No.230 二度目のカラオケ・ボックス
白ペンキの見事に錆びた軽トラックが浮浪者を跳ね飛ばしたので、敦子は思わず笑ってしまった。敦子だけでなく多くの人が笑っていた。それは滑稽な景色だからである。時速三十キロメートルも出ていなかったであろうが、それでもトラックのフロント部分が馬鹿げて大きな音を立てた。敦子はそれを目前に見たのである。近眼の浮浪者は地面に踏み固められたアルミの蓋を五百円玉と見誤ったらしく、拾おうと車道へふらふら歩み出ていた。そこへロー・ギアのエンジンが唸ってぶつかり、浮浪者の肉体と顔面を奇妙な形に歪めて、右から左へとスライドさせて運んでいった。それで敦子は笑ったのだ。ノン太は敦子よりはっきり笑っていたが、サルスケは「見ちゃだめだ」と険しく言って敦子の前に立ちふさがった。サルスケの丸首シャツは汗ばんでいて、商品サイズの表示タグがさかさまにMを表示しており、うなじには汗で貼りついた小さな羽虫が死んでいた。
駅前の喧騒が止み、またより騒がしくもなったのは、交通事故を受けて街頭演説の政治家志望がマイクロフォンのおしゃべりを止め、市民らが浮浪者の救護に当たったからだ。カラオケ・ボックスに行こうか? とサルスケが言ったので、敦子は途端にいやらしい気持ちになった。サルスケの提案が異様な突然さの感触を伴ったのは、サルスケがしっかり企んでいたものをここぞと持ち出してきたからである。何が敦子をいやらしい気持ちにさせたのかは判らなかった。なぜか敦子はソープランドへ連れてゆかれる心地になっている。ノン太が事故現場を観ながらちょっと待ってと言うので、敦子とサルスケは従った。数秒後には交番から警官らが出てきて現場の処理に向かったので、ノン太は安心したらしく三人はカラオケ・ボックスに向かった。
109号室は壁に喫煙の臭いがこびりついており、空気は濃く病んでいた。敦子はそれを吸わないように身をかがめて座席に滑り込んだ。ソファに背をつけると、隣室からドンドンいう衝撃が伝わってくる。敦子は背中を直接蹴られるように感じた。その振動に感覚が磨かれてくると、壁を貫いて聞こえてくる声と合わせて、丸々と肥った女がソファの上で跳ねて、栄養に満ちた頬骨に汗を流している映像が得られてきた。黒いビニル樹脂のくずかごの底には、七色の粘り気と菓子を包む銀紙の破片が入っていたが、敦子はその銀色の破片をコンドームの袋の切れ端と信じた。
インターフォンで矢継ぎ早に飲食の注文を済ませたサルスケは、トイレ行ってくる、と言いながらドアを開けて出て行った。おっ、と敦子は思い、敦子はサルスケがトイレで何かをしてくるのだと直感した。彼がどうなって帰ってくるのかを奇妙に楽しみにした。
ノン太と二人になると、敦子はノン太の開かれた腿の上に跨りたい気持ちを覚えた。それでつい、ノン太のほうをじろじろ見ると、なんだよ、と言われたので、さいきん元気にしてた? と敦子は尋ねた。最近、ね、と、ノン太は丁寧に答えようとした。敦子はノン太を見ながら、なぜ自分が彼の腿にまたがりたいのか自分なりに探った。彼の身体に向き合う形で、彼の腿に跨ったなら、自分の股間の温度と湿度が彼のデニムパンツを徹して伝わってしまうだろう。それは不潔で申し訳ない気がした。敦子は今日自分が綿の下着を穿いていることを皮膚の上に明らかに感じた。
敦子が彼の腿に跨りたいのは、ノン太の周りの空気を吸いたいからであるようだった。このような病みきった空気の中でも、ノン太の周りの空気は毒気を失うように感じられる。それはノン太自身が清潔でなく、この場にぶつかって存在はしていないからだ。ノン太は清潔ではないが毒を抜く体液を持っている。だからどことなく、いつも落ち着いているのかしら、と敦子は納得した。なんだよ、と再び言われたので、元気そうでよかった、と敦子は言った。言いながらなんだか嬉しくもなり、顔がにやついてくるのを隠して恥ずかしがった。
トレイに円柱形のドリンクを林立させた角刈り頭の店員が、討ち入りのようなドアノックをして闖入してきた。整理券を配るような忙しさで什器をテーブルに置いていく。俯いた態勢は何か事情を疑わせた。そこにサルスケが帰ってきて、足元にかがみこんだ店員に軽く追突した。あすいません。あもうしわけございません。サルスケはハンカチで手を拭きながら入室してきたし、なぜか顔面を水で洗って戻ってきたので、敦子はとっさに俯いて噴き出すのを隠した。家かよ、それとも、この人はどこででも顔を洗うのかしら、と思うと、ますます笑いの衝動がこみあげてきた。ノン太が突き出してきたバスケットからフライドポテトを一本摘むと、舌が焼けるほど塩辛かった。それを噛んで滲む油となじませていると、サルスケの洗顔の件は何が面白かったのかわからなくなった。
この日、敦子の体調は悪かったのである。敦子は時折、ハッ! と強い息を吐いて体調の悪さを懲らしめた。そうしてやってくる反動を、今度はよしよしと慰めてもやった。そのやりとりのたび、皮膚中にグリセリンのような汗が搾り出される。体内のリンパ節は暑苦しいのに、肉の全体は冷えていた。冷房を強くも弱くもする気になれず、悩んだ末にやや弱くした。よくあることとして、身体の病的な苦しみが敦子を肉体的な者にした。敦子はやがて立って歌いはじめた。悪寒は敦子に理由の無い恐怖を覚えさせていたが、敦子は自分の両足が正しく腰に接続されており、短いスカートからやわらかく生えている、ということを感じて喜んだ。敦子はまさに両足で立っていた。足の付け根の皮膚は繊維方向が腿を取り巻く方向である。
ノン太がアメリカのフォーク・ソングを、きつい声でピッチを外して歌ってくれるので、それを聞いて目を閉じていると敦子は病苦が癒された。これ何ていう歌? とサルスケが聞いたので、やめて、と敦子は思った。知識を聞くための頭を揺り起こすのがそのときの敦子にとってもっともしんどいことであった。サルスケはスロー・バラードを歌うと上手かった。丁寧にピッチをなぞる声は鍵盤を想起させるものがあって、頭を使いたくない敦子は、サルスケが子どものころピアノを習っていたと決め付けることにした。声はビブラートというよりトレモロしていた。
二時間半ほどそうして過ごすと、敦子は体調をやや恢復させた。いつの間にぶつけたのか、右肘が薄く出血していた。エレベーターを降りてビルから出ると、陽光が出ていて音が鳴るほどまぶしくあった。雲の流れが目に見えて早い。それに合わせて、車道の自動車らも速度を上げている。
コーヒーを飲みに行こう、ということになった。ノン太がそれを言うと、コーヒーそのものが美味なものに聞こえてくるので、敦子は今の舌に合わないコーヒーをそれでも飲みたく感じるようになった。コーヒーの液を思うと敦子の胃に負担が掛かる。それで敦子が思ったのはカラカラに煎られた茶色のコーヒー豆のほうである。
ただ、敦子の体調は恢復されてきたにも関わらず、敦子の腹のうちには、何か得体の知れない黒々とした異物の塊があったのだ。硬い球形の無慈悲な黒物。そいつがどうしようもなく横隔膜の上を左右に転がっている。敦子にはその感触が何であるかわからなかった。ただ、取り合うと余計に厄介なものだとだけ直感されたので、行こう行こう、と敦子は男どもの両腕にぶら下がるようにして自ら歩みを進めた。敦子は腹の底の異物を力ずくで追い払うほうを選んだのである。
コーヒー・ショップを見つけるのには難航した。別のエリアで探そうとノン太がいい、申し訳なさそうに、タクシーを捕まえてよいかと言った。いいよ、とサルスケは快諾したので、敦子はそれを少し恰好よかったと感じた。ノン太が国道に身をせりだしてタクシーを停めるのに、ノン太は一台目のタクシーを見送った。それを眺めていて、敦子は自分の体調のすぐれなさがノン太にバレてしまっているのか、と察した。ノン太は腕の良いタクシーをなるべく選ぼうとしているふうに見える。
「俺さぁ」
サルスケが手のひらをズボンの布にこすりつけてから言った。
「なあに」
「今の会社辞めるんだよね」
「そうなんだ」
「言ってなかったっけ。言ってないよな、そりゃあ」
サルスケは人差し指を空に向けた。その方向を見上げたが、何もなかったので、そういう意味の動作ではないようだった。
ノン太が入念に選んでくれたタクシーは、残念ながら運転が最悪に荒かった。人の良さそうな老人で、気さくに話しかけていたが、その気の軽さと同様にハンドルも振り回すふうである。身体が左右に振られるのに対抗できるほど敦子の調子は万全ではなかったので、敦子はあっさりサルスケの肩に凭れかかった。凭れてしまうと身体の芯がスゥと休んでしまったので、敦子は敗北を認める感触で、自分の体調の不全を認めた。アツコ疲れてんの? とサルスケが言うのを、応えるのがしんどかったので、ウ、とだけ敦子は答えた。サルスケの肩は硬くて頑丈だった。目を閉じて、薄目を開けてノン太のほうを見遣ると、ノン太は運転手に指示を出していて、前傾姿勢になったそれは彼の負い目を感じさせた。運転の荒いタクシーを捕まえてしまったことが彼を悔やませているらしい。
(運転ゆっくりお願いします)
と敦子は自身で言おうかと思ったが、狂暴な声になりそうだったので諦めた。道中の公園で消防車が訓練を兼ねた祭りをやっているのを目に留めて、敦子は改めて日常を確信しながら、より大きく体重をサルスケの肩に預けた。少し眠れそうだった。
短い眠りから醒めると、それでも敦子は、男の体臭を嗅ぎながら眠っただけあって、独特の気分で目覚めた。顔に畳の後がついていないかを場違いに一瞬惧れた。敦子は、女には、誰にでも抱かれてしまう性質がある、ということを思い出していた。高校生だったとき、学園祭の準備に学校に泊り込み、雑魚寝していた敦子は男子生徒に唇を奪われてしまった。しかも敦子自身、それに驚きつつも、直後には積極的に男に口唇を与えてしまったのである。敦子は秘密にしていたが、唾のぬめりを味わうそのときでさえまだ寝ぼけていて、相手が誰だかわかってはいなかったのだ。ただ男だということだけわかっていた。身体が疲れていると自分は肉体的になり、肉体的になると自分は誰にでも抱かれてしまう。そういうことがあった、と、敦子は思い出しながら目を擦った。
「なあ」
「は?」
タクシーから降りて身体を伸ばすことを楽しみにしていた敦子は、その楽しみを阻まれたとでもいうふうに、険のある声でサルスケに応えた。敦子自身も、不意に出た自分の声にギョッとした。なあに、と、今度ははっきり媚びた声と表情を重ねて、一連の事情を敦子は隠した。
「お前って付き合ってる人いたっけ?」
「いないよ」
いないよ、と言ってから、いません、とも重ねて言い、そのあと、アハハ! と敦子は笑い声を上げた。
(おかしい!)
敦子の内心は穏やかでなかった。敦子の笑い声は、敦子自身にとってまず不気味な響きのものだった。サルスケはつられて笑うふうだったので、さしあたりは普通の笑い声だと受け取られたらしい。サルスケの背後にノン太の動作が、タクシーを降りるのに鈍くさかった。それは愛らしく見えたが、それにも何か笑いたてたくなる衝動がむずむず起こった。
敦子は精力的になった。ぐらつくヒールをコンクリートの歩道に自信を持って踏みつけていった。あそこにも喫茶店、こっちにはデリがあるね。どうする? わたしどこでもいいや。ノン太が献身的に、道路向かいの喫茶店へ直接歩いて確認しに行った。本当に人がいいよねノン太って、と言うと、そうだよ、とサルスケは我がことの自信のようにはっきり言った。友情を感じさせたので、友情だねと笑って言うと、そりゃ友情だろ、とサルスケは怯まずに笑った。敦子はサルスケの背中を叩きたい衝動に駆られ、思いあまり、そのままバンと背中を叩いた。サルスケの素直な友情の持ち方を賞賛したい気持ちがあったのだ。サルスケは何か悩み事があるのではないかと感じられた。敦子はサルスケの悩みを聞いて、今日の時間をじっくり過ごそうと思った。
敦子はぐいと背伸びをした。するとよろけて、ヒールが誰かの足を踏みそうに踏鞴(たたら)になった。ハハハよろけてんじゃん。わたしバランス感覚なさすぎだよね。敦子はサルスケとの距離を今日は近しくなったものと感じていた。ノン太が横断歩道を歩いていく後姿は、献身的であるのにずいぶんゆっくりしている。なかなか、ああはゆっくり歩けないものだけど、と敦子は思った。敦子はサルスケと親しい友人でいて、ノン太という知人をどこかへ見送っているような錯覚を味わった。
(ノン太は少し遠い人かもしれない)
遠いって何だ? 年齢か? 同い年だけど。敦子はじっくり考えてみようと思った。なんならせっかくの今日だから、ノン太に直接聞いてみてもいいかもしれない。ノン太を傷つけてしまうだろうか。このとき敦子のこめかみには鋭い頭痛だけが走った。
喫茶店は労働者向けの席が混雑したものだったので、ノン太は両手でバッテンを示し、三人はデリ・ハウスに行くことにした。夕の部がオープンしたばかりで良い席を取れた。敦子らが席に座ると、顔色の悪い店員がアンプの音量を2から4に上げた。かすんでいたレゲエが輪郭を持って聞こえた。もう一組のグループが入ってくると、アンプ音量は4から8に引き上げられた。
三人でオムライスのセットを頼んで分け合った。このオムライスのセットが美味しかったので、敦子は救われた。体調の恢復を口腹から援け、また自意識の強い髪型が不愉快だったコックも途端に善人に見え始めた。我ながらゲンキンなことだと敦子は愉快だった。
サルスケは会社を辞めて家業を継ぐそうだ。
「俺が直接やるのは、マヨネーズの工場なんだけどね」
造船の部品、衣料品の輸入……一族で手広く経営しているらしかった。それは敦子に新しい驚きを与えた。人生だねえ、と、敦子は感想を素直に言う。電線がショートしたらしく、窓に据えつけてあったバドワイザーのネオンサインがブンと音を立てて消灯した。それは夜を強調した。
体調が万全でなかったので、敦子は飲酒を諦めたが、サルスケとノン太はビールを飲み、少しずつ大騒ぎへと進んだ。デリは夕の部から夜の部に移り、明かりが落とされると、各テーブルに火のついたキャンドルが配られた。敦子は立ててあるナプキンの束が倒れてキャンドルの火に飛び込むところを想像する。アンプ音量は18まで引き上げられて、三人は互いに怒鳴るふうに話すことになった。そうして大声で話すのは敦子にとって久しぶりのことで、敦子は懐かしさを含めた熱い気持ちになった。
店を出る前に、騒動が起こりかけた。動作の荒くなった敦子の指先が、クランベリージュースの残ったロンググラスを引っ掛けて、テーブルから落下させた。ガラスの砕ける注目的な音が鳴り、赤紫の果汁が隣席の男の靴にやや掛かった。敦子はすばやく、ごめんなさい! と鋭く言ったのである。けれども男から返ってきた声は憎憎しげであった。
「ごめんなさいじゃねえんだよ」
敦子には不思議な想念が起こった。敦子はテレフォン・アポインターとしての仕事を、パートタイムながら長く務めたことがある。後期にはクレームの対応もした。それで、自分の謝り方は正しいはず、という想念が、このときなぜか強く起こった。敦子は自分の想念にわずかに戸惑ったが、重ねて、よく訓練された言い方で、申し訳ありません、とも言った。けれども男は、なんなのおたくら? と取り合わないふうだ。
敦子は苛立ちを覚えた。腹立たしさに、作った表情が壊れそうになった。男はこれ見よがしに煙草を灰皿にねじこんで消火する。敦子は男が女連れでいることを改めて見、それでこんなにいきり立っているのか、と了解した。男の声には加害と暴力の意識があって、しょせん演出的なものでしかないと信じようとしたが、敦子は内心で恐怖していた。敦子にはその恐怖を押し付けてくるやり方も腹立たしく思える。敦子は男を嘲弄してやりたい気持ちさえ起こしていた。
(はは、じゃあどうしろって言うんですか?)
ノン太が座席から立ち上がった。立ち上がると、ノン太の身体は改めて大きなものに見える。敦子はどきりとし、店内の空気も不穏にざわめいた。
ノン太の行動は暴力的なものではなかった。
「調子に乗りすぎました。申し訳ない」
ノン太はそう言って頭を下げるのみだった。調子に乗りすぎていた、という言い方は、得も言えぬ的を射ているようで、敦子をもハッとさせる。行けよ、と男は面倒くさそうに顎で敦子らを追い出した。デリ・ハウスの店内は、空気を冷やしたものの騒動の緊張感をまぬがれた。敦子はすごすごと退散したが、その間、男の連れていた肌の汚い女に侮蔑の眼で眺め続けられるという屈辱を味わうことになった。女の眼は敦子の内臓を疾病させたいと望む熱心さに満ちていた。
サルスケとノン太が会計を済ませて出てくると、敦子は街路樹の根元にしゃがみこんでいた。タックルをするように、街路樹に鎖骨を当てていると安心する。どうした、大丈夫? とサルスケに心配され、ノ……と言いかけて敦子は首を振った。飲みすぎた、と言いそうになった。敦子はアルコールを飲んでいない。
「詫び入れるのに、あいつらの分も支払いしてきたからさ」
「あ、そうなんだ。ごめんね。その分はあとでわたしが出すよ」
「いいよそんなの。それよりさ」
敦子が告白を受けたのは、電波塔下の広場である。電波塔を下から見上げると正方形で下着を覗きこんでいる心地がした。修理の突貫工事が夜間も続いているらしく、金属を打つ音が半鐘のように遠く天空から降ってきている。敦子はベンチに座り込んで股を開き、股間に風を通している。サルスケは地面にへたりこんで、敦子の膝頭に眉間をこすりつけていた。敦子はそれに嫌悪感を受けながら、タイミングによっては性的な刺激が送り込まれてくるのをこっそり味わってもいた。その気なら早く股間に手を突っ込むなり、顔を突っ込んでくるなりすればいいのに、と敦子は他人事のように思った。もし実際にそうされたらという感触を思うと、激しい嫌悪に敦子は鳥肌を起こす。その嫌悪感は矛盾しながら敦子のヴァギナの快楽によく馴染みそうであった。敦子はもしそうなったならば受け入れるのか拒絶するのか、自分でもわからずにいた。
サルスケには経験が足りない。自分にはある経験が。敦子にはそう思われた。敦子はこのような男を見たことがある。姉が連れてきた、交際相手の男は、酒に軽度でも酔うと、こうして甘えてきて膝枕を要求してきた。敦子は姉の面目を立たせるためにも、それを請け負ってきたのだが、敏感な内腿の肌に腐った男の頭部が乗っかる感触は、特に短い毛髪が皮膚を刺激すること生々しく、強烈な嫌悪感を起こさせるものだった。ただ敦子は自分がそのような生理的嫌悪にさらされること自体があまり嫌いではない。嫌悪感には、怖いもの見たさというやつと、あとやはりヴァギナの快楽につながるものがあった。敦子にはそういう経験があり、サルスケにはそういう経験がない。敦子は今、足元に醜いものを見下ろしていて、そこに起こる不快を、揺れる同情と共に楽しんでいた。
ノン太が戻ってくると、さすがにサルスケも眉間の擦り付けはやめた。遅かったじゃない、と、また敦子は(おかしい)と思われてならない口調で言ったが、ノン太が白ビニルの袋を開いて見せると、敦子は一時心を救われた。色とりどりの、パステルカラー、食べきれない数の氷菓が入っている。食べきれないじゃん、と敦子が笑うと、ノン太は、こういうのはこれでいいんだよ、と低い声で言った。ビニル袋を逆さにするとごろんごろんと氷菓らが飛び出し、ベンチの上には気の利いた花束が持ち込まれたふうになった。ノン太はそれを次々に開封していく。配られたプラスチックのスプーンはハーゲンダッツのロゴ入りで、スプーンもまた大量にあるのは、敦子を愉快に励ました。食べられるだけ食べようと思った。肉身を冷やして苦しみたいと敦子は考えた。
ついてきてくれないか、とサルスケは言った。結局のところ、俺にはお前しかいないんだ。ようやくそれがわかったんだ。アツコ。俺の家には資産が何億かあるよ。いや、もう十億を超えてるのかな? それでいろいろ、見合いもさせられてさ……先方は乗り気になってくれるんだけど! なんかちょっと違うというか。そういう生き方をしたくなかった。それでいろいろ考えたんだけど、お前しかいないって思ったんだ。本当だよ。これはマジの本当。
何十億かあ、と、敦子はその部分に夢を見た。敦子はその部分の話をもう一度してほしいと思ったが言い出しにくかった。敦子は高級店を買い歩く自分を夢想しながらレモン味の氷菓を掬って口腔に滑り込ませた。氷の粉末を上あごに擦り付けるとシャリシャリと綺麗な音が響く。唇の内側が冷え切って、清潔に濡れてますます粘膜らしいと感じた。女の粘膜は生来で男のそれより美しいと敦子は感じた。
いつしかサルスケは敦子の膝にしがみついて泣き始めていた。俺さぁ、と彼は語っているのだが、紡がれる文脈は敦子の耳に入り込んでこない。空に、低く飛ぶオレンジ色の飛行船がのっそり現れてきて、敦子を不吉にどきりとさせた。それは光っていない低空の月の色だ。街の夜景を遊覧に飛んでいるのだろう。形はちょうど人のまなこに見える。夜はまだ活発なようで敦子を嬉しがらせた。
「わたし、将来は、耳が聞こえなくなるよ。遺伝で」
ピンク色の氷フレークに取り掛かりながら敦子が言うと、サルスケは顔を見上げて、エー? と拍子のずれた声をあげた。うるさいな、と敦子は直情的に思った。それは確かにうるさげな声であった。遺伝で聴覚を失うというのは敦子の嘘であった。けれども、その嘘は敦子自身が嘘と信じきれていないものだ。敦子の祖母は敦子が幼い頃に聴力を失った。肺炎をこじらせたからだと父は説明したが、幼い敦子は父が嘘を言っており、自分も将来はそうなるのだと信じた。それは幼児の童話的な思い込みに過ぎないものだったと敦子はむろん了解しているが、一方で、自分がそうならないとも限らない、と敦子にはときに強く思われるのでもある。敦子は誤解を避けるために、遺伝的に、そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない、わからない、と補足した。
「そうなのか。うん、でも、わかった。それでも俺の気持ちは変わらないよ」
自らの声の震えに興奮させられて、サルスケの肉が急にぐいと立ち上がる力を持った。敦子はとっさに膝を持ち上げて身体をひねり、サルスケのやろうとした肉体的な接触、特に口唇の交合を避けた。敦子はそのひねる運動の勢いが余って、デッキベンチの向こうに落ちた。縁石に腰をしたたか打ちつけ、顎の付け根に星が散った。植え込みに生き物が走る音がして、敦子は蛇を疑ったが、視線の先にあったのは、驚いて跳ねて逃げる、街の廃棄物を喰う鼠らの一匹であった。
三人は再びタクシーに乗り込んで、散会するための場所へ向かった。それは今日に待ち合わせた場所あたりが適当だったので戻った。タクシーに揺られている間、打ち付けた敦子の腰骨は重く痛み続けた。サルスケは、親しい仲でする耳打ちのようにして、考えておいてくれよ、な、と敦子に言った。サルスケの腕や足はじっくり敦子の身体に押し付けられている。体温が堂々と通い合っていた。敦子はふと今日の一日を思い出し、振り返れば、今日はずっとそうしてサルスケが自分の肌に接近してきていたことを確認したのである。
散会すると敦子は一人になった。一人はぽつんとしていた。身体に痛みはあるものの、敦子には活力があり、陽気で、もう少し街を歩いてから帰ろうと思った。喉が渇いたのでどこかで飲み物を買おうとする。歩いてみると、身体を打ちつけたせいか、あるいはサルスケに身体を押し付けられたせいもあってか、敦子の重心は中央から左へ偏っていた。敦子は常には左に掛けるバッグを右肩に掛けなおしてもみたが、それは余計にバランスを悪くするようで、諦めて左に偏らせて歩いた。
敦子は落ち着きたかったのである。それで敦子は深呼吸をした。けれども、敦子の胴体の前面部を守る筋肉が、なぜかわからず慄(おのの)いている。慄いた筋肉は呼吸を浅くし、浅い呼吸は敦子自身に狂気を足すふうだ。深呼吸を強いてみても、それは慄いた筋肉が膨張するのみであった。(おかしい)。敦子は焦るふうではなかったし、また焦るべきことは何も持ち合わせていない、ということを確認しながらも歩いた。
敦子は腹が立ってきた。苛立ち、歩く足は地面を憎く蹴りつけるようになった。これは何? 相変わらず、ずっとだ、横隔膜の上、お腹の大事なところに、黒い無慈悲な球体がある。それが左右にころころ転がる。忘れろと言われても無理がある感触。
「別にいいけどね」
敦子は独り言を言った。
横断歩道に差し掛かると、交通事故のシーンが甦ってきた。憐れな浮浪者は、あれで意外に死んでしまったのではないか? へしゃげた顔面と、持ち運ばれた彼の肉体。彼と最後に目を合わせたのは自分だったかもしれない。わたしは彼に選ばれてしまった可能性がある。事故現場は夜になって、赤い重油のような口紅を塗った老婆が易経の占いを待ち構えて座っていた。敦子はその不遜な顔つきを憎たらしいものに見た。
なぜ今日は、グラスをひっくり返すというような、普段はやらないミスをしてしまったのだろう。疲れていたからだろうか。それとも、年を取ったから? 年を取ったという指摘は敦子を怖がらせた。
視界がぎゅうぎゅうに押し込められている気がしたので、敦子は顔面をぐにぐに動かした。合わせて、痰を切るような咳払いをする。敦子をいよいよ深刻な疑念に落とし込んだのは、グラスを倒して粗暴な男に絡まれたことについてであった。なぜ自分は、あのとき自分を悪いと思えなかったのだろう。それは実に辻褄の合わないことのように敦子には思われた。どう考えてもあれは自分の失態だったし、あの人は不快な気分になっただろう。申し訳ないことだ。調子に乗りすぎていた、というのはまったく当たっていたと改めて思われた。
敦子は自分が悪い夢の中にいると信じた。信じてみると、敦子はまさに悪夢というべき、正体の無い恐ろしさの中に立っていたのだ。夢と信じて、顔を両手で擦ってみたが、目を開くと元通りの景色であった。敦子は水で顔を洗いたいと思った。それを求めて敦子の足は歩調だけ強く歩こうとする。
視界の先に、大きな体躯の男の影があった。それは人の流れの中で明らかに浮いてその場に固定されている。敦子はギクリとして視線を上げた。敦子はノン太の姿を認めて、ギクリとしたこわばりが温かくほどけるのを感じた。
ノン太も、少し歩いてから帰ろうとしたらしい。照れくささに敦子の顔はにやついた。ノン太のほうは無表情であった。それも実にノン太らしさのものと敦子には好く受け取られる。
「ひさしぶり」
ノン太がおどけて言い、ハイ・タッチの形に手を挙げた。敦子はそれに自分の手のひらを打ち合わせたのだが、ノン太の肉厚の手は無防備で、打たれた力を受けて、そのままに後ろに仰け反った。敦子は自分の打撃に、いよいよどうしようもないショックを受けた。敦子の掌底は骨ごと痛んだが、打たれたノン太の方はより痛かっただろう。
「ちがうの」
敦子が無理やりの陽気さでそう言ったのは、敦子の振るった乱暴を否定する意味である。自分の今の、手のひらの打ちようはひどかった。敦子は、鞄を投げ捨ててこの場で衣服を全て脱ぎ去りたいという衝動を覚える。
「苦しいのか」
ノン太が突然そう言うのを受けて、敦子は俯き、何か思い切りを必要としたように、ウン! と答えた。その途端、敦子は顔をX字にしかめ、実に苦しそうに泣き始めた。苦しい、と白状すると、敦子は自分のわけのわからぬ心地が、苦しさのものだったのだと知れて、またそれは間違いのないものだったので、安心して泣いた。敦子は苦しかったのである。苦しくて苦しむのは当然のことと思われた。また苦しくて泣くのも当然のことに思えて、敦子は安心の中で全身を引き攣らせて泣いた。敦子は、自分の泣きようから、自分はこんなに苦しかったのかとびっくりしたのである。
ノン太の分厚い手のひらが、敦子の背を撫でた。敦子はひたすら直立して泣き続けた。息を継ぐたび、Uの母音とKの母音が不作為に喉から飛び出している。鼻腔に洗滌機を入れられたように、敦子の顔面からは多様な液体が流れ出ていた。敦子は周囲から好奇の視線を向けられ、無表情のノン太がそれに耐えていることを知っていたが、それを詫びたく思い、すぐに済むから、とも言いたかったが、それを音声にすることは不可能であった。
横隔膜に転がる、無慈悲な黒い球体。それはまだ敦子の腹にありながら、いまは重量を失っていた。光沢のないスポンジのようにあり、それなら敦子は受け入れることができる。これは何なんだと思うと、これは不安だ、と敦子に知れた。この黒い球体は不安である。
敦子はサルスケと話すと、この黒い球を輸入してしまう。あるいは自己の内に合成するのか。黒い球は横隔膜の底に転がり、その重量で動脈叢を圧迫する。動脈叢を圧迫されると、血圧が壊れるのだ。血管が黒球の重みに反発して拍動を強める。壊れた血圧は、敦子を多弁にし、動作を乱暴にさせる。嘘を言わせる。全身の肉が不安に慄くのだ。それは実に単純なできごとに思われた。不安の黒球が腹に座り込めば人間はそうなるということである。
敦子には理解できたし、理解すると、自分を許すこともできた。顔面の泪や鼻汁などの汚物を手のひらでぬぐいとると、意外に恥ずかしさはなく、むしろ汚れた顔を見せ付けてノン太を笑わせてやろうと思った。ぐいと見上げると、ノン太は相変わらずの無表情であった。けれどもよく見ると、無表情の奥に彼はやわらかく笑っている。敦子は、どうかしてるよね、と言った。ノン太が、丁寧に答えようとして、お互いにな、と答えると、敦子は胸が焼けるような感動を起こした。
洗滌された敦子の眼球には、駅前の光景が、特にフィラメント色の強い、対照の輝くものに映った。夜であり、街であり夜景であった。ノン太の顔に、あまりにも何事もないので、敦子のほうにも何事もなくなってしまった。敦子には何事もなかったのである。そして全身に蓄積された疲労だけが、これでもかという重みで、敦子の四肢を熱のかたまりにしていた。裂傷を帯びた右肘からは火が漏れている錯覚さえある。いま敦子の肌が男の指先に鋭く撫でられたならば、弾けた熱がうねってヴァギナまで届き、敦子はその熱の導線どおりに身をよじり、崩れ落ちるだろう。敦子は覚悟を求められた。
敦子は自分の汚物で粘る手のひらで、ノン太の太い小指と薬指を握った。不思議だ、と敦子は感心していた。敦子は自分の行為が汚らしくてひどいものだと理解していたが、それをノン太にぶつけることにためらいが起こらない。それはやはりノン太が清潔な者ではなかったからだ。それでも敦子は、ごめんね、という力加減を指先に篭めたが、敦子は自分の汚物によっては彼を不潔にすることはできないのだということを惚れ惚れとして確認していた。
「カラオケ・ボックスに行こうか?」
ノン太が、意地の悪そうな、真似事の声でそう言うと、敦子の眼から体内に楽しさが音を立てて広がっていった。敦子は健常化した首を大きく縦に頷かせた。ノン太は自分の冗談口が敦子に笑いを誘わなかったのがやや不満そうであった。敦子はノン太の腕に全身を寄せて、大きくはないバストの丸みを擦り付けた。ノン太は清潔ではないが毒を抜く体液を持っている。敦子はそれを今夜、お願いしてでも飲ませてもらおうと思った。
[了]