No.259 少女は挑戦暗香を吸う
たとえばおばさま向けの雑誌に、「ガーデニングに挑戦!」と書いてあるが、これはおかしい。
ガーデニングと戦うことはできない。
「乗馬」と戦うこともできないし、「手編み」と戦うこともできない。
「この馬と戦う」ということはできる。
ケンカするのではなく、向き合い、戦いを挑み、何かしらの決着へ至ることはできる。
諦めたり、乗りこなしたり、なにを決着というかは定かではないが、決着はある。
「ガーデニング」には、決着がないので、挑戦はできない。
知恵の輪には挑戦できる。「解けた!」となるか、「無理だ」と投げ出すか、決着はある。
意外にそういう遊びはあるものだ。たとえばジクソーパズルなんかがそう。バラバラになったピースを、全て組み合わせられるか? という戦い。
競争ではないし、戦闘でもないけれども、戦いはある。「できた!」という決着か、「やーめた」という決着に向かって。
パブリックなものとしては、ゴルフなんかがそうだ。
ゴルフには、ホールごとに規定打数がある。Par4、とか書いてあるのがそうだ。
「4打でカップインできますか?」と。
他のプレイヤーと競う以前に、コースそのものと戦う。ホールごとに決着をつけていき、トータルでまた決着がつく。
いかにもイギリスの遊びという感じだ。
マラソンなんかもそうで、競争、レースとして見る以前に、このコースを制限時間内に走りきれますか、という戦いがある。
そういったものには、「挑戦」できる。
陶芸に挑戦、ということはできない。
陶芸に「挑戦」する人は、そこで何かの決着を得ようとしている人で、それはもう陶芸家だ。
陶芸家が駄作を叩き割るのは、自分が決着として敗北を認めたからである。
アルピニストがマッターホルン登頂に「挑戦」するのは、やはりその登頂で決着がつくからだ。
そうして、人が決着をつけにいくとき、人はそれを「趣味」とは呼ばない。
決着をつけない全てのことは、趣味と呼ぶべきだろう。
だから、「ガーデニングに挑戦」というのは、やはりおかしくて、それはガーデニングが悪いのではなく、挑戦という語を使うから悪い。
僕がガーデニングを馬鹿にしているのではなく、向こうが挑戦を馬鹿にしているのだ。
まあ、だからといって、他に適当な書き方もなさそうだけれど……
とにかく、決着をつけにいけよ、と。
挑戦するというのは、そういうことだからだ。
なかなかシビアで、ハードである。
たとえば、大学生が就職面接に落ちると、よく言う。
「あんな10分間の問答で、他人の何がわかるもんか」
と。
それは、正しい。正しいし、賢い。
が、その発想は、決して持ってはいけない。正しいけれど、間違っているのだ。
それは挑戦する者が持つ発想ではないから。
「企業で生産活動をするのに有用な人材を選抜する方法として……」と言い始めると、賢いし、正しいのだが、間違っている。
そのことを人事部長が考えて、やり方を変えよう、と、決着をつけにいくなら挑戦だが、単にブーイングするだけでは挑戦ではない。
挑戦というのはこうだ。
「では10分間の面接を行います」
「いえ、3分で結構です。3分で納得させてみせます」
これは挑戦している。3分後には何かしらの決着がついているだろう。
プロゴルファーが、Par4のホールについて、「いや、3打で十分だ」と、実力で証明してみせるように、3分で納得させるのだ。
とはいえもちろん、それでウンコ大学卒では、電通に入れたりはしない。
それは、挑戦してきた実績の証拠が弱いからであって、学歴の問題ではない。
面接時間が10分でなく、1440分あれば、自分のことを語りつくして、評価を得られる人は、ひょっとしたらいるのかもしれない。
いや、どうなんだろう、学生の側に、自己PRの時間を、自ら設定させたらどうなるだろうな。
一時間ずっと、熱を保って何かを語り続けて、説得力を持たせるというのは、講演会が出来るレベルであって、逆に難しいように思う。
趣味で手品をしている人の中には、腕前はプロ級だ、と見える人もいるけれど、15分の実演がせいぜいで、一時間のショーは作れない。
話が逸れてしまったが、挑戦とは、決着をつけにいくということだ。
そして人は挑戦しているとき、あまり余計なことを、四の五の考えないものである。
挑戦するというのは、素晴らしいことなので、全ての差出口を粉砕する。
「なんのためにわざわざフランスに行くんだよ」
「わたしの挑戦だからよ?」
挑戦と言われてしまっては手も足も出ない。
――何をしに行く?
――決着をつけにいくのよ、決まってるじゃない?
これはもうどうしようもない。
僕は努力も仕事もきらいだが、「挑戦」だけは否定する気にならない。
仕事の中に挑戦が見つかったなら、それはうらやましいことだと思う。
頑張らなくちゃ、みたいなのは、人を神経症に追い込むから、きらいだが、挑戦の道筋として努力しているなら、引き下がるしかない。
人は、「挑戦」しているとき、四の五の考えないから、それを努力とは意識していないけれども。
誰にでも、青春の記憶があると思う。
いわゆる、青春の香気にあふれていて……というが、間違いだ。
あの香気は、青春のせいではなく、挑戦のせいだ。
あのころは、しゃにむに頑張っていたなあ……ではなく、何かに挑戦していたのだ。
だから、ある香りを吸っていた。
まだ二十歳前の僕は、大学の厳(いかめ)しい建物の、構造のなかに隠蔽されたような、それでいて奥は啓けていた、文学部の図書館で、ジグムント・フロイトの全集を一年掛かりで読んだけれども、そのとき四月から五月にかけての桜の若葉が陽光に透けるうつくしさを、網膜に灼き付けることになって、同時にすさまじい濃密さの「世界」の匂いを鼻腔に吸い取っていたのは、青春のせいではなくて、挑戦のせいだったのだ。
フロイトの全集は、僕の前に立ちはだかり、僕に「挑戦」を要求した。
連続する講義を文字に起こした全集の、章ごとの冒頭に、必ず「皆さん!」と語りかける肉体の声、あの逞しいゲルマンの声が、――こんにちは、どうぞ決着をつけましょう、と僕を挑発したのだ。
あんなもの、「挑戦」するつもりなしに、未成年の誰が読めるか。
昔の人が、深く勉強していて、その勉強も血肉に取り込んでいたのは、娯楽が全然なくて、挑戦するぐらいしかすることがなかったのだと思う。
「皆さん!」と、またゲルマンの、深層心理の講義が始まる、それには実際、僕はしがみついていくしかない心地がしていた。
でも全部読んだぞ。ナナメ読みじゃなく。
挑戦といえば、何かしら挑戦して生きてきたわけで、今ある僕は、経験の上にあるのではなく、本当は挑戦の上にあるのだ。
無数の決着の上に今の自分がある。
もし、何にも挑戦せず、何の決着も重ねずに生きてきたなら、どうなったのか、そんなことは恐ろしくて考える気にもならない。
ところで、このことを、誰でも知っているのか、そうでないか、わからないのだが、挑戦というのは本当に世界観を変える。
世界観を、変えよう、というのではなく、勝手に変わってしまうのだ。
それは何というか、挑戦して生きているのと、挑戦せずに生きているのとでは、まったく別の世界を生きているというか、別の地球があるような感触だ。
ずばり言えば、挑戦している間しか、世界というのは存在しないのである。
これはまるで、物理的か化学的かの、法則や反応があるかのように、まったく外部的にガラリと変化する。
自分の心境が変化するのでなく、世界の様相のほうが変化するのだ。
風が実在しはじめる。風なんてどこにでも吹いているが、そうではない。
風が、「実在」し始めて、その風は、空気ではないのだ。
「世界」の気化した分子なのである。風というのは、自分がその洪水に浸されるようなのである。気化した世界分子が肌を撫でつけて去っていく。
それが、飽くことなく、次から次に、無尽に飛んでくる。ウワーと立ち尽くしてしまう。
このことが、なぜかはわからないが、自分が「挑戦」を始めたときだけ、起こってくる。
それを、感じるようになる、というのは適切でなく、実体験としては、それが外部的に起こるのである。
だから、「挑戦」はいいのだ。
「挑戦」を失って、夢の外形だけ残ったら、それはとんでもない荷物になって、しんどい。
がんばらなくちゃ、と思わされて、でも挑戦も決着もないものだから、神経症になる。
それなら、夢なんか無いほうがいい、と思えるが、夢がなかったら、こんどは生活苦しか無いわけで、それはいくら娯楽でごまかしたって、結局しんどい。
「挑戦」は、素晴らしいし、選択肢としても、「挑戦する」しかないのだ。
挑戦しよう、と、ぼんやり思って、挑戦が始まるわけではないけれども……
人は挑戦しているとき、四の五の考えないので、それを「挑戦だ」とはあまり思っていない。忘れている。
気化した世界分子はまだ鼻腔にやってこない。
忘れたころに、といってもすぐだけど、やってきて、窓を開けた瞬間に、「あ」となる。
おれはいま、「挑戦」してたんだ、と気づかされる。
ウワーと立ち尽くす感じに、やはりなって、ああこの香りは、いったいどこから……と気が遠くなる。
どこからともなくやってくる香りのことを、暗香と言う。
***
女の子はまったく、恋あいに挑戦すればいいと思う。
何事についても、意識する、というのは、決まって間違いだけれど、どうせ意識するなら、「恋愛」ではなく、「挑戦」を意識するほうがいい。
「ガーデニングに挑戦!」が馬鹿らしいみたいに、「恋愛に挑戦!」というのでは馬鹿らしい。
なぜ馬鹿らしくなるかというと、「恋愛」というような抽象概念には、決着のつけようがないからだ。
ガーデニングと同じだ。
決着のつけ方はいくつかある。
少女は、生育し、胸が膨らんで、初潮を得て、性交と受胎が可能になり、努力しなくてもオスをひたすらひきつける、という才能を開花させるようになる。
まずこの、自分がメスであるということ、女であるということに、決着をつける、ということがある。
男のほうは、アホなので、知能的にではなく生命体そのものがアホな造りなので、あまりこういうことがない。
いや、知能的にもアホかな……
まあそれはいい。
恋あいについての、決着のつけかたは、女として、「男の人と決着をつけよう」と捉える、という方法がある。
それはもちろん、特定の誰かについて、「あの人と決着をつけよう」になってもいい。
関わる男のうち、一人目の男を「1番ホール」として、ホールってどちらかというと女性だけど、下品な話はやめて、その1番ホールに挑戦する。
どう決着がつくのかは、定かではない。けれども「挑戦」したら、何かしら決着はつく。
挑戦というのは、それ自体が素晴らしいものなので、「あの人には、かなわなかったなあ」となっても素晴らしいし、「わたしの相手ではなかったわね、悪いことしたかしら」となっても素晴らしい。
挑戦するというのは、戦いだけれども、戦闘することでも、戦争することでもない。
ケンカしろということではない、ケンカといえば、ゴルフコースに放火するようなものだ。
挑戦するというのはたとえば、彼があなたの胸を揉んで、あなたが彼の頬をバシーンとやったのに、
「それでさあ、おれはお前にね……」
と男がまったく動じずに笑っていたら、「あ、負けた」と感じるだろうという、そういう戦いのことだ。
あなたは挑戦の結果、「あ、負けた」ということで、決着がついたので、素晴らしいのだ。
あるいは逆に、
「ボクは、キミのことを、真剣に、本気で……」
「じゃ、抱いたら」
「ウー?」
「もういいよね、ばいばい。あと鼻毛出てるよ」
というふうに、決着をつけて、ジュースを飲みながら帰ったら、すごくおいしい、ということだ。
もちろん鼻毛が出ているなんてのは口からデマカセなのであった。
注目点のひとつは、そのように、挑戦というのは、何か自分でわしづかみにしうる対象でなくてはならない、ということだ。
フロイトの全集はわしづかみにできるし、男だってわしづかみにできるし、「あの人」だってわしづかみにできる。
「恋愛」というのは、抽象概念だから、わしづかみにはできない。だから「恋愛に挑戦」ではなく、「男に挑戦」か「あの人に挑戦」という方向になる、ということだ。
もっと現実的に言うと、どこかのシーンで、「こいつに、この人に、わたし挑戦する」ということになる。
戦いを挑むのだ。
挑戦というのは、別に負けたらサイアクというのではないので、遠慮せず、手ごわいものに挑戦するべきだ。
負けたらサイアクなのは戦争であって、挑戦するのが怖いという人は、実はこっそり戦争の発想の持ち主だったりするから、気をつけて、建設的な発想をすることだ。
別に男をひっぱたいてもかまわないが、そこに挑戦者の魂が乗っていなければ、ただの暴行である。
挑戦なんて、自信ないから……という人に限って、善良そうに見えて、発想が戦争屋だから怖がっているのだし、内心で「死ね」という言葉を使っているし、実際には日常的に彼氏と夫婦喧嘩をするのが当たり前、みたいになる。
つまり、チャレンジング・スピリットの欠如が、救いのない夫婦喧嘩を生むのであって、だからおばさんのほうが夫婦喧嘩に熱心で、と、こういう話は暗くなるのでやめよう。
注目点の二つ目は、挑戦というのは、一人で出来るし、一人でするしかない、ということだ。
自分以外の誰が、「わたしの挑戦」を設定できるか、できるわけがない。
恋あいというと、相手がいないとできません、という気がするが、そうではない。恋あいへの「挑戦」というのは、自分一人で始めるものだ。よく想像しろ。「男に挑戦する」「あの人に挑戦する」「この人に、わたし挑戦する」というのは、全部自分で決めて、自分で挑戦するしかない。
だから孤独な戦いになる。
ただし、そのぶん誰に憚(はばか)ることもない。
「これはわたしの挑戦だから」と、これは全ての差出口を粉砕するのである。
挑戦は、自分一人のものなので、他人にその理解を求めたり、「あなたに挑戦させて」とか言い出したりしたら、それはもう挑戦ではない。
降りたのだ。
プレッシャーに負け、自分のカードを開示した時点で、挑戦は終了である。
カードの全てを、伏せ続けるのは、現実的ではないにしても、最後の何枚かは自分だけで持ち続けるしかない。
「わかりあいっこ」は、やめようね。
そんなことしなくても、挑戦する者同士は、それをする者同士だとして、わかりあえる。
挑戦そのものが共有されるわけはないが、お互いに何かに「挑戦」をしている同士だというのはわかりあえる。
それはお互いに暗香がするからである。
最後、注目点の三つ目は、言わずもがなだけれど、恋愛にすり寄ったりしないことだ。
挑戦だというのに、すり寄ってどうする。
すり寄るなんて、ありえない……という話なのだが、割とこれは多いし、何なら流行している。
ボクたち、ワタシたち、恋愛しちゃおっか、ウフッ、みたいなものだ。これは問答無用で、「やめろ!」ということになる。
人は人に、指図するべきではないが、それを越えて、「やめろ!」となる。
制止した側が拍手されるぐらいのシロモノである。
すり寄るのはやめよう。
男と女は、挑戦しあう点で、エネミーではないが、ライバルなのだ。
本来ライバル同士であるべきが、薄汚い算段によって互いにすり寄り、利益を供与しあうことを、「談合」という。
ゼネコンとか、政治家とか、よくやっているアレだ。
青春真っ只中の女の子が、そんなことをしてどうなる、やめろ。
男ってさあ、とか、男なんて所詮ねえ、とか、そういうのもやめよう。
それは、
「10分間の面接なんかでさあ」
というのと同じだ。
いくら内容が正しくて、賢くても、挑戦者でないという時点で、間違いなのだ。
キスするにはデートが三回ぐらい必要よ、といわれたら、
「いえ、3分で結構です。3分で納得させてみせます」
と言え。
それが挑戦するということだから。
恋愛なんてどうでもいいし、男なんてどうでもいい。それはまったく、どうでもいいのだ。
そのどうでもいいことに、声を荒げたり、気分を動揺させるのがよくない。
そのどうでもいいことに、「うん、今は、恋愛は、なくていいかな」とか、バチバチに武装するからよくない。
どうでもいいなら、余裕があるはずで、余裕があるなら、決着をつけにいけ。
図書館には、たくさん本があって素敵ね、どれに挑戦するかじっくり選びたいわ……というのでは、絶対にフロイト全集は読まないし、結局どれにも手をつけずに逃げるので、むしろ逃げるための熟練した小芝居なので、いちいち選ぶな。
挑戦はすべからく、素晴らしいものなので、選ばず、無数に重ねればいいのだ。
無数の挑戦と、無数の決着の上に、自分が成り立つのだから、挑戦しにいけ。
余裕をブッこいているのだから、次々に挑戦して、次々に勝利の決着を得ていけばいいのである。
挑戦していない全ての時間はどれだけ忙しくてもヒマだ。
なぜあなたは短いスカートを穿いて男を誘惑せねばならないか?
それはすり寄るためではない。
気化した世界分子を鼻腔に吸い、ウワーと立ち尽くすためなのである。
ではでは、またね、おれとも、また遊んでね……
[了]