No.253 美と不安4
人は意図的に美しくなることはできません。美を意図するということが、それじたいもう美を失わせるものだからです。我々は多く、なんでも自分で意図してできると思い込みがちです。いつのまにそう思い込んだのでしょうか、たとえばまもなく二十歳の誕生日を迎える……として、あなたは意図的に二十歳になれるか。なんでもかんでも意図的にできると思うのは根本的な間違いです。
美を意図することはできないというのは、美が未知に依拠するからです。美は未知なのに、「よーしこれから美をやるぞ」というような、意図的な取り組みはできません。それで前回お話したように、「知らんけども」という口ぶりがまっとうに聞こえるところが出てくる。未知ならば「知らんけども」はまさに正論です。
美とは不安の無さだ、ということで、ずっとお話してきました。では、次のような会話は確かに成立します。
「美は不安の無さですか」
「はい、そうです」
「不安を無くせば、美に至れますか」
「はい、そうですね」
この会話は理論上は正しくなります。けれども本能的に、不毛の気配が感じ取られます。このことは、次にこのような接続を持ちうるからです。
「じゃあこのことを知っていれば美については安心ですね」
「はい、そうですね。でも油断は禁物ですよ」
人はじっさいこのようにして安心できる安定的な何かを求めます。それを求めてもよいけれども、それは美と相反するというのが、ずっとここまでのお話でした。
「美は不安の無さですか」
「はい、そうですね」
「不安を無くせば、美に至れますか」
「いや、知らんけども」
このようにしたほうが、無責任には聞こえるけれども、不毛の気配は払拭されます。どこかへ進めそうな推進力が得られている。それはやはり、未知、「未だ知らない」ということが保全されているからです。このやりとりは、美の理論については無責任なのですが、やりとり自体に美が具わっているのです。料理は食えるが料理本は食えないというのと同じで、前者のやりとりは食えませんが後者のやりとりはそれ自体が食える。さあみんなで人生を愉しもうよと、食卓についた、そのテーブルに料理本を並べるのは間違いです。それでは人生の愉しみは描かれません。事実は腹が減っていくばかりです。
人は自己の生に美を具わらせたいと求めます。自己の生が、単なる生活の記憶、その薄れゆくばかりの蓄積ではなく、何かしらの物語を織りなすことを求めて。ところがいっぽうでは、その物語の本質たる美を意図的に「求める」ということができないという。ここに矛盾があり、これが我々を困惑させます。美をやりたいのにやれないということ、やろうとしたとたんもう美ではないということのやっかいさです。
この二律背反は難攻不落に見えます。崩しようの無いような。けれどもそれも或る思い込みによる錯覚でしかない。
さっさと解決してしまおうと思います。僕自身の、これまでの生きてきた時間を振り返り、実は深い悔恨をお詫びのように隠し持って、進めます。
美は自分のものではない
誤解の根本は、美を求めるとして、自分が美を吸い上げようと企んでいることにあります。美というのはそうではない。自分の側がそれに「吸い込まれてしまいたい」と感じるものだと、これまで何度も申し上げました。
自分のために美がありうるのではなく、美のために自分がありうるのです。美が人生を与えてくれるのでは本当はなくて、美のほうに自分の人生を与えるのです。自分が美を求めて美を吸い取ろうというのは自己意図ですが、美が自分を吸い込むのにまかせるというのであれば自己意図ではありません。自己が美に吸い込まれるのを、よくない、踏みとどまろうとするのは意図ですが、その意図をやめてしまい、美に吸い込まれる。幼い子供が美を具えているのは、この吸い込みに抵抗する意図も力もまだ弱いことによります。
虫の好い発想に自分で気づいて、捨てねばなりません。まず何より、美は自分のものではないのです。自分は美を所有する側ではなく、美に所有される側です。
美とは不安の無さだと申し上げました。その不安の無さというのが、「自分の不安の無さ」ではないのです。いくら自分について不安の無さを気取ってみても、自分の不安が無いことは自己の安心になってしまうでしょう。それはけっきょく不安の苗床ですし、だいいち、そのような発想はどこか虫が好すぎておかしいと誰しも違和感を覚えるはず。自分がおいしい美、なんて、もうその話自体が美を否定している。
これは、思い切って言えばこうです。「自分」とはつまり「意図」を起こす装置であって、「主観」によって物事を視るものですが、この装置自体が不安の発生器なのです。人は身近なものから順に思い込みを持つと述べましたが、その身近なものの究極が「自分」であり、そこからの物の見え方である「主観」です。これが脅かされることで不安になる。あるいはこう考えてみても明らかだと思います、主観も意図も持っていない者を不安にすることは不可能です。もちろん安心を与えることも不可能でしょう。
美とは不安の無さだというのは、自分の不安の無さではなく、目の前のものの不安の無さなのです。たとえば簡単にはこのように言える。目の前に、まるきり夢のような美しい街があったとする。それは思わず目を細めさせ、この街に吸い込まれてしまいたい、ずっとここに住んでしまいたい……と思わせる。行き交う人人の振る舞いの、不安の無さも含めて。それが美です。
ここに、「いいわあ、わたしもこういう街に住みたいわあ」と発言したとして、この発言者のどこに美があるか。じっさいこの発言者が、完全に健康で資金も豊かで、生活になんらの不安もなかったとしても、その意図・主観の中に美は現れないのです。美がありえるとしたら、その逆、彼女が自分の意図を捨ててその街に吸い込まれたときです。意図的に、有益だわと算段をして、彼女がその街に住み込んだとしたら、それはただの裕福な趣味に過ぎない。それらを捨てて、吸い込まれてしまったならば、それは彼女の人生となるでしょう。
<<美の主体は自己でなく外側の他者にあります>>。未知といえば他者しかありえない。目の前に、景色と友人、あるいは友人でなくても誰かがいたら、その誰かの美を見つめます。その誰かの不安の無さ、またその苗床になる安心の無さも。人には必ず美が具わっているはずで、自己の眼は本能が正しく活躍すればかならずそれを見つけます。目の前の人間が誰であっても、その根本に美を具えていないことなどありえません。他者は未知ですから、正しく他者として見つめられたら、他者はそれだけで美であるはずです。特に美の才能に優れた人は、その眼の本能が優れており、景色と人人の中にあざやかに美を発見していきます。そして素直に自分をそこへ吸い込ませていく。美が自分を吸い込む力に抗うことをしない。人は、「人」という思い込みと付き合うのではなく、人に具わった美に吸い込まれて付き合うということをします。そしてその付き合いの中で、人は干渉するということをしない。干渉をすれば、不安か安心かが起こるしかないからです。
本来そのようであるものが、そのようにしてこなかった時間の全てについて、僕は深く悔恨を抱いています。なぜそのようにしてこなかったのかと。失ったものは少なくなく、その失った時間の全ては人生を空白にしました。まして僕の過ちに付き合わせた人の人生にも、空白を与えてしまいました……熱心に。いまさら償いようもありませんが、そのような過ちはもう二度としたくないと思います。まさに悔恨です。
美と自信の関係
……けれども、悔恨があろうが無かろうが、「知らんけども」と、やはり歩み続けるしかない。未知を未知のまま踏みしめていくこの独特の感触を失ってはならない。自分が吸い込まれて進むこの感触を。悔恨なんて誰だってあるだろ。そんなものを見つめていても、何か美の足しになるわけではない。
美と自信の関係についてお話しましょう。
人はじっさい、それぞれに不安の現象を体験したことがあって、その体験から、不安になるというのは怖くて苦しいものだと知っています。それがある種のパニックだというのも体験から知っています。それで、不安とはどこから来るのかと考え、たいていは、それは自信の無さから来る、と結論付けています。それはある意味では間違っておらず、確かに自信の苗床から、その自信が揺らいだときに不安の芽が出てくるのではあります。自分は「大丈夫」なつもりだったのに、大丈夫ではないかもしれない、と。
それで人は、不安によって美とは程遠い無力な苦しさの状態にならないために、自信を持たないといけない、と心に決めます。あるいは、自信を手に入れなくてはと。これは、不安の現象が勃発するのを、自信で手当てして勝利しようという考え方です。
たしかにこれで、自信によって不安を抑えこむことは表面上できます。けれども、その自信が無くなってしまったらどうしますか? このような構図で、人は知らず識らず、自信に依存するということを起こします。多くの人が、「自信が無くてはやっていけない」としみじみ言います。だからあなたも自信を持ちなさいよ、と人に勧めることもする。
けれども、この自信のいわば物量作戦のようなものは、不安軍と自信の安心軍が戦争をしているようなもので、不安がそもそも無いという美には到達しません。それで、社会的に最大級の自信を持ってよいと見える人が、確かに自信たっぷりに見え、優雅で、逞しく、またうらやましくも見えるのに、そこに吸い込まれてしまいたいような美を覚えるかというと、それは無い、ということがあるのです。あるいはコンテストのグランプリを獲るような美女でも、自分は誰よりも美しくてじっさいの人気もある、はずなのに、誰もが自分を見て吸い込まれるようでもなければ、目を細めて胸を温かくしているわけでもない、ということに気がつきます。それらはつまり、本当には愛されていないじゃないか、ということで、これに気がつくと、それだけの自信の物量があってもけっきょく不安が勝ちます。そうなると、今度はまた新しく自信を手に入れて不安を埋める戦いに勝利せねばならない。けれどもその戦いは仕組みに美を具えていないので、当人には人生を生きている実感を失くし、そのために苛ついたり、疲れたりしてしまう。
なぜこうなるかというと、自信というのもけっきょく、「自分」のものでしかないからです。客観的な材料に支えられてはいますが、自信を持つという現象は主観のものでしかない。
たしかに、ありふれた意味では、自信を持たない人よりは、自信を持っている人のほうがよい。頼もしくてかっこいいものです。それはそれとしての判断軸があってよいものですが、その頼もしさとかっこよさは、永遠普遍に輪郭がぼんやり光るような美、吸い込まれてよいと思える美には到達しません。ともすれば、自分が自分を見るときに、不意に、「このように自信ばかり欲しがっているだけの自分は激しく不潔だ」と思えて、猛烈な自己嫌悪に陥ることさえあります。「自信が無くてはやっていけないというのは、つまり、本当には自信が無いということじゃないか」と、自分を責めさいなみます。子供のころの自分はこんなじゃなかった、もっと無邪気で、かわいらしかった……と苦しみながら。
自信ということで、例を列挙しますと、たとえば顔が綺麗であるとか、プロポーションが美しいであるとか、頭が良いであるとか、金銭的に豊かであるとか、名誉ある立場にいるとか、能力が優れているとか、センスが優れているとか、そういうものです。けれども、これらの自信によって人が美に到達することにはならない。もしこれらが自分を美に到達させうると信じている人があれば、その人は美というものを自分単体でありえると無意識に捉えています。イメージの中で、自分だけがすっくと立って、それが美しい姿というイメージです。あるいはそこに、服飾や装飾品や、豪奢な部屋や高級車、鍛えられた肉体や、誇らしいステイタス、などを貼り付けるとして、それでもやはり「自分だけ」で美が成立するイメージです。
けれども、そうして作り上げられた美女に向けては、鼻毛の出たままの青年でも、興味なさそうに言います。「ぼくは、あそこで本を読んでいる、おかっぱ頭の女子高生のほうが可愛いと思うけどな」。そう言われて見てみると、ベンチで無心に本を呼んでいる制服姿の女子高生は、まだ子供のようなおぼこさと無邪気さで、心身のまとっている気配がまだ生成りの布のように清潔で穏やかです。ふと美女自身思わざるを得ないところがあって、自分も彼女の横に座り、本を閉じた彼女とオレンジジュースを飲みながら、彼女の世慣れていない照れくささの微笑みにこちらも微笑まされながら、なんでもない話をするならば、それは貴重でうれしいことだ、いっそ世の中で何より……と思わされてしまう。つまりベンチに座って本を読んでいる女子高生のほうが美である――吸い込まれてしまいたいものがあるものね――と美女自身認めてしまう。こうなると、自信が美を作るという理論ではやりくりがつかず、「けっきょく若いからかな」という粗末な結論に至らざるを得なくなります。
これは、美というのが、意図の装置である「自分」に、ぽっかり宿るものだという思い込みによって起こる誤解です。美というのは自分が吸い取り所有するものではなく、自分が吸い込まれるものです。人が美に至るというのは、美に吸い込まれた状態になるということを指します。
女性の方は、自分が高校生になったときのことを覚えていらっしゃるでしょう。新しい、どこか憧れてもいた、女子高校生としての制服は、美しく見えた。その制服に吸い込まれ、自分は高校生となった。新しい通学路、新しい学校、新しい環境、新しい友人たち、それら未知のものに吸い込まれ、ふと帰り道に陽光の踊る公園のベンチを見つけると、そこにもまた吸い込まれた。そして手元に開いた文庫本の詩集の、その中に広がっていく文学世界にまた吸い込まれていった……というようなこと。それら美に吸い込まれた重なりの中に今彼女はいるのです。ただ若い女子がベンチに座ってひまつぶしをしているのではない。本能の眼はどこかでちゃんとそこまでを見抜いているのです。そして美といえば、デザインされた美女が、その高校生とベンチでオレンジジュースを飲んだ、談笑しながら……という光景も美です。光景まるごとが美になる以上、美が「自分」にだけぽっかり宿るという捉え方は誤りですし、その光景に吸い込まれて抗わなかった美女も、やはりその光景の中で新しい美を具えて現れてくるはずですから、美が人単体に具わっているという捉え方はやはり誤りなのです。
「人は、『人』という思い込みと付き合うのではなく、人に具わった美に吸い込まれて付き合うということをします」と、先に述べました。その「付き合い」の問題です。美を具えている人は、何かに吸い込まれて付き合っているのです。美に吸い込まれて、何かに付き合っているから、その人は美しさを具える。付き合うべきものに本当に付き合っているから美しくなる。
彼女は美について何の意図も持っていません。
恋人同士がお互いを特別な美の存在に観るのは、何もひいき目とか恋の盲目とかいうことだけではなく、半分以上は事実なのです。お互いに吸い込まれあっていることで、互いがじっさい美を具えるのでした。見つめあう恋人たちが、不安や安心といったつまらぬものから離脱しているという見方に、何のおかしさがあるものでしょうか。また逆に、恋人の互いが、わたしたち安心のために付き合っているのと言うようでは、それは本当の恋人ではあるまいと、誰もが内心でそれを確定的に知っていることに気づきます。
人為を離れた力強さ
人は意図的に美しくなることはできません。自己の外側、他者に美を見つめ、そこに吸い込まれた人が美というゾーンに至るというだけです。人人の本能の眼はなぜかそれを見抜いてしまう。
美の吸い込む力に抗わず、吸い込まれる。つまり、美の吸引力にもっとも無力な人がもっとも美しくなります。いっぽう、反発の力が強い人、吸い込まれるよりは自己の意図を推進する人がもっとも美から遠くなります。
本当に美しくかつ力強く見える人は、彼女自身の力が強いのでは本当はありません。むしろ反発の力の一切もなしに吸い込まれていくから吸い込まれ方が激しいのです。それが人為を離れての力強さとして映る。自信など要らないという人のほうがよほど恐ろしい。
であれば誰でもそうすれば良いように見えます。が、その吸引をする美が未知という危険なものであるから、人はほとんどの場合、安定・安心のほうにしがみつき反発しぬくほうを善しとするのです。
人は美を愛して得られぬように見えながら、実は美を――その未知による力を――恐れていて、けっきょくは都合のいいところで、自らを美から遠ざけることを選択しています。「意図的」に。力が得られない、というのでは本当はない。そこに力があるからこそ恐れているのです。
恐れを乗り越えるのは並大抵ではない。
人生実物の獲得に勇敢さが必要な仕組みはこの構造に根ざしていますし、人生の実物をつかむには、自分の人生など要らないというほどに自分のしがみつきをやめよということのようです、つまり、我々ゴクツブシどもに問われているのは、覚悟のほどはどうですか、と。美への本能の眼を開き、この他者らと世界そのものの、美に吸い込まれる覚悟はあるのか、ゴクツブシ? と。
僕はこれ以上、あの悔恨を膨らませたくはない。眼を開いてまいりたいと思います。
美と不安4/[了]