No.220 communication, オレらの言葉2
言葉は「オレら」の足音に過ぎない。「オレら」に関係してはいるが、「オレら」はいちいちそれに聞き耳を立てない。然るべき一歩には然るべき足音が伴う。それが印象的に記憶されることはもちろんあるが、足音を元にして一歩が踏み出されるのではなくその逆だ。
僕が僕の言葉で話すことは簡単だ。僕には思考があり、記憶がある。それらの思考と記憶を「教える」ということができるし、意見に練り上げて「言う」ということもできる。つぶやく、ということをして、人を愉快にすることもできる。
何もかもがcommunicationであるわけじゃない。そうでないものもあっていい。僕はときにつぶやくし、意見も言うし、思考と記憶で何かを教える。誰だってそうしているはずだ。誰にでも思考と記憶がある。ちなみにイメージというやつも思考と記憶の映像的なものでしかない。
「オレら」は何を言ったっていい。「オレら」であり続けるぶんには。が、何を言ってもいいと言われても、足音ってのはそんなにけばけばしい音が出るものじゃないはずだ。当たり前の音しか鳴らない。砂利に踏み入れば砂利の音。それは何も奇抜なものではなくただ確かなものだ。
僕にはたくさんガールフレンドがいる。そして彼女らは僕を溺愛してくれている。事実だからもう隠してもしょうがない。中には中学生もいる。彼女らは、おいオレを慰めろと言われれば、飛んできて我が身を投げて与えてくれるだろうが、ただそれだけをしてもしょうがない。それはポルノグラフィティである。僕はポルノそのものも好きだし、じつさいそれで慰められもするのだから、偉そうには言えない、それも無いですっからかんよりは、ポルノだけでもあったほうがよいけれども、本当のことを言うとそうじゃない。
ポルノが芸術へ昇華するためには物語が必要だ。
僕と女子中学生が「オレら」になってはなぜいけない。「オレら」になるよりはポルノをやりなさいということか。そういう教育があるせいで、すでに美人の片鱗を見せている彼女が、なかなか「オレら」になるために踏み込んできてくれない。そうするのが何か失礼に当たると思っている。
ふつうで言えば失礼だ。ありえない、と、誰の意見でもそうなる。意見ならばね。でも僕と彼女が「オレら」になってしまったら、もうオレらの間に意見はない。ただちに物語、「オレら」が見る夏の風景はただちに眩しくて青春だ。
そんなものは、外側から見てもわからない。彼らが見ているのは本棚や本であって物語ではない。本の背表紙を見て中身がわかるわけがない。妄想でウットリすることはできるけれども。
自分には思考と記憶と意見があって、相手の誰もが同様にそれを持っている。それを互いに言い合う、何か決定的な意見をババーンと。そういうことこそが必要な場合も勿論ある、それは例えば国際会議とか外交とか。あれは別個の共同体の言い合いである。共同体というのはそうでなくてはならない、なぜなら共同体は内部の者以外を「オレら」とは思っていない。
いわずもがな、僕は共同体というのが嫌いだ。企業とか国家とかいうのはある程度しょうがない。日本の軍隊は日本人だけを「オレら」とみなして戦ってくれないと具合が悪い。
でも個人的な営みをするのに、共同体の精神を積極的に作るのは悪趣味だ。
オレらオレらと言っているけれども、一般的には僕などはひどい個人主義である。
***
新入社員が飲み会に参加しなかったとしても、そんなことは何も問題じゃない。おうボウズ、と肩を叩いて、飲み会に来ないのか、イジメるリストに入れるぞ、ある朝お前の机にはヘビが入っていたりするぞ、とけしかけて、「勘弁してくださいよ」「じゃあ次回な」となってしまえば問題ではない。問題はあくまで共同体の精神にある。共同体は「オレら」を形成するかに見えて、内部の者を均一化しようとする。それぞれの個性など認めないのだ。もしそれに反逆しようものなら、異分子がいるとしてただちに「弾圧」が開始される。遠くからいろいろイヤミを言う。「最近の若いのはわからんね」「お気楽にお仕事できてうらやましいね」などと。要するに、共同体に屈服して同一化するか、さもなくば出て行け、辞職しろというだけの圧迫である。まったくひどい話だ、こんなもの誰の利益にもならないのに、誰かを慰めるためにこのような風土が保たれているのである。
共同体というのは人を依存させるのだろう。この依存から離れれば、ただちに、たとえば共同体の中で偉いはずのおじさんたちは、街中でナンパをしても見向きもしてもらえない。街ゆく女の誰一人、興味は持たないし惚れてはくれない、それどころか鬱陶しいとしか思ってもらえない。それが事実である。だから、新入社員についても、彼がそのおじさんに興味を持ったり尊敬したり惚れてくれたりはしない。当たり前だ。
だからこそおじさんたちは、金を払ってでも綺麗な女の子に話を聞いてもらうんじゃないか。そうしないと相手してもらえないのだから。新入社員だって、給金が時間あたりで出るというのなら、飲み会にちゃんと出席するだろう。それがなかったら職務怠慢だ。それを給金も出さずにブーブー言うのは、払いが悪いくせにキャバクラでいい顔をしようとする厄介なおじさんと同じである。みんなそんなことわかっているくせに、ひとまず新人類を攻撃して気持ちの余裕を持とうというのだから卑怯だ。こういう人たちがゆとり教育を採択したのである。ゆとり教育を受けた当人らがそれを採択したわけじゃない。
一方で、もし僕が彼の先輩だったならば、新人のくせに飲み会に参加しないなどと、断じて許さない。ホホウ俺に歯向かう気かね、と闘志を燃やすだろう。僕は先輩という立場に乗っかって後輩をイビるのを大の得意としている性悪である。僕は彼が生真面目に仕事をしているところ、その椅子の背を掴んでガタガタ揺らし「行こうぜー飲みに行こうぜー行かなきゃ殺す」と言うだろう。
僕はひどい個人主義者なのだ。僕がどのように振る舞うか、僕の個性が尊重されないのでは困る。尊重されなかったら不愉快だ。ただ、「オレら」である。「オレら」の中にはいろんな奴があっていい。そのいろんな奴ということの中に僕も含まれてある。オレらの中には飲み会なんぞに否定的な新人がいていい。いていいが、そいつは踏みにじりてぇな、と色気を出す奴もやはりいていい。
そんなものは、僕と彼との対決なのだ。オレらの中にはそういう対決もある。あっていいし、そのどちらが正しいというのでもない。ただそれで新入社員が折れて、負けましたよと態度を変えたなら、そこには何があったか、それは「オレらの時間」、「オレらのやりとり」があった。ささやかながら一つの物語だ。
共同体というのは、この「オレら」が得られなくて、憐れにもなおそのユニットを崩壊させずに保たねばならないときに、やむを得ずほどこされる防護措置である。共同体の中に憲兵を巡回させないと、人に頭は下げないわ、髪の毛は金髪に脱色するわ、醜い態度と汚い言葉が噴出するわという、絶望的なものを内包しているから、治安維持のために銃がいるのだ。絶望の中で人心は冷え切っているし、もともと鍛えられてもいないから、仮に誰かが髪の毛を金髪に脱色しても、彼らはそれに遠くからイヤミを言う能力しか持っていない。あるいは完全に見てみぬふりをして、僕には関係ないですから、と無視を決め込む。
こういうのはもちろん「オレら」ではないし、共同体であっても、本心のところではみんな脱出したがっている。この共同体の圧制を吹き払い、「オレら」の時間を取り戻すのだ、と立ち上がるよりは、ここからただちに脱出するべき、この共同体は救済不可能である、と厳しく査定している。まあそんな中で元気を出せというほうが無理難題というものだ。
そういうことはいくらでもあって、機構の運営上は、本当にそれがやむを得ないこともある。たいていそうだ。けれども、それを個人的な営みにまで持ち込んでくるのはまったく悪趣味としかいいようがない。
一万人と握手しよう、みたいなスローガンで、街頭活動をしている若い人たちのサークルがあった。表参道などにいくとよくいる。通りすがり、女の子と握手するのはスケベすぎるので、若い男と握手をした。それで、珍妙なことをやってるな、と話しかけてみたのだが、返ってきた態度はおそろしく閉鎖的だった。別に悪意を篭めては言っていないのだが。(だって珍妙だろう、やっていることは)
見ると、若い者たち同士、サークルの仲間同士は、とても仲が良さそうだ。たぶん「オレら」と思っているだろう。それが無いよりはあったほうがいいし、僕はリベラリストだから新しい思い付きをとりあえずやってみるというものには大前提として肯定的である。一万人と握手するならしてみればいいし、そうできるだけまだエネルギーがあるとうらやましく思う。賞賛する気持ちもある。
でも、握手をするなら、僕と彼が握手しているとき、僕と彼が「オレら」だろう。なぜ握手しているのは僕と彼なのに、引き続き彼の「オレら」はサークル仲間なんだ。それならサークル仲間と一万回握手するほうが筋が通る。だめだよ愛が無いのに水増しして愛が大量にあるように見せては。それは薄まりすぎてもうただの水でしかないから。
そんな感じで僕は、共同体がきらいで、閉鎖的に凝り固まった「オレら」の「気分」はきらいである。こんなもの本心から好きな人がいるわけないのだから、せめて個人的な営みにその悪趣味を持ち込むものじゃない。その閉鎖的なオレらの共同体に、依存したい……という場合は、まあしょうがない。人それぞれの事情がある。僕は個人主義者だ。ただ僕は、その個人主義に拠ってこそ、「珍妙なことをやってるな」と言ったことを取り下げようとも思わないのだ。
せっかく握手をした。通りすがりだが袖すりあうも他生の縁。よう、てな感じだ、僕からすれば。
それが「オレら」ならいくらか話はできた。
「なかなか珍妙なことをやってるな」
「我ながらどうしてこうなったものやら」
これで笑い会えばよかったろうし、たぶん互いに気分がよかった。その気分の良さがどのようでありうるのか、実験のために一万回の握手を路上でしてみるというのなら話はわかる。何百人かガールフレンドができそうでうらやましい。
僕が学生時代にしていた部活動においては、「キャンパスライフに合唱とかありえん」というのが圧倒的な輿論だった。その合唱を週に三回も四回もけっこう真面目にやっていたのだからおかしい話だ。僕は今でもこの「合唱」という単語を聞くと背中に寒気が走る。僕だけでなく、あのときいた「オレら」の全員が今でもそうだと断言できる。
オレら、という言い方も、やめろや、と激しく否定されるだろう。本当の友だちは友だちと呼びがたいように。でも言葉の上ではオレらと表記するしかないのでやむを得ない。
「オレらとか言うなや、寒気がするわ」
「まあでもオレらという言い方が適切でしたね、実際」
どのように言っても言葉は問題でなくなる。それは「オレら」の足音でしかないから。
でも、オレらとか言うなや、と、圧倒的に言われるだろうな。どちらかというと、僕などは最右翼として「寒気がするわ、やめろボケ」と言う側だ。個人主義者の僕としては、「オレら」などという言葉に寒気がしないはずがないのだ。
***
「好き」という言葉には寒気がする。「コミュニケーション」という言葉にも寒気がするし(だからcommunicationと英語表記した)、「言葉」という言葉自体にも寒気はある。実はよくよく見ると、全ての言葉にこの寒気はある。ただその多い少ないはあって、重要な言葉ほどその寒気が強い。たとえば、「都道府県」とか「二次関数」とかいう言葉には寒気が少ない。これは、なぜそのような寒気が伴うのかはわからないのだが、言葉の性質のようなので、これを扱う上ではしょうがないデメリットだ。そこは読み手にとって了解済みというか、大目に見てもらうことが必要で、その上で、だからこそというように、話す側は言葉の寒さをよく知って使いこなさねばならない。誰だってそうしているはずだ。ある種の言葉を迂闊に使えば「寒っぶ」と言われるし、なんでもかんでもその「寒っぶ」で蹴ってしまっては会話が成立しないとみんな了解している。
さてそうして言い訳を忍ばせておいて。ふつう我々は、言葉とcommunicationと「好き」について、次のように捉えている。
・言葉を交わし、communicationが起こり、「好き」が発生する。
でもこれがどうやら真実は反対のようである。つまり、
・「好き」が交流し、communicationが起こり、言葉が発生する。
ここでいう「好き」というのは、特定の異性に向けてウフッとなるそれの「好き」ではない。なんというか、好き、という「感情」ではない。差別的な好きではなく普遍的な好きだ。ぼんやりしているが、はっきり「好き」でないといけない。わかりにくいが、そもそも説明でわからせられるものとは思っていない。
とにかく、この「好き」が交流する。交流すると、互いの感性が互いを捉えているような状態になる。オレとこのコ、という状態でなく、「オレら」の状態になる。
これがcommunicationという「状態」だ。不思議なことに、一般的にいうコミュニケーションが交わされる前に、communicationという「状態」だけがまず成立するのだ。「オレら」である。この時点で、言葉はどうでもよくなる。どうでもいい、という実感が急に得られてしまう。そこで「オレら」がなんやかんやすると、必然としての「言葉」が発生してくる。だから足音だ。なんやかんやすると必然の足音が出るのだ。
どうやらそういうことらしいのだが、こんなもの、わかったところで意味はない。わかったからといって出来ないし、出来ていたらわかる必要はない。難しい仕組みを「理解」することは、僕とあなたのそれぞれ別個の営みであって、「オレら」の営みではない。「オレら」がそんなことを「理解」する必要はない、なぜならもう「オレら」は成立しているのだ。
ただ、正しい知見というのは、間違った思い込みを剥ぎ取るのには有為であって、僕はコソコソとその知見が実は好きである。ここにおいて言えるのは、いわゆる「言葉のキャッチボール」はウソだということだ。それはウソだとここまでに何度も言っている。言葉はcommunicationに伴う足音で、聞き耳を立てなくていいと何度も言った。
言葉のキャッチボールという慣習的な言い方に対抗するなら、「言葉の花火」というほうが正しいように思う。見つめあう二人があって、いや別に見つめあっていない野郎どもでもよいのだが、その周囲に花火が次々打ちあがるのだ。それは気分がよいし、強烈なものが上がればオオと歓声も上がる。そして花火というのは、打ち上げられてドーンと輝くのが良いのであって、その光の造型に意味はない。好きなだけ打ち上げたらよいし、できれば華々しいほうが楽しい。
花火を一人で見上げていたらさびしいだろう。不思議だ、僕は割りとどんなことでも一人でやれるが、花火を見上げるのだけは一人でやるとどうしても辛い。つまり花火は絵画的ではないわけだ。絵画は一人で見るほうがいい。花火というのは実は花火が美しいのではなくて、それを「オレら」で見上げる、その「オレら」を飾るものとして素晴らしいのだ。だから花火鑑賞会ではなくて花火大会という。鑑賞するのではなく人人が会うのである。
(独り言:そうか、だから僕は、昔は花火職人になりたいと思っていたのか。大学で化学科に入った動機もそれだった。芸術家になりたいわけではないと言ってきたが……僕は今もなお花火を打ち上げて人人に会いたい・会わせたいだけなのだ)
(これが花火だとしたら俺は全てを肯定できる)
ありふれてこう言うことができる。誰だってまずい状態に陥ることはあるし、わからなくなって迷いだすことはある。常にそこに言葉は付きまとうし、そこで練り上げた思考や意見を言い、何かを教えようとしたりもする。
ただそれらの言葉は、「花火」か? あなたは花火を打ち上げる職人になったとき、暗闇で装置を仕込んでいるとき、そんな難しい顔をするか? 何かにビクビクしたり、重要な意味を考えるか。打ち上げられる花火の下で、恋人同士がたまらず深くキスをしたら、よっしゃ! とガッツポーズが湧き出てこないか。
本当にその両手にあるのは花火か?
一般的に言葉は「言い合う」ものだ。思考や意見や記憶や情報、それを言い合ったり教えあったりする。それで言葉のキャッチボールと言われるのだが、このキャッチボールというのは意外に言葉でやると滑らかではない。それは二人の滑らかな営みではない。いちいち投げなくてはいけないし、いちいち受け取らなくてはならない。
ウソなのだ。そういう言葉のやり取りもあるにはあるが。たとえば、ばっちり繋がっている二人のダンスは、それがソシアルであれアイスダンスであれ見ていられる。観ていて引き込まれるものがあるし、感動的なものがある。けれども誰かのキャッチボールをそうして見てはいられない。感動的なものはない。それがそのようにつまらないものなら、やってはいけない。
言葉を「言う」。意見や情報として、それを聞く。聞いたら「理解」しないといけない。理解が不十分だとそこから「質問」も言わなくてはならない。質問された側は、またその質問内容を「理解」せねばならない。またそれを理解したら、それを評価したり、その先へと展開させねばならない。そういうやり取りも人間にはある。有意義だ。けれどもそれは花火ではない。簡単にいうと、純粋にそのやり取りだけならテレビ電話でいい。でも花火だけはどうしてもテレビ中継では体験できない。
わざわざ肉の身を運んであなたに会いに来る人がいたとしたら、それはあなたと二人で打ち上げ花火がしたいから来るのだ。花火大会の夜にキャッチボールなんかしていてはいけない。言葉は二人の空にふさわしいものとして輝き散っていくだけだ。こだわるな、散らせろ、写真に撮って保存しようとするな。人に話しかけるために話しかけるな。全身に打ち上げる花火をまとって誘いかけるんだ。
***
「オレら」という言葉を見つめて何かいいことになれば楽だがそうはいかない。その言葉を見つめるのは「自分」だし、「オレら」を重視しようというのは自分の「意見」だ。だから「オレらってさあ」と馴れ馴れしくなるのは「オレら」の現象ではないし、「あたしたちって、ウフフ」みたいなのも勿論違う。話にならない。
「オレら」ということがいくら理解されたとしても、理解とか思考とかするのは「自分」の現象であって「オレら」のものじゃない。
それどころか、
「オレらとかいう現象が全然わからんわ」
「お前なんかにわかってたまるか」
「まったくだ」
と熱く笑っている関係のほうがはるかに「オレら」を実践している。彼らは考えていない。厳密には、考えていないわけではないのだが、「自分」だけを切り出して考えるということをやっていない。
「オレら」の現象が難しいのはここだ。理屈の上での矛盾を突破していなくてはならないし、もっとも難しいのは、何かに「同意」したり「反対」したりしてはいけないということだ。反対してはいけない、というのはまだわかりやすい。「同意」をしてはいけないというのが難しい。
同意というのはひとつの意見だからだ。「オレら」の関係を切断して、オレの立場から相手の意見を聞き、理解して、同意する、ということでしか「同意」はできない。
言葉の上では、同意も反対もあっていいのだ。それどころか意見もあっていい。ただそれが「オレら」のものであれば。意見は肯定され、同意は肯定され、反対さえ肯定される。何が起こっているのかというと、花火だ。意見の花火が上がり、同意の花火が上がり、反対の花火が上がる、それがどうやって衝突する? どうやって互いに否定しあったりできる? それが銃口でなくて花火である以上、どれだけ打ち上げたって互いをやっつけたりできない。
「俺の話なんか聞くな」と言った。僕の話なんか聞かないでほしいし、それに同意も反対もしてほしくない。話なんか聞かなくても、「オレら」だったら届いているはずだ。「オレらの言葉」が「オレら」に届いていないはずがない。届くというのもおかしい、聞くとか聞こえるというのはさらにしっくりこない。オレらがオレらの言葉を発生させたのにそれをどこに届けるというのか。
「オレら」という言葉を見つめるのは正しくない。恐ろしいことにこれらについてのノウハウや方法論は一切無い。ノウハウや方法論は理解するものだからだ。理解を強固にすればするほど、それは「自分」の現象を活発にして「オレら」の現象を遠ざける。
もし方法として唯一の可能性があるとしたら、ここまでの僕の話を、全て肯定してもらうしかない。方法論が無いといいながら方法論を提示するのは矛盾に見える。でもそれが僕の声であり言葉だ。それが矛盾していようがいまいが肯定する。できるはずだ。誰に対してでもできるはずだ。肯定というのは同意ではない。それは無鉄砲な話、僕の存在を全的に肯定しろと言っているに等しい。
それが誰に対してもできないというのであれば、その人は、普遍的な「好き」の心を持っていない。失ったというか、こだわりがそれを埋め尽くした。
全的な肯定がなかったしたら、誰がその人の前で自由にのびのびやれるわけがあるんだ。
これは不可能ごとの要求ではない。誰だって心のヌードには全的な肯定しか持っていない。ヌード状態の心は機能ゼロではない。ヌード状態で全的な肯定の機能を具えているのだ。当たり前だ、そうでなかったら生きものじゃない。人間はマイナス評価したものを嫌いプラス評価したものを好むが、ゼロ評価のものは「好き」なのだ。
そしてそれは、自分自身に向けてもはたらく。人は自分自身をずっと見ている。誰よりも入念に見てしまう。自分自身を評価する。プラスなら好み、マイナスなら嫌う。
それは、何かが違うとずっとわかっていて、ずっと苦しい。
だから評価をやめてしまう。ゼロにしてしまえば全的な肯定だ。自分に全的な肯定があり、他者に向けても全的な肯定がある。
・「好き」が交流し、communicationが起こり、言葉(花火)が発生する。
[了]