感じて無理がない。「ひどくない?」と誰かに聞かれることがあっても、「なぜ? 彼のしたいようにしてもらえるときが、わたしの最高の幸福なのに」と平然とした疑問で返される。「あなたの幸福もそうでしょう?」と生真面目に問い返される。彼と彼女は、ワインリストから、値段を見ないで面白そうなものを注文する。
こういうのはうらやましい。当たり前だ、これがうらやましくなかったらそれはもう生者ではない。ここに、「うらやましくないわ」とガツンと反発する気持ちが起こったら、それはむしろ本当に身を切られるほどうらやましいか、そうでなくても何かしらこだわりの種があるのだ。それは心の幸福には関係ないけれども、頑張ってあえて注目すべきところがある。同じこだわるならこうこだわればいい、「全力でうらやましがって身を切られるのがわたしのこだわり」と。自慢じゃないが、僕の若い頃なんかまさにそれだった。今でもさして変わらない。誰かキスしてくれ、と率直過ぎる叫びをこらえて部屋でうずくまっていた。男なんてそんなものだ。
うらやましい話にアラ探しばかりする習慣をつけてはならない。それをやると、いつの間にか自分の精神は週刊誌のルポライターになってしまう。その発想が鋭くドギツクなったとしても、それは何も賢くなっていない。それよりは、「誰かキスしてくれ」と叫んでいるやつは今も無数にいるのだから、できればそいつを助けてやってくれ。それは本当に叫びなんだ。強がっていても、それは実は本当に苦しい。
重ねて言うが、人格は心ではない。僕の話していることは実に単純で、心があり、その周りに人格があるのだから、そのそれぞれをフルに活躍させよう、というだけのことだ。そうすれは心は幸福に満たされ、人格はこだわりに燃える。ただこの単純なことが、実際にやるとなると、ただごとではない、ということなのだ。それはただごとでないほど難しく、おそろしく、そして感動的だ。
「人格は心じゃないんだ」という知見は、とても大事なものだと僕は思っている。だからそれを話した。何かがうらさびしくてやりきれないとき、それは心を求めているのに自分が人格で振る舞っていることによる。「人格は心じゃないんだ」ということを知らなかったら永遠にこの錯誤から逃れられない。
人は人の心を大切にしようと思うし、自分の心も大切にするべきとし、大切にされるべきだと思っている。でも心のほうを重視するとき、それは人格を突破するということでもある。人格を心だと思っていたら、その人格を大事にしてしまって突破ができない。男性が女性の上着をずっと愛撫していたらおかしいだろう。でも人格を心だと思っているというのはそういう見当はずれなのだ。
人格は防護壁の役割を果たしているから、それを脱ぎ去ったり、突破したりすることには勇気がいる。多くのばあい、たぶんそれは、「人格がばらばらになりそうなほどの」という体験として、はじめは感じられる。僕は経験的に、そういう表情をよく見てきた。彼女は人格を心だと思っているので、心がばらばらになりそう、と思っている。でもそのばらばらの奥に、もっと確かなものがあることを自分で感じる。「これは何?」と、驚きあわてふためく。でもその、初めて見るそれが本当の心なのだ。
人格は心じゃない、ということが、いまいちわかりにくいときには、一度その人格に自分で反逆してみればいい。それは人格を意志でこじあけてみることだ。自分にはこだわりがある。一度、そのこだわりに自ら背き、反逆してみる。いきなり大きなことはできないだろう。でも探せば、手ごろなことがあって、それを見つけた途端、人は「あれっ?」となる。「これは何?」と驚きだすのだ。
たとえば、自分のこだわりとして、短いスカートで男の気を引くふうなのはどうも、と思っている女性がいる。そのこだわりは、それはそれとして結構だ。ただ試しに、そのこだわり、価値観に自ら反逆する。あえて短いスカートを穿き、軽薄な遊女のような格好とメイクをさせる。それは価値観に背くことだからものすごい抵抗がある。馬鹿馬鹿しい、と初めは取り合う気になれない。
でも、そこでせっかちに投げ出さない。そうして馬鹿馬鹿しいとしか思えないのは、まだ人格の防護壁に余裕が残っているからだ。人格の強靭さのほうが勝っているから、まだ心の露出という現象が無い。少しでも心の露出を自分に起こすにはもう少し力を加えてやる必要がある。たとえば、香水を塗りたくってみる。吸えもしないタバコに火をつけて加えて歩く。それを投げ捨ててみる。道端に唾を吐いてみる。近所迷惑だがそれは後でボランティアでもして帳尻を合わせよう。価値観に背くものならなんでもいい。付け爪、ウィッグ、タトゥシール、なんでもありだ。好きじゃない飲み物を買って、飲み残したまま捨ててしまう、なんてのもいい。地べたにだらしなく座って、ボールペンで手帳に落書きをして汚す、まちがったペン握りをして、力を入れすぎてペンが折れてしまうぐらいがいい。古い知り合いになんの予告もなくいきなり無意味な電話をかけてみる。明らかに食べ切れないほどのアイスクリームを買ってツマミ食いして捨てる。まったく興味のない本を買う。バストに自信が無いから、あえて胸元をアピールする服を着る。
そうして力を加え続けていくと、保証していい、どこかで何かが軋みだすようにして、何か強烈な笑いがこみ上げてくる。それはきっと、「もう馬鹿馬鹿しすぎて、逆に」と感じられるだろう。なんだか、もうここまできたらなんでもいいや、という気がしてくる。自分は何でもできるんじゃないか、という無敵の感覚が接近してきている。本当に身体に力がモリモリ湧いてくる。ナンパされたら頬にキスしてやろうかな、なんてことを考え始める。そうしたアイディアはだんだんと勝手に噴き出してくる。それは人格の内部に押し込められていた心が、その防護壁に隙間が出来たことにハッと気づき、内部から「おい、ここから出せ、出してくれ」と声を発しているからだ。
こうして、人格に自ら反逆すること、価値観に背くことで、誰だってその奥に自分の「心」があることを知ることができるし、その一筋の条光さえ圧倒的で愉快なはたらきかけを自分にもたらすことを確認できる。そこにある心がになう「幸福」というものも、人格の満足とは丸きり別だということも、その条光が差しているうちは誰だってわかるものだ。
ただ、これはあくまで、むつかしいことなのだ。それは、構造が矛盾を土台にしているから。価値観に反逆するということは、自分を無価値なほうへ、愚かなほうへ、馬鹿なほうへと突っ込ませることなのである。これがむつかしい。それも手加減をした突っ込ませ方では、価値観への反逆になっていないので効果が出ない。もう一押しが必要なのだ。自分としては、愚かで無価値にしか思えない、馬鹿馬鹿しい……そのさらに向こうへ一押しする。そこまで押し込んで、初めて人格の防護壁に隙間があく。何か価値のあることをしようとしていたらこれはできない。だから僕は、その価値をうんぬんする人に向けて、ときに「ド厚かましい」と言う。「貴様の人格なんぞが」と嘲弄してやる。そこでムカッときたほうが、愚かなほうへ自分を突っ込ませるやけくそも出現しうるからだ。それで僕が嫌われてしまうことはしょっちゅうだけれども。
そうして、人格は心ではないということを知ったならば。人格という防護壁の奥、価値観などとは無関係に、心というものがあり、それはむやみにモリモリ力を湧かせる愉快なものだと知ったならば、あるとき「あっ!」という体験をする。
誰かが自分の人格に触れてノックしている。その感触が、「心」のノックだと気づくのだ。その独特の呼びかけの感触。あっこれは、何か知っているぞ、とあなたは愉快になってくる。
目の前の人が自分の心に会おうとしている。会いたいと求め、呼びかけてきている。その目の前の人は、自分と価値観を近しくする人ではないかもしれない。でも価値観の整合はさして重要でないことが実感としてわかる。これは人格の出合いではないから、価値観が幅を利かせる必要はない。「あなた女グセ悪いじゃない」「でも俺はお前のことが好きだ」「それはなんとなくわかるけど、困るね」「困ってるんだよ」「自分を変えてみせます、とか?」「そんなこと言ったら軽蔑するだろ」「うん」「困った」「困ったね。でもなんか、ありがとう」。価値観やこだわりなどを突破して、二人の心はこうして出合う。「わからず屋」同士の互いが、そのまま分かり合っている。
お互い、何かが馬鹿馬鹿しすぎて笑い始める。人格が引き下がったら色んなことがどうでもよくなる。こだわりなんてつまらない。でもそのつまらないものを全力でやるわよ、と思う。馬鹿馬鹿しさの笑いを包む、しっとりした空気がある。それが妙に胸に来る。二人は幸福だ。
[了]