No.254 美と不安5(補足)
本筋は前回分でひとまずおしまいです。この第五項をあえて書き、それを補足としたのは、今回の話はさすがに何の役にも立たないだろうと思ってのことです。内容は、嘘や漠然としたことを書いているつもりはまったく無いのですが、さすがに何を話しているのかが伝わるとは思えず、また伝わったところで読み手を益することが無いだろうと思えます。そういうわけで、ここにはこれから役に立たぬことが語られ、しかもその内容はわけがわからないのだと、そういう構えで面白半分に読んでいただけたらと思います。
実はこの「美と不安」という一連の語りは、No.247の「愛されたいのさ」、No.248の「ストレス」とつながっており、またこの先にも連結するものがあって、その締めくくりに、
「本当に面白いことをしなくてはいけない」
という愉快なタイトルのものに総括される予定で、本来ありました。今でもそのつもりではあります。そのままのタイトルに結ばれるかどうかはまだわかりませんが……途中にはきっと、「会話するな」といった、ヒネリが期待を誘うタイトルのものも出現するはず。あるいはそこに、あえて「不安の時代」というのが挟まれるか、「そこそこに面白いものの評価を剥奪せよ」というのも挟まれるか、いろいろ画策はしています。
「本当に面白いことをしなくてはいけない」。そこそこに面白いものは、今や世の中にあふれかえっているように思いますが、それらは日常に有益であっても、けっきょく自分を満たしはしない。自分を満たすのは、本当に面白いものでないと無理です。たとえば時代の風潮は、恋あいをめんどうくさいものと捉えて、過去のそれより数段下の優先度のものとして捉えるようになりましたが、これはつまり恋あいが「本当に面白いこと」ではなくなってしまったことを意味しています。本当に面白いことなら、恋あいだって仕事だって、何事だって人は無心にやりますし、ひいてはそこに美も出現して、人生の確かな一部になるはずです。
ではなぜ、それが「本当に面白いこと」ではなくなってしまったのか。別に恋あいだけでなく、色んなことについてが、内心でこっそり首をかしげるようなものに変化してきた、ということは、多くの人が感じていると思います。それはそれで、楽しいのは楽しいのだけれど、と。
それはそれで、あってよくて、休憩のときには楽しみが増えてよいけれども、その休憩というのも何か本業があってこその休憩です。本業、つまり「本当に面白いこと」。その肝心な側はどこへ行った? そのことを、漠然と思っていらっしゃる方も多いと思われますし、漠然とでない、怒りさえ伴ってはっきり思っている、という方もいらっしゃるでしょう。そのことについてを総括して、読み手に力を与えうるものを書き上げようとして、この一連の企みは進行しています。
その中で「美と不安」がいささか膨れ上がってしまったのには特別な理由があります。というのは、「不安」という状態の中では本来伝わる話もまっすぐに伝わらず、曲がって伝わり無為に不快な気分を引き起こすだけになるからでした。不安の時代ということを仮定して話を進めるとすれば、その不安とはどの状態のことかというのが先に示されていなくてはならない。特別に取り乱している人でなければ、ふつう自分が不安の中にいるという自覚は持たれないでしょうが、僕が言うところの「不安」という現象は、その次元で自覚される不安だけではない、もっと内在しているものだ、ということはここまでの話であるていどわかっていただけていると思います。
仮に、と仮定して、もし友人関係の集会や、目にするテレヴィドラマや近年の映画、音楽、アイドル・パフォーマンス、流行する新興のアニメ作品群があったとして、そこにあるプレイヤーらがことごとく「不安」を内在ていたとしたらどうでしょう。知らず識らずのうち、あくまで「仮に」です。そこには美が出現しません。美が出現しないでは、どのように楽しみの工夫を凝らしても、そこに「吸い込まれたい」という感触の、あの暈けた光はなくなってしまう。それは、「そこそこに面白いもの」に留まってしまうのではないでしょうか? 誰もが、いま自分が不安に囚われているとは思っていない、けれども、不安が無いという状態が、実はもっと思いがけない、はっきりとして別にあるものだったら?
この、言われてみればなるほどということに、力を与えるような形で、このあと書き進められていくことになります。古い名作映画などが手元にある人はその映像や音声や演技をこの視点であらためて眺められてもよいように思います。古い映画なりの独特の雰囲気があるね……というところに、実はそうぼんやりしたものでない、はっきりとした「不安の無さ」が実現していたとしたら? ひょっとすると、人によっては愕然とする発見の体験をされるかもしれません。
とはいえ、ひとまず、今回の「美と不安」の補足は、そのことの話ではない。段を区切って進めましょう。役に立たない、わけのわからない話ですが、ともすると、ゾクリとすることもあるかもしれません。嘘や漠然としたようなことは何も語られません。むしろ僕は、このことは知らないほうがよいような、本当すぎること、明確すぎることとして、補足扱いにすることを決定しました。
***
人間は本能によって美を求めるけれども、この本能は奇妙なことに生(せい)の人間の本能でなく死の人間の本能である。創作等で純粋美を追求する類は、生きている人間が死後の本能を先取りにして遊んでいる様相である。
そして、真理に到達するほど美も真に到達するという漠然とした確信がありがちだけれども、これも誤解であって真理の極致においては美は存在しない。禅の僧侶が到達するのは煩悩の焼き尽くしか無力化であるが、この焼き尽くしは人間の死後の本能までを焼き払うのである。そもそも宇宙には美などというものは存在せず、人間の本能が宇宙を何かしらで捉えることによって、その本能的な歓喜の感触を美とみなすのでしかないのだ。
その真理というのも、意外に近くやってくる。ふと夜半に用を足しに暗い廊下をぎしぎし歩いていくうち、アッという感触があって、美の本能は焼かれて無力化してしまう。美は要らなくなってしまう。美でさえ本質的には空虚である。色即是空と四字熟語に収められていて、その色即是空が「美」と捉えられて腹立たしいので、即座に空即是色とも言い足される仕組みになっている。
人間が美を覚える現象を厳密に見ると、それは「構造」と呼ぶべき現象の直覚的体験である。構造が説明され理解されるのでなく、また案内されるのでもなく、構造そのものが体験として捉えられる。この「構造」を構築する線分はただの線分ではなく、名を与えるならば「信」となる。「信」によって構築される構造がそれ自体体験として与えられて、それは「もの」の感触を人に与える。これがいわゆる「もののあはれ」である。
けれどもこの「構造」は人間が本能によって作り出すものであって、宇宙に元来から存在しているものではない。「構造」は、人に「信じられて」いるのだ。たとえば山すそと山頂があるというように、人はそれを「信じる」ことによって構造化して捉えるが、宇宙の元来からその山すそや山頂があるわけではない。人間のその構造を信じることへの本能は、真っ先にはおそらく人間の作り出す文字に顕れている。アルファベットにせよ漢字にせよ、たとえばAという文字は三本の直線が構造を成しているように見えるが、それは人によってそう信じられているだけで、宇宙の物理においてそれが構造と認められているわけではない。
そしてこの「構造」を「信じる」という人間の本能を、人間かぎりのものでしかないと看破してしまうと、構造への信仰は破壊され、構造を捉えるということじたい自己の中になくなってしまう。そうなると、美の直覚もなくなってしまう。美とは「もののあはれ」、「信」によって構築された構造が体験されることであるのだから。
美ということを、その本能のままに豊かに得ようとする、あるいは与えようとするならば、この「構造」というものは充実して大きくあったほうがよい。ただこの構造体の線分である「信」は、その性質が正しく保たれているうち、可変でなくては本来の性質を裏切っている。人間が何を信じるかは変動可能であるのが本来であるから。それで芸術家らは、使い古されてきた「構造」について、その構造によってはやりきれないものをあえて見出し、それを新しく解決するために構造の新しい形を出現させる。その新しい構造の強制は、人人の捉えていた構造の変動を要求し、新しい構造がその「信」の本来性で生き生きと捉えられるということを起こす。人人はなんであれ、「そうか、自分にはこの、構造を捉えるということがあった」ということを新しいことのように思い出して、美の本能を満たす。
けれども、その構造遊びのようなものも、やはり人間の都合であって宇宙の物理事実ではない。
人間が作る構造の第一はまず生と死であろう。そして、それをどうせ構造化するならば、上と下という構造を作り、生のほうを上位、死のほうを下位としようとする。そうでないものも中にはあるけれども。
ところが宇宙の物理事実でいえば、そもそも生と死という区分自体がなく、これらの対比的構造などというものも存在しない。生死など区別されていない。それどころか、宇宙は別段、生物と非生物も区別はしていない。区別ということ自体、人間のその「構造」をやりたがる本能によって生み出された第一工程でしかないのだから。人間が美の直覚でその本能を満たせるのもこの構造ありきで、この構造自体を信じない、「宇宙の物理事実ではない」と看破してしまったならば美の体験はなくなってしまう。
美の直覚で遊ぶ前提で言うなら、この話は「ナシ」だ。劇場で舞台と観客を区別しなくなれば崩壊してしまうように、真理で物事を捉えきるともう遊べなくなる。つまりは禅僧に美を探すのは間違いで、それが何か自己へ美の活性化を促すように感じられたとしても、それは彼らの法話が我々の遊びを遊びであると教え、遊びとしての本来性を恢復させるところがあるからに過ぎない。遊びの外側からそれを眺めることで遊びのルールや可能性の余地が改めて見えることがあるというのみ。けれども彼らはその遊びに加担するものではなく卒業した者らだ。無愛想なものである。
美の直覚でその本能を満たして遊ぶこの遊びは、真理の土台の上に信の構築を遊ぶことで成り立っているのに対し、真理へ至ってしまってはそれはつまり構造を破棄した更地への居住だ。もちろん誰が一番行き着いているかといえば彼らだが、ここまでいってはもう「美と不安」ではない。美とは不安の無さであるが、真理とはあまりに万物の無さすぎる。
信の線分による構造は充実して大きくあってよい。怯むな、と言いたい気分。さらには、大きく頑丈なそれをあえて可変させて本来性を保たせるということが、自分を含め美を直覚させ続けるということだ。真理にうっかり説得されるよりは、信そのものを太く強くしたほうがよい。もっと豊かに信じよ。どうせ真理が更地であるなら、その上の遊びを太く大きくしても細くみじめにしても大して変わらないのであるから。
構造は可変である。これを有為法といい、真理は不変であるから、無為法という。有為法とは「どうとでもなる」「どうとでもなってしまう」というものであり、無為法とは「もうどうにもならん」というものである。美は動的であるから有為法であるし、その「どうとでもなってしまう」はいわゆる迷いであり、どうにもならん無為法は迷いの消失であるけれども、我々はその迷う味を愉しんでいるのだということを忘れないかぎり不安にはならず美を遊べるのだからよいであろう。美をさえやめてしまった無為法のそれをなんと呼べばよいのかわからないが、彼らからみたら美はひとつの洒落でしかない、そして我々はそのお洒落でよいのだ。
美と不安5/[了]