No.242 意志に生きよ/エセー
二年ぐらいローマに住みたい。イスタンブールにも憧れるが、交通事故で死ぬならローマがいい。
暗記した自宅の住所として、ローマの住所を言いたい。
なぜ、という理由はない。理由なんて無くていいじゃないか。
行ってみたいところはたくさんある……それは当たり前だが、それはどうでもいい。その「行ってみたい」という感触が、僕にとってはどうでもいい。
何の話をしているかというと、意志の話をしている。意志には理由がなく、きっかけというのもない。ローマ=住みたい、というだけであって、それ以上の理由はない。それが実際に住んでみてイメージと違っても構わない。
イメージと違ってね、ひでえところだったよ、というのでも構わない。
僕は僕の意志の話をするし、ときおり、人の意志の話を聞きたい。
ローマかあ、興味ないなあ、という人もいる。それは人により好き好きだ。自分はややこしい海外なんかに出ることなく、つつましく暮らしていけたらなあと思うよ、という人。
それでいいと思うが、そっか、
「じゃあお前の人生はそれで終わりね」
と言うと、あわてて「ちょっと待って」というふうになる。判子をつく直前になって待ったを言い出す調子。
わけのわからぬ奴め、そんなことでどうする。
と、いちいち言わないけれど、そんなことではいけない、それは自分の意志をさえもう見失っている状態だ。
自分の意志……夢、などと言い出すから往々にしてややこしくなる。夢でも間違っていないのだが、夢というのは人によって情緒的に過ぎる。
意志のほうがいい。そして、その意志が満たされるかどうか、叶うかどうかは、僕の知ったことではない。
ちょっと待てよ、と、人の脳みそにカット・インを入れたくなる具合なのだが、それが叶うかどうか、十分に審査した上で無いと、なんでもない意志の一つも持ってはいけないのか。
そうではないだろう。ちなみに、僕と僕の信頼する友人との会話の一例はこうだった。
「二年ぐらいローマに住みたいな」
「サッカー・ワールドカップで決勝点を決めたら、もう」
「ほう」
「たまらんでしょう。絶頂ですよ、たぶん」
「その発想はなかったなあ」
「パッション、パッション」
「なるほどなあ。おれは、だめだねえ、寝ても起きてもローマ、石畳、けぶる夜とか、そういうのに結局惹かれてるなあ」
詳しく説明しよう。僕は今とても機嫌がいいのだ。
まず、たとえばこんなケースを設定してみる。
・おれの上司は、あいつは、本当に人格的にどうかしている、なんとかしてブッ壊したい、訂正させたい、まったく腹立たしい。
これはよくある話で、またよくわかる話だ。
で、このケースを、長ったらしくなるが、先の二つと並べてみる。
A.おれの上司は、あいつは、本当に人格的にどうかしている、なんとかしてブッ壊したい、訂正させたい、まったく腹立たしい。
B.おれは、二年ぐらいローマに住みたい。
この二つのうち、どっちが自分の意志だ。どっちが叶えられるべき? そう考えたら、有無を言わさずBだ。Aのほうを重要に思う人はいるのか? わからないが、もしそんな人がいたら、もう僕が何を話したって無駄だ。精神の構造が根本的に違いすぎる。
どう考えたってBのほうが重要で、自分の意志はBだ。ではAは何だったのかというと、何でもない、まったくの「何でもない」ものだった、ということになる。
ボクのキモチ……みたいな言い方をしてもいいけど、どうしたって、気持ち悪いだけ。
そんな話は、まあしてもいいけれども、聞きたいかというと、聞きたくない。まして、意志の話が聞きたいと言っているのに、そんなどうしようもない気持ちの話なんか聞かされても、どんな顔をしてみせたらいいのか対応に困る。
が、近年、一般にはAの話が「話」ということで通用しているのだ。
「あああ」「ああああ」「あああああ」と、僕としては膝から崩れ落ちる心地だ。
ここで不意に、検索エンジンgooからの、検索ワードランキングを引用してみよう。
太田光、非難殺到
神田沙也加、降板
モー娘ファン、暴言
相武紗季、破局
サンジャポ、物議
嵐ライブ、不満の声
ローラ、すっぴん
AKB、ヤラセ疑惑
河本準一、降板
和田アキ子、泥酔
その他、小倉智昭、謝罪など
……ウェブ辞書が便利なので僕は普段からそのページを開いて、適宜その辞書と往復してこういうのを書いていたりするのだけれども、その辞書のページの横にこのランキングがずらずらと流れるのだ。
核ミサイル発射、と書かれていないだけ平和でいいとも言えるが、それにしても、こんなものいちいち調べてよく知ってどうするのだ。何かの足しになるのか本当に。何の足しにもならないが、楽しい、というのはわかるが、こんなものを楽しいと思っていたらどうかしている。
どうかしているが、実際、そういう検索ワードが多いからランキングに入っているのだろう。
まあ、気になるから、調べちゃうというのはわかるけど……
いやいや、んなアホな、そんなことで人間は自分の人生の時間を使ってはいけない。
楽しくないだけじゃなく、なんというか、心がダメになっちゃうよ。冗談じゃなく。
アルファロメオに三ヶ月ぐらい乗りたい。僕は車に詳しくないのであてずっぽうだ。
三ヶ月ぐらいというのがミソで、車のことをよく知らないので、僕の意志はそのぐらいの手応えでそれを求めているのである。これが、アルファロメオが欲しい、買いたい、という話にしてしまうとウソになる。
上等の、排気量の大きなエンジンが、イグニッション・ボタンを押すとズドドドドと低音で唸りだす、その快感を味わいたい。
カー・レースにも出たいが、スタートだけ頑張って、あとは一流のレーサーたちに置いてけぼりにされて、
「こいつらすげえ!」
と呆然としたい。天才の、特権階級の遊びだな、ということをしみじみ実感して、いやあおれはどうしようか、と途方に暮れたい。
それは、僕の意志であって、いいじゃないか、ほっとけ、という話になる。F1に出て優勝したい、というのではただの妄想であってウソになる。
ローマに二年ぐらい住みたい、というのはウソではない。
人間の慾望というのはキリがないから、もし僕がオリンピックに出たら、全種目で金メダルを取らないかぎりは満足しないだろうが、それは慾望の話であって意志とは微妙に違う。
僕は意志の話をしているが、この話が一般に、「意志」の語に当てはまらない、ということもよく知っている。よく知っているが、突き詰めればそういうことであるのだが、それを突き詰めてください、と言い出す意志は僕にはない。
いいじゃないか、テロロローン、というのがさしあたり僕のリアルな意志だ。
ただ少なくとも、こんな大量に湧いてくる意志の、それぞれが叶うかどうか
、なんていちいち審議しないでほしい。
意志そのものは、叶うかどうかとは別じゃないか。どんなアホな子供でも総理大臣になりたいと七夕の短冊に書いていい。
現実的に考えて、とか、そういうのは進路指導質でやる三者面談で話すものだ。そこで話される意志もあるが、それはあくまでビジネスライクな話。
僕はただの意志の話をしているし、人の話を聞くなら、意志の話が聞きたいのだ。
それが叶うかどうかなんて、僕の知ったことではないが、いいじゃないか、「わたしは絶対パリなの、パリに住むわ」という女の子は、それだけでかわいいじゃないか。
ただし、ちゃんと人の目を見てね。
真面目に言うと、その人がどういう意志を起こすのか、どういう意志を持っているのか、というのが、その人の個性であって、その意志に触れるというのがその人に触れるということだ。
だから、意志の話を聞くと、なんであれ「おお」という感嘆が起こる。
この、意志というのが、ただのフワフワした願望とはちょっと違う、それどころかまるで違うというのが、ややこしいところだけれども。
どんな意志があったとて、それが叶うのかどうかはわからない。明日キャラメルマキアートが飲みたい、という意志さえ、爆弾が降ってきたらそれで叶わなくなるし、カリブ海にバーを持って営業したいという意志も、宝くじがバカスカ当たれば叶うだろう。
まして、アルファロメオを三ヶ月なんて、貸してもらえたらそれで終わりじゃないか。ローマに二年というのも、それだけだと不可能じみて聞こえるかもしれないが、後先のことを考えずただそれだけというなら割と誰にでも可能だ。残高を掻き集めて、あとは借金を抱えてローマに飛んでいってしまえばいい。簡単だ。たぶんローマに二年というのが一番簡単で、それは無学だが青山学院大学の学生になりたい、という意志より叶えるのが容易だ。
ただ、そのことに気づくのは、あくまでその意志を持ってからだ。その意志を持って、それを自分に明瞭化できてこそ、「あ、そうか」と気づく。
意志があり、それが先にあるからこそ、人間は考えたり気づいたりを自然にするのであって、その逆ではない。経済状況と、年末年始の休日を合わせて考えて……その先に自分の意志がどうたら、とやると、話はとてもつまらなくなる。楽しみはあるが、うひゃひゃ、という元気は出てこない。
どんな意志でも、まずあればいいし、それが叶うかどうかは、その後でいいじゃないか。
それとも、どんな意志でも叶わないとイヤか。それはちょっと、慾が深すぎるというものじゃないか。
とにかく、だまされてはいけない。興味がありますとかいって、自分の発想が検索エンジンのワードランキングみたいになってしまったらオシマイだ。何をどう話してウフフと遊んでみても、ごまかせない、次第に疲れてくる。
さっき並べたAとB、つまり上司が……という話と、ローマだぜ、という話、このうちAのほうを、何でもない、要らないやと、切り捨てるにはあんがい勇気が要るものなのだ。何かしらん、そっちが正しいと思い込んでいるからだ。
そっちが正しいということでもいいけれど、その正しいやつは疲れるぞ。何しろ、本当には何でもない、自分が絶命する間際になって「どうでもよかった!」と叫ぶようなことに、わざわざエネルギーを費やすのだから。
だからだ、自分は正義の女よと思うなら、とっととAのほうは捨ててしまうんだ。Bのことばかり考えろ。あんがい勇気が要る。Aを切り捨てるのもそうだし、Bに思い切って自分で触れるというのにも、なぜか勇気が必要なものだ。
なんだろうね、世間がというべきか、他人にいちいち自分が評価されまくっている、そのことに慣らされているから、つくづく自由には話せないのだろう。僕だってTPOをわきまえるから、どこでだって「ああ、ローマ」みたいなことは言わない。かといってAのほうを話す気にもならないので、そういう場所では半笑いでずっと黙ってごまかしている。
意志の話が聞きたいものだ。それで、意志に生きよ、というカッコいいタイトルをつけてみた。
ローマに二年ぐらい住むのが夢なのね、ふーん、と言われると、ウーンそれは何かちょっと違う、と訂正したくなる。夢、というのは、何かもっとこう、かけがえのない……やめた。とにかくそれは違う。ローマに住むなんてどうでもいいことだ。どうでもいいことだが、住みたいのだ。いちいち、その味付けというか、重みを足されるのが、違和感があってたまらない。
そんな意志なんて、多種多様で、どんどん新作が作れるから、僕なんぞは一時間あれば百個ぐらいは語れるだろう。それらの全ては、やはり一つもウソではないのだ。
それで何がしたいかというと、美女とその百個のラリーがしたい。お互いに、目の前の人がどんな人なのかが見る見る明らかになっていく。
一ヶ月ぐらい、高原の別荘で、たくさんの人数で、バーベキューと魚釣りだけで暮らしたい。貧乏くさいというな。僕にはどうも、そういう合宿的なイメージにひとつのデカダンスを見出しているところがある。言うまでもなく、それは年寄りの集会であってはならない。
それぐらい、なんとかならんものか。かわいい女子大生で、まあ男子も混ざっていいけど……夏休み実はまるまるヒマだ、何かギッシリ詰まった珍しい思い出が本当は欲しいわ、という人だって世の中にはうじゃうじゃいるだろう。だからメンバーは世の中に潜在しているのであって、あとは場所と資金とその他の方法論の問題だ。資金ったって、僕が稼ぐか誰かが稼ぐかすればいいのだ。赤十字に集まった募金を横流しして……というのはさすがによろしくないけれども、まあどこまでも不可能極まるという話ではないのだ。
一ヶ月、具合のいい別荘が借りられたらそれで済むのだからね。サラリーマンが一戸建てを持つほうがはるかに難しいはずだけど、みんな頑張ってそれを為し遂げるじゃないか。
それが為し遂げられるのは、やっぱりそういう意志があるからだけど、そうして人はけっきょく意志に生きるよりないのであれば、その意志はもっと解放されるべきだし、各人により明瞭に捉えられるべきだろう。
それで、活発な意志の泉が、互いを刺激しあって、じゃんじゃん湧いてくる、それであれをしようこれをしようと言い合って、その周辺にも連鎖していく、そうなれば楽しいじゃないか。単に楽しいだけのことなら、世の中にあふれかえっている、むしろ食傷気味なところさえあるけれど、その楽しさにそれぞれ自己の意志が反映されていないのならイマイチだ。イマイチとは、うらやましくないということである。パチンコで大勝した、というだけではどうしてもうらやましくない。その大勝して得た金を使って、おれは自分の意志をひとつ叶えた、というのならうらやましい。そういうとき、意志が解放されていないと、つい勢いで風俗に行って、微妙にハズレを引いて不機嫌で帰って来るのだから、そういうのはいただけない。
意志の話を聞かせてくれ。それが叶うかどうか、どう叶えるかは、それぞれ自分で、ちゃんと考えようね。
ではでは、また。
[了]