No.252 美と不安3
一歩前進、という言葉にある無力さは何だろう。
これは、一歩進んだところで、もう立ち止まっているからだと思う。
ずっと進んでいる奴はそんな一歩ごとを確認したりしない。
一歩なんか進んだうちに入るか。
だいいち目的は進むことではなく到達することだ。
前進が目的じゃない、目的のためには前進せざるを得ないというだけだ。
ましてその一歩ごとに感慨に耽っていたら話にならない。
一歩前進、って、それはもう済んだ一歩じゃないか。
人生には休憩が必要だが、休憩は人生じゃない。
一歩前進という言葉にある、ちょっとした安心感がよくない。
怠惰な学生が、試験で席次を少し上げたというなら、浮ついた心地になっていいかもしれないが、大人が学究するならそうじゃない。
何か究めなくてはいけないものがあって、そこへ辿り着くまでは席次もへったくれもないのだ。
いわゆる道というのはそういうことを言うのではなかろうか。僕は知らないが、たぶんそうだと思う。
そして、そうであってもなくても、それはどうでもいい。
自分に必要なのは、その道か何か知らないものを、後ろに蹴って進んでいる感触だけであって、その道のご立派か否かはどうでもいい。
道は、喜ぶためのものではない。
行きたいところがあるのだ。
美とは動的なものだろう。
不安、またその苗床である安定・安心が無いことが美であるのだから、美は動的ということで筋が通る。
歩きながら、横から色々言われることがある。無言にも、言われることがある。
そっちを、あまり見る必要はなくて、返答は決まって「知らんけども」だ。
はじめから決まっていることがあって、自分は歩みを止めないとはじめから決まっているのだから、あれこれ言われるのを聞く必要は特に無い。
「XがYだからZだと思うよ」
「そうか、まあ知らんけども」
「知らんけども」、つまり、こちらは未知に向かっているのだから、「知らんけども」が必ず通るし、そこに既知ふうの話をされても困るのだ。
既知だったら何をしにわざわざそこへ行くんだよ。
だいいち、僕などの場合は、そうして横から干渉してもらえるような、立派なことをしている覚えはない。
横から口出しというのは、もっと偉いことをしている奴に向けてするものだ。
宮本武蔵の五輪書に、「役に立たぬ事をせざる事」と書いてあったのが、ずっと心に残っている。
たとえば横から口出しされるのに、立ち止まって、一緒に考えてみてもいいのだが、ハッと気がつくのだ。フフフと考えてみてもいい、が、それは歩くことの役には立っていない。
ああ、これか、役に立たぬ事をせざる事、というのは、と感心する。感心している場合でもないけれど。書いてあるのを初め見たときは、当たり前すぎることをわざわざ書いたものだなと、それが奇妙で逆に印象的に覚えてしまったのだったが、その当たり前すぎるチョンボをいくらでも自分がやるということは驚きだったし、今でもやるから驚く。
進もうとしても、うまくいかないことがあり、まあうまくいかないことがあっても、うまくいかない歩きを続けるのだけれども、気に喰わないことがあると愚痴が出る。ときにその愚痴は非常に重たくなって、この愚痴の重さは一体何なんだ、と、真剣に考えさせられることがある。
「つまり、おれが何を気に入らないでいるかというと、本質的には……」
みたいな感じになって、また気づく。ああ、これか、役に立たぬ事というのはと。
本当に不思議だ、人はマラソンの最中に急に杵と臼で餅つきを始める。
自己の愚痴の噴き出るその本質について究明するのは、したらいいが、歩くことには特に役に立たない。休憩だ。人生に休憩は必要だから、休憩したらいいが、どういじくっても休憩はご自慢にならないのだった。
じっさい、愚痴の構造を解明したところで、すっきりした気分にはなるけれど、休憩が長引いたせいで歩き出すのが億劫になるほうがやっかいだ。
ついつい、他に何か究明すべきネタを探してしまう。
究明なんかするぐらいなら、「ペペロンチーノの決め手は唐辛子!」と叫びながら歩くほうがまだましだ。別に叫ぶことは歩の邪魔にならない。
自分は進んでいるのか? そういうことはいつもわからない。すぐ近くのことならわかるけれども、そうではない、目的はずっと先だし、しかも未知だ。
進んでいるのかどうかわからん、辿り着ける気がしない、と思うが、振り返ると、やはりずいぶんな距離を来たのは来た。
そしてウーンと考えるが、ようするに、未知だからこの先はわからないのだ。わからないものを考えても役に立たない。地図でもあればありがたいが、むしろ自分が地図を描くために歩いているのだから発想が本末転倒だ。
けっきょくまた、自分に向けても「知らんけども」といい、歩くしかない。役に立つことといえばそれしかないのだ。
気持ちが後ろ向きになるとやっかいだ。
気持ちを前向きに戻さないと、となって、前向きに戻すけれど、前向きに戻ったら「よし」という感じで、けっきょくまた歩は止まっている。
後ろを向いたり前を向いたり、「よし」とか「もう」とか、がんばっているけれど、回転しているだけだ。熱心な回転業者だ。これは疲れる上に損だ。
これならまだ、酒でも飲みながら、うええクソだ、何もかもクソだあ、と言いながら歩いているほうがマシだ。
僕の気持ちが前向きになりましたというニュースは、この宇宙でもっとも重要性のないニュースである。
僕としては、個人的に、性格がラッキーだったなと思うところがある。それは何に向けて歩くときでも、ステキなものに向けて歩く発想がなかったところだ。ステキなもの、というのは自分に似合わないと思っていたのだろう。
ステキなものに向かって歩くなら、自分の気持ちも何か明るくステキな状態になっていないと、その先が見えなくなる。
かといってもちろん、思いつめて、人間の宿業と闇、みたいな中学生の根暗を考え続けても、何もいいことがあるわけではないので……
僕は割りと、しょうもないもの、「なんでそんなことするんだよ」と笑えるようなものを愛してきた。その性格か趣味かが、僕を助けてくれた。しょうもないことへ向けての、しょうもない歩みに、あまり違和感がない。
もっと重大な善に向けて歩めといわれていたら、僕は全てを三日で頓挫してきただろう。
僕は自分が歩むことをしょうもないと感じているので、しょうもないものに向けてしか歩むことができない。
(すばらしいと思えてしまうことなんかは、とにかく徹底的に、しょうもないんだこんなものはと、洗脳してやらねば歩き出せない)
僕が目標にしてきたものは全て、他人に賞賛される類のものではなかった。僕は僕なりに美しくありたいと思い、今もせめてそれだけは思っているから、たぶん無意識に、自分がいちばん動的であり続けられるやりかたを選んできた。
僕などに美という言葉はまったく似つかわしくないけれど、それについて尋ねられたら、返答は「知らんけども」とするしかない。じっさい知らん。自分の美を点検したってそれは停止であって動性を失う。そしたらますます美から遠ざかるだろう。
僕は頑張っているのだろうか? よくわからない。それも「知らんけども」に入る。
いやじっさい、感触としては頑張っていない。
僕のようなアホみたいな人生を「頑張る」ことって可能なのだろうか?
目的というか、目標じたいがアホなので、進んでも自慢にならない。
自慢になるようなものはいやだ。そこには人に褒められる隙が出来て、褒められるとなったら安心感を得てしまう。
安心感は、どうせ翌日には不安になっているし、とにかく自己を美から遠ざける。
がんばって歩いてりゃ安心と思っているんだろう、お気楽なやつらめ。こちとら自慢にもならないアホの道を行くからには、がんばってるとも言い張れないし、なんの安心にもなりゃしないのだ。
そのかわり、不安というのも無いが……なにしろアホがアホに向かって歩いているだけだからな。
我が往くはアホの大道だ。
とまで自分で言うと、さすがにちょっと情けない。
しかし、足許からそのアホの感触が常に返ってくるのだからしょうがない。
このアホの感触が無い道へ逸れたら、僕はただちに骨折する。お堅いものは足に合わないのだ。
アホとは何のことを言うかというと、無意味で無価値のものを愛してしまい、かつ、危険に突っ込む奴のことだ。
危険を避ける奴はもちろん賢い。
あるいは、価値あるもののために危険に突っ込むなら、わかる話だし、かっこいいし、アホではない。
それはわかっているのだが、なにしろアホの道を歩いてきたし、自分はけっきょくそこしか歩けないのだからしょうがないのだ。
危険を既知にわかっていて、あえて踏み込むというのなら、冒険家ということでまたかっこいいのだけれど、アホというのはそうではない。
自慢じゃないが、アホについて語る権利はさすがに僕にはあるだろう。
アホというのは、その危険のことをあまり考えずにそこへ踏み込んでしまうのである。前もって考えれば危険をあるていど既知にできるものを、めんどくさい、というふうに。
それはアホなのだが、僕にはそうするだけの理由が無いわけでもないのだ。というのは、前もって考えて、そこに危険があると既知になってしまっては、僕はそこに到底踏み込む勇気が無い。だって危険は怖いじゃないか。僕はそんなに根性のある人間じゃない。プレス機にかけられてペチャンコになっても、根性の汁は一滴も出ないだろう。
なんとなく、危険ですよの表示が出ているのはうっすら見えるのだが、それを見てしまうともう怖くなってしまうので、見ないうちにそそくさと先に進むしかない。アホでございますから……と。
その先に危険があって怖いと知ってしまったら立ち止まってしまう。
立ち止まるとどうなるか?
不安になるのだ。立ち止まっていれば安心だから。また歩みはじめるにして、その先は危険と知れているのだから、今ある安心が脅かされて不安が起こる。
僕だって不安になる。つまり僕だって賢くなるときがある。
そしてそのとき、自分で判る、僕は絶望的に美を失っている。そのぶん賢くて打算の速度に優れている。
打算なんかしたって、今さらこのアホの道に、合理的な利益があるはずがないのに……
そんなときはもうワーとなるしかない。アホとしてひとしきりダンスでもして、「知らんけども」と言い直して、まあ進む。
このようなので、僕などに物事のアドバイスを求めることがいかに無意味で不適当か分かってもらえるだろう。
友人を迎え入れるとき、じっくりその危険性を精査して、よししょうがないと受け入れようとする、そんなものを「友人を迎え入れる」とは言わない。
友人を迎え入れるのは、きっとアホの仕事だ。
僕がアホであれているとき、歩んでいるとき、美がわずかでもあるのかどうかはわからない。
けれど、美しいと言ってくれる人はいた。
正直嬉しいけれど、バレないようにして、やはり「知らんけども」と、歩くのは止めてはいけない。
鼻の下を伸ばすのは歩むことの役には立たない。
休憩のときは堂々と鼻の下を伸ばそう。
休憩だとわかっていればそんなに不安になるものでもない。
ときに、歩むという当たり前のことがわからなくなることがある。
そのときに確実なことがある。
まず、その状態は「不安」だということだ。
そしてなぜ歩むということがわからなくなっているかという理由も唯一に決まっている。
その先を歩むということが未知で危険だと気づいてしまい、賢さが自動的にその行為を拒否しているからだ。
アホの自覚を取り戻せば恢復する。
何をアホかといえば、目標を持ってしまった時点で人はアホなのだ。そんな未知の友人を。
人は自己の生に美を具わらせたい。
人生を振り返るとき、履歴書じゃなく美しい思い出を取り出すのはそのせいだ。
美しか人生と思っていないし、美しか人生として受け取れないのだ。
美の無い時間は人生がなく空白になる。
では美しくなるというのは結局どういうことか?
人生が描かれることなのだ。人は不安をやめたとき、初めて自己の人生を描きはじめるのだ。
美と不安3/[了]