No.250 美と不安
美とは、不安の無さだ。それだけで、気だるい光に包まれるような……光は、ぎらぎらしていてはいけない。力んだ光はよくない、よく見ると全ての輪郭がぼうっと、あるいはきらきらと、光っている、そういうふうに受け取られる、というのがよい。それが美だ。なんとはなく、けれどたしかに、そこへ吸い込まれてしまいたくなるような。
不安とは、恐怖ではない。恐怖の中に不安はない。恐怖を予感するというのでもなく、恐怖を空想するというのが不安に近いが、不安というのはついに説明はしきれない。不安には、実体は何もないからだ。不安といえば、単に、自分が近い将来に大きな病気になるのではないか、という可能性は、それだけで不安たりうる。またその可能性は架空でもない。だがその当然の不安と、不安が人人を喰い散らかす現象とは、また別だ。同じ量の不安を与えても、それによって喰い散らかされる人もあれば、なんでもない、ただ不安なことだね、と受け止めてぽっかりしている人もいる、やはり気だるそうに……
不安というのを、その喰い散らかされの現象を指すとしたら、不安とは、ひとつの状態のことだ。まさにその、心を獣に喰い散らかされて、重要な体液がこぼれ出て止まらぬというような。不安の無い側からはこれが見えないし、不安の側からは、先の美の風景、全ての輪郭が気だるい光をぼうっとまとわせて、吸い込まれたいと思わせるそれが、見えない。不安の側が見える光は、ぎらぎら光る力んだそれのみだ。それでさえ、その光、つまり美を伴わぬ光を追ってしまうのだから、光を追うのは人の性分なのだろう。ぎらぎらした力みの光には、吸い込まれたくなるものは何も無いけれども。
とりあえず、人を不安にさせたいなら、びっくりするような話しかけ方をすればいい。ウワッという勢いの、干渉する、という行為のそれで。何かの強烈な販売員のように、善良を主張する圧力を伴わせて。干渉するように言えば、たとえそのせりふが、「不安になるなよ、あはは」というものであったとしても、じっさいとしては不安になる。干渉されたのだから当然だ。美の風景はそのようなものではない、お互いが干渉してしまわないように、まるで白銀の魚の群れのように、丁寧な距離を保ちあっている。人とよく関わるというのは、その距離を丁寧に慎重にやることだ。美のぼんやりした、吸い込まれたくなるあの光が、全体にまとわれているのが、失われてしまわないように。
干渉というのはまるで地震のようなのだ。まったく不意に、遠慮もなく、横から地盤をガツンとやられる。そうしたら揺れる、ぐらぐらっと……この地震を止めるのに、横からまた新たな地震を加えるという遣りかたはありだろうか? それこそ馬鹿げている、地震はいつまで経っても終わらないだろう。
地震は(干渉は)、人を踏み出させるように見える。けれどもそれは、彼が歩みだしたのではない。揺動で、態勢を崩され、不本意に足を踏み出しただけだ。踏み出したのはよいとしても、その地震の中で、どうやってまともに思ったほうへ進んでゆけるか。千鳥足になり、身体をあちこちにぶつけるに決まっている。始終、クラクションで追い立てられるようなら、秋の日の愉しい行楽も台無しだ。美の風景を探し求めにゆくのに、その肝心の風景のところに、ここは美であるからよく見なさい、と干渉的な看板が立っていたら?
だから、不安について語ることは困難だ。不可能で、また、不可能であってうれしい。不安について語ってもよいが、そこには当然美が失われる。あのぼやけた輪郭の光が……美とは不安の無さなのだから。美を失わせて語っても、けっきょく人は、そこに吸い込まれたいという欲情を起こさぬのだから、けっきょく読み取られない。残るのは、やはりガツンとした干渉的なものだけだ。そしてその干渉を受けてはまた、誰かが不安を延長する……
干渉しなくてよいではないか。干渉しないと決めて、また、干渉されたくもないと生涯に誓えば。干渉せず、人人とよく関係しあっていればそれでいい。そこに保たれるぼんやりした光は、また誰かをして吸い込まれたいと思わせてやまないだろう。目を細めて、踏み込むというのではない、ただ手を離すだけで、あとはこの吸引力にまかせておけばよいのだと、うれしがって。
女の頬が美しいというより、その肌を撫でて通る風の冷たさが美しい。向き合って、二人の身体の複雑な表面を、紛れも無い冷たさの風が吹き抜けている。風は、二人の肉体や足場のコンクリートパネルよりも確かな物体として通り過ぎる。冷たさに、ぼんやりとした光は無いように見えるけれど、色眼鏡が外れる心地がして……光は消えたのではなく、ただ色違い、黄色じゃなく青白いこともあるのだということだった。冷たさの美の光は牧歌的でなく青白い。女を、直截に綺麗にする。
若い農婦は落穂を拾う。不安であってもなくても彼女はけっきょくそれをする。やることは変わらないのだ、意外に。ただそれを、不安の現象の中でやるのか、不安の無さの中でやるのか。疑心が暗鬼を生ずとは、これもまた、薄緑の光の人はどこかで上手く云ったものだ。どうせ同じことをするなら、眼球の壊れたギョロギョロさでそうするのでなく、美の気だるい光の中でそれをして、微笑んで、続けてほしかった。それでミレーは、わざわざ黄金律の中にそれを描いた。
美と不安/[了]