No.229 人間はそんな顔をしない
せっかくの美人が、見えない、ということがある。それは、人間の「見る」という機能に関わっている。人間は事物を、具体にせよ抽象にせよ、ある種のまとまりとして捉え、それを見ている。簡単に言うなら、まとまっているものは明瞭に見えるし、バラバラのものはよく見えない、ということになる。視覚神経としては、もちろん見えているのだけれども、そこにおける「見る」というのは、受け取る、ということに置き換えられてよい。同じく見えているはずのものが、まとまっていればよく受け取られるのに、バラバラであれば受け取られない。それで、いかに造形が美人であっても、せっかくのそれが「見えない」ということがある。
実のところ、今我々の身の回りには、それら「見えない」もので溢れかえっている。なぜそうなったかというと、我々がわざわざそうしたのだ。バラバラのものを貼り付けることを選択した。そのことについて僕はここに語ろうとしている。平易な内容に見えるが、これは実は、おそろしい事実の指摘へと踏み込んでいく話である。もし僕の語るところを正面から受け止められれば、中には、自分の人格がバラバラになりそうという感触で、危機に陥る人があるかもしれない。これはそういう危険なところの話である。実際に、僕は自分の目の前で、幾人もが縮こまって震え始めるのを見た。バラバラになりそうなものを必死で守り、混乱しながらも、抑えこんでいた。もはやそれは、隠す気にもなれない、正直なところ、しょっちゅうある珍しくもないことである。僕が誰かをバラバラにしたわけではない。もともとバラバラだったのを、当人が気づいてしまったというだけのことだ。
どこから話し始めるか迷う。第一には、人がその「まとまり」を捉えているという話をしよう。そして次に、ビールの広告の話や、成人式の記念写真で、若者らがイエーイと格好をつけることの話をしよう。ひょんなことから請け負った高校時代の合宿委員の話や、ダーツバーで会った、ドイツ人だったかの、白人さんの話もするかもしれない。話は途中、あちこちへ散るように受け取られるかもしれないが、僕が話したいのは、ずっと冒頭に話したことの一点のみである。せっかくの美人が「見えない」ということがある。見えないものに、どうやって魅力を覚えることができよう。どうやって触れ合うことができるだろう。見えないのは何より当人にとって損だ。当人がどう努力しても、見えないのであれば人に訴えかけることはできない。さらには、その努力こそが、当人をそのバラバラの「見えない」状態に追い込んでいることも少なくないのだ。それでは報われないこと甚だしくて悲劇の類である。味わいがあるなら悲劇もよいが、味わいのない悲劇なら、誰にとっても存在しないほうがよいものだ。
「まとまり」を見る機能について
人は、たとえば人の顔を、ひとつのまとまりとして見ている。目と鼻と口があり、それをまとめて「顔」と見る。ふつう、誰か個人を認識するとき、第一にその「顔」をもって、その人だ、と認識するはずだ。
ところが、この認識の仕組みが不具合を起こす、一種の障害があるらしい。相貌失認という。目は目、鼻は鼻、口は口と、わかるのだが、それらをひとまとまりにして見せられると、「よくわかりません」となるそうだ。きわめて特殊な症例に見えるが、この障害の素因を持っている人は思われているより少なくはないそう。相貌失認の人は、人を顔でなく、髪型や服装、あとは声や雰囲気で認識しているらしい。有名人の顔はわからないし、驚いたことに、友人や身内の顔まで、実はわからずに暮らしているそうである。
説明の便宜のために障害の例を採ったことにお詫びを申し上げておく。もちろん障害を軽んじたり面白がったりする意図でこれを取り上げたのではない。ただこの症例が、人間の認識の仕組みを浮き彫りにする作用は目覚しいものがある。そういえば、人の顔を「顔」と認識するのだって、それは「まとまり」として見ているに違いないが、そのような認識の仕方がどこでどう行われているのかは、当人らはあずかり知らぬのだ。当たり前に、そういうものだと思っていたし、むしろ健常人の側からは、相貌失認の症例がどういう感覚なのかが想像しがたい。健常の場合、それはどうしたって「顔」にしか見えないからだ。
たとえば、冷蔵庫の上に扇風機を置いてみる。図体はズンと高くなる具合だ。ところがそのようにしても、我々は冷蔵庫と扇風機をちゃんと分離して認識している。それは今、仮に上下に置かれているだけで、一個のまとまりではない、と見抜いている。それでいて、扇風機は扇風機として、ひとつのまとまりとして捉えているのだ。扇風機には、胴体もボタンも羽もあるが、それらの分解的な見方と平行して、扇風機、というまとまりを捉えて矛盾しない。やはりちょうど、人間の顔の目と鼻と口みたいに。
商店街の薬局へ行くと、その商品陳列は、たいてい店の敷地からはみ出している。店の「前」は店の敷地ではないのに、慣例上、そういうことは大目に見られている。そして、僕がその薬局の前を通りかかったとき、はみ出した商品陳列の物品を、勝手に持っていったりはしない。それは法律の観念の以前に、それが薬局の商品だとわかるからだ。「薬局」という店舗のまとまりを、意識せずとも捉えているので、それが敷地からはみ出していても、そのまとまりの一部だ、ということを了解できるのだ。了解しようとせずとも脳みそが勝手に了解してくれている。
そういうことは、薬局でなくてもあるだろう。一軒家の、ガーデニングに気合を入れているお宅は、たいてい家の前の道路にまで植木鉢を置いている。そこは厳密には所有されている土地の敷地内ではない。けれども、そのはみだした植木鉢を見て、どこに所属しているのかわからない、ということはない。ロボットだったらわからないのかもしれない。ロボットは敷地の座標だけで認識するかもしれない。でも人間の認識の機能はそういうふうにはできておらず、人間は敷地と座標の合理より、「まとまり」としてそれを受け取る。だから植木鉢を勝手にいじったりしない。もしこの機能がなかったら、今の人間の生活はめちゃくちゃになってしまうだろう。女性がバッグを持って歩いていたとして、そのバッグは、「バッグを持っている女性」というまとまりの中に見えるから、あくまで彼女のバッグなのであって、そうでなかったら誰のものなのかわからない。なんでもかんでも、名札か、占有物を証明する記号のようなものを貼り付けていなくてはならなくなる。人間は、当人があずかり知らぬとしても、この「まとまり」を認識する機能によって生活しているのだ。
この「まとまり」の機能に、つけこんで、という言い方はおかしいが、このまとまりの機能あってこその遊びを、人間はする。極端な例を採れば、人形浄瑠璃なんかがそうだ。人形は人形であって、生きものではないし、情念なんか持っていない。人形の面は無表情に近く、それが物理的に変形したりすることはありえないはずだ。ところが、これを芸の極致で操ることによって、人形がただの人形でない、生命を持ったひとつのまとまりと受け取られる、ということがある。人形は実に豊かな情念を持っているように見えるし、ともすれば、その面の表情まで豊かに動いているかに見える。見えるというよりはいっそ、「そのようにしか見えない」ということが起こる。これは奇妙なことであって、何しろそれが人形であることは前もって知られているし、それを背後で芸人が操作しているということもミエミエなのだ。そのことの認知がなくなるわけではないのに、あまりにその人形の振る舞いを「まとまり」として完成されると、冷蔵庫の上に乗せられた扇風機が分離されて受け取られるように、背後の芸人たちから離れて単体で存在しているように受け取られてくるのだ。
それはまた、芸の極致にある芸人が、自分自身と人形を癒着させずに分離することを実現しているからこそ、そのような現象を作り出すことができるのでもある。もし僕が人形劇をやったとしたらそうはならない。僕がやった場合には、観衆は、人形だけを単体のまとまりとしては捉えず、「人形と、それを頑張って動かしているあいつ」というまとまりで捉える。そこには何も珍しいものはないので、それでは見世物にならないわけだ。
人形浄瑠璃を見た観衆たちは、すごかったなあ、と新しく活性化した心を持って帰路につく。けれども、彼らは何がすごかったのかをはっきりわかっているわけではない。何がというわけではなく、ただすごかったという手応えだけが残るか、あるいは何がすごかったかについて、通ぶった誤解をこしらえて帰っている。本当には、なぜ彼らが活性化したかというと、劇の物語はもとより、まず人形が疑いなく情念をもった人間に見えた、ということに活性化されているのだ。彼らは、「まとまり」を捉える機能を、自覚のないままに刷新されたのである。
芸の極致で操られた人形は、疑いなく情念を持った、単体のまとまりに見える。そのようにしか見えない。そして、それはともすれば、実物の人間よりも、はっきりそう見えた、ということがありえるのである。疑いなく情念を持った単体のまとまり。それがよく「見える」というのは、冒頭に話した「見えない」ということの、ちょうど真逆の現象である。
人間が「見えない」ということ
悪例として取り上げるのは気が引けるが、やはりわかりやすさを重視して、ビールの映像広告を例に採る。僕の話が、意図どおりに正しく、また印象的に受け取られることを祈って、僕は僕の内に起こる、一つの声を先に示す。<<人間はそんな顔をしない>>。
ビールの広告といえば、たとえば、若者らが週末に森林公園に集い、バーベキューをする。陽気な者たちが実に楽しそうな表情を湛え、勢いよく食材を熾火の上に並べていく。ジューと肉汁の焼けてゆく音がする。
氷ったジョッキになみなみ注がれた黄金色の麦酒がクロースアップされる。その拡大映像のまま、男がそれを、喉を鳴らして飲み下していく。飲み干すと、男は、クハー! と痺れたような吐息を漏らす。彼の顔面は、クワッと、特別の満足と爽快を示す笑い顔を表す。若者らは、たとえば「喉越し、旨味、○○!」と、キャッチコピーを含めた商品名を唱和する。カメラは引いてゆき、麦酒とそれを取り巻く光景とを結ぶことで、広告としての役割を終える。
言わずもがな、これは広告についての批評ではない。広告とはそういうものだろうし、この例はむしろわかりやすくて違和感のないものだ。麦酒商品の、喉越しと旨味を強烈にアピールしながら、それを愉快さの光景、仲間、陽気さ、原始的な食のよろこび、などに結んで印象づける。それを短時間に為し遂げる。このことについて、この種の広告に了解しがたいところは何もない。
ただ僕は、その広告とはまったく別次元のところで、先の言葉を引き起こされているのだ。<<人間はそんな顔をしない>>。
初夏の屋外の状況で、冷たい麦酒を飲み干せば、その旨味と爽快さが特別に、痺れるように感じられるのは事実である。けれども、その旨味と爽快さに引き起こされる顔は、広告に示されるような、あの顔ではない。<<人間はそんな顔をしない>>。週末に仲間たちと集ったとき、愉快さによって引き起こされる顔。そのときの顔も、やはりあのような顔ではない。人間は、やはりそんな顔をしないものだ。
顔のことだけではない。同様の指摘が、実のところ、映像にあるほぼ全てのものについて当てはまる。人間は、親しい仲間に、ああいう声は向けないし、ああいう言葉の掛け方はしない。親しい仲間たちは、ああいう位置関係には立たないし、肉汁の焼けるバーベキューコンロに向き合うとき、あのような様子にはならない。冷えたビールが旨かったとき、ああいう賛嘆の仕方はしないし、ああいう笑い方はしない。人はあんな仕草をしないし、あんな姿をしていないものだ。
平易に言うならば、それは嘘だらけの映像であるわけだ。それは広告だから当然だとも言える。が、それにしても、いかに広告であったとしても、と、深い危惧を覚えさせられるところも当然にある。本当には、ひょっとして、仲間と集ってビールを飲んだとき、愉快さに引き起こされる顔がどのようなものだったか、人人がついに忘れ始めているのではないのか? と、その危惧は明滅しはじめて不自然ではない。
特に、美しい女性の像については、それは人心に深く影響を与えるものだと思う。美しい女性の像に、男性はハッとさせられ、同時に女性のほうも、どこかハッとさせられるところがあるのではないか。またそうして自然な注目が集まるからこそ、媒体には美しい女性が多く出演するのでもある。
美しい女性が、あえて簡素な綿の服を着て、ぴょんと跳ねるような陽気さで、男の背後に立つ。そして冷えたビール缶を男の頬に当て、男を驚かせる。振り向いた男に向け、彼女は愛嬌を湛えた微笑で、たとえば「今日は、飲もっ?」という呼びかけをする。
こういう映像と演出の造りは、容易にイメージされうるように思うが、これについてもやはり、<<人間はそんな顔をしない>>。人の微笑みは、陽気さや優しさに引き起こされたとして、あのような形とあのような現れかたを示しはしない。美しい女性がいたずらをするにしても、あのようないたずらはしないし、もしそのようないたずらをする者・される者の関係であったとしたら、互いはあのような位置関係を取らないし、互いにあのような顔を見せ合いはしない。
気が引けるまま、それでも僕なりに正直に、日ごろに覚えている感興について話せばこうなる。やはり冒頭に話したように、それらは「見えない」。せっかくの美人であっても、それは僕には受け取られないし、見えないのだ。それが見えないということは、それが人間の持つ認識の機能、「まとまり」を認識する機能に背いているということである。繰り返して強調されるべきだと思うが、人間がその「まとまり」を認識する機能を持っていたとして、当人がそれを操作したり、調整したり、自覚においてよく把握できているというのではなかった。それは健常な限りは自動的にはたらき続ける不可避の機能である。人は事物をまとまりとして受け取るというか、いっそ正確には、まとまりとしてしかその受け取るということは起こらない、と言われるべきかもしれない。
真に親しい仲間たちと会ったとき、人は愉快さを<<引き起こされる>>。またその引き起こされた愉快さによって、ある種の表情もまた、<<引き起こされて>>くるのだ。その表情を交し合うことで、そこに放たれる声や言葉も、引き起こされるようにして生まれてくるし、互いの立ち位置や、仕掛けるいたずら、バーベキューをするならするで、それを取り囲む彼らのありようなども、一連のこととして<<引き起こされて>>くる。
そこに映し出されるものが、そうして<<引き起こされて>>きたものなら、それは僕の目によく見える。はっきりと見え、よく受け取られる。それは、そこにある彼らの像は、全てがそれぞれに<<引き起こされた>>、一連の「まとまり」だからだ。彼らは疑いなく情念を持った者らに見える。そのようにしか見えない。そうして受け取られることは、人形であってさえもありうると先に述べた。
逆に――仮に、という言い方を採るとして――仮にそこに起こった彼らの表情、声、振る舞い、立ち位置、陽気さや仲間らとしての様子や気配といったものが、それぞれに<<引き起こされたもの>>ではなかったとしたら。仲間ではないのに、仲間という合意を互いに貼り付けあっただけだとしたら。クハーという吐息を貼り付け、クワッとした笑い顔を貼り付け、フレンドリーなやりとりだけを貼り付けたものだったとしたら。美しい女性の、陽気で気さくでいたずらっぽい行為を、ただその行為だけ貼り付けたものだとしたら。
それは貼り付けられたものに過ぎず、バラバラのものだ。人間の機能はそれをただちに見抜いてしまう。冷蔵庫の上に乗せた扇風機が、どのようにしても「まとまり」には見えない、馬鹿げている、バラバラに決まっているだろう! と見抜いてしまうように。
そしてバラバラのものは「見えない」。どうがんばっても、それが旋風冷蔵機というようなひとつのまとまりには見えない。それと同じく、彼らの笑顔や陽気さや爽快感やイベントのありようを見ても、それを心満たす仲間たちというひとつのまとまりに見ることはできない。ただ、笑顔や陽気さやクワッとした笑顔などの……寄せ集めた不明の物体であるようにしか受け取られない。あくまで「仮に」、本当にそうだったとしたら、だ。
「楽しさの原像」と「イエーイ」について
僕が高校生だったころ、学校がひとつの売りにしているような、かといってさほど魅力的にアピールはされていなかった、合宿の企画があった。僕は無闇にYesと言ってみせる悪癖によって、それに参加することになり、気が付くと合宿の委員まで請け負っていた。その中で、まったく思いがけなかった、ひとつの発見を僕はしたのでもある。合宿のしおりというものがあるが、僕はそれを製作するチームの中で、その表紙絵を描く役目を任された。僕に絵心はなかったが、そのときの誰も絵心は持ち合わせておらず、また合宿のしおりの表紙絵に過ぎぬのだからということで、誰も絵心などは期待していなかったし、どうでもよいことであった。僕はその表紙絵を描く中で、思いがけない困難に出くわし、目覚しい思いをしたのだったが、その出くわした困難とは絵心の問題やその技術の問題ではなかった。つたない描線なりに、正直なところ、さっさと済ませようという調子で絵を描く。それでよいはずであった。ところが、その中途で、腹立たしいほどの確信がやってくる。僕はその絵を廃棄せざるを得なくなるのだ。<<人間はこんな顔をしない>>という、憤ろしいほどの確信のせいで。
合宿のしおり、その表紙に絵を描くなら、そこには「楽しさの原像」というような絵が描かれるべきだ。その合宿が、参加者らにとって充実して楽しいものとなるようにと祈念して。それは自明のことであるし、工夫を凝らすようなところでもなかった。だから、ただ「楽しさの原像」のようなものを、描こうと僕はしたのだが、何度か用紙を丸めて捨てて気づいたことには、僕はその「楽しさの原像」がまるきり捉えられていないのだということだった。「楽しさの原像」と言えば、誰にでも心当たりがありそうで、簡単そうに思える。事実、そのときまで僕自身もそう思っていた。ところが、それを紙に描き出してみると、それは間違ったイメージを愚かしいほど思い込んでいたに過ぎなかった。イメージが無いというより、間違ったものを強固に持ってしまっている。僕はそれで、散々苦労させられ、どのように振り払おうとしても、そのイメージから抜けられない、ということを体験した。最終的にどのような絵で妥協したのかは覚えていないが、きっとろくでもないものでギブアップしたのだと思う。
このことについては、難解なだけの論考に陥らぬため、思い切って、大胆に象徴的に捉えることを優先したく思う。「楽しさの原像」について。これの誤ったイメージは、強固に、まず「イエーイ」という発声と、そのムードに結びついている。つまり、楽しさの原像を描けといわれたら、イエーイ、という声が重なりうるような絵をまずイメージしてしまう。少なくとも、そちらへ接近してしまう。もっとも略式化すれば、楽しい=イエーイ。大きく笑う者たち、それこそクワッとした笑い顔でも見せる者がいて、いわゆるハイテンション、腹を抱えて涙まで滲ませて笑う者たちが、そこにはいそうに思える。わざとらしいほどに。
「楽しさの原像」について、どのような間違ったイメージが植えつけられてあるかには、いくらでも詳細に追求しうるだろう。けれどもここでは、そこに詳細を継ぎ足していくことは有為ではない。それで大雑把に、それは「イエーイ」に集約される、と捉えることにする。それは極端な言い方ではあるにせよ、ここに語ることの本意において大きく的外れにはならない。
「楽しさの原像」。人が本当に、心の底から楽しいとき、人人はどのような様相を示すだろうか? 人人の共感や、尊敬や、想像力といったものが、互いを刺激しあい、活性化させる。それによって、楽しさがやはり<<引き起こされて>>くる。そうして引き起こされた楽しさが、また彼らに次の局面を引き起こしてゆくのでもある。ではその、相互に引き起こしあうものの末にある満たされた彼らはどのような様相をしているか。そこには、胸に刻まれるほどの楽しさ、それどころか人生にまで刻まれるような楽しさがあるはずだが、その実像を捉えることはなかなか容易ではない。
ただひとつ言えることは、そのときそこに「イエーイ」などは本当は無いということだ。これは誰しも経験から知っていることである。
子どもらが夏休みにキャンプに行けば、そこには少年少女の黄金期にのみありうるような、眩しいばかりの楽しさがある。そのようなとき、彼らは帰宅に際して名残惜しさに泣き出してしまうかもしれないが、そこに「イエーイ」というような乱痴気騒ぎの声はわざわざあげない。大人になってからでも、夜から朝まで、ともすれば夕方から翌日の昼ごろまで、さんざん語り合った、さんざん笑った、というようなとき、その帰り際にわざわざイエーイなどと自分たちを演出しない。それどころか、笑いすぎて疲れた、笑う筋肉がもうヘトヘトだ、帰って布団に飛び込んで眠りたい、いや冗談じゃなく本気で……という、むしろ疲弊の極にあるような様相のほうが本当にはありえるものだ。
「イエーイ」など出現しない。端的に言って、「イエーイ」と「楽しい」を結びつけるのは間違いなのだ。事実の誤認である。「イエーイ」と「楽しい」は、それなりに結びついている気がすると、強固に思い込んでいるだけに過ぎない。
ここでは「イエーイ」を掘り下げておく。「イエーイ」はおそらく、Yes→Yeah→Yay→イエーイと変化したものだろうが、実用上はすでに和製独自のものになっているのは明らかだ。「イエーイ」は諸外国では使われない。YeahやYayは、Yesとgoodの意味を色濃く残しているが、和製の「イエーイ」にはYesとgoodの意味は伴っていない。
「イエーイ」の使われ方は、きっと次のやりとりに象徴されていよう。
「盛り上がっていこうぜー!」
「イエーイ!」
成人式で若者たちが、旧交を温めているところに、記念写真のカメラを向ける。すると彼らはおそらく、イエーイそのものか、それに接近した振る舞いを自分たちに表すだろう。それもひとつの、「盛り上がっていこうぜ」への合意とみなせる。
つまり、いかめしい言い方になるが、「イエーイ」というのは、盛り上がりについての合意、そのノリついての合意を確認しあうために発声されるものだ。それが合意を目的としているからこそ、それが唱和されるのでもある。その性質は、掛け声というよりシュプレヒコールに近いだろう。
僕はある白人男性から、天然の「イェア!」の声を受けたことがある。僕は場末のダーツ・バーで、連れ合いの女性とありふれた勝負をしていた。そこは男の側が勝たねば格好のつかないところ、彼女の側の幸運が冴えわたり、情けなくも僕の劣勢でゲームは進んでいた。
逆転は、集中力の成果と言い張れても、平たくいえばマグレであった。最後のラウンドで、僕の投げたダーツは二本続けてBullに突き刺さった。おや、と、わずかに場の空気は期待に変化したように思う。最後の一本は、普段はめったに入らない20tripleに突き刺さった。それで、場末のささやかな逆転勝利が為されたのだが、その最後のダーツが勝利に刺さった瞬間、背後から僕に投げかけられた声がネイティブの「イェア!」だった。振り向くと、スツールに身を余らせた、いかにも肉食というふうの白人男性が、大きな手をパンパンと打ち鳴らし、僕の逆転勝利に拍手していた。彼の肌は、明滅するライトに照らされても明らかなほど、テキーラに染められて桃色であった。僕は思いがけない彼の声に、慌てて拳を掲げて、返礼として見せたのだったが……
人間のもつ、「まとまり」を見る目の機能によって、僕は彼のことをはっきり見たと記憶している。彼と言葉は通じ合わないとしても。小さなスツールには乗り切らない大きな身体と、着慣れたジーンズの服、乾いた手のひらの拍手と、イェア! と思わず零れてきた熱さの声まで含めて、彼という存在の、肉体や、生きてきた文化、彼としての個性も当然あるとして、それらは実によくまとまりとして見えた。
状態A
「仮に」という卑怯な言い方が、それでも語るところの本味を損なわないのだとしたら、卑怯にも僕はその前提を使いたい。ここに語られていることは、平易に見えて、実はおそろしいことへの踏み込みである。それをもし、自分のこととして真正面に受け止めたならば、ある種の人は、自分の人格がバラバラに砕けそうになる、という危機に至りかねない。それは先に述べたように、もともとがバラバラのものを、強引に寄せ集めてひとつにしていたものを、解きほぐされるとバラバラに還る、当人がそのことに気づいてしまう、ということの現れであった。そのようなショックがもし不要な形で現れるぐらいなら、僕はこの「仮に」という卑怯な前提を採用したい。
「楽しさの原像」というイメージを、人はそれぞれに持っている。「楽しい、という語を受けて、どういう映像が浮かびますか、具体的に?」。そう尋ねられたとき、数秒の時間を要するにしても、人はさして困惑もせず、その原像をイメージすることができる。
同様の「原像」が、無数にある。たとえば、先に挙げたビール広告の映像は、ある原像群の実写である。楽しさの原像、仲間の原像、初夏の原像、行楽の原像。バーベキューの原像、愉快さの原像、麦酒を飲み干す快楽の原像、快活な若者の原像。しかしこれらの原像は、イメージのまま実写にしてみると、人間が「まとまり」を捉える機能によって、否定されてしまうのだった。<<人間はそんな顔をしない>>。それはバラバラのもので、見えない、受け取られない。このことは、言わずもがな、高校生のときが直面した、合宿のしおりの表紙絵に関わる困難さと同じ構造を持つものだ。僕もやはり、ある原像群をスケッチしようとしたのである。けれどもそこに出現したものは、<<人間はそんな顔をしない>>、バラバラの、見えない・受け取られない、ただの思い込みの嘘っぱちのものであった。
仮に、だ。ここにAさんという人がいたとする。このAさんは、無数の原像群を心の中に抱え込んでいる。楽しさの原像、若者の原像。快活な者の原像、友人と仲間の原像。人と打ち解けあうことの原像、盛り上がることの原像。恋愛の原像、また自分そのものの原像や、自分が成長するということの原像もある。
もし彼が、努力的な人間だったとして、彼が自分を向上させるために、その原像群をなぞっていったとしたら? 彼は自分自身を媒体にして、その原像群を実写することになる。彼の笑顔は、楽しさの原像のナゾリである。彼が友人にかける声と言葉は、快活さの原像のナゾリで、またそこに見せる態度は、友人原像のナゾリである。彼は努力的で生真面目であるので、若者らはこう、という原像を信じており、自分と友人らをその中に当てはめようとする。友人の結婚式では、新郎を取り巻いて記念写真を撮る。カメラを向けられると、酒の勢いもあり(酒に酔って勢いづくべきだという原像)、彼らは思い切り「イエーイ」をやる。彼らは内に抱え込んだ原像を健気になぞってゆく。若い友人らはそうしてイエーイと祝福すべきで、悪ふざけの温度を上げてゆくべきで、その一方で、誰かは感極まって涙を流すべきだ。Aの抱え込んだ原像はAにそのようなシーンを要求している。
仮に、という話である。仮にAが、本来の自然発生する営み、友人が愉快さを<<引き起こし>>、またその愉快さが友人という関係性を<<引き起こす>>、そうして万事が<<引き起こされて>>紡がれていくというのではなく、前もって心の内に溜め込んでいた原像群、それを寄せ集めて熱心になぞる者でしかなかったとしたら。Aは、その振る舞いと存在の全てに、実は「まとまり」がないことになる。原像群を寄せ集めただけの、不明の物体。見えない者、受け取られない者となる。
この、仮にという前提で成立させたAの状態を、そのまま状態Aと呼ぼう。
僕は幾度となく、その状態Aの人が、僕の目の前で縮まりこみ、震え始めるのを目撃してきた。状態Aにあった少女は、初めから僕に微笑みかけてくれていた。僕はそれを無視しつづけたのである。無視したかったのではない。「見えない」のだ。彼女は、自分の人格と、自分に具わったやり方を、十分に範囲の広い、色彩豊かなものだと思っていたが、その全てはバラバラだったので、僕はその全てを無視した。「嘘を言われても聞こえないし、見えない」。そのことだけを言い続けた僕は非情であったろうが、それ以外には僕には何も言えなかったのである。
おぞましい話、努力的な少女が大切に集めていたコレクションが、全て偽物であなたを豊かにしていないと鑑定されたとき、その心地はどのようなものであろうか? 僕は彼女が縮まりこみながら震え始めるのを見て、僕自身の背中にも冷たい汗が流れるのを感じていた。僕は同情的な人間ではない。ただ僕の心胆を寒からしめたのは、状態Aのまま生きてきた彼女から、今さらその原像群を引き剥がしたとしたら、その後に何が残るのだろう? という、ぽっかりとした暗い淵から思わず目をそむけることに似た、この向こうにありうるヴィジョンへの恐怖だった。
はっきりと見えたときに起こること
あるテレヴィ番組で、犬を訓練する調教師の、ヴェテランもヴェテランという女性が、画面に映し出された。彼女の風貌は、それだけで見慣れぬ異様さのところがあり、彼女には十分な知性が具わってあるように見えるのと同時に、何かとんでもない、山姥の類、という印象も抱かせた。それでオッとなった。山中でずっと犬の相手を、厳しい態度のまま貫けば、このようになるのかもしれない、けれども……と、僕の期待は画面に向けて高められていったのである。
彼女が、訓練する愛犬の名を呼んだとき、その一撃を持って、彼女が何者であるかは明らかになった。犬の名を呼ぶ声は、まさに爆発的なものであった。モニタ越しでも、こちらの肺腑が貫かれる心地がする。この声を持って呼べば、確かに山一つ向こうからでも愛犬は駆けつけてきそうだ。冗談でもなくそう思わせるものがあった。
むろん僕は、彼女についての個人情報をなんら持ち合わせていない。彼女の名前がどうであり、そのキャリアがどうであるかも、説明はあったけれども忘れてしまった。けれども、はっきり見たものについては忘れない。僕がはっきり見たのは、やはりひとつの「まとまり」である。彼女はまさに犬たちと暮らしていたのだ。「彼女の暮らし」というまとまりには、忠実な犬たちの眼差しと伸びた背筋の群れが伴っている。彼女が山中で積み重ねてきたもの、<<引き起こされることで紡がれてきた一連の営み>>、つまり彼女の人生そのものが、犬たちとの関係性とまとまって、ずばり、一瞬で見えたのである。愛犬の名を呼ぶ彼女の爆発的な声は、まったく化物の咆哮のようで僕を驚かせたが、それは彼女という存在の「まとまり」によく収まっていた。それは我々からみれば爆発的な大声だが、彼女が犬を呼ぶには当たり前の声なのである。
言わずもがな、そのヴェテランの振る舞いは、何かの原像を抱え込んでなぞったことの結果ではない。それは考慮するのも馬鹿馬鹿しい視点である。一方、これに比べると、市街の公園で見かける、飼い犬の訓練に熱心な若夫婦のやり方は、当然だが調教師の彼女のようなそれではない。若夫婦らは、上等な血統犬を飼い、またその訓練法を勉強してきて、犬には厳しく、主人としての命令を持ってあたる、と意識しているだろう。つまり、犬・訓練・主人・命令・大切な愛犬といった原像群が、すでに若夫婦の心中にある。若い奥さんがスポーティな振る舞いで、犬に鋭く命令していたとしても、それは原像をなぞって出現している姿であり、それは僕にはよく見えないし受け取られない。「待て!」「GO!」といった声も、声は犬に向かっているというより、原像をなぞることに慎重に向けられている。
そのような光景においては、もちろんそれでよいものだろう。別に当の犬を狩猟犬にして、本当の狩りに連れ出して口を糊するための仕事に協力させようというのではないから。また賢い犬は、主人の気持ちを察するというところまで心の機能を持ち合わせており、愛犬は命令を聞くというよりは、主人の気持ちを察して動くということをする。僕はそれを虚しい行為だとは思わないが、本当に犬とつながってある、先の調教師や、本職の狩人などと比較すれば、そこにある人と犬に関わる「まとまり」は、やはりまったくの別物だと見るのである。
同様のことを僕は人間同士の関わりにも見る。状態Aの同士が、和気藹々というふうに、にこやかに、それこそビールの広告に接続しうるようなやりとりをする。カメラを向ければ「イエーイ」も発生しよう。それを丸ごと虚しいものだとは僕は感じて眺めていないが、そのことと、はっきり見える同士が出会うこととは、やはりまったくの別物だと見るのである。
この語りの締めくくりが、希望的なところへ結ばれるように。先立って、このようなわずらわしいことを指摘しておかねばならない。これは現時点では、指摘というよりは「予言」と言われるべきである。
今のこの話を、もし正面から受け止めるところがあったとして、それは後日になると、微妙に変形されて心中に残ることになる。それは後日といわず、ただちに、ということもありえるものだ。それは人間の心が持つ、自己の危機を回避するための自然な機能であるから、このこと自体は恐れることではない。ただし警戒されるべきではある。
変形というのはたとえばこうだ。「要するに、借り物とか、人の真似事などでは駄目で、自分の本当のものでなくちゃ駄目ってことでしょう」と。このことは表面上は正しく見える。けれども、これではここまでにもっとも苦労して語られた、また苦労して読み取られた、状態Aについてのことが欠落している。
そうして欠落が起こるのは、状態Aについて見つめるということが、実はおそろしい領域に触れることだからだ。自分がバラバラになるかもしれないという危機は、意識にはそのおそろしさが自覚されずとも、無意識レベルでは深刻な危機と捉えられて警戒がほどこされる。人間の心は自己を出来るだけこの種の危機にさらさないように勝手にはたらく仕組みを持っているのだ。
この防御機制を潜り抜けるために、身近なことに振り替えて、このことを語っておく。状態Aについて。それは身近で単純なことだ。よく知った人に「おはよう」と挨拶をする、あるいは初対面の人に「はじめまして」という挨拶をする。そのときに、<<本当に自分は何かの原像をなぞってはいないか>>。この問いかけに、確然とNoと言える人は不審である。この現代で、特に若者の場合、自分は原像などをなぞっていないと確言しうるケースは非常に少ない。
そして、その挨拶ひとつにしても、自分という一個の「まとまり」としてそれを営むのは、実はたいへんに難しい。原像をなぞって出現する振る舞いと、そうではない、自分という存在の一連から<<引き起こされてくる>>振る舞いというものがある。そのことは、概念として設定し、理解することは容易だ。けれども、その後者の側を自分から現出させるのは容易なことではない。特に、原像をなぞるということを長く自分の習慣にしてきたとき、その習慣から離れるということ自体が知覚外となるから厄介である。
状態Aを振り返る。Aはたとえば、「感じの好い人」という原像を持っている。そしてついつい、その原像をなぞってしまう。自分をその「感じの好い人」たらしめるために。このやり方は、習慣になり、むしろ良いことだろうと、長いあいだ肯定されてきたのだ。「感じの好い人」をなぞれば、それはまさに「感じの好い人」だろうと、疑われずに信じられてきた。ただ、それが「見えない」ということは指摘されずにきたのである。これをいまさら、見えない・受け取られないからといって、いきなり断絶することはとても難しいのだ。
こんな厄介なことまでして、状態Aを解決する必要はないのかもしれない。見えないなら見えないでいいじゃないか、受け取られないなら受け取られないでかまわない、と、振り切られてしまったならば、僕からはもう語りうることはない。ただ、今はまだ多くの場合、状態Aの当人も、何かがおかしい、このままではきっとやりきれないと、内心に打破の衝動を秘めているのでもある。僕にはまだその確信があった。だからこそこの話を、今はまだ希望的に結びえると信じて、このように取り上げたのである。
はっきりと見える人間同士が出会い、そこにまたはっきり見える関係が引き起こされていくとき、そこにある歓喜は強烈だ。どこで待ち合わせしてもよい、その歓喜のみで、路上に膝を屈したくなる。人と会うというだけのことが、こうも強烈によろこばしいことであるとは。これは趣味の問題ではなく人間の根源である。このことを、いかに自分に縁がなくとも、人間はうすうす知っている。だからここに語られている話のうち、この部分だけは、ある種の人までも思いがけない無表情にさせる。この話は、わからなくても、何か知っている気がする、と受け取られるから。
状態Aの人に、生まの人間がぶつかったなら、Aはしばらく原像ナゾリで応戦するものの、すぐに尻尾を巻いて逃げ出すだろう。原像ナゾリが通用しないとなれば、彼の抱え込んだ原像はバラバラの不明物という正体を明かしてしまうし、その後に残るのはぽっかりとした空洞しかないから。彼は慌てて帰宅して、何か自分の慣れた遊び方、原像ナゾリがよく通用する遊びの空間へ自分を癒しにゆくはずである。それはそういうものだが、かといって、彼が自己の戦いにまるで向き合っていないかといえばそうでもない。人間は、そのように安っちくは作りきられていない。自覚できないほどの心の奥で、何かがムズがゆく、また恐ろしく蠢いているのを、本当には感じていなくもないのだ。
かといって、それで解決されるというほど、このことは根が浅くない。原像ナゾリを寄せ集めた自分から、そうでない自分へゆけるか、そこにありうるものを一時でも体験できるかというと、その保証はない。生涯にわたってその体験は一度も与えられないかもしれない。
けれども、たとえ辿り着けなかったとしても、その先に歓喜があるというのであれば、それは救いだ。
最後に、個人的な思いを残して締めくくる。……僕に出合う人、出合った人は、どうか僕に、微笑みや笑い顔を向けないでくれ。人と人とが出会うこと、その肯定すべき原像などから、僕はもっとも遠い者であっていい。他の人に向けてはどうであってもいい。僕にはその良心と努力を向けないでくれ。
それで、もし、微笑みや笑い顔が、それでも<<引き起こされる>>ことがあったなら。そのとき、初めて笑ってくれ。そこにある歓喜を僕は誰より知っているし、僕が求めるものといえば、もうその歓喜以外には何もないのだ。
[了]