No.239 120カラットの寝言
人間の魂は、慾望だ。
まったく、そのとおりなのだが、この話はやめよう。
フェラチオもしてくれない女にそんな話をする義理は無い。
義理は無いというか、それは逆に女性に失礼に当たる。
まるで、あなたはブタだからフェラチオなんかしなくていいよ、と軽んじているように聞こえる。
話が通じるということと、通じないということがあって……
この話もやめよう。
唯一、言えるとしたら、ある協力体制についてだ。
女の子が、僕にフェラチオを与え、またヴァギナへ挿入してズコズコすることを許し、避妊はするけど……お互いに協力している。僕は美女とズコズコしたいのだが、美女がそれを理解して協力してくれないと話が進まない。いやいやながら協力されるぐらいならこちらとしても願い下げだ。
でもそんなに難しいことを考えなくても、僕がしたいといえば、いいよ、遠慮しないで、むしろうれしいわ、と言ってくれる美女はいる。
そうなればようやく、ズコズコして、だめだいく、いいよきて、となってから、
「お前はやさしいね、お前の存在がうれしい、この世にいてくれてよかった」
「照れくさいわ、でもありがとう、うれしい」
と話せるし、そこから、
「あのね、京都大学の近くにね。これは、おれが本当に見たものなのか、夢か幻覚を見たのか、定かではないのだけれど……」
「うん」
と話すことができる。
そうなれば、話すのも楽しい。じっさい、楽しそうだろう。
そうでもないのか?
世の中には、そんなものよりもっと楽しい、うっとりとした、官能的な、全てが胸に染み入ってくるような、世界の賛歌を信じたくなるような、営みがあるのかもしれないけれど、残念ながら僕はそれを知らないので、そんなものについて話すことはできない。
話をするとか、聞くとかは、そんなに簡単なものなのだろうか。そりゃ、退屈で眠たくて結構ということなら、話だけはいくらでもできるだろうけど。
でも人は、本当の体験じゃないと、眠くなるし、内心でイライラがつのるもので……
だいたい、女から見て、この人にズコズコされることを考えたら吐きそう、なんて男の、思い出話なんか聞かされて楽しいものか? 僕はいくら傲慢でも、そこまでの思い込みは持てない。
おれの思い出話は、女に官能を与え、胸に染み入る、世界の賛歌を……なんて思えない。
女は、ズコズコを許せない男の話なんか根本的に聞きたくないだろうし、僕にズコズコさせてくれないレディは、いうほど、僕の話を聞きたくはないのだ、根本的に、と把握している。
それぐらいは、マナーとして僕もさすがにわきまえているのである。
若い女の話というのは、だいたいつまらない。
おばさんになればどうかというと、だいたいもっとつまらなくなる。
その証拠に、おばさんがファミレスに集って楽しそうに話しているのを見ると、混ざりたい、とは露思わない。
やがて自分もああなっていくのだろうか……と、諸行無常を観ずるのみである。
ただ、僕は、話のつまらない女というのを、そのままきらいだと思っているわけではない。
むしろ、話すだけで面白いなんて女は、ごく特殊な、異常な部類の女だと思う。
だから僕は、話のつまらない少女も、つまらない上にやかましいおばさんたちも、うわツマンネとは思うが、きらいではない。
きらいといえばたぶん、向こうから見て僕のほうがきらいだ。僕は向こうに死ねとは思わないが、向こうは僕にたぶん死ねと思うだろう。
死ね、なんてまったくひどい話で、人人の暴言によって僕などのハートは傷ついてゆくばかりである。
話が通じるというのは、どういうことかというと、
「お前の話は、正直、あまり面白くないから、まあちょっと黙ってくれよと思う。それで、黙ったまま、とりあえずのんびりと、フェラチオでもしてくれ。お前は顔が綺麗だし、肌も身体もいいんだからさ」
と言って、
「うん、わかった、そうしたら幸せになってくれる?」
と微笑んで返すようなことだ。
何を「話」というかというと、お前の話はつまらない、というのが「話」であって、何を話すかといったら、そのことを話すしかない。
そこを避けて、いやあさいきん激アツなことがあってね、なんて話をしたって、これはだめだ、退屈で猛烈に眠くなる。
話が面白いなんてことが、別にレディの自尊心の核ではないだろうし、賢い少女の中には、自分のする話が面白くないということを自覚している人もいる。
そういう少女は、驚いたことに、その自分のつまらないものを見せずに愛し合う方法はないかしら、あるはずだわ、ということを無意識にも探しているのだ。
協力体制というのは、あなたの話はつまらないと僕が言う、彼女が納得する、彼女がフェラチオする、フェラチオされながら僕はバタートーストを食べて新聞を読む、というようなことだ。
そうやって、静かに頑張ってくれる彼女を見下ろすと、彼女が気づいて見上げ、ふと目が合う。
「どうしたの?」
「いや、かわいいなと思って」
「そんなふうに言われるの初めてだよ」
こうして、話す、ということがようやく成立する。話が通じたわけだ。こうなると、うれしいし楽しい。お前もコーヒー飲むか? と思わず口からこぼれてくる。
協力体制だ。誰も傷ついていないし、疲れていない。面白くないものを、無理に笑ったりしていないし、お互いがお互いの時間を濃密にしあえている。
この話はむろん、協力体制が成立したから、成り立つのであって、協力体制がなければ、ありえない話だ。
じっさいに、そういうことがある。努力主義の少女が、美少女というのではない、かといってブスではもちろんなかったけれど、頑張って話をする。盛り上げようと、失礼の無いようにと、笑顔を振りまいて間をつなごうとする。健気で、いじらしかった。
が、健気でいじらしくても、話が面白くなるかというと、ならない。ほんわかした、つまらないものが流れていくと、どうしても眠くなるが、寝たらかわいそうなのでさすがに聞く。
話がつまらないのと、聞かない、というのは別だ。人が人に向けて話していることであれば、なんであれ聞かないのは人間の根本的な道義に悖(もと)る。
そんな奴は……と言ったって、そんな奴はこの話もまともに聞いていないから話しても無駄なのであった。
健気な少女の話はつまらなかったので、不毛が続くのを断ち切ろうと、
――いろいろ分かるけど、一番分かるのは、あなたの話がいまいち面白くないってことだな。
と言ってしまった。これにはさすがに彼女もウッとなり、黙ってしまった。
黙ったら、笑顔がみるみる消えていった。俯いた奥に、こんな恐ろしい顔を持っていたのかと、内心でビビるような表情を見せた。
「どうしようか、お前さ、おれに、レイプされる?」
なぜそんなことを言ったのか、僕もわからないが、言ってしまった。
その恐ろしい表情から、唾でも吐かれるかと思ったが、オバケを見るような目で僕を改めて見た視線は、怯えながらも燃えるようで、ふしぎに<<協力的>>だった。
レイプされろというのはさすがに言いすぎだったので、まあちょっと黙ってろよ、おれがお前を口説くから、お前は口説かれるのを待つんだ、というつもりで待て、黙って待ってろ、と言った。
彼女はかすかに頷いた気がしたが、そのまましばらく放っておくと、ぽろぽろ泣き始めた。
彼女は何かを思い出していた。ずいぶん古い記憶、思い出のレヴェルから、何かを引き出してきて泣いていた。それが明らかなので、そっとしておくしかなかった。
目の前で女性にそういう深刻な泣き方をされると、けっきょく自分がただ人間のクズで最低なだけなんじゃないか、という気がしてくる。それで、ごめんな、言い過ぎたな、と詫びた。彼女は鼻をチーンとかみながら、違うんです、と言った。
「安心したの」
何かわからんが、彼女は安心したそうだ。僕の度重なる暴言が、彼女の心の扉を開き……とは思わないが、なんにせよ安心したらしいのでよかった。急に親しげになった彼女の声や言葉は、いかにも協力的だった。
そのあとはもちろん、キスしたって、薄い胸を揉んだって、彼女はいやがらなかったが、そのときの彼女はそれを情熱的に楽しむというよりは、思い出のレヴェルから浄化された従順な霊体というふうだったので気が引けた。彼女は温泉宿で働いていて、夜勤があったのでそのまま帰した。
彼女は今ごろどうしているだろう、と夢想するが、きっと彼女のほうは僕のことをほとんど覚えていない。なぜか知らんが、そういうものだ。そのことはあまり、さびしいとも思わない、元気でいてくれたらいいなとばかり思う。
恥ずかしい話をしてしまった。
とにかく、そういうことはあるので、必ずしも女はズコズコに使うしか楽しくない、というわけではない。話すのが楽しかった、ということもときにはある。
つまりは、話すのでもズコズコするのでも、協力体制が必要だということで、何が素敵だったかというと、全てその協力体制自体が素敵だったということだ。
***
協力体制、なんてわかりやすく言っているが、これは人間の魂の問題だ。
人間の魂は、慾望であって、協力体制というのはつまり、僕の慾望に女性が協力してくれる体制のことを言う。
説明は、いくらでもできるし、しなくてはならないが、面倒くさい。
それを説明したいなんて慾望は僕にはなく、つまり魂の動機と無関係に説明させられるので、面倒くさい、一ミリも楽しくない、となるのだ。
面倒なので一気に説明してしまおう。たとえば主人公ルフィが、「海賊王に、僕はなりません、財宝とか興味ないので」と言えば、漫画ワンピースは終了する。ドラゴンボールだって、願いを叶える神龍なんか、別に会いたくないな、と言えばオシマイだ。ルパン三世が泥棒をしなければ、次元大介はただの趣味のガンマンで、映画「グーニーズ」では少年らは冒険に出ないし、映画「タイタニック」でジャック・ドーソンは船倉で昼寝ばかりする。
もうこれで十分だろう。慾望が人間の魂であって、少年の人生はソフトクリームをねだるところから始まる。保育園に通う童女だって宝石を欲しがる。
むかし神戸で、手品のショーをしたとき、宝石を模した道具のひとつを、ある童女が欲しそうに見つめた。僕はふざけて、この魔法の宝石が欲しかったら俺とチューしろ、とからかったが、走って逃げるかと思いきや、童女はちょっと悩みはじめた。こんなのとチューするのは絶対いやだが、あれは欲しいし……と。
僕はびっくりした。童女でも、宝石欲しさに売春をする可能性があるのだ。
人間の魂とは、慾望であって、それは幼いうちから人間に天然に具わっている。
教育とか節度とかいうのは、その慾望の求めに、取り乱さないようにと、訓練をほどこされるものだ。
慾望をそのままに振る舞うだけがより良い協力体制を生み出すとは限らないからである。
僕は美女の膨らんだ胸元を見ると、手を突っ込みたくなるが、その求めは魂の求めであって、僕が意図して作った慾望ではない。天然に、そういう慾望が具わっているだけだ。
そして、いきなり飛びかかって手を突っ込まないのは、そんなことをして彼女を驚かせ、僕が刑務所に入れられても、誰もトクをしない、バカだ、と、判断できるように教育されているからである。
つまらない話をしてしまった。
話を戻すと、協力体制というのは、僕の魂の求めに協力することであり、僕の慾望に協力することだ。
僕があなたの胸元へ手を突っ込みたいという慾望を起こす。起こすも何も、初めからそうであるが。
それで、どうしよう、となる。
「どうしようか」
「どうしようかしら」
そうして、僕の求めの問題を、親身になって、一緒に考えてくれる、一緒になって困ってくれる、そういう状態が協力体制だ。
それで、しょうがないわよね、かわいそうだから、触らせてあげる、というのが、一番スマートでいい。ああ、なんてやさしい女だ、と僕は感謝するし、尊敬もするだろう。
それを、
「は?」
「きもい、死ね」
「風俗でも行けばいいでしょ」
というのでは、まるで協力体制ではないし、冷たい。
それは、僕の魂に対して、なんらの協力をするつもりもないのだ。こんな、人間の魂など、消滅しろ、焼き払われてしまえ、と思っているに違いない。
これが、
「男の人だもんね、わかるよ」
「男の人って、そういう性慾があるから大変だよね、かわいそう」
というふうに、理解を示すだけというのも、やはり協力体制ではない。それは観察して、理解したり同情したりしているだけだ。協力の意志は皆無である。無関係だから、勝手にしたら? という態度。
別にそれが悪いというわけではなく、ただ、それは協力体制ではないので、お互いに何もいいものは残らない、というだけだ。さっさと別の男に切り替えたほうがいい。
一方で、協力の意志はあるけれど、立場や事情や都合や心理的な抵抗があって、協力しきれない、ということがある。
そういうときは、あんがい悪くない。魂の求めは叶えられなかったとしても、協力体制だけは実現したからだ。
「わたし、バージンだし、初めては、どうしても特別なお付き合いをした人と、っていう夢があって……ごめんなさい、ひどいけれど、たとえばわたしが、その、手でして差し上げる、というのではだめでしょうか」
たとえばそういうことがあれば、それは協力体制だ。冷たくない、あたたかいしやさしい。ああ、なんてやさしい女だ、と、やはり感謝と尊敬が起こる。
そんなわけあるか、そんな女がいるか、と言われてしまいそうだが、実際にそんな女はいたし、体験してきたので、僕は自分の体験を裏切らずに話すしかない。
協力体制の話だ。これを、協力体制の無い土台でイメージされてしまっては、まったく意味不明になる。
そういう協力体制を、今まで体験したことがないという人もいるだろうし、これからもする気はないわ、という人もいるだろう。そういう人の話も、これまでたくさん聞いてきたが、全部忘れた。
別に、その協力体制とやらが、世の中の絶対真理ではないだろうが、僕はこれが好きなので、これにムホホとなって生きる。その他の、協力体制でないものは全て忘れて生きていく。覚えておく意味がないからだ。そこは人それぞれ、大切だと信じるものや、ムホホとなるものを追求して生きていくのがいい。
協力体制を引き起こすには、ある理解や技術や訓練がいるが、それについても話す気はあまり無い。
だって、協力体制が無いということは、話が通じない、ということであって、そこに無理やり話をして理解させようなんて、馬鹿らしいじゃないか。
たとえば、僕について、お前そんなこと言ってるけど、じっさいフラれたときはどうするんだよ、という指摘がありうる。
それについて僕は、フラれることなんかあるわけないだろ、と答える。心の問題なんて、うっとうしいものであれば、無視されるし、無視されるべきだが、こちとら人間の魂の問題だ。それを無視するような、冷たい人は世の中にいない。少女もレディも、みんな立ち止まって協力してくれる。
と、こんな話をしても、協力体制を持ってくれない人は、この話自体が通じない。どういじくっても、「は?」か「きもい死ね」しか返ってこない。
僕は別に、女にモテモテではないし、むしろその反対だが、それと慾望に協力してもらえるかどうかというのはまた別だ……という話も、通じない。
それはそれで、別に通じなくてもいいじゃないか、人それぞれで、と、僕のほうは思っている。
信じている、というほどではないけれども。
バージンだからごめんねと、手でして差し上げることに務めた少女は、コツを掴むまではドキマギしてばかりだったが、「こうか」と理解したら調子を上げだした。
そうして、僕の慾望に、魂に、協力できるということを、喜んでいた。人の魂に協力できたとき、人は実に佳い笑顔を見せるものだ。
***
草食系というのが流行っているが、「いやあ、ぼくには、そういう慾望があまり無くて」と自己紹介する輩がいる。じっさい、時代的に流行しているのだろう、どこか自信ありげだ。
それはまあ、自分のことだから、好きに言えばいいと思うし、ジョークだったなら気が利いていると思う。自分には慾望がなくて、あと趣味はパンチラの盗撮です、というなら面白い。
が、真面目に慾望が無いというなら、そんな自己紹介は、ゴータマ・シッダールタのみ、つまりお釈迦様にしか許されない。慾望、その煩悩を解決した状態を涅槃というが、生きたままそこに到達できたのはブッダだけだ。次にどういう人物がそれを為すかというと、五十六億七千万年後に天界で修行を終えた弥勒菩薩が現世で次のブッダになる、という予言がされている。つまり彼は自分がその弥勒菩薩だと言い張っているのだが、そんなことは合コンの自己紹介で許されるものではない。
と、いちいち本当に突っ込むわけではないけれど、僕はその種の流行に肩をすくめている。
慾望はないと言っているのに、サイコロ・ステーキなんか喰っていやがると、慾望なしに喰われた牛さんを思って申し訳なくなってくる。
そういう慾望が、あまり無いと感じているのは、一種の故障だ。人間の天然の機構がついに侵されたのである。生きることと、魂の求めが分離されて、世間体とオナニーと納税だけを守るマシーンと化してしまう。そういえば、慾望があまり無いとか、草食系とか言っているのに、自室では日夜オナニーに熱心というのは矛盾した話だ。
こんな話をするものじゃないな、話しているだけでグッタリしてきた。
この話は、全部ウソだよ、どこかの校長先生がそう言ってただけだよ、と、とんでもないウソをついて切り抜けることにしよう。
引き続き、協力体制について話す。協力体制が、取引の体制になってしまったらつまらない。それは金銭で代償する性風俗とか、ホステスさんにクロエのバッグを買ってあげて、ホステスさんがウーンじゃあ一回だけね、というような話だ。それは悪いことではないし、元気なものだと思うが、僕はその取引でズコズコするのがどうも好きではない。悪いわけではなく、途中で「あああ」となって力が抜けてしまう。
ただの根性なしかもしれない。が、どうしようもなくて、たとえばクラブが流行っていたときに、適当に出会った男女で、おれもナメたげる、わたしもナメたげる、ということで、文化的にホテルに行く、というようなのは、やはり僕はきらいだった。
そんなことを思うと、実は僕などは、性慾が本当は弱いのでは……という、恐ろしい視点が浮かび上がってくる。恐ろしいので、これは考えないようにしよう。
でも正直、取引で手早く射精することには、考えただけで「あああ」となるし、グラビア写真などで青年が「いいカラダしてるよなぁ、うっひょー」となるあの反応を、実は僕は持っていない。年齢のせいならともかく、ガキのころからそうだった。
グラビアに映るレディは、キリッとしていたり、とびきりのスマイルを見せていたり、甘えん坊ふうの愛嬌の顔を見せていたりするが、僕にはどうもそれがピンとこない。
それらの表情からは、あ、協力体制になってくれなさそうだな、という気配ばかり受け取ってしまう。
要するに彼女は、「一緒に海岸を歩いて、貝殻拾おっ」とかは言ってくれそうなのだが、そんなのはつまらないし、「そんなのはつまらないから、おれがニュース観るあいだ裸で身体をこすりつけててくれよ」と言っても、わかったわ、うれしい、とは言ってくれなさそうなのである。
そして、先に述べたように、僕は協力体制になれない人のことには、まったく無関心だし、記憶に残さないので、ひいては、グラビアのセクシーポーズを見ても、「うん、まあ、いいね」という反応しか持たなくなる。
もちろん、美人だし、いいカラダをしているので、「腕組んで歩いて、あなたの株を上げてあげるね、優越感に浸りにいこう」と言ってくれたらうれしいのだが、どうもそういう発想は持ってくれなさそうだ。
ひどい話というか、ゲスな話ばかりしているが、世の中の男性諸君が全員こんなクズばかりではないので、これを読む女性諸君は安心してもらいたい。
重ね重ね、協力体制だけが真実ではなかろうし、取引体制だって、何が悪いというわけではないのだ。
少しは真面目な話もしなくてはいけないが、ふう(と溜息をついた)、人間の魂、イコール慾望、その協力体制について、それが認められるかどうか、という手続きがある。
慾望と言っても、パチンコ屋で台をド突いているおじさんの慾望は、かっこ悪いので認められない。僕はわりと好きだが、まあ一般的にはダメだ。
慾望といっても、それぞれに、その「あり方」というものがあって、その「あり方」によって、認められるとか、認められないとかいうことがある。
つまり、ある男が、「おれの前で四つんばいになってオナニーして見せてくれ」と言うのを、その慾望が「きゃあ」と認められることがある一方で、「ボクの手紙を読んで下さい、精一杯書きました」と言う、その慾望が「ぎゃあ」と認められないことがある。
認められるならなんだってアリだし、認められないならなんだってナシだ。
そして、その認める・認めないについては、それぞれの女性に権利が付与されていて、この荘厳な権利だけは、男は侵せないのである。
協力体制というのはつまり、その慾望の「あり方」が、認められた、認め合われた、ということだ。魂を認め合えた、という状態である。
どうやって話せば元気が出るか、真剣に悩むな。
たとえば、むかし有楽町でナンパした女性は、微妙な間合いになったので話しかけたのだが、僕が話しかけた時点で何か「あら、うふふ」という感じだった。面白がられていたのなら光栄だったが、とにかく初めから奇妙に波長が合った。
それで、立ち話も長くなって、別れるのは寂しいから、記念にほっぺたを触らせてもらうことにした。すると、いやがるかなと思っていたら、ひょいと半歩こちらによってきて、ほっぺたに触りやすいようにしてくれた。
そうしていじくるのを、ほっぺたから首筋へ、胸元へ……としていっても、いやがる素振りがない。そこほっぺたじゃないよ、とは笑って言われた。そうなのか、おれは目が悪くてね、とは言ったものの、舞い上がっていたので冗談にもキレがない。
あまりに僕が浮かれているので、彼女がくすくす笑い出して、
「何かいいことでもあったんですか」
と訊いた。それで、おれの人生には、今までいいことは何一つなかった、いいことと言えば今のこれだけだ、みたいな話をした。
こうなると、ホテルに誘うのは容易かというと、そうでもなくて、「さすがにそれはちょっと」と彼女はためらう。僕は、じゃあ賛美歌を唄うからその気になってくれ、と言ったが、彼女は笑うだけで、なかなか躊躇は振り切られない。
けっきょく、彼女が折れたのは、「もう、そんな顔をしないでくださいよ」ということで、「わかりました、いいですよ」というのは、つまりただ僕がかわいそうだからという理由だけで、一晩付き合ってあげるね、ということだった。
彼女は、ご両親が医者だったので、ずいぶん広いマンションに住んでいて、何かよくわからないが梅のデザートを一緒に食べた。
何が起こったかというと、単純なことで、僕の慾望が彼女に「認められた」ということだ。何をもって認められたのか、どの瞬間に認められたのかは、知らないし、確かめようもないけれども。
そうして認められたら、これは協力体制で、梅のデザートも食べさせてくれるし、ズコズコして、夜明けまで大切な話をしてくれる。「悪い人じゃない、というのはわかったし」とか、「だってあまりに必死で、かわいかったから」とか、恥ずかしい指摘を散々されるが、ともあれ認められて協力体制で一晩過ごせたのだからハッピーだ。
一夜限りのバカンス、みたいなものが、僕はきらいだ。そういうのは、何かよろしくない勢力によって、不当な味付けがされている。別に一夜限りのそれを求めるなら、切実に寂しがっている女の集まるところへ狩猟に出かければよいが、そんな陰鬱なことに意欲を燃やす気には到底なれない。
そうではなく、ただその「認められる」ということが、瞬間的に起こっただけだ。その手続きが、半月か半年か、あるいは数年か、掛かることもある一方、瞬間的に起こることもあるという、ただそれだけのことだ。
手続きなんてものは、なんであれ、短く済むほうが本来はいい。省略してはならないし、無視してはならないけれど。
じっさい、そうして瞬間的な承認が起こったときは、陰鬱などころか、もっと清潔な空気に包まれるものだ。やさしくて、神秘的で、全てを肯定するような空気が、お互いをだけでなく、街全体か、夜全体を包む。
まるで、手続きをダラダラやっている、そちらの日常のほうが、いかがわしいウソなんだと、知ってはいけない真実を教えられるかのようだ。汗をだらだら垂らしながら、彼女がそれを拭いてくれて、はじめまして、みたいなことを真剣な眼差しで言う。言われてみたら、はじめましてだな、と、笑い飛ばすだけでは済まない空気が押し寄せている。
慾望があるのは、魂がそれなのだから当たり前で、実際的な問題は、それが認められるかどうかにある。そして、それが認められるものになるよう、その慾望の「あり方」を、鍛えていなくてはならない、ということになる。
そして、そのような「あり方」を示し、それが認められるか否か……という審判の場に立つとき、人は己れのプライドを大きく揺さぶられる。何しろ、認められるか否かという、一種のオーディションなのだ。不合格です、まるでダメ、笑わせないで、と言われたら落ち込む。プライドはズタズタになる。
だからこそ、「いやあ、ぼくには、そういう慾望があまり無くて」というやり方は、卑怯だし、気楽で、かつ有効でもあるのだ。慾望が無いという立場を採れば、そのあり方を審判の場に掛けられずに済む。プライドがズタズタにされるリスクを回避できる。
どうやったら、慾望の「あり方」を認めてもらえるようになるか。その方法は? そんな方法があるなら、僕が教わりたいが、そんな方法はないし、あると言われてもたぶん聞かない。
僕はこれまで試験で0点を取ったことが何度でもあるが、カンニングだけは一度もしてこなかったのだ。それは別に美徳ではなく、0点でもかまわないや、というだけのことである。その肝心なところまで小細工をして点数を稼ぎたくない。
有楽町の彼女が僕の慾望を認めてくれた理由やその瞬間は、永遠の謎で、そんなものを僕が知る必要はない。
ただあのときは、認められて、ハッピーだった、ありがとうねと、それだけで十分だ。
***
僕はいま体調が悪い。
数日、実に思いつめることがあって、いまはその緊張の糸がプツンと切れて、また急に秋が来たので、風邪を引いてしまった。
秋はいいよな……
今回僕が言うまともなことはこれぐらいだ。秋には永遠の風情がある。
僕があの夜捨てた、巨大な透明の痰みたいなものは、いまも東京駅のプラットフォームで、野ざらしでブルブル震えているだろう。
あんなものは本当に要らなかった。
それを捨てたら許されるかと思っていたが、許されなくて、ああもう許されなくていいという、より上位のものが見つかったとき、初めて許された。
それが突然許されたので、緊張の糸が切れたのである。
こんな体験は、二十年前に全部済ませておくべきだと思うが、我ながらいつまでたっても子供みたいだ。
幸せだからいいんだけどね。
幸せ、これを体験すると、どうしても人に勧めたくなる。悪趣味だ。
が、別の角度から見たら、誰もが誰も、僕と同じ体験をするようには到底思えない。
あんな体験を、この浅はかなネーチャンが体験するかというと、絶対しない、ノウハウの問題ではなく、と確信する。
けっきょく、わからない。それどころか、ひょっとすると、僕の体験が実は世界一貧しくて、他のみんなはもっと豊かな体験をしていて、それでもそんなもので満たされるかよ、ということで、アンビシャスにイライラしているのかもしれない。
冗談ではなく、そうなのかもしれない、と思う。いわゆるクオリア問題みたいなものだが、説明しない。
クオリア問題で興奮するような奴はきらいだ。そんな、誰でもガキのころに気づくようなことを……
僕は映画「マトリックス」を観たとき、何の衝撃も受けなかった。
ああいうことって、東洋人なら特にと思うが、誰だって大昔に何度も考えたことがあるんじゃないのか。
とにかく、わからないわけだ。たとえば、僕とかつての愛犬どんべえとの絆がどういうものだったか、どういう次元で結ばれていたか、というのは、誰も知る由が無い。説明してもわからないし、説明したって、それぞれが知る程度に翻訳されてしか受け取られない。
もし、死後の世界というのがあって、僕が死ぬときにお迎えというのがあるのだとしたら、光の向こうから、どんべえが真っ先に走ってくるだろうと僕は確信している。
僕はどんべえに再会するために死ぬということなら、なるほど、全然アリだねと思うし、死後の世界が幸福な世界なら、大切な人たちにはどんべえを紹介しようと思う。
こんな話を大真面目にしている仕組みなど、他人にわかるわけがないし、それはわからなくていい話だ。
僕は他人に、生前のどんべえがどうだった、とかいう話をほとんどしない。それこそ、協力体制が深い仲に進んでゆけば、こぼしてしまうかもしれないけれど。
自分の愛犬です、といって、犬の写真を周囲に見せびらかすのはきらいだ。僕にとってはどんべえは世界の大きな一部だったが、他人にとってはただの柴犬である。
年賀状に、「二歳になりました」とか、子供の写真をつけてくるのがあるが、やめてくれといいたい。アンタにとっては世界の大切な一部かもしれないが、こっちから見ると澄ましたクソガキにしか見えない。
親子とか家族とかで、特別な絆があり、大きな世界があるのだとしたら、それは一人で墓まで持っていけ。あるいは、語るにしても、せめて工夫をして面白く語ってくれ。
僕だって、テメーの話は面白くない、なんて、別に言いたくて言うのではないのだ。
まだ、鉄道オタクが鉄道について一方的に語るほうがマシだ。鉄道は自分が乗る機会もある、公共性を持つものだからである。
こんなことを言いながら、先日友人が会いに来て、息子が可愛くてしょうがないから見てくれ、と言われて、写真を見せられたが、なんだか幸せそうでよかったなと、ほのぼのしてしまった。
これがいけないのである。ほのぼのしたら、ほのぼのしてしまうだろう。
ほのぼのしている僕なんてこの世界で何の用途もないのだから、ほのぼのさせないでくれ。
ほのぼのさせあうことで我々が歓喜を掴めるなら、世界中に写真家という職業は要らない。
わけのわからない話をしているが、我慢しろ。
何か言いたいことがあるはずなのだ、それが何なのかは僕自身にもわからないが。
愛撫しないで、すぐ挿れてよ、という女が、かわいいと僕は思うが、僕は別に女の快感のために愛撫をするのではない。こちらの自己都合で愛撫するのである。だから黙って受け取り続けて我慢してろ。
まったく、かわいいけど、わがままなやつだね。
と、こんなことが言いたいことではない、ということだけ明らかだ。
何を言いたいかというと、わからなくていいじゃないか、ということだ。
僕が、何かをわかってほしそうに、くどくど話していたらキモチワルイだろう。
それがキモチワルイのは、何か重要な原則を逸脱しているからだ。
わからなくていいし、わかってはいけない。まだわからない、というのでなくて、わからないものは一生わからない。そう定められてある。
僕が言う、幸福とか歓喜とか、官能とか、そういうのが、わからない人は一生わからない。一ミリもわからず、誤解だけして生きる。この事実を、やはり一ミリも動かさない。
あるいは逆に、僕のほうが、本当の幸福とか歓喜とかいうのをわかっていないのかもしれない。
それにしたって、一ミリも動かさない。事実動かないんだから、動かしたって結局フェイクだ。
人間それぞれには、わかることと、わからないことがある。努力してわかるようになることもあるが、それはそもそも、努力したらわかるようになる、と定まっていたことだ。
わからないと定まっていることは、努力してもわからない。
僕には、わからないことがあり、それはどう逆立ちしたって、一生わからないということだ。
それの何がいいのかというと、「わからないこと」が残り続けるということだ。
しかもそれは、努力の一切を跳ね除けてしまう。
だから、努力しても無駄だし、わからないのだから、判断とか批評とかもすることは不可能になる。
つまり、自分の世界がくっきり浮き立つわけだ。わかるものが、僕の世界であって、わからないものは、僕の世界のものではない。
僕は、僕の世界でないものには、あれこれ考えなくて済むし、それはどこまでもわからないことだということで、自然な「尊重」ができる。
僕の世界は、広いのか狭いのか、わからない。幸福だが、その幸福もひょっとしたら小さくてつまらないものなのかもしれない。
が、それを考える必要は無い。
魂の協力、なんて言ったけれど、それもつまり、僕だけでいいし、僕とその直接の相手だけでいい。それがわからない人や、わからないから永遠に体験しない人も、それが別に劣っているというわけではない。
たぶん、僕がこうして話している内容が、サイテーなクズの面を含んでいたとしても、それでも話し続けるのは、わかってくれということではなく、尊重してくれ、ということだと思う。
外から見てどれだけわからないものでも、これらは全て僕にとっては大切なものなんだ。
ようやく本題に戻れるか? 「いやあ、ぼくには、そういう慾望があまり無くて」という発言に注目しよう。
注目すべきは、この発言をするのには、何の勇気も要らないということだ。
地球環境を大切にしたい、とか、男女の前にまず人同士でありたい、とか、あるいは「深い話」なんてのも、言うのにまったく勇気が要らない。
一方、綺麗な肌をしているから胸を揉ませろ、とか、お前の話は面白くないから黙ってフェラチオしてろ、とか、そういうのは言うのに勇気が要る。
勇気が要るだろう? じっさい、前者は気軽に言えても、後者は言えないはずだ、生涯で一度も。
だから、キミのことを大切にしたい、みたいなことは、美しく聞こえるけれど、別の側面では、あなたは男に勇気をぶつけられていないことになる。
だから、美しく聞こえて、フワワーンとなる一方で、フェーズが変わると、「いくじなし、イライラしてくる」となる。
あれだけ美しく、楽しかったはずが、熱が冷めた、青春の無駄遣い、何のためにこうしているのかわからない、魂に触れていないから別れたらきれいさっぱり忘れてしまった、となる。
それらの良し悪しを、僕はあまり論議しないが、僕自身に向けては単純、勇気のない自分を褒めることは一切無い。
それって言うのに勇気要らないじゃん、というようなことは、それだけで無価値とみなしている。
それで、どれだけ損をしたり、フラれたり、都合が悪くなったとしても、話は別だ。
勇気を要さない発言をしたとき、僕は自分が何かを発言したと認めていない。
人間の魂、慾望が、認められるか否か、という手続きがある。
「酒のあてに、その股間に手を突っ込ませろ、乱暴にするから、お前の女の声を聞かせろ」
というようなことを、言って認められるかどうかだ。
「うん、それが、お望みなら」
と、恐る恐るでも、女が足を開いて目の前に立ってくれるか。
それを実現させるということ、認めさせるということが、本当に難しいし、本当の協力体制が必要になる。
そのぶん、それが成立したら、うそでない官能もあるわけだ。
こんなことを成立させるには、女によほど尊敬されていないといけない。この人の慾望を叶え、この人の魂にひたすら与えることは、意義があるわ、とまで思われていないと、こんなこと成立しない。この人はわたしの股間に乱暴をするけど、その乱暴は、激しくても暴力的ではないはず、この人の心と身体はそういう動きをしないようにできているから、と、そこまで信用されている必要がある。
むろん、安物ドラマみたいな、小芝居が入っていたら全部パアだ。
そこまで人を、魂のレヴェルで、尊敬できるのか、信頼できるか、という問題がある。
問題があるが、僕はそれを考えない。それを考えるのは、そこまでは人を尊敬も信頼もできない、という人の側であるはず。
ちなみに僕は、そのような尊敬と信頼を、自分で勝ち取ってきた、というわけではない。
逆で、女から教えられてきた。わたしはここまで、あなたを尊敬しているし、信頼しているの、ということを、身を持って示してくれる女がいたのだ。
そうして僕を愛してくれたレディの文脈では、「なぜ、酒のあてに、わたしの股間に手を突っ込んで、乱暴して、わたしの声を楽しまないの? それがあなたの望みなのに」と、僕がそれを怠れば嘆きをぶつけてくる。
こいつぁ根性が違うぜ……と、僕は胃の腑が冷えるばかりだったが、僕はそれを与えられ、体験してきたのだから、裏切るわけにはいかない。
まったく魂の協力体制。魂同士が出会って、互いの魂を承認しあっている。お互いいつか死ぬとしても、こうして出会ったことは忘れないよね、とひたむきになる。
だから僕は、落ち込んでいる美少女にも、それを無視して唇を使わせろと、クズみたいなことを言う。ふざけているつもりはないんだが、とりあえず、僕の心の声なんか誰も聞きたくないだろう。
だから魂の声を生かして進むしか僕には無い。
それでフラれる可能性は0%なんだから、僕はなんと幸福な人間であろう。
僕の話はわからない。わからないならわからないで、いいじゃないか、忘れてしまえ。
がんばって理解するなんて、古くさいんだ、と、いわれのない否定で済ませて、先に進もう。
***
男にとって本当につらいのは、女にふられることではなく、その女をやすやす奪われてしまうことだ。
キミのことが好きだ、ごめんレズなの、という話であれば、ありゃそうだったのか、ということで話は済む。
キミのレズシーンを、ぜひ一度見てみたいな、うふふ機会があったらねぇ、と、そんな感じでいけば、あまりつらくない。
本当につらいのは、自分が全てを掛けて(そんなことする奴自体がいまや絶滅危惧種だが)、或る女を求めたのに、フラれて、のみならず、他所の男がその女を適当に「やらせろよ」ぐらいで連れて行ってしまう場合だ。
クリスマスとか、ゴールデンウィークとか、そういうときはテキメンに効く。
へへ、フラれたぜ、ざまあねえな、と思っていても、自分は部屋で自慰をするわけだ、カップラーメンでも食いながら。それで、「この社会問題は良くない」とか、必死でネットに書き込みをする。
その間、外の世界では何が起こっているかというと、大切に想ってきたあのコ、生まれて初めて真剣な恋をしたあのコが、よくわからん男にズコズコされている。怖がりなあのコが、オラ飲めよと言われて、怖いから、不慣れで苦しくても飲み込んでしまう。でも、その怖いのと、言われるがままになってしまうのが、なぜかうれしいとか、そんな状態になっている。
ちょうど時間的に、今ぐらいだな、いま盛り上がってるな、なんて考えてしまう。
それで、ついに心がポッキリいってしまうと、もう手淫の手も止まってしまう。彼女にズコズコして、彼女の汗を吸い、彼女のはしたない悲鳴を聞くのが、自分でありたかった、なぜ自分じゃないんだろう、と思えてきて、うずくまって泣き始める。
むかしは、そういうことがあったものだ。いまはどうなのかよく知らない。そういうシーンを、見かけなくなったな、市井でもドラマでも、とは思っている。
じっさい、友人がたむろする中で、一人の男がそういう理由を白状して、突っ伏して泣き始める。気の毒に、とは思うが、正直面白い。そいつが、
「いまごろやりまくってるんだろうな」
と、自分を切り刻むように言うので、
「そんなこと言うなよ」
とは言わず、
「ああいう男に限って、チンコはデカいからな。今ごろ物理的に新しい恋をしているだろう、本当にヤバいよ、死んじゃうよ、とか言いながら」
と言う。
それで男は、さらにウワーッとなって、ぐちゃぐちゃに泣く。友人らは、こいつぁ面白れえな、と煙草をぷかぷかやる。
いじめているわけではなくて、解決を探っているのだ。
暗くなってもしょうがないし、フラれたのは事実だし、何が悪いと言えば、そいつがフラれるのが悪いのである。
その証拠に、彼が男前だったら、
「あんな女、いいじゃないか、もっと別のいい女がこれから……」
みたいな話に、そこだけ泣くのはやめて、
「おい、あの女の悪口を言うな、殺すぞ」
と応える。
そもそも、こういうときのつらさって、女性にわかるものなのだろうか?
わからないけれど、しょうがないから続けよう。彼は、いくらフラれたにせよ、彼女に惚れていたわけで、
「あのコは、やさしくて、素直で、あたたかい気持ちをずっと持っていて、とにかく可愛くて……すばらしい奴なんだ。おれの前であのコの悪口は絶対言うな、あのコは幸せにならなくちゃいけないし、おれはフラれたけれども、あのコの今日が幸せじゃないなんてことはありえない、そんなことあっていいはずがない」
みたいなことを言い続ける。それで周囲も、こいつマジだったんだなあ、と遠い目になる。
それで、あるところから顔を上げて、ん? と周囲の注目を集めた中で、オレンジジュースをチューチューやりだす。泣いた勢いで、まだ鼻水じゅるじゅる、横隔膜ごとハアハア言っているが、
「おれが間違ってた」
みたいな、青春ドラマみたいなことを言い出す。
「何も泣くことはなかった、おれはね、あいつに幸せになってほしかったんだよ。あいつが幸せになって、エヘヘとあいつらしく笑っていれば、それでいいんだ」
「それ以外には、特になかったな。おれは何で泣いていたんだろう。あの男はクソ男だとおれは思うが、あいつが幸せなら別にそれでかまわないな」
そういうときは、ついつい、胸にジーンと……来てたまるか。
胸にジーンとくるのは女だけでいいな。でもとりあえず、ヤンヤヤンヤとなって(死語)、彼の紙コップにこぞって酒を注ごうとする。
そして彼を酩酊させて、飽きたので、散会して、「ちゃんとオナニーしろよ」「おう」と彼を送り出す。みんなして、さあおれも帰ってオナニーするか、と勇ましく思っているのだが、やさしい女はきっと、介抱がてら彼の帰り道を付き添うだろう。
付き添いながら、彼がまだ恋心の残滓を笑い話みたいに語るのを聞いて、フーンと聞き流して、それより、
「このあと、慰めにお前を抱かせてくれって言われたら、どうしよう」
みたいな妄想をする。他の女が好きなくせに、とは思うけれど、ここまで戦った人をそれで突き放すのはあまりにかわいそうじゃない? 戦った人のなぐさめになる夜が、女として、人生に一晩ぐらいあってもいいかもしれない。
こんなに、男の人が女の人を、心底から愛する、こんなぐちゃぐちゃになってまでということが、本当にあるのね……自分も一度は、そうして愛されてみたい。
あれ、わたしひょっとして、妬いてるのかしら?
みたいなことを、女が思うのかどうかは、僕は知らない。僕は女ではないので、ただそんなことがあればいいなあ、という空想だ。
何の話かというと、人間の魂とか、慾望とかの話で、慾望と向き合うと、こういう戦いがあるね、という話だ。
戦いがあるし、そこで戦い抜いた男、慾望の苦しみを突破した男の、その男前ぶりは、鍛え上げられたものだから、真似して真似できるものではないだろう。
こうして戦い抜いた男が、笑うとき、そこにはどうしたって奥行きとか度量が滲んでしまうのである。それを無条件でかっこいいと直覚するのは、別に男からでも女からでも変わらない。
そうして戦い抜いたこともないのに、男が、何か奥行きのあるふう、度量ぶって笑っても、何か違う、眉毛が整えてあるからかっこよく見えるけど、同時に、いけすかない波動がビンビン来るぜ、というふうになる。
前者の男に、おいテメーの話はつまらないな、と言ってみても、度量が違うから、「おいおい、わかってるけど、そりゃヒデエだろ、やさしくしてくれよ」と笑って穏やかなものだ。後者のほうは、「は?」「何なんすか?」「マジうぜえんですけど、あんた何サマ?」となる。
度量なんか無いわけだ。そりゃ当たり前で、度量なんか、僕にも無い。
草食系と言わずとも、人間の魂、慾望のレヴェルから逃げ出せば、戦いを避けられる。自分にはあまりそういう慾望が無くて、でも女性にはやさしくしたいし、ゆくゆくは、それなりの人と一緒になれればいいとは思ってる……みたいなものは、戦いを生まない。
他所の男にあっさり女を取られたときも、溜息をついて、「まあ女って所詮、そんなものだよね」「勘違いしてた、あんな女と関わらずに済んでむしろよかった」「どうぞ勝手に、幸せになってくれたらなって思うよね」と、達観したふうにマインドチェンジすれば、気は楽だ、戦いは避けられる。
プライドが傷つかずに済むわけだ。「あんなんでイチャイチャして楽しいのかねえ」とか、「悪いけど、おれにはもっと他にやることがあるんで」とか、「もっと、人生を豊かにしあえる誰かがいたら、そのときは真剣になるけどね」とか、そういうふうに、おれは無数の経験を経てそこまでの高みに達したのさ、つまらないことは卒業した組さ、とさりげなく振る舞えば、プライドが傷つかずに済む。
あなたはどっちの男に口説かれたい?
といえば、答えは明らかなようでいて、実はそうでもない。
話はわかるけれど、じっさいとしては、後者のほうがいいです、という人も少なくないのだ。
それは個人の趣味だし、個人の生き方の問題だからしょうがないけれど、「そんなバカな」と感じる女性があったら、修正するように。
時代は刻一刻と進んでいるのですよ。
なぜあえて後者を選ぶかといえば、そのほうが女性としても気楽だからだ。
戦って鍛え抜かれた男と付き合うと、女のほうも、自分が戦ってきたか、これからも戦い抜くか、ということが問われてしまう。
鍛えられていない自分をまざまざ見るのはつらいことだ。プライドが傷ついてしまう。
それよりは、後者のほうと、フワワーンといい気持ちになり、「オレってさあ」「わたし的にはね」とか言い合っているほうが気分がいい。
それのどちらが良いとか悪いとか、僕は言うつもりはない。
僕は、やらせてくれるならどちらでもいい、というのは、がんばって正直なのに、これもまた嫌われてしまうだろう。
鍛え抜かれた男には、僕は勝てないので、僕としては、女をうまく騙すしかない。
僕自身、戦って鍛えること、またブライドを投げ込んで闘うということを、どう捉え、どう実践しているのか。
そこは古典的な表現、ヒ・ミ・ツ、ということで締めくくってしまおう。
とりあえず、慾望と戦い抜いたことのある男はかっこいいし、女のほうも、そういう男を選ぶわ、というほうがかっこいいとは思うよ。
***
あなたが寝言で、「ううん、120カラット……」と呟けば、おっ元気だな、慾望が健在だな、と思う。
自己紹介では、好きなものはダイヤモンドです、と言えば、景気が良くていいが、たぶんそんな切り口は通用しないし、あなたも言わないだろう。
自己紹介して、男が、「へえ、ダイヤモンドが好きなんだ、変わってるね、ねえなんで好きなの?」みたいに訊いてきたら、あなたは終末論を信じて悲嘆に暮れていい。
女が慾望と、勇敢に戦っているのに、それをわかってあげられないと、すっごい怒られるぞ。
そういうとき、女性は、本当に怖いんだから……
そろそろ話をまとめよう。
人間の魂は、慾望だ、と、これはもうしつこく言った。
あとはそれが、認められるかどうかだと。
いくら綺麗なホステスさんでも、売り上げのナンバーワンが取れないわということで、ぎらぎら燃えるならかっこいいが、キーッとヒステリーを起こしたら醜い。
それぐらいの醜さは、美女なんだから、許してゆかないと話にならない、というのはあるが、それにしてもヒステリーは避けられるなら避けたい。
ヒステリーというのはつまり、取り乱しているということだ。
魂が、慾望が、活躍しつつも、それに取り乱さないということ。
慾望というのは苦しいからね、さっき言った、女を取られた男みたいに。
取り乱すというのも、戦いのひとつの過程だから、やはり避けてまわってばかりでもだめだ。
友人なら、恋人なら、受け入れてやるように。
まだるっこしいか。
人間なら、受け入れてやるように。
僕は走って逃げるかもしれないが、そういうやつは本当に最低である。
取り乱すのを完全に避けようとしたら、やはり方法はひとつしかなくて、「いやあ僕には、あまりそういう慾望がなくてね」と、これまでさんざん遠まわし(?)に攻撃してきたそれを選択するしかなくなる。
ひょっとすると、現代というのは、人間の魂をないがしろにしてきたのみならず、それによって取り乱すことを、一ミリも受け入れられない、という度量の狭さによって性質を与えられているのかもしれない。
取り乱す=バカクズ、みたいな余裕のなさが正体かもしれない。
それで、取り乱しながらも戦い抜いた、そして突破したという経験が得られず、うそんこの出来上がったふうを、誰もが続けてゆかねばならないという、そういう時代なのかもしれない。
ここは難しいところだ。取り乱す者を受け入れるには、「自分もかつてそうだったなあ」みたいな経験がきっと要るし、それ以上に、人間の正味を愛そうとする根性が必要だ。
加えて、取り乱す側も、取り乱す中でなお保たれるべき根性というのが必要で、取り乱している自分を偉そうに思う、みたいなことはあってはならない。
つまり、本来は、恥を自覚しながらも取り乱す者があり、それを大きく受け入れる個人なり集団なりが必要だ。
それが、恥も外聞もなく取り乱す者がいて、取り乱す者を受け入れる余地は一ミリも持たない連中が「マジきめえ」と笑うことしかしない、というのでは、環境が本来性の真逆である。
かといって、どうすることもできないから、真逆なら真逆でいいんじゃね、俺は知らん、としか言えないのだけれども。
でもここでは、少し踏ん張ろう。そんなことでいいわけがないだろ、と、僕はいささか取り乱す者になることを選びたい。
戦った経験もないのに余裕ブッこいている奴なんてクソなんだよ、言わずもがなだけど。
お前の話は面白くない、と言われたら、ムッとしてマジギレするか、逆に擦り寄ってお利口ぶるしか能が無いくせに、なんで余裕ブッこいてんだよ。
小芝居で恋愛してんだろ? それで、何か知らんがイライラが溜まる、その理由がわからなくて内心焦ってるだろ?
空気読む、とかバカにしながら、空気読んでるよね?
と、こんなことも言ってみるが、僕はこういうことをじっさいヘッチャラで言うところがあり、それで生活上の多大な実害をこうむってきた。
代わりに、こっそり拍手もされてきたし、まるで美女が敵兵の目をくぐり抜けて僕をケアしに来てくれる夜は、何にも代えがたい甘露だったけれども、かといって、マネしろとは到底言えない。
マイケル・ジャクソンも、トンズラしろ(Beat it!)と言っている。
また話がよくわからなくなった。
女のする話がつまらなくて、つまんねえな、黙れよ、黙ってフェラチオでもしてくれないかな、と、僕は思うところがあるわけだ。
それは僕が異常なのではなく、みんな本当はそう思っていて、そう思っていない奴は魂との接続が切れているだけの不良品であって、何が異常かといえば、それをさっさと自白してしまう点について僕は異常かもしれない。
こんなこと言ったら、女に相手してもらえなくなるからね。
でも僕は、フラれる確率は0%だし、どれだけ自白しても女が愛してくれると、女のことを信じているのだ。
その程度のことも言えないようでは、けっきょく人を信じているとは言えないだろう。
で、かといって、なんでもかんでもいきなり、お前の話はつまらないからまずズコズコさせろ、そのあとちょっとだけ話を聞いてやる、そのかわりコーヒー淹れろよお前が、みたいなことをぶつけていっても、顰蹙を買うのみになる。
工夫して言えばいいかというと、こういうのは工夫なんて最もクソだ。顰蹙を買わないために小細工をしているだけで、そういうのを女性は一番軽蔑する。
八方塞に見えるが、そうではない。
話はやはり、協力体制というところに戻る。
「お前の話はつまらないから、黙ってフェラチオを……」
「うん、わかるよ、あなた正直だね、そういうところ好きだよ。でもちょっと待ってね、話したいことがあるの、つまらないことだけど、聞いてよ」
「おっそうか、なんだい」
と、こうなってしまえば、全てを突破して、とにかくいい具合じゃん、ということになる。
やはり協力体制、魂の認め合いなのだ。
僕の魂、慾望が、なんであれ「認められる」ということが必要になる。
その「認められる」ということに、魂のレヴェルの、たいへん厳しい審査があるのだ。僕が取り乱していないかどうか。愛はあるかどうか。独りよがりでないかどうか。ユーモアがあり、頭が回転しているかどうか。そこに物語はあるか、魂のレヴェルで起こってくる相互の物語を、本当に受け入れる態勢が整っているか。慾望が魂なんだと、そのことをネタにして振り回していたりしないか。
それらのことが、本当に、戦いを潜り抜けて鍛えられ、認めうる形に整っているか。
ということが問われる。
たとえばこんなことがある。慾望というのは、なにも性慾だけではない。
あるスコッチ・バーで、僕はマスターの後ろに荘厳な瓶を見つけた。マッカランだが、1942という年号が振ってある。古びたラベルは、まるで帰還した兵士の面持ちだ。すげえ! と僕は指差した。
本来はオークションに出すようなもの。たぶん一本百万円ぐらいする。一杯当たり……それはやはり、若造には手を出せないような価格になる。
それで僕は、マスターに出してもらって、瓶だけをしげしげと眺めた。うかつに触れるものではない。古いボトルというのは、リコルクされていないとコルクがどえらい変質を起こしていたりする。そのコルクを抜くには外科医のようなマニアックな専門性が要るのだ。
またいつか、お金持ちになって……という思いは、起こるが、当たらない。こういうボトルは、出会ったその場限りのもので、お別れしたらもう二度と会えない。希少品なのだ。それで、キスもできずに今生の別れとなる。すげえものを「見た」ということで我慢するしかない。
そうしていたら、隣席の、ご年配の紳士が、こう声を掛けてくれた。
「どうです、逸品ですが、僕も一人で飲むというのはつまらないのでね。ご相伴していただくというのは」
ニヤリ、と紳士は笑った。僕はもう、ひざまずいて靴を舐めようかと思った。見ず知らずの人に、さすがに一杯数万円もするものをオゴってもらうのは気が引ける。かといって、断ってしまっては逆に野暮だし、恥をかかせることになる。
僕はもう、かっこよすぎます先生、とひれ伏しながら、それとは別に、マッカラン1942をしみじみ舐めるしかない。紳士は、いえいえ、やがてあなたも、いつかはこうして振る舞う側になるわけですから、ココッコッコ、と笑っておられた。まあそれは別にいいけど。
これが協力体制だ。見ず知らずの人が、数万円のスコッチをオゴってくれることと、見ず知らずの女が、おっぱいをちょっと触らせてくれることとで言えば、正直に言えば、前者のほうがレアな体験だ。おっぱいを触るぐらいは、若いのが元気を出してそういうムードの場所にいけば機会がある。が、スコッチのほうは中々そうはいかない。
協力体制で、これは魂の呼応なのだ。マッカラン1942への僕の慾望が、隣席の紳士に「認められた」のである。それがどう整っていたから認められたというのは、どうにも言いづらいけれども。
ためしに、「スコッチに興味があります」とか、「古いボトルに好奇心があって」とか、そういう調子でモルト・バーなどに行ってみればいい。興味があるのは結構だが、その興味とか好奇心とかヌルいことで、素敵な体験は決して起こらない。それは、興味とか好奇心とかは魂の求めではないからだ。
僕の体験は、そうではなく、はっきりとした慾望、こいつを舐めたいという慾望があって、それが認められたから成立した。若造のくせに、貧乏なくせに、無理をして、スコッチを愛しているんだな、それにじっさいよくスコッチがわかっているな、それで知ったかぶりもしないし、ふざけているふうだがバーの雰囲気や流儀のルールをよくわかってるな、マスターとしてもこれは貧乏だけど上客という類だろう……というあたりまで認めてもらえねば、見ず知らずの魂に応じる、なんてことは起こらない。
そういうことがヒントになる。ヒントになるというのは、話していてやっぱり結論はよくわからないや、ということだ。わかってたまるか、わかるなんてのはくだらない脳みその話であって魂の話ではない。
あなたもたとえば、自分の魂、慾望に向き合ってみる。それで、
「ルイ・モネの時計が欲しいわ、あと週に二回はエステに行きたいし、正直に言うと、クローゼットをディオールで埋めつくしたいの」
と言ってみる。
すると、なんだこいつ、バカか、と思われるだろう。
間違っても、
「うん、わかった、ボクが全部与えてあげるからね、あなたは素敵な男性と幸せになりなさい」
なんて言ってもらえない。
あなたの慾望は、それでは認められる形になっていないのだ。理屈はわからないが、整っていない。
整っていれば、誰かと協力体制になって、
「そうか、おれが買ってやれたらいいんだが、残念ながら手持ちが足りない。残高を全部集めても足りないな。どうしようか」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「うん、わかってる、でもどうしようか、どうにかしたいね」
「ありがとう」
と、あなたの求めの問題を、親身になって、一緒に考えてくれるし、一緒になって困ってくれる。
じっさい僕は、クローゼットをディオールで埋めつくしたいと、堂々と言い、またそれが似合っていて、大切な想いに聞こえる、という女性を知っている。彼女がそう言うのを聞くと、それがまだ実現していない日本経済がポンコツなんじゃないかと思えてくるし、彼女に新作をどんどん送らないブランドの側がバカなんじゃないかという気がしてくる。僕がプリウスの新車を買うぐらいなら、彼女にディオールを買い与えるほうが正しい、魂のレヴェルにおいて、というような女だ。
その彼女は、ディオールが欲しいと堂々と言えるのに、あなたがそれを言えない、似合わないとしたら、それは慾望が整っていないということだ。
慾望が整っていないということは、何かというと、みっともない、ということだ、人間として。
別に僕がそう思っているわけではないが、そう言ったほうがウケが良いかなという、もっとも安易な作為でそう言ってみた。いかがでしょう。
慾望が整っていないのはみっともないことなのだ。
かといって、努力したところで、その慾望が整うということが人それぞれに起こるのか、僕にはわからない。
慾望を整えてみせるのは、大変難しいことだ。ディオールを欲しがって許される女というのは、岡本太郎の絵の前で、口を半開きにして震え、この身を今すぐ誰かに捧げたい、ふさわしい人に、と身もだえするような女だから、それが許されるのだ。
パチンコ通いで交通事故を起こす脱色髪のネーチャンだって、高級ブランドバッグは欲しいし、むしろやたら欲しがるということがある。彼氏が老人宅に強盗に押し入り、それを買ってくれたら、犯罪だけどいいじゃん、カバン買ってくれたし、みたいな女性も実際いる。ただ、その慾望はあまりにも整っておらず、誰が見ても「うわあ」としか思わない。
そこは厳しい差別が起こるが、そこは僕も同じだ。たとえば箱入りで育ってきたお嬢さんに、「失礼します」とおじぎさせてからフェラチオさせたいとか、言ってみる。それが「うわあ」としか思われなかったら、僕もそれまでだということだ。フェアでいいじゃないか。僕は僕だけ世界でアンフェアに優遇されたいが、なかなかそうは問屋が卸してくれない。
そういえば昔、世界で一番慾望に忠実な男、という称号をいただいたことがあったな。あれは冗談口だったが、それにしても光栄なことだった。
慾望を整える第一はきっと、自分の欲望、魂を、自分で認めることだと思う。そりゃ当たり前で、自分で認めていないものを他人に認めさせられるわけがない。
そして、慾望というのは、堂々と見せつけるものであって、人にぶつけるものではない、かもしれない。よくわからないが、なんとなくそういう気がしている。ぶつけてしまうのは、取り乱すうちの一つか。わからない。とんだウソかもしれないので、アテにしないように。
取り乱すといっても、取り乱すぐらいで取り乱すなよ、小さい奴だな、という言い方も通るので、まあ結局、本当のところはわからない。
とにかく魂を開放するのだ。魂はきっと、ありきたりな直接の慾望へも向かうし、まったく逆の方向、世界の構造といったようなものにも、慾望として向かう。
僕もきっと、十八歳の裸体に包まれるのと、ブレイクの詩に包まれるのとが、同等程度の慾望とならないでは、魂が開放されていない。ブレイクも読まないでは女子高生をいじる資格が無い、というのではない。女子高生もいじらないくせにブレイクを読む資格は無いということだ。
それが魂の開放だし、魂の開放、これ以上に健全なことはない。
女子高生をいじるのは条例で禁止されています。
世間は人間の魂に非協力的だ。
一緒にこっそりやるしかない。
魂が協力しあうというのは、はっきりある。
あいまいじゃない、まず、おれの慾望を満たすのがわたしの仕事と思い込め。
そしたら特別な二人で特別な時間を生きられる。
驚いたことに、たぶん、そうするしか方法は無いんだ。
実はそれだけでいいんだ、とも言えるけどね。
ではでは、またね。
[了]