No.234 僕の愛した夜へ
意外なことを見つけた。意外なことを見落としているものだ。僕が学生だったころ、毎夜のように部室で過ごした。木造の、今にも崩れ落ちそうな、廃墟のような二階建てに、南京錠をした建物である。
僕はそこで友人たちといた。それはありふれたことに見える。けれども、今あらためて明視しなくてはいけないのは、そこには僕を含めた誰も彼もが、「逃げ込んでいた」ということだ。友人らと親交を深めるためとか、何かを前進させ向上するために集まるのではなかった。
みんなで盛り上がっていきましょう、という空気の場所、そういった会合が、いまいち僕の身に馴染まないのは、このころの経験による。あるいは、そのずっと前からもそうだったのか。僕の、友人とは呼びづらい連中の、それでもこれ以上ない確かさの友人らは、一緒の場所に逃げ込んで、いつも出くわす面々だったにすぎなかった。思えば当時、僕が通っていたバーなども、通っていたというよりは、やはりただ逃げ込むときの場所であった。その、逃げ込むという行為が、しっかりと共有され、理解されていたのでもある。だから、「いらっしゃい」の声は、ゆるやかなものだったし、どこか苦笑を含んでいた。
なぜ逃げ込まねばならなかったのか? それは、当時、僕は一人で暮らしていたが、一人のうちにやってくる夜が恐ろしく手ごわいものだったからだ。当時、まだ我々は携帯電話を持っていない。インターネットは黎明期だったが、ダイヤルアップ回線で、まだ好奇心程度にしか接続するものではなかった。テレヴィは深夜でもやっていたが、本当に一人で見る深夜のテレヴィというのは、逆に骨身を冷やして響くところもあった。
何かをせねばならない。午前零時である。まだまだ夜は続いていく。ここから、本当に一人きり、何をするにしても、そのいちいちは何か恐ろしいことのように思えてならなかった。枕元に投げ出されたフロイトの、精神分析入門の続きを読むか。あるいは、量子力学のプリントを開いて、シュレーディンガー方程式の展開をあらためてやってみるか。あるいは、放置したままの絵筆を台所で洗い、投げ出したはずの絵の続きを、少し描いてみようか。それらのいちいちを、本当に一人きりの部屋で夜中にやる。ごそごそと……そうすることは、何か全てが儀式の行為めいていて、恐ろしく感じられたのだった。そうして夜の恐ろしさがまとわりつくと、明かりを消して眠ろうとしても、そうして床に就く静けさが怖い。それで明かりをつけたまま横になるが、静けさに空気がシンと軋む中、ガラス戸に蛍光灯の丸型が映りこんでいるのが妙に印象深く怖い。午前零時、何かをやらねばならなかった。人生への不安はすぐに濃厚に立ち込めてくる。ここで、この一人きりの中で、何かを積み重ねていく、そうすることが自分を人生に推進してゆくことだと、わかってはいた。ただ、静かすぎる夜の重さに勝てないのである。
それで、部室に逃げ込んだ。幸いなことにか、あるいはヤレヤレという具合にか、僕の下宿は部室まで歩いて三分のところにあった。部室に行くと、廃墟のような二階建てのうち、我が部室に不謹慎な明かりが灯っている。それで僕の気持ちはぬくもりにほぐれた。わざとらしく、演出気味にドアをバンと開けて入ると、同じように逃げ込んできてある連中の、見慣れた後ろめたさの顔があった。おう、と苦笑が交換される。つまりは全員が互いの事情をよくわかっている。
僕にとって友人とはそういうものであるらしい。逃げ込んだ先に会う、夜の重さに勝ちきれなかった、後ろめたさが逆転してヤケッパチの陽気さまで表している者たち。なるほど、だから我々は仲間だったのだ。「人生が怖ええよ」「まったく」。うらぶれた者たちとして、否定されるべき我々自身を土台にしつつも、とりあえず受け止める、自身を受け入れて笑うしかまずない、という中で我々は過ごしていた。何か前進的なことを本当に言うような奴なら、そもそもこんな夜中に部室に来るような不毛はしまいと、誰もがとうにわかっていたからには。
このことは意外に巨大な発見ではあるまいか。僕にとっての友人というものの体験は、今あるそれとは逆のものだった。夜中に部室などに来ない奴のほうがまっとうで、つまり、逃げ込んでこない奴が立派な奴だった。今はどうだ。今はむしろ、友人らの会合に出てこない者のほうが、何か「逃げている」という感触で取られる。友人というと、互いに励ましあい、互いの前進を促しあう関係であるような、イメージが今ある。実際、友人らと会うとき、少し気合を入れて、みすぼらしい自分を見せまいと、気を張る、そういう心構えでいつの間にか臨んでいる、という人は少なくないはず。それは僕の体験してきたものとはまったく逆だ。当時の我々は、むしろ自分にみすぼらしさの空気がまとわりついたなら、それをそのまま夜中の部室まで持ってゆき、これでひとつ笑いが取れるなシメシメと企んでドアをバンと開けたものだ。
では今は、人は疲れたとき、どうしているのだろう。疲れたときは、どうやって友人に会う? どの酒場に逃げ込んで、逃げ込んできた者同士、どうやってその哀愁を許しあうか?
疲れたときは、ひたすら自室で身を横たえて休むのか。それはいかにも、寂しすぎることのように思う。夜は一人でいることこそ恐ろしいはずだ。それをどうやって癒して休む? それで今は、携帯電話とインターネットの出番になるのか。思えば確かに、過去に比べて今は、マンガやアニメの数もずいぶん増えた。夜は恐ろしくなくなった。だが恐ろしくない夜は、僕の愛した夜ではない。
***
楽しいことがあるのがよくない。確かに、インターネットも携帯電話も、アニメもマンガも、楽しいものだ。楽しすぎるぐらいのものだ。けれども、僕の愛した夜へ、やはり僕はつながっていたいと思うから、これではいけないとなお思うのである。
まず、社会的に孤立せよ。夜に一人、まさにその身は社会から孤立している。事は実体の前に世界観の問題だ。自分は社会から孤立していて、外の世界はどんどん進んで行っている。誰も彼も、自分を置き去りにして、有意義に進んでいる……そのことを想像せよ。自分だけが取り残されて停滞している恐ろしさ。まるで風を与える扇風機だけが自分の友人だという孤独。
携帯電話もインターネットも、実に手近にある。これを無視することはもはや不可能だ。だから、それは手近にあって、見てもよいが、これに自分は関係がないと痛感せよ。これは彼らのものであって自分のものではないと。そうしてやはり社会的に孤立せよ。ウェブ機構で繋がっているのは、外の彼らであって自分ではないのだ。
紙を用意し、ペンを手に持ってみる。そして、誰にも見せない日記でもよいし、落書きでもよいから書こうとする。孤独の中で、自分一人きりでそれをやるのは、何か儀式めいていて恐ろしい。自分の思い出を書く。将来を書く。架空の小さなお話の絵を描く。そのような、一人きりの営為をすることは実に恐ろしい。<<自分だけが外の世界とまったく違うことをしている>>のは恐ろしい。かといって他にすることはない。
楽しいことに逃げるなよ。ウェブツイートに「不安な夜だ」と流して慰撫されるのはやめろ。それは孤立が救済されるのではなく、孤立してあるまさにその身のことを自分が忘れてしまうだけだ。ウェブツールは外側の彼らのものだ。ヨソのもので、自分のものではない。この孤立の時間はまだまだ続く。一時間、二時間、三時間……まだ真夜中だ、より孤独はくっきりしていく。
ありふれた居酒屋に自分が踏み込むことを空想せよ。苛烈というほどの声が、自分という来客に向けられるだろう。その違和感にギョッとする。これじゃない、と。つまり、自分が逃げ込む先がどこにもない、ということを痛感しろ。街のどこを駆け巡っても、自分の逃げ込む先がない。このような夜、人はどこへ逃げ込んでいるのだろう? それを知らない、その場所を持っていない、ということに気づけ。
そして空想する。あるドアを開けると、重い夜に勝ちきれずに、逃げ込んできた友人たちがタムロしている。そこには苦笑が共有される。休憩、ひとまず休憩。一人でいたときは、実は気張っていたんだなと気づけ。「無理無理、考えたけど、人生のことわかんないや」。自分がそう告白すると、「人生とか、怖いこと言うなよ……」と、より大胆な屈服ぶりの、苦笑の滲んだ声が返ってくる。
それが友人だ。少なくとも、僕が経験してきたのはそうだった。僕の愛した夜は荘厳で、僕に試練と友人を与え続けてきた。
その逆なんてやめろよ。友人が試練を与えて、一人の夜が自分を慰めるなんて。
僕はまた、今日の夜も明日の夜も、どこかへ逃げ込もうとするだろう。それでどこかであなたと出会えたらいいな。
[了]