No.258 いい女の条件と栄光の知識
北インド全域では、スリや詐欺が横行している。
ガイドブックに書いてあるとおりだ。
カバンを、荷棚にチェーンで固定していても、カバンをナイフで裂かれて、中身を持っていかれる。
わたしの家に上がって行きなさい、という老人についていくと、睡眠薬入りのお茶を飲まされる。
親切そうなタクシーに乗ると、拉致され、料金にとんでもない額を要求される。
そういうことは、普通にあるというか、そういうことばかりしかない。
なんとかしてお金を取ることが、道徳的にまったく悪くないとされている国なのだ。
それで、インドに長期旅行に来たつもりが、初日で怒り狂って帰る人というのが、じっさい少なくない。
これらは、「情報」だ。ガイドブックに書いてある。
そして、「情報」は、知識ではない。
「知識」は、体験で得られ、体験で確かめられるもので、置き換えの利かないものだ。
「情報」というのは置き換えが利く。ガイドブックAには、危険です、と書いてあっても、ガイドブックBでは、近年は治安がよくなりました、と書いてある。すると、情報の置き換えが起こる。
ガイドブックCには、「治安がよくなった、とはいっても」と書いてある、また、情報の置き換えが起こる。
いわゆる情報集めというのはこんな感じだ。結局、どれが正しいともいえないし、置き換えは永遠に繰り返される。
だから、「情報」というのは、必然的に、「言い争い」を生み出す。
「女が四年制の大学に行っても無意味だと思う」
「いや、だから逆に、女こそ行くべきだと思う」
と。
言い争いはつまり、情報の置き換え合戦だと言っていい。こう思う、というのと、こう思う、というのが、プロレスみたいに、上になり下になりを繰り返す。
一方、「知識」というのは、体験から得られるもので、置き換えは利かない。
コンノートプレイスからメインバージャールまでは、歩いていけるだろ、というのは、僕の知識であって、置き換えが利かない。
じっさい歩いていたのだから、置き換えも何もない。
ガイドブックAは、リクシャーでの移動を勧め、Bはオートリクシャー、Cはバスの利用を勧めている。
情報はいくらでも置き換えが利く。
が、知識は置き換えが利かない。
知識があると、もう情報は要らなくなる。
情報を与えられても、置き換えは起こらないからだ。
僕はインド滞在中に、荷物をやられたことは一度もなかったし、真夜中の三人乗りのバイクに乗せてもらっても、ちゃんと送り届けてもらえて、バクシー(喜捨)も受け取ってもらえなかったし、ときには大金の入ったウエストバッグを置き忘れて、数時間後取りに行ったら、ちゃんと保管してくれていたことがあった。
ウェイターが、
「気をつけろよ。カネ入ってるんだろ。おれはね、中を見なかったんだ。中を見たら盗ってしまうし、盗るのが当然だ。だから中を見なかったんだ。でもこんなことは二度とないぞ」
と言って、自分でもわけがわからん、というふうに肩をすくめた。
さすがに僕も、いくらかの礼金を、バクシーとして置いていったが、彼はやはりそれを受け取るのにも、金額を見ないでおこう、とする振る舞いだった。
子供の乞食にカネをやっても、飼い主に吸い上げられるだけなので、やめておいたほうがいい。
という情報がある。
そのことは確認できなかったが、乞食の子供らは、どういう遣りかたで、言い方で、観光客にアプローチするかは、もうじっくり仕込まれていて、完成している。
将来の夢は、学校に行くことで、今欲しいものは、妹の着る服とか、そういうストーリーがバッチリできあがっている。
十歳の乞食の少女に、付き合いも長くなったので、サモサをおごってやる、と言った。すると、少女は指差して、あの店はおいしくないの、こっちよ、こっちの店がおいしいの、と僕の手を引いていった。
乞食じゃねえじゃねーか、と、腹の底が震えるように、よかった、という熱が起こった。
食べ物は、食べた者勝ちなので、ちゃんと子供本人の胃袋に納まる。
とてもうれしそうに食べるが、さすがに、乞食の演技をすっかり忘れているので、あまりジロジロ見てはいけない。
乞食の子供らは他にもたくさんいて……
あるとき、その十歳の少女は、突然、ヒンディー語で僕に何かを怒鳴った。
観光客に向けて使う英語ではなく、ヒンディー語でだ。
泣きそうな声で、泣きはじめるのをこらえる顔で、胸が張り裂けるような声で、ヒンディー語で僕に何かを怒鳴った。
彼女が何を言ったのか、僕にはわからなかったし、この先も永遠にわからない。僕はそろそろヴァラナシを去らねばならなかった。
彼女の声と、表情は、今も胸に突き刺さったままで、僕が死ぬまで消えない。
なぜか、彼女のことの記憶は、いつの間にか、恋人の一人だった、という感触のエリアに保存されている。他の乞食の子供らについては、男はガンガーに投げ込んだり(横で見ていたサドゥーが大ウケ)、女の子も、肩に乗せて歩いたりして遊んでいた。
が、なぜか彼女にだけは、触れることができなかった。最後に握手だけした。
彼女は強かったのだろうか? それとも……
言わなければよかった、迂闊な言葉を、という後悔が、彼女については無数にある。
そんな体験があり、そこにある人人がどのようである、という、「知識」を、僕は得たのだった。
これらは置き換えが利かない。
いま現地に行けば、また別の体験があるだろうが、それはまた新しい知識だ。
過去の知識を塗り替えるものでは、あまりない。
インド人はナマステなんて言わない。
言われたら返すが、自分からは言わない。
「あなたを尊崇します」という意味だからだ。
フィル・ミーレンゲー・ジー/また会いましょう、とも、まず言われない。
インドの「また会いましょう」は社交辞令ではないからだ。
ダンニャワードも言われない。「ありがとう」は重い言葉なので、普段はサンキューしか使わない。
長居した安ホテルで、屋上のテラスレストランで、さんざん遊んだ、ゲラゲラ笑った、なあ、お前ら、お前の凧揚げは見事だったよ……みたいなホテルを、出て行く朝。やれやれ、と半笑いで出て行こうとする。
そこに後ろから、
「ナマステー」
という声が掛かる。はっ、と肺腑の奥が凍りつく。
ナマステー、と返すと、彼はモップを騎士の槍めいて持ったまま、フィル・ミーレンゲー、ジイイイ! と言った。マリファナでガタガタになった茶色い歯を見せてニッと笑う。僕もまったく同じように返して、重いバックパックを背負ったまま、戸外に走って出た。フィル・ミーレンゲー・ジー/また会いましょう!
カルカッタの地下街で、ショッピングのガイド気取りの男が、勝手についてきて、勝手に店を案内する。それでガイド料をせびるのだが、こちらはもう慣れているし、もともと僕がそういう性格なので、まあガンバレや、と笑って流す。そんなヤワな売り込みじゃ大阪では勝てんで、インドの兄さん、と、遊んでいる心地。
しばらくそうしていれば、チェッ、ダメだあ、とショゲて退散することがほとんどなのだが、ふと見ると、遠くから彼を観察している少年らがいる。
ははあ、後輩というか、弟子というかに、実演指導しているのだな。
それで、こちらも気が変わったので、やや大仰に、
「いやあ、お前のおかげで助かった、ありがとう、こいつはささやかだがバクシーだ」
といって、百ルピーほど彼の手のひらに押し込んだ。
そしたら、彼も、こちらのはからいを全て察したのだろう。
急に俯いて、僕にだけ聞こえる小さな声で、ダンニャワード、と言った。
メンツがつぶれなかったなら、よかった。お互い、頑張ろうね……
インドに来て、初日に怒り狂って帰ってしまうおじさんは、こういう体験をしていない。
体験が違うから、身につける知識も違ってくる。
どちらが正しい、というのでもない。どっちも置き換えの利かない知識だ。
だからおじさんと僕は言い争いをしないだろう。
なぜ同じ空港で降りたからといって、体験まで同じであるわけがあるんだ。
そんなことを言ったら、新宿駅で昇降する人の体験と知識は全部同じかよ、ということになる。
僕が今住んでいる町には、東京には珍しく、食事がしっかり旨い店が多い。
が、この街に住むにあたり、先人の世話になったというか、先に四年ほど住み込んでいた人がいて、その人のツテでここに住むことになったのだが、彼は四年間、吉野家の牛丼ばかり食い続けていた。
このへんは、食べるところが無いからなあ、と言っていた。
「このへんには、食べるところが無い」というのが、四年をかけた、彼の知識だ。
その知識は、僕の知識とずいぶん違うが、それは体験が違うので、そうなる。
言い争いをするようなことではない。
彼が、僕と共に、新しい体験をすることを選べば別だが、そうでないかぎりは、人それぞれだ。
おお、我ながら、珍しくいいことを言ったぞ。
<<僕と共に、新しい体験をすることを選べば別だが、そうでないかぎりは、人それぞれだ>>。
女が四年制の大学に行くのは無意味だろうか。
それとも、女こそ、逆に行くべき?
その言い争い、情報、「こう思う」を、なんとか正当化しようとして、人はアンケートを取ったりする。
が、それが体験と知識になったとき、つまり、
「意味はあった、わたしの青春だったわ」
となったとき、それはもう、置き換えが利かない。
大学がつまらない、早く出たい、と、暗くなっている人だっているだろう。
それは人それぞれだ。
ただしそれは、誰かと共に、新しい体験をすることを選ばなければ、人それぞれだ、ということだ。
ここにおいて、人、ということが、重要になってくるわけだ。自分と、人との、関係。共に新しい体験をすることを選ぶかどうか。
それによって、置き換えの利かない知識、つまり、最後まで自己の根拠になりつづける、知識というものが、与えられることになる。
一人で情報を集めていてもそれは絶対に得られない。
どえらく長い前置きになってしまった。
本筋より、こっちの話のほうが魅力的かもしれん。
いい女の条件、なんてタイトルにしてしまった。
この、どこにでもあるタイトルで、僕はアンケートを取って、その情報を取り扱おうとするのではない。
僕は僕の知識においてしか話さない。
僕の体験してきた、いい女というものに、どのような条件が具わっていただろうか、ということを考えるわけだ。
それはシンプルな話なのに、前置きが長引いてしまった。
いい女なんて、人それぞれさ、と言いながら、そんなことを僕はまったく信じていない。
人それぞれだ、というのは、正しいのだが、人それぞれさ、と語ることは、何も正しくないのであった。
わたしの望みは、目の前の人の、快楽と感動の相手となること
いい女の条件とはこうだ。
人の、男の、快楽と感動に、無関心でいられない女、だ。
自分が、女であって、女であるから、男に快楽と感動を与えられる、ということに、ときめきを覚える女のことだ。
終わり。
終わってしまった。
もう少し説明を足そう。
こうして、いかにも説明をしぶっているのは、僕はこのことを説明なんかしたくないからだ。
それよりは、今もなおそのようでありつづけている少女、レディに向けて、お前は最高だ、と言いたい。
それだけしか、本当のところは、動機として持っていない。
だいいち、人のことを指して、やれいい女だとかそうでないとか、言うのはおこがましいことだ。
まして男が。
男なんて、壊れたレコードみたいに、全ての女に「お前は最高だ」と言い続けるほうが、まだマシなのである。
げんなりしながら、でも、分かりやすさを優先しよう。
まず、ハズレの例。
彼女は、なぜかは知らないが、ヘリコプターの運転免許を取ると言っていた。
すげえ、気合の入った趣味だな、と思わされたが……
講習の一回で七万円ぐらい掛かると言っていた。結局海外で取得するかも、とも。
彼女の話は多岐にわたったので、僕はつい、
「あなたの、最大の望みは、なんだろう?」
と聞いてしまった。
彼女からの答えはまともなのに、僕の締めくくりはヒドイものなので、楽しみにしていてくれ。
「望み、そうね。やっぱりゆくゆくは、結婚したいかも。子供は、そのときになったら欲しくなるのかな。今はまだ、わかんないや。それよりはね、仕事を、もっとちゃんとしたい。実力をつけて、活躍していきたいわ。あと、恋愛も、もっとたくさん体験したいって思ってる。いま、せっかくの環境があるから、もっと人に積極的に関わるようにして。あとわたし、歌とか、ダンスも、最近けっこうやってるの。両方とも、ライブの本番が近いから、他のことができないぐらい。でもそれも、もっと本格的にやっていきたいな。うん、たぶんそんなところだと思う」
「ふーん、自分のことばっかりだな」
なかなか、ヒドイ答え方をしたものだ。
まあでも、彼女の言い分が、自分のことばっかり、というのは、当たっている。単なる事実だ。
同じことを僕が問われたらどう答えるだろうか?
たぶん僕には、熱心な望みなど無いので、世界平和だ、とか、行き当たりばったりで答えるだろう。
「あと、人人の幸せと、その中で、おれだけ人の十倍幸せ」
「自分だけ、ですか」
「おうよ、十倍なんて、少なく見積もる、おれも大人になったものだなあ」
たぶんこんな感じで、まあ、へんな空気にはなるだろう。
世界平和というのは、冗談だが、冗談でもない。
核抑止の平和じゃなくて、
――銃口を、どこに向けたらいいか、わからなくなった!
と、アメリカ大統領がゲラゲラ笑い出し、ついで議会もゲラゲラ笑い出したら、ああ、素敵だ、と僕は喜ぶだろう。
話が行き過ぎたので元に戻そう。
いい女の条件とは?
「あなたの、最大の望みは、なんだろう?」
「あなたを、いかせること、あなたを、気持ちよくさせることに、決まっているじゃない、言わせないでよ」
こう答えるほうがいい女だ。
どうだ、この当たり前すぎる答えは。
このレディの答えについて、少なくとも、「自分のことばっかりだな」とは言えない。
ヘリコプターを運転できるほうが、いい女さ、なんて、そんな馬鹿な話があるか。
力を失ったハリウッド映画を観すぎである。ヒッチコックから観なおせ。
いや、じっさい、テレヴィの観すぎというのは本当にあるのだ。
いい女、という像が、結局のところ、トレンディ・ドラマ(うわ懐かしい言い方)に出てくる女性タレントを土台にしてしまっている。
生活人生に熱心で、綺麗で、溌剌としていて、そして何より有能で……みたいな。
別に、トレンディ・ドラマが悪いのではなく、あれはああいうものであって、それを自分の根拠にするのがおかしい。
「情報」を根拠にして、それを「いい女だと、思う」みたいなことを、習慣的にするのがよくない。
情報は置き換えが利くから、次に、「いい女の条件とは? 二十代男性アンケート」みたいな結果を気にして、見て、ああそうかあ、ちょっとスキを作らないとモテないなあ、みたいなことをちょっと本気にする。
そんなアンケートの大半なんて、外部にアンケートを取るのでなく、社内でアンケートを取ったフリをするだけなのに……
アンケートを取るのにはすごいお金がかかるものだ。一人当たり千円以上掛かる。
インターネット上なら、気軽に、無料でアンケートに答えてくれる人もあるが、そんなところにわざわざアクセスしてアンケートに答えている奴が、どれだけヒマでこじれている奴か、という偏りを考えねばならない。
当然の一般論だが、何か知りたいことがあれば、知識のある奴に聞け。調べて出てくる情報をアテにするな。
元カノと別れて、五年経つけど、本当にいい女だった、あのとき彼女がいてくれなかったら、俺の今の人生はなかった、おれは救われたんだ、と言って憚らない男がいたら、そういう男に聞け。彼は「いい女」の知識を持っている。置き換えの利かない根拠を。
それで、訊いても、彼がまともな話してくれなかったら、それは、あなたがいい女ではないからだ。情報集めの精神で、彼から情報を得ようとしているから、彼は腹を立てて、話さない。
それはあなたの知識になる。つまり、自分は、人から大切なことを話してもらえない、鼻につく態度を持った女なのだ、ということが、その時点で置き換えの利かない知識として体験される。
彼が話してくれないのは、あなたが、役に立つ情報を得ようと、「自分のことばっかり」になっているからだ。
目の前の彼について、彼の快楽と感動になんか、まるで関心を持っていない。あなたの「最大の望み」は、自分に役立つ何かを引き出して、持って帰ってウヒヒすることであって、彼のことなんかどうでもよいのである。
――思い切って、自白してみたら?
なんとなく、不意にこんな文言を置いてみた。
(急に全ての話をやめたくなった、憂鬱だ)
本当の、本当に、という心地で……本当の、本当にだ。
自分は、目の前の誰かの、快楽と感動を、最優先に思ったことがあるか。そんなことが普段あるか?
そんなこと、実は、一度も思ったことがありません、えへへ、という人は、少なくないんじゃないのか。
人間は、興味のあること、関心のあることを、目の前に置いていたら、ポカーンとはしない。うきうき、するものだ。
自分は、女だから、この人に、快楽と感動を与えられる、ということで、うきうきしていなかったとしたら、それは彼の快楽や感動に何の関心も持っていないのだ。
だからポカーンとする。
そんなもの、良し悪しの以前に、事実だからしょうがない。
いい女というのに、年齢なんてほとんど関係ない。
十六歳の少女が、待ち合わせで落ち合うなり、恥ずかしそうに、耳打ちを要求する。
――あの、今日、口の中に、口内炎が出来ていて、その、上手にできないと思うんですが、いいですか? 来てもらってから、今さら言うのは、ずるいですけど……
そう言って、申し訳なさそうに、けれども、抱いてほしい、愛し合いたい、自分にそれをさせてほしい、という、燃える眼差しを素直に向けてくる。
「お前、まじかよ」
なんていいコだ、いい女だ、と、ショックを受ける。
いい女が男にショックを与えないなんてことはありえない。
男は、どちらをいい女と選ぶか。
活発な女の運転するヘリコプターに乗り、ハイな気分になり、歌とダンスの発表会を見せられ、聴かされ、うんまあこういうホールの空気ってやっぱりいいよね、ワインでも飲みにいこうか、という具合になるのと、健気な少女の秘密の耳打ちを聞くのとでは、どちらを我が身に体験したいか。
そんな女の子いるわけないでしょ、という声はありうる。むしろ男の側から、そんな女いるわけねえよ、というのもある。
それはだから、知識の差だ。四年間、この街には吉野家の牛丼しか無いという知識を持っていた人もいたわけだから。その知識は、それぞれにおいて間違ってはいない。
間違ってはいないからこそ、僕も僕の体験と知識を裏切って話すわけにはいかない。
少女は僕の快楽と感動に自分を供することを、まるで当たり前のように、そして喜びのように、捉えていた。僕はひたすらそれに浴しただけだ。こんな少女に、食事ぐらいオゴらない男なんていない。口内炎に痛くないものを、何でも食わせてやりたいと思う。
そういうとき、もはや、オゴるとか、どっちが会計するとか、思わないものだ。どっちがどう支払っても同じ。自分の分の会計と、彼女の分の会計がある、という感覚がない。それは一緒にいるということだろう。
こんな、高そうな食事を、いいんですか、と少女は恐縮する。こちらは、いいよ、とは思わず、「そんなことはどうでもいいだろ」と感じる。もっと重大なものがゴリゴリあるのだから。戦場で兵士が吸う煙草が、吸いすぎを気にさせないように、気にならない。こいつと一緒にいる、という時間だけが、気だるく、美しく、貴重に過ぎていく。お互いの、どこが好き、とか、そういうことも問題ではない。恋、とか、恋人、とか、そういうことでも最早ない。彼女がいい女である証拠は、むしろその別れ際にやってくる。無性に湧き上がる別れがたさ。この時間がこのまま永遠に続けばいいのに、世界って腹立つなあ、と感じる。
いい女とはそういうものだ。それ「だけ」ではないが、そういうところを持っている。
これは僕の体験と、僕の知識で、僕としては置き換えようのないものなので、言い争いの種にしないでね。
近年の、女性の自己実現の思想においては、こういう「いい女」の知識は、受け取られないかもしれない。単に、むかつく、と言われそうな……。その仕組みはよくわかる。自分で言うのも馬鹿みたいだが、これでは男に都合がよすぎるからだ。
男に都合がよすぎるのを、むかつく、というのは、つまり、男が根本的に嫌いなのだと思うが、あまり難しくしてもしょうがないだろう。僕は僕の体験と知識からしか話せない。少なくとも、僕の体験してきた中では、どっちがどう都合がいいとか、その「都合」という概念が湧くこと自体なかった。二人とも、その時間を幸福に過ごしたのだから、別に周囲への問題はあるまい。
いい女は、幸せでなくては、いい女でありえないし、彼女の場合、そうして僕の快楽と感動の相手をするのが、彼女の幸福だったようだから、しょうがないだろう。
「いい女」ということで、あなたが張り合い、勝負しなくてはならないのは、その十六歳の健気な少女に対してだから、こいつは手ごわい。
かといって、ここから逃げてしまえば、あなたは自分の彼氏が、本当にいい女には出会いませんようにと、願い続け、またそれなりに工作もし、彼を騙し続けるしかなくなるので、そういうのは暗くてよくない。
もっと簡単なことだ。
そうだな、とりあえず、
「わたしの望みは、目の前の人の、快楽と感動の相手となること」
と、マシーンのように思い込め。それをしばらく続けていれば、数ヵ月後には、その発想の仕組みがそれなりに自分の身に付いてくる。
自分に、その才能、誰かに快楽と感動を与えられる才能が、もともと具わっているということは、じつは偉大なことだ。
それに気づけば、その才能において自己を活躍させることに、ときめきがあるのは当然と、自然に信じられるようになる。
僕の言いようが、一部の女性に、むかつく、というのはわかる。
そんなの、男に都合いいばっかりじゃない、と、汚らしく言ってやりたい気持ちはよくわかる。
が、僕のことなどどうでもよいのだ。
同じ、その汚らしい言い方を、十六歳の健気な少女に言えるかというと、言えないはずだ。そこにミソがある。せっかく、純粋無垢に、愛を与えることに喜びを覚えて生きている少女を、踏み潰したいとは思わないだろう。
それはつまり、あなた自身、その少女をいい女だと認めていることによる。せっかくのいい女を、踏み潰したくないのだ。
だから、そこはよくよく見ると、僕の示した「いい女の条件」に、反発しているのでは本当はなくて、それを僕が言うことで、僕が嫌いか、男そのものが嫌いかということが、立ち上がってしまうだけだ。
女にだって、抱きしめたくなるような、いい女というのはいるはず。
ヘリコプターを運転されても、すごーい、というだけで、抱きしめたいとは思わない。
男も同じだ、誰を抱きしめたく感じるかは。
いい女は、男にとっても、女にとっても、世界の宝というわけで……
僕などは、ウヘヘヘヘというだけの、馬の骨だから、どうでもいい。
相手にするな。
少しすっきりしてきたな。
僕が、酔っ払ってもいないのに、レディに、うるせえ黙れ、と言うことがある。
お前のことはどうでもいいから、おれを気持ちよくさせるために付き合え、出て来い、と言う。
どうだこのサイテーぶりは。
本来、ヘリコプター女にも、そう言ってやるべきだった。
そうしなかったのは、まったく僕が、冷血漢だったと思う。
石を投げられるのを覚悟で、この僕のサイテーぶりは、むしろ女を、いい女にする、いい女に育てる、と言ってしまおう。
少なくとも、そんなサイテーなことを言う奴は、そんなにたくさんいない、ということぐらいは、自信を持っていいだろう。
「うるせえ黙れ、おれを気持ちよくさせるために付き合え、出て来い」
「うん」
このように、一撃で、いい女が出来上がってしまう。
それで彼女が、
「きたよ」
と微笑んでしまったら、どうしたらいいだろうな。
僕は知識によって話すしかなく、それがいい女だと「思う」とは話していない。
胸に突き刺さるだけだ。その突き刺さった体験と、突き刺さるものですよ、という知識について話している。
好きな人にならねえ、とか、オバハンに典型の言い方にハマったらだめだよ。
栄光の知識
人は体験を求めている。体験そのものを求めているし、それはわかりやすいが、実はそれ以上に、体験から得られる知識を求めている。
自分を励まし、満たす、置き換えの聞かない知識、自己の「根拠」を、手に入れることを求めている。
何十人と、女と付き合ったけど、けっきょく女ってさあ……という、口ぶりの男を見よ。
こんな男について、経験が豊かだとは、誰も思わない。
彼の得た知識は、彼を励ましていないし、満たしていない。それどころか、失意させている。
そうではない、体験というのは、栄光の知識を得るために、経るものなのに、それが得られなかったなら、いくら数だけ多くてもハズレだ。
経験豊富を自称するオバサンの話を、誰も聞きたがらない、正当な理由がこれだ。「けっきょく損をするのは女なんだから」というふうの、オバサンは、けっきょく栄光の知識を手に入れることができなかった。
それで、もうすることがないから、人に有為な情報を振る舞って、自分の存在価値を……と発想するのだが、正直、要らない。
誰がそのオバサンを、抱きしめたいもんか、という一点で、判断は完了するだろう。
真に受けたら、あなたもそうなっちゃうよ。
あなたは、情報を集めて、何かを「こう思う」ということに頑張るのではなく、そんなことをしてたらブスになるからね、何事かを体験しなくてはならない。
しかも、体験すればいいだけではない。
栄光の知識を得られなければ、体験は失敗だ。
栄光の知識を、置き換えの利かない、自己の根拠にするのだ。
ヘリコプターを運転しても、もちろんいいけれど、それだけで栄光の知識は得られない。
自分のことばっかりでは。
栄光の知識。何がそれを与えるのかは、限定はできないけれど、目の前の人に快楽と感動を与えてゆく経験は、本当にあなたに栄光の知識を与え得ないだろうか?
[了]