No.224 自恃の恋人
自恃(じじ)という言葉がある。自らを恃(たの)むことだ。
自分の行動力と原理は、この自恃に依(よ)らなくてはならない。
自恃に依らない行動は、全て、生活のためでしかないからだ。生活は、生きることそのものではない。生きることの周りに、やむを得ずそれを取り囲み、包んでいるもの、それが生活だ。
人に会うときに生活を持ち込んではならない。それはあくまで生活としてその人に会っていることに過ぎなくなる。例えば会社の上司にしぶしぶでも月曜日に会うのは生活だ。そのために満員電車を経るのも生活である。
わたしたちは常にこのことを気にかけておく必要がある。自分の営みは自恃によるものなのかどうか。自恃とはいったい、何であるのか。
人が何かを勉強する。学生なら数学や歴史を、職業人なら自らの職業に関わる何かを。このとき、学生が数学をまなぶのを、試験のためであったり、学力で誰かと差をつけるためであったとすれば、それは自恃ではない。もしそれが、細かいことはどうでもよい、自分はこの数学が「わからない」ということが、自らについて許しがたい、そのような自分でいるわけにいかない、と求めて学ぶならば自恃である。
自分のため、という言い方があるが、この言い方は思いがけず自恃ではない。上位の大学にゆけば大手の企業に就職しやすく、ひいては勉強は自分のためになりうる。けれどもそれは、あくまで自分の「生活」のためだ。
自恃とはそういうものではない。むしろ、自らに損を及ぼすことを予感していても、なおそこへ踏み込まずにいられないというのが自恃である。自分は数学を勉強して、試験を上位で突破し、難関大学に入学したい。そしてその構内の空気を吸いたい。何のためでもない、ただ自分はそうしたいのだ、というのが自恃だ。そうでない自分を仮定に想うと、何か耐え難い気分になる。それが生活の足しになるかどうかは、周りには好きに言わせるとして、そのようなことは自分にはどうでもよい。ただそうでない自分を許しがたく、受け入れがたく感じてならないゆえに、自分はそれに取り組む。それが自恃の行動と原理だ。
青年になって男性が、知り合った女性を力強く口説くこともできないでは、友人に軽く馬鹿にされる。それが悔しくて一念発起することもあるが、そうして起こる行動は自恃ではない。それは友人らが馬鹿にするのをやめてしまえば行動力も同様に根元から消える。そうではない、自恃というのは、たとえそれが人に馬鹿にされることでもやる。それが人に馬鹿にされることだと承知していても、それに背いてそれをする。なぜか、自分はそれをしない、できないというのでは、自分を許しがたく、受け入れがたく思う。きょうび、男が女を迫真で口説くというようなことや、恋あいざたというのは流行らないものになった。それでも、自分はそれをやらない者、それができない者であることを受け入れがたいがため、全てに背いてそれをやらざるを得ないと感じるのだ。
たとえば一人の医師が、あるとき頭を抱える。彼は立派な医師として社会に貢献している。立派だと世間に認められ、生活を豊かにしている。けれども彼は、「これでは立派なだけだ」と気づいて頭を抱える。彼を悪く言う者は誰もいないのに、彼自身が、このまま立派な医師として生きていくことを思うと、自分を何か許しがたく、受け入れがたく感じる。そこから彼は、自分の内に、もっと上位の医療、上位の技術を身につけた自分というものがありうる、ということに気づき、それを思い描く。彼は火がついたようになって、誰に強いられたことでもなく、ただ自分はそのようなものを身につけた者でなくてはだめだ、そうでなければわたしは自分を許せない、という行動力の原理を手に入れる。
それはむしろ彼の医師生活の安泰にはマイナスにはたらくかもしれない。けれどもこのとき彼は、生活と生きることそのものは別だとはっきり自らの感覚に手づかみにしている。心配性から彼を引き止める者はおり、また彼をからかう者も出てくるだろう。彼はそうしてからかわれると、苦笑してむしろ安心する。彼は自分のやることが、何かのため、誰かのため、必要で不可欠だと信じているのではない。ただ彼自身にとって不可欠なのだ。なぜかと説明できれば苦労はしない、なぜかわからないが、自分はそうでなくてはだめなのだ、許しがたいのだ、自分として生きるためには……と無性に信じられるのみなのである。だから彼は、周囲のほうがまっとうだと感じるし、それに苦笑を返すことしかできない。
自恃の行動力は、まったく独自からのものであるため、外からはわかりづらい。そのぶん、外側からは侵されがたいものでもある。
一般の暮らしの中に、この自恃の行動はほぼ見当たらない。暮らしのほとんどは、互いの生活を支えあい豊かにすることに向けられていて、その中でむき出しに自らを生きる人は稀(まれ)だし、また当人もそれを見せるのはできるかぎりつつしんでいる。だが、多くの人が生活を豊かにする暮らしだけに馴染んでいる中で、自恃の人だけは、その生活にあまり関心を向けていない。生活の貧富はあり、大事なものだ、その周辺にはユーモラスな出来事や、世間知の熟成がある……と彼は知っているが、知っているだけで、彼の精神はそれに染まっていない。つまり彼には生活感がない。多くの人は、転居したとき、そこでの新生活にうれしい関心を向けるが、彼だけはそれに関心を向けているふりをするだけで、彼の関心は引き続き、自分の生きることに直接向けられている。
生活と生きることそのものはまったく別のものだ。彼はそのことを明らかすぎることと掴んでいるが、それを他人に伝えるのは困難だと予感しており、その不毛を試みない。彼は生活に包まれながらも、それと切り離された、生きることそのものを独自に燃焼させている。生活は彼にとって生きることを包む方便に過ぎない。彼は生活に関わる社交を豊かにしながら、本当には、生きることそのものが誰かと交わることはないかと、人人の気配の中にまったく別の手ごたえがするそれに向けてアンテナを立てている。
ふつう、人人は、互いに気分のよい、好印象を与え合う関係を作ろうとする。そのため、なるべく笑顔を向け、あたたかい気持ちを保ち、話をするときは互いの目を見ようとする。素敵だと気づいたことがあれば、なるべく口に出して褒めるべきだ、と心がけている人もいるだろう。それらは広義に「マナー」ということで捉えられる。人人はマナーに依って互いに好印象の関係を作ろうとしている。
けれどもマナーは自恃の反対だ。マナーは社会的・科学的に作られてあり、世間に共有されるもので、自分のものではない。
その中できらりと光るものがあれば、それは例えば、彼女は自恃によってそれをしている。彼女は人の目をじっと見て、丁寧にうなずいて話を聞く。彼女はそのようにしない自分、そのようにできない自分を、もしあったら「許しがたい」と感じているのだ。彼女は身奇麗にしているし、よく学びよく働く者だ。初対面の人たちにでも、積極的に親しげな態度を向けようとする。それは彼女にとってマナーではなく自恃である。彼女は自分をよく思い描いていて、そのような自分でなくてはならない、そうでない自分は受け入れがたい、と強く知っている。その振る舞いが彼女に些事を増やし、また一部の女性からやっかみを受けることになるのも承知しているが、それでも彼女は苦笑して、自らを認めうる自分の振る舞いを貫くしかない。
彼女に触れた人は独特の印象を覚える。それは彼女の自恃に触れているからである。品がよくて気さくで、また美しい女性だった、と安直には感じられる。でも、それだけではすまない、なにか特別なものがあった、ということも感じられている。彼女に触れた男性は、さしあたり自分はマナーに依った態度を向けたし、それによって好印象を与えられただろうということに安堵するが、その後にひしめていくるような感情として、自分は何か間違いをした、とんでもないつまらなさを露見させてしまった、と後悔をし始める。
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誰にとっても、この自恃に到達することがそう容易ではないのは、自恃に到るためには、その他の自恃でないものへの依拠を全て捨ててしまわねばならないからだ。わかりやすくは、先に言った「マナー」も捨てなくてはならないのである。もちろん知識としてのマナーが喪失されるわけではない。けれども、自恃によって人の眼を見るとき、マナーによってそれを見ているのではないのであるから、マナーはすでに物置にしまわれて施錠されたも同然で、それは実感としてマナーを捨てるに近い。
この、マナーに支配されていることでさえ、認知して捨ててしまうのは大変だ。
さらには、知恵も捨ててしまわねばならない。知恵は自恃ではなく誰かから学び授かるものだからだ。尊敬する先輩がいて、彼から教わったこと、あるいは私淑する先人がいて、彼からよく聞かされた言葉、それらの全てさえ捨ててしまわねばならない。
ブッダやキリストがいたとして、あるいはその他の偉人や聖職者がいたとして、どうなのだ。彼らは確かに真理とその知恵を教えてくれるものかもしれない。けれども、彼らの偉大さと知恵を自分が憶え事にしていたからといって何なのだ。そんなものはドブに捨ててしまえ。そうして、その気になればドブに捨ててしまえるものだとしたら、それはけっきょく自分のものではないのである。いかなる知恵も、それが自分に自恃を気づかせてくれなかったら、それは権威に嵩張った精神の荷物でしかない。「聖なるマナー」を生真面目になぞっているに過ぎない。
そこまでゆけて、ようやく自恃の原理に触れる可能性が出てくる。このようなことを、むしろ子どものほうが得意とするのは、子どものほうが嵩張った荷物を持たないからだ。幼いうちから物事に純粋な熱心さを持つ子どもはいる。両親がそれを教育の賜物と捉えていることもあるけれども、多くは両親の差し金は彼にきっかけを与えたに過ぎず、彼がその後も驚嘆すべき熱心さを持続するのは、彼が無邪気な自恃によってそれに取り組んでいるからだ。そのひたむきに取り組むさまを見ていると、両親でさえ、大人の側は口を挟めない尊厳を認める。
自恃とは自らを恃むことだ。生活は生きることそのものではないと気づいたとき、自分の生きることそのものは、この自恃にあるということに気づく。自恃に理由はなく、人には説明のしようもないままに、ただ自分はそのようでなくてはならない、そうでない自分は許しがたい、と覚える心である。これはすなわち、原因をどこにも遡れない、その人そのものの表れだ。この、その人そのものの表れが互いに触れ合ったとき、互いは特別な感触を認める。生活が関わったのではなく、生きることそのものが関わったことを実感する。それが男女ならばただちに自恃の恋人である。
[了]