No.251 美と不安
美は、賞賛に値しません。むしろ、賞賛するなどという気安い心地が起こるとしたら、それは断じて美ではないと言っていい。たとえば、誰しもある美しい思い出を深く呼び出してみてください。あなたはそれに「賞賛」など与えませんし、誰かに賞賛されたいとも思わないはず。むしろ賞賛などされたら何か筋違いをされている不愉快さを覚えるはずです。素敵な体験をされてこられた、ということで、あたたかく配慮のある共感を覚えられたならば、それはうれしいことですけれど。あるいは、自分が誰かから真に愛のこもった言葉や振る舞いを受けたとする。それが心に届くとき、その人のことを自分は「賞賛」しようなどとしない。賞賛などというのは、あくまで他人事の気楽さで、また心の底が他人事についてはけっきょく暇だから、その暇を慰めるためにするものです。その証拠に、心の鋭敏なこどもたちは物事に感動するたび、それを賞賛しようなどという発想を起こさない。本当の美に触れたならばどうなるか、もう自分はそこに吸い込まれてよい、ずっとそこに住み着いてかまわない……と思えてきて、せいぜい目を潤ませるか、何かがたまらずその場に崩れ落ちてしまいそうになるか、というところです。このような美は本来、人人の暮らしから遠くにあるべきものではない。人人の暮らしの中にこそあるべきで、何か特別な飾りつけをもって演出を凝らしたものが美であるわけでは決してないのです。美は人人の暮らしの中に直接あるべきで、人人はどこかそのことを知っているからこそ、自分はただ生活できていればいいというのではない、何かするべきことがあるはずで、しかもそれはただ社会的に成功すればいいというだけではないのだ、と突き動かされて生を歩んでいるのではないでしょうか。つまりは、人人は、ただ生きたいのではなく、自己の生に美を具わらせたいのです。清貧なんてシケたものではなく、もっとかけがえのないときを残して。
不安の仕組み
美とは不安の無さであると、前回お話しました。では、自己の生に美を与えるならば、不安を無くして生きていけばよい、ということになるのですが、ここで誤られるのは、不安の反対は安定もしくは安心だ、と捉えられることです。不安の反対は安定・安心ではない。むしろ安定や安心があるからこそ、それが脅かされることで、不安という状態が発生するのです。安定・安心の反対は、不安ではなく「未知」です。不安というのは、安定・安心の思い込みが未知によって脅かされるときの状態を言います。その最も簡単な例は、自分の部屋に幽霊がいるという幻想です。安定・安心と思い込んでいたところの部屋に、そうでない未知がある「かもしれない」ということで、恐怖というのと違う、不安になります。恐怖と不安の違いについてはまた追って説明しましょう。
安易には、不安に抗するのに、安定・安心を積み重ねてゆけばよいような気がします。けれどもそうではなく、不安というのは安定・安心を土壌として芽を出してくるものですから、その出てきた芽にまた土をかけては、ひとまずは埋まりますが、次にはもっと強く逞しい芽が出てきてしまいます。きりが無い。不安をなくそうと思えば、その植木鉢ごと窓の外に捨ててしまうしかないのです。そうすれば、安定・安心もなくなるかわりに、不安もなくなります。その植木鉢はずっと心の部屋にありましたから、捨てるという発想はよくわからないものですが、じっさい必ずそれが心にあり続けると決まったものではない。慎重に言われるべきですが、不安要素、つまり自己にマイナスになることがらの可能性は、誰にだってあるのですが、その不安要素に必ずしも「不安」になるとは限らないのです。不安というのはひとつのパニック状態ですから、当人がパニックになればそうなりますし、「別にどうでもよい」と言えばそのとおりになります。たとえば自分が将来大きな病気をするとか、貧困に陥るとかの可能性は、人人にとって恐怖ですが、その恐怖は共通のものであっても、不安になるかどうかは各人によります。実は不安というのは自己選択性のもので、未知について、不安になりたければなったらよいし、なりたくなければならなくてよいのです。部屋に幽霊がいるという幻想と同じで。
恐怖と不安の差について説明しましょう。恐怖というのはたとえば、幽霊なら幽霊で、あなたが幽霊界に飛び込めばよいのです。そこには幽霊がウヨウヨいます。恐ろしい顔や形をもち、暗闇を徘徊しています。ですが、そうして幽霊界に飛び込んだとき、そこに恐怖はあっても不安はありません。なぜかというと、そこは初めから幽霊界であって、安定・安心の思い込まれた場所ではないからです。不安というのはあくまで、自室のように、安定・安心が思い込まれた場所が、「そうではないかもしれない」と脅かされることによって起こります。ですから不・安なのです。
不安というものを厳密にみると、それが安定・安心を求めることによって、土台起こっているということが発見されます。何か安心できるもの、依存できるものがあるはず、という、習慣からの思い込みが無自覚に起こっている。
たとえば足にデキモノができて、医者に見せると「まずい」と言われた。大きな手術になるかもしれないと言われると、人は不安になります。二週間後の検査結果と診断が決定するまで、もう不安でいたたまれなくなります。このことはまず、自分の五体が自分に安定・安心して存在しつづける、という思い込みがあることを土台としています。ところがそれが、「そうではないかもしれない」と脅かされている。片足をまるまる、切除するかもしれない。自分は片足を失うのだ、と決まったわけではないですが、これからも五体満足であれる、とも決まっていない。決まっていないので、縋れる安定・安心がないのです。縋れるものがあるはずだ、という無自覚の思い込みがあると、この状態でパニックになります。なんだかんだ言いながら、人はそうそう大きな病気に掛かるものではない、医者も立場上慎重に言っただけだろう、と捉えて少し気楽になる。ところがその数秒後にでも、いやいっそ、自分はもう片足を無くすんだ、先にそう決めてしまったほうがいくらか楽だ、という捉え方になる。この捉え方がいったりきたりになり、心は捩れて苦しみます。もちろん本当には「未知」で、検査結果が出るまでわからない、というのが客観的な事実ではある。でも当人としては、自分の五体についての安定・安心の思い込みがあまりに強固であったため、それを脅かされることで、無条件に「不安」になるのです。不安というのはそういうもので、今からオペ室に入り右足を切除されるという「恐怖」とは違います。
人は身近なものから順に、思い込みを持ちます。隣のクラスの生徒が交通事故に遭ったというのより、自分のクラスの誰かが交通事故に遭った、というほうがびっくりする。いくら世間に交通事故がありふれていると知ってはいても、身近なものは安定・安心の思い込みで包んでしまうものなので、身近なものの安定・安心が破壊されるほうがびっくりするのです。あなたの家族が或る夜交通事故で死ぬ可能性は、何々%である……というような話を夜中に聞かされると、人は不安になる。身近なものの最大はまず先ほどのように自己の肉体についてでしょう。あるいは自己の生命、さらには、自己そのもの。自分がどうにかなってしまうのではないか、ということが不安の最大になります。
その他身近なものといえば、家族、友人、しごと、恋人など。あるいはこの社会や、自分の住んでいる国なども当てはまるでしょう。大企業でも倒産するときはする、と、新聞を眺めていた自分が思ったのに、その日に自分の会社が倒産になったと通告されたならやはりびっくりします。「信じられない」という気持ちが真っ先に起こる。身近なものは安定・安心の思い込みで包んでいますから。恋人は、ささいなけんかで相手を傷つけてしまったとき、その傷つけてしまったことを悔いるよりも、つい自分は恋人を失うのではないかという不安のほうに駆られてしまいます。そしてそういうとき、典型的に美のなさが暴露される。美とは不安の無さのことですから。
不安を無くするためには、安定・安心を積み重ねてもしょうがない。たとえるなら、お米は、熱くゆでると柔らかくなり、これをα化といい、冷えるとまた硬くなる、これをβ化といいますが、不安というのはただ安定・安心の思い込みがβ化しただけのものなのです。根本的にはそれらは同一のもの。よって、不安を無くするということは、安定・安心の思い込みも無くす、ということになります。
不安を無くすということは、「未知」をそのまま迎え入れるということなのです。未知を未知のまま、仮にも既知を貼り付けて、こっそり思い込みで包んだりすることをせず……
美とは不安の無さであり、それは同時に、安定・安心の幻想で物事を包まない、ということでもある。美とはただちに、未知が未知として保全されている、という状態でもあります。
未知には不安はありません。奇妙なことですが、そうなのです。未知には危険がありますが、不安はない。不安はあくまで、未知が認められず、何かしら既知の思い込みを貼り付け、安定・安心を与えねばそれと付き合えない、というときにだけ起こります。未知には不安はない……当たり前です。未だ知らぬものにどうやって不安になるのですか? 厳密に見ればわかるとおり、そこに不安が起こるときは、未知のものにどこか「こうではないか?」という思い込みを先に貼り付けています。そして未知に既知を貼り付けているのですからぺらぺら剥がれ、定まらないから「不安」なのです。
美とは不安の無さのことです。不安は、安定・安心への依存習慣によって起こります。特に身近なものに関して起こりやすい。不安はあなたの全般から美を損なう悪魔ですが、安心感はさらにその悪魔の母です。母だから一見やさしげに見えますが……
未知は危険を伴いますので、一見あなたの敵に見えます。いや、敵そのものだと言ってもよい。なにしろじっさいに危険を伴うからには。けれども、あなたに美を与えるという点では、あなたの味方です。あなたは未知という危険さの敵を、迎え入れることでしか美を得られない。
岡本太郎氏は若いときの或る日、パリのキャフェで、「安全な道、危険な道、どちらを取るかだ。……危険な道を取る」と、そう壮絶な決意をした、と言い遺しておられます。それはあの人が、美を追求してやまぬ人だったから、そうするしかなかったのでしょう。ここに描かれるパリのキャフェの映像は美しく、危険な嵐が夕暮れに吹きあれる中、不安は微塵もありません。
暮らしの中で
僕自身の口ぐせのようにして、共に旅行するときの友人らに、その日の朝、旅行に出る前からそういきりたつな、と言うことがあります。やれやれ、という具合で。というのは、これから未知の場所へ遊びに行くのです。それが前もって愉しいばかりと予定されていたのではおかしいでしょう。未知に向かうときのわくわくする気持ちはありますが、その道程は愉しいとは既知にされていない。それはまだ思い入れか思い込みです。それでも、ふつうそういう遊びはちゃんと愉しく過ぎていってくれるものですが、じゃあその思い込みがあってもかまわないのかというとそうではない。美が無くなります。後になって、「あのときはよく旅に出たね」という思い出に残らなくなっていきます。いわゆる旅慣れした人や、旅行が趣味となっている人の紀行が、根本的にどこか光っていないように感じられるのはそれが原因です。未知でなく既知の安定・安心――それは不安を内在させている――があるから、美が無くなるのです。
美とは不安の無さだと言っていますが、その美というのは、やはりありふれた世間通用の語意とは異なりますし、その不安の「無さ」というのも、いわゆるふつうの不安の無さと違う。多くの人はそもそも、自分が取り立てて不安を持っているとは思わないでしょう。「不安は特に無くて、むしろ安心して暮らさせてもらっているわ」と。そこについて僕は、その安心、つまり不安の苗床を持っている、と指摘していることになります。そのことに何か悪徳があるというのではなく、ただ人間は自己の生に美を具わらせたいと望んでしまう生きものですから、それを希求する上では、その苗床ごとが美を失わせてしまうということを見ずにはおれない。不安の無さというのは、その可能性ごとの「無さ」でなくてはならない。物理的に不安が生じ得ない状況……つまり、不安の土台になりうる安定・安心への思い込みがないという状態です。それが美だということをずっと説明しています。
あまり好い話ではないですが、このことにも触れずにはおれません。我々の暮らしの近辺には、安心業者と不安業者がいます。どちらも似たようなものですが、自己の生に美を具わらせるというのは、これらの業者の声が聞こえなくなる、というのでなくてはならない。これらの業者の声を聞いて、安心もしくは不安のために自分が動くようであってはならない。もちろん、一般的な生活の上ではそのような営みはふつうにあってよいのですが、どこか心の奥で、それらと縁を切っていなくてはいけない。簡単に言えば、あるていど人人が成人病やガンの罹患について、知るだけではなく「不安」になってくれないと、生命保険が思うほど売れないということです。煙草の副流煙で肺がんになる、特に乳児の成育に悪影響が……と、知ってもらう以上に「不安」になってもらわないと、政治的な活動も人を動かす直接の力になりにくいということです。野党は常に、「今の与党に任せていては大変なことになる」と、国民に不安になってもらう努力をします。あるいはこの新製品は大流行しているので、よく知るかできれば自分で持っていないと「遅れている」とみじめな扱いをされるであるとか、学習塾に通わせないと子供の知能は社会でやっていくのに手遅れになるだとか。
それはもう無数にありますが、そのような安心業者と不安業者のやり口は、じっさい蔓延しているところもあるからには、それと知って心の奥で縁を切っていなくてはならない。あなたがたのやり口に、自分は不安にもならないし、あなたがたの商品によって、安心にもならない、と。本当に我々は手のひらの雑菌を死滅させないでは食事して暮らすこともできないのか。常時消臭剤を身体に吹き付けていないと友人らとの交友で恥辱を受けるのか。付き合いきれないものに付き合い続けるべきではありません。僕はある広告業のエリートが、このことに内心で苦しんでいる話を聞いたことがあります。「人を、どこまでオドシていいのかってね。昔も議論されたよ、あれだよほら、『おじいちゃん、お口くさーい』っていうやつ……」。
ここでは社会問題ではなく、我々を不安にしてくるじっさいの要素についてのみお話しています。美という状態は、それらのオドシが聞こえないという状態です。恐縮ですが気をつけてください。怪談話のときによくあるように、不安を抱える人の呼吸に自分を合わせていると、不安というのはたちまち自分に伝染します。また直接の商品を持っていなくても、個人的に、不安業・安心業を自分のやりかたにしている人はいます。人は自分の話が聞いてもらえなくなり、かといって勝負に出る意地もないとなると、人を不安にさせることで注意を惹き、安心感でそれを沈静することで依存的歓心を買おうとする方法に出ることがあります。たちの悪い占い師のようにです。
目標不安
目標不安、という造語を使いたいと思います。人は自己の生に美を具わらせたいと望み、それゆえに目標を持ちます。人生の夢というのがそれです。ところが夢というのは、まだ未知の未来に固定的なイメージを当てはめ、「こうなればよい」と強く願うことなので、これは不安の苗床になります。こうなればよい、わたしの人生は幸福において安定・安心される、けれども、こうならなかったらどうしよう? というかたちで。こうして起こる不安のことを目標不安と呼ぶことにします。目標を無くせばその不安は消えますが、それでは本末転倒という気がしないでもない。必ずしも、目標がなくては人生が美に満ちないとは限りませんが、それにしても、不安を無くすために目標を消すというのでは、文字通り夢が無さすぎる。自己を目標に到達させるためには、不安は無いほうがよい、ということがある一方、その目標を常に掲げていないようでは、その目標に到達できる気がしない、ということもあります。この二律背反は難しい問題です。
目標不安であっても、不安という現象の原理は変わりません。あくまで、安定・安心への思い込みがあり、それが脅かされることで不安が生じます。目標、いわゆる夢に対しても、自己の依存ということは起こるのです。それが脅かされると不安になる。つまりは、「こうなればわたしは幸せだし、こうなってみせる」という安定的・安心的なものに、いつのまにか人生を縋っていることになるわけですが……
これについては、現在の目標から、安定・安心の成分を取り外してください。夢を加工か、変形する。もしあなたが、歌手になって大きな舞台で歌うことを夢にしているなら、その目標を、「歌手になって、歌の途中、まったく関係ないところで、舞台上で垂直跳びを7回する」というのに変形してください。わけがわかりませんが、それがよいのです。美は賞賛に値しないと冒頭に申し上げました。7回の垂直飛びは意味不明で、賞賛に値しません。それに比べると、大きな舞台で歌う歌手になるというのは賞賛に値してしまうでしょう。だから美から外れており、すなわち不安の苗床を持っているのです。この垂直飛びが6回だったらあなたの夢は失敗で、8回でも失敗です。7回のときだけ夢が叶ったといえます。この7回目のジャンプのとき、あなたの体験は美に満ちるでしょう。
大きな新築の家を持つ、というのが夢だとしたら、そこからずらして、「大きな新築の家を買って、一日で缶ビールを15本飲む」というのを目標にしてください。これも14本で寝てしまったら目標は不達成です。なかなか厳しいですね。夢や目標というのは、はっきりとして、精密で厳しいほうがいい。酒に強くないと厳しい目標ですが……最後の一本の酩酊はどんな味になるでしょうか。
好きな人がいて、その人と付き合いたい、少なくともお近づきになりたいと、恋心が苦しいほどなら、「再来月の25日に、彼の頬をシャープペンシルで二回つつく」という目標にしてください。これが目標です。たとえ26日に彼と結婚しても、25日のツンツンなしでは目標は不達成です。25日の前に彼と交際できていても、まだ目標は不達成です。忙しくても25日に呼び出して、シャープペンシルで二回頬をつつかせてもらい、帰ってもらってください。どうしたの、と彼は聞くでしょうが、この日のこれが夢だったの、と言えば、彼は笑ってくれるでしょう。そのシーンに美が感じられない人などいるでしょうか。また彼との交際が叶わず、またお近づきにもなれなかったときは、しょうがありません、お金を払ってお願いを聞いてもらってください。それぐらいは当たり前にしないでは、目標に向かっているとは言いがたいものです。
目標というのはその字のとおり標識であって、それ自体が値打ちを持っていてはいけないのです。たとえば道路標識などがそうで、それじたいを黄金で作る意味はありません。そして道路標識に依存などできないように、目標があくまで標識であれば安定・安心の依存は起こりません。ひいては不安も起こらない。
目標不安は、必ずしも悪いものではないのかもしれない。むしろ不安によって動かされて、それが人生の財産になっているという話はよく聞きます。つまり、このままでは自分は貧困に陥ると不安になり、必死で勉強して国家資格を獲った、というような話。それは、いんちき教材をだまされて買ってしまう動きと似ていますが、それにしても望ましい結果が出ることもあるので、一概に悪いとは言えません。ただ、そのように不安に動かされて叶うものと、それでは叶わないものとがあるように思います。ここでお話したのはあくまで、目標不安という不安についてのみであって、人生の教訓や指針についてではありません。
目標不安を起こさないための目標は、目標から安定・安心のイメージを除去した上で、強く持ってください。目標の輝きがいつしか美ではなく利益や値打ちに摩り替わることで、目標不安が起こるのです。美でなくては、目標のほうも、なんだか曇ってきますし……目標に安定・安心が無いなら目標不安は起こりません。たとえば3年以内に外国のスラム街で殴り合いをして死ぬ、という目標が、その人に目標不安を与えることはないでしょう。黄金のベルトをしてセーヌ川で自殺する、というのもきっとそうです。意味がない目標というより、なんであれ人が「やってやろう!」「できないわけがない!」と本気で思ったということが「目標」なのだと思います。
無干渉、無賞賛
美と不安というタイトルで、不安について深入りしました。これでようやく、美のことについて少しは話せる段取りです。
美は、本当のことです……一番に言われるべきはこのことかもしれない。美とは、イメージではなく、本当にある直接の体験です。たとえばまだ子供というような少年少女の体験する夏休みの朝。目が覚めて、はっと気づく、今日から一ヶ月も学校へ行かなくていいのだ! という驚き。窓の外に陽光は激しく、蝉の声は大気を沸かせています。朝食か、ブランチかへ、子供は階段を駆け下りていく。テレヴィでは、子供向けに特別にアニメの枠がふんだんに組まれている……そのような体験を、各人が思い出せるのかどうかは別にして、そこには何か輪郭がぼんやり光る永遠普遍の景色があり、可能であれば自分はいっそその普遍の中へ吸い込まれてしまいたい、と目を細めさせるものがあります。このような美は、大人になると失せて戻らぬと思われていますが、僕はそのようなことを信じない者であり、また体験からいくらでも、信じようがない者です。誰もが子供のとき、安心していたように思えますが、錯覚です。まだ万事について知らなかったがため、物事を安心か不安かで詮索する心のさもしい動きを持っていなかったのです。ときおりは、自分のおとうさんもおかあさんも、やがては死んでしまうのだということに気づき、夜のベッドの中で恐ろしさに震えることもありましたが、その中に安定や安心の依存先を見つけようとするさもしさはなかった。ただ恐怖に向き合っていただけです。無力といえども、向き合うことまで出来ないわけではない……結論は奇妙なところへ開花する。ユング心理学の大家であった、故・河合隼雄氏は、両親を死去によって喪失する恐怖に囚われた子供が、もう一度おかあさんのお腹から生まれてくればよいんだと考えついて解決したという例を報告しています。
美は賞賛に値しない。ひいては、賞賛を求めてばかりいる我々であったとしたら、我々は美しくない。賞賛を受けては、それで気分を良くして満足する、それで日々眠って過ごす我々だったとしたら、よく見てください、美は具わっていない。
我々は賞賛されることを求めてしまい、同時に、賞賛できるものを探してしまいますが、そうして漁っても、賞賛できる程度のものというのは、美ではないのです。よく見てください、そこに吸い込まれたいというような心地まではない。輪郭が光って暈けて、永遠普遍の何か、というようなものは見当たらない。そのような本当の美に比べれば、ただ顔のつくりや姿かたちが綺麗であるということに、いかほどの意味があるでしょう。もしそのようなところしか見て取られないならば、そこに湛えられた彼女の表情が可哀想というものです。笑顔かどうかなど問題ではない。笑顔だけならば顔面の筋肉で作れます。そうではなく、その笑みが美に到達しているか。もちろん笑顔でなくても美というのは、人の表情にいくらでもある。
同じ映画を観るなら、歌を映像ごと聴くなら、そこにあるのが美かどうかをも見られたらいい。洗練された映画と音楽の技術は、どれもそれなりに人を夢中にさせます。興奮させ、しばらく虜にする。けれども、その中に吸い込まれて、そこに永遠に住んでしまいたいと思わせるようなものがあるかというと、そうそうは無い。それは別に映画や歌やその他の、罪や品質不良ではない。必ずしもそれらのメディアが徹底した美を追求しているというわけではないのですから。ただ我々はけっきょく、本当の美に無関心ではあれないのですから……よく見てください、それぞれに映っているものや聞こえてくるものの中に、不安はまるきり無いか、その苗床たる安定・安心への依存は無いかと。ひとりきりの時間、恐れずにそれらを見抜かれてください、これは美ではないと。
その意味で、本当の美などというものは、じっさいなかなか無い。逆に言えば、どれもこれも、賞賛に耐えてしまうものが多いものです。本当の美というのは、たとえば映画であれば、自分の美しい思い出と同列に並べてなんら異議の起こらないもののことです。思い出だけに、賞賛する気になれない、共有してもらおうとも思わない、大切な人にしか、その話を本当にはしたいと思わない。
また逆に言えば、そこまでの美を具えたものであれば、それを何度でも繰り返して観、繰り返して聴きをすることは、きっと自分の足しになります。なんという不安の無さか、という、その美しさの隅々までの確認は、あなたの目と感性を養うでしょう。
そして美のものは、あなたに干渉を仕掛けてきません。美はただそこに輪郭を光らせて在るだけです。美を見つけたら、やはりそれについても、なんという無干渉か、というのを味わわれてよい。干渉の全ては、けっきょく不安を動力源にしているのだ、干渉など……ということにも気づかれるはず。美は人に訴えかけてくるように思えますが、違います。美は干渉を仕掛けてこず、だからこそ、自分がそこへ吸い込まれたいと感じる、その自由の余裕をくれるのです。それに比べて、干渉されてしまったら、あなたが暴れられないでしょう。暴れさせてもらえないというのは、向こうが勝負を引き受けてくれないという、悲しいことです。
この話があなたに受け入れられて、何かしら自己の美への可能性をほのめかせたにしても、ともすればもう翌日にでも、美の破片は蒸発している。「不安になってはいけないんだ」という固まった暗記だけがあり、その暗記を確認しながら、不安な顔つきのままでいる、無理に笑ってみることもしながら、という有様になりがち。そういうものですが、お互いにがんばりましょう。僕はこの、野暮ったくて色気のない、ダサい言葉のほうが、まだ美に近くありえるとして言いたく思いました。お互いにがんばりましょう。賞賛もせず干渉もせず、できたら気だるく、吸い込まれる風景を歩いて。
言わずもがなですが、美に至る方法というものはついにありません。もし方法があったなら、それ自体が安定的で安心の依存先となるでしょう。不安は実は自己選択性ものだと述べました。あなたはそれを選んで手に取りますか。それよりは、方法という言葉自体を目の前に置かれて、それに向き合い、気だるく、無干渉、無賞賛、という心地になることを味わってください。それはいわゆる引きこもりのような、全てのものから目を逸らすこととは違います。無干渉というのは美において関係性を持つことです。
美と不安2/[了]