No.261 二〇一二年の地下水
とんでもないことに気づいてしまった。
気づかされてしまった、というべきか。
ある夜僕は、盆に乗せた途端猫の餌めいて見えたシラー種の葡萄酒を飲み、火鉢の熱気に頬を赤くして、居間の隅に直角記号のようになり眠っていた。酒精が血中に濁流となり、睡眠は混沌であった。目覚める前にあるとてつもない深さから来る音を聴いた。鍾乳洞のような地の底に湖があり、そこに水滴がひとつ垂れ落ちる音。僕はハッとなり、強烈に打たれる心地で目覚めた。まもなくこの国に大きな選挙がやってこようとしている。
人を愛するということが……人を愛して、その愛が報われなかったとき、元あった気持ちはどこに行くのか?
それは心の奥の奥、誰も知らないようなところにゆき、水滴となって溜まっていくのだ。
それは「怒り」である。
アダルト・チルドレンという既成用語を使えば、「愛されなかったことへの怒りが溜まる」ということになる。
クラウディア・ブラックは、よくこのことに気づいたと思う。すごいことだ。
アダルト・チルドレンというのは、「子供っぽい大人」ではなく、「あのときの子供はどのような大人になるのか?」という意味だ。
もともとは、アルコール依存症の親元で育った子供が、やがて大人になったとき、どのような性質を帯びるか、という、ケースワークからの類型学だった。学術としての心理学とは違うが、その類型はあなどれない。
僕が聴きつけた水滴音にもとづけば、アダルト・チルドレン説の言いようは不十分だ。
子供が、親に愛されないと、愛されなかったことへの怒りが溜まる、というのではなく……
まず子供が、不可避の本能として、両親を全力で愛してしまう、ということがある。
その愛が報われなかったとき、応えられなかったとき、子供が親に向けた愛はどうなるのかというと、それが怒りとして蓄積するのだ。
この「怒り」は、およそ一般に思われているような、むかつくとか、腹が立つとか、粗暴になるとか、そういう類のものではない。
もっともっと奥深い、純粋なエキス化した、透明の、真水様の怒りだ。
感情的ではまったくないし、それどころか、これはもう感情と呼んでよいのかどうかさえ怪しい。
生きる意味が何なのか、というところに、直結しているような成分だ。
驚くべきは、愛と怒りが同じ成分だというところにある。
その前に、僕は先立って、ひとつのことを断言するべきように感じる。
愛して、報われず、愛されなかったとき、それが怒りとなって地底湖に溜まっていくのは、正常だ。
それが正常なのだ。
それをおかしいといって責めるべきではない。
人間の心は、もともとそういう機構なのだ。雨が降り、川に受け入れられ、海に至らなかった水滴のすべては、地中に染みこみ自由地下水となるように、行き場をなくした愛は怒りとなって溜まっていく。
それで、怒りだから凶行になるかというと、それは違う。
その次元で純粋な怒りは、静かで、愛と同じ成分だからだ。
なぜ尾崎豊は、「夜の校舎/窓ガラス/壊してまわった」と歌ったか。なぜ盗んだバイクで走り出す十五の夜を彼は肯定的に叫んだか。
愛と怒りは同じ成分のものだからだ。
尾崎豊の二十六歳での死因は、けっきょく最後までわからなかった。彼は文字通り傷だらけで死んだ。どこかでケンカでもしたのか、誰にもわからない。傷はすべて致死性のものではなく、覚醒剤の過剰摂取で肺水腫を起こしたというのが公式報告になっている。
けれども、そのような歌があり、そのような死に様があるのに、なぜ我々は彼をして、粗暴な人間だったろう、とは決して感じないのか。
彼の怒りが、愛と同じ成分のものだと、どこかで知っていたからだ。
まだこの年の締めくくりには早いだろうという引け目を覚えながら、まさに現在・現代の、この時点に立っている自分として、全てを俯瞰する心のはたらきがある。
AKBと尾崎豊では、結局何が違うのか?
適切な捨象をして……思いがけず明白なこと。尾崎はファンを愛していた。ファンに歌い、彼らがそれに呼応することを愛していた。
AKBは違うだろう。
それをもって、僕はAKBを非難するつもりはない。
ただ、彼女らは、尾崎が自分を聴きに来る人人を愛したようには、ファンを愛してはいない。
感謝はあるだろうし、大切にしているだろうし、軽蔑しているのかどうかは知らない。
が、彼女らは、尾崎がそうしたようには、ファンと愛し合わなかったし、また彼女らはパフォーマーとしてそれをする役割の類ではない。
尾崎豊だけでなく、X−JAPANにもそれはあっただろう。
古い話で、若い人はわからないと思うけれど、ごめんね。
B’zの稲葉にもそれはあっただろうし、桑田佳祐にもそれはあっただろう。
倖田來未にはなかったと思う。
倖田來未が悪いということではなく、それぞれに、やっていること、起こっていることが違うということだ。
倖田來未はきっと、ライブで、「みんな、お互いにがんばってこうなー!」「みんな、大好きやでー!」というあたりの、ノリだと思う。
それが好きな人がいて、彼女は人気者になった。
それの何が悪いわけでもない。
ただ、尾崎は、膨大な愛を人人に向け、同時に怒りの蓄積も引き受け、またそれを歌にするということをしていたのだ。
やっていることが違う。尾崎はきっと、気持ちいい、という次元で歌っていなかった。
元気のためにとか、パワーのためにとか、そういう次元でも歌っていなかった。
人を愛するために、ということでさえなかっただろう。
愛の奔騰と怒りの蓄積がどのようにも止められない人だったのだ。
その奔騰と蓄積が多数の人に受け止められて循環するのが、むしろ「自然」だったとさえ言える。それで帳尻が合う、というほどだっただろう。
ただ、その上手く行っている状態、「自然」「帳尻が合っている」という状態が、崩れたとき、尾崎はもう死ぬしかなかった。
あくまで、文学的な表現を許して言うのではあるが、尾崎自身の愛の才能が、同時に怒りの才能であり、その循環が止まったとき、怒りの蓄積で死んだのだ。
そうでなければ、ド派手な舞台装置があったわけではなかった、Gパンに白いTシャツを着て、アコースティックギター一本で、化粧も訓練もしていない笑顔で、人人をあんな洪水に巻き込めるわけがない。
X−JAPANのhideも自殺しているし、ビートルズのジョン・レノンも殺されている。
ザ・ビートルズは、音楽の才能でいえば、ジョンより圧倒的にポール・マッカートニーだ。ポールが音楽的エリートのくせに才能もずば抜けていて、もうなんというか、全方位に他者の追随を許さなかった。ビートルズの歴史は、ジョンがポールの才能に嫉妬する歴史だと、これはビートルズファンなら誰でも知っている。
けれどもジョンはインタビューに答え、その確執の中でも、「俺はポールの悪口を言うが、あいつの悪口を言っていいのは俺だけで、他の奴が言うのは許さない」と、彼の愛と怒りを告白している。そしてビートルズという存在を愛したファンは、「ビートルズはポールじゃなくてジョンなんだ」と言い続ける。
マイケルジャクソンも急逝してしまった。
膨大な量の愛を持つ人は、結果的に死んでしまうのだと、僕は判断する。膨大な愛は、膨大な怒りの蓄積も引き受けることになり、それに個体が耐え切れず、運命が死に至る。
そして、彼らの死ぬ原理が、一般のそれとは違いすぎるから、彼らの死に方は常にわれわれに「不可解」を遺す。
彼らは、多くの人に愛を届けた、のではなくて、多くの人と愛の交歓をしなければ、死んでしまう人たちだった。
だから彼らが歌うことには、生物としての正当性があった。
純粋な「音楽」としてであれば、音楽家というのは、職業的に長生きする。九十歳越えがいくらでもごろごろいて、たぶん全職業中でトップだ。
だから彼らの本質は音楽家ではなく、詩人で、さらなる本質は、膨大な愛と膨大な怒りを引き受けるしかない人たちだった。
彼らの死は、いわゆる「命数を使い果たした」というもので、一般的な寿命と違うので、我々には常に不可解に映る。
アダルト・チルドレンの類型説には説得力があるが、不十分だと僕は捉える。
愛が報われず、応えられなかったら、怒りになって蓄積するというのは、ただの事実であって、子供に限定されない。
ただ子供が特別視されるべきは、子供はその発達の過程で、選択の余地なく両親に膨大な愛を向けるからだ。
そのことを除けば、別に子供に限ったことではない。
人を愛し、報われず、応えられなかったとき、その愛は怒りとなって蓄積する。
その蓄積する地底湖は、深く深く、とうてい、我々の意識が捉えられるようなところにはない。
感じ取る、ということも、ほとんど不可能だ。そして、何か表面に影響があるかというと、ほとんどない。
けれどもそれは、確かにある。確かにあって、思いがけないところで表象化している。
怒りが溜まると、車の運転で、少しアクセルを踏みぎみになったり、酒量が増えたり、喉の焼ける風邪を引き込んだりする。
つまり自身をそっと死のほうへ押す。
死が怒りを慰めるからだ。
その他、地底湖に溜まる怒りの水滴を解消するには、思いがけない方法がある。
どうやら、祭りや、その祭りで火を焚くことなどが、営みとして深層にアプローチしている。
ふつう、そんなもの、感じ取られる次元の深さではない。
でもきっと、過去にそういう感性の天才がいて、現代まで続く様式を作り上げたのだろう、と僕は感じている。
人を愛するということが、怒りを引き受けることで、死の慰めに干渉されるようなものだとは、まったく考えたこともなかった。
たぶん、アダルト・チルドレンの専門書を読んでも、僕が今話しているようなことは載っていないし、僕はここで、パーソナリティ障害の話をするつもりもない。
ただ、報われなかった愛が、怒りになって溜まるというのは、おかしいことではなくて、正常だ。
そういうもの、なのだ。
雨が豊かで、川も豊かで、海も豊かなら、地下水も豊かで当たり前だ。
でも、できたらそれは、報われ、応えられてほしいものだ。
怒りは、あっていいんだよ。悪者じゃない。
いま何が起こっているのかを見る。
まもなく、この国で大きな選挙が始まる。
***
自己責任とか、人それぞれとか、甘えとか、ジコチューとか、言うけれども……
こういう例を考える。子供が、今日は母の日だ、ということに気づく。それで貯金箱からお金を取り出し、こっそり駅前の花屋に向かう。
「カーネーションってどれですか」
と聞く。子供はどきどきしているだろう。
「それよ」と店員が指を差す。見ると、母の日だから店頭に強く押し出されている。
せっかくなので子供はありったけ買う。赤いカーネーションを三本買った。
彼は帰り道、自転車を漕ぐ足が力むだろう。気が急いて……彼はもう、「お母さん喜んでくれるかな」という、確信のようなイメージで沸き立っている。
彼はお母さんに気に入られたいのではない。喜ばせたい、というのも少し違う。
彼は、自分がお母さんを喜ばせられるということに、興奮し、燃えているのだ。
それは愛しているという状態だ。
めちゃくちゃ「いいこと」「すてきなこと」をしていると、子供は官能まで覚えて、光の中を自転車で駈けている。
でもそこで、母親が、アルコール中毒だったらどうしよう。
二日酔いで頭が痛い。
「おかあさーん」と子供が飛び込むと、母親は横になっていて、
「なによ、あんたうっるさいわねえ!」と険悪に怒鳴る。じっさい頭痛が猛烈なのでしょうがないことだ。
子供は凍りつく。
そうして、子供が押し黙るのが、また腹立たしく感じられて、
「なによ」
と母親はまるで凄むふうに言う。
「あの、これ、母の日の」
と子供はカーネーションを差し出す。
が、母親は二日酔いでたまらない。
二日酔いだけでなく、その他にも色々あるだろう。
それで、面倒くさそうに、
「そこおいといて」
と言う。そしてまた不快に耐えて眠ろうとする。
子供は言われたとおりに、花束をそこに置き、静かに部屋を出て行こうとする。
こんなとき、子供はどう感じるか。
「ショックを受けるでしょう」「傷つくでしょう」「深く悲しむわ」「ひどい、と怒るんじゃないかしら」と、色々あると思うが、全部はずれだ。
子供は、ショックを受けるにしても、「おかあさんがしんどそう」ということにショックを受ける。確信のようにイメージしていた、おかあさんの、元気で嬉しそうな顔が、そこになかったので、それがなかったことを深く悲しむ。
自分がひどい扱いをされたとか、自分の愛が報われなかったとか、そういうふうには捉えない。
それぐらい、彼はおかあさんを愛しているのだ。大きい声をだしてしまって、おかあさんをしんどくさせた、おかあさんのしんどそうな顔、おかあさんの元気な顔がなかった……と、それが徐々に巨大な悲しさを呼び起こし、声を殺して泣く。
もし泣いているところを母親に問い詰められたら、子供はあやまる。
「ごめんなさい、おかあさんに、喜んでほしかって」
と泣いてあやまる。
それを聞いたら、おかあさんもさすがに心を痛め、まあ二日酔いも少しは抜けて、押入れから花瓶を引っ張り出して、いちおう花を飾るかもしれない。
そうして花をいちおう飾ってもらえれば、子供の、自尊心ようなものは、報われた心地になるし、なんというか、子供なりに鼻が高くなる。
僕がこういう話をしているのは、僕の洞察力によってではない。
僕は、昔のことの記憶を、再体験するように再生できる、そういう性質がある、と言ってきたはずだ。
さて、こういう一幕があったとして、彼の悲しみはいわゆる自己責任か。
母親がだらしなく見える。けれども彼女にだって辛いことはあるだろうし、酒ぐらい飲むだろう。
母親がだらしないと言ったって、彼女が「じゃあわたしの人権はどうなるのよ」と反撃に出たら、それはそれで手ごわい。
よく出来ているふうの言い方をすれば、「子供として母親に、カーネーションを贈るのはけっこうなことだが、それが必ずしも相手を喜ばせるとは限らない、それは彼の思い込みが甘かったのだ」となる。
が、これは子供の泣きっぷりや、その心のありかたを無視しているから言いえるだけで、じっさいには言えない。
母の日のカーネーションが母親を喜ばせると信じた、子供の精神は、確かに自己中心性のものかもしれない。
けれども、僕はそのとき、相手の胸倉を掴んで、暴力を前提に問い詰めたいと感じる。
「じゃあお前は、彼が、退屈そうにカーネーションを買ったほうが正しかった、と言うのか? 喜びに満ちて、光の中を駈けた彼がアホなんだ、と?」
僕はよくできた正論を信じない。子供は母親を愛する気持ちで燃え立ち、光の中を自転車で駈けてほしい。そうでなければ、彼はなんのためにこの世に生を享けたのか、意味がなくなる。
もちろんそこで、「ああ子供がバカだ」とまで言い、殴り合いに展開するような人はいない。それで、とにかく母親が悪い、アル中は最悪だってことだよ結局、と結論を出す。
不毛だ。結論はあらゆる場面で人を不毛にしかしない。
問題はそこではないのだ。彼の一日、母の日を伴った一日は、最終的には鼻高々で終わったように見える。
が、その中で、彼の母親に対する愛は、どこへ行ったのだ。彼は母親の喜ぶ顔が見たくて、またそれが自分にできると信じて燃え立った。愛だ。けれどもそれは険悪な声で踏み躙られた。そこに起きた悲しみは、彼が声を殺して泣いて、自力で解決したように見える。彼もじっさい、自分がそうして苦しんだことを、夜眠るときには覚えていないだろう。
子供の愛は行き場を失い、地下に染み込んでいった。どこかへ行ってしまっただけで、解決したわけではない。そのまま地底の奥の湖に、水滴となって落ちる。「怒り」になるのだ。
それは、何度も言うように、むかつくとか、腹が立つとか、感情的な感情としての形態を持たない。一幕を振り返ってみればわかるが、子供の情緒の中に怒りという感情は出現していない。
この「怒り」というのは、感情などより遥かに次元の深い何かとして、ただ蓄積するのだ。ウィリアム・ブレイクの詩篇が大江の声を伴って再生される。――怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって
どこまでも、子供だということで特別な庇護をしたくなる気持ちが起こるが、それは違う。では逆の場合ならどうか。祖母が孫のために、子供の日の特別な準備をする。悪くなった膝で歩き、彼の喜びそうなものを、食べ物なりおもちゃなり買って……その帰り道は、やはり悪くなった膝で、光の中を歩くだろう。彼女は孫を愛しているから。あの子の喜ぶ顔。また、それが自分にできるのだという誇らしさ、よろこび。
けれども孫は、彼は、最近タチの悪いマンガに嵌り、その無感情なふうを気取って遊ぶことに熱心かもしれない。「んん、これはまた、珍しくもないものを、買ってこられましたねえ」と。
祖母はそんなことで怒らない。むしろ、なんにせよ、孫が健康で、元気でいることを喜ぶ。自分なりに、この子を喜ばせようと準備したつもりだったけれど、やっぱり年寄りはだめねえ、と彼女は感じるかもしれない。
このとき、この何の悪気もない子供を、「お前は人の気持ちがわからんのか!」と、いきなり怒号と平手で張り倒すのは、いわゆる体罰と虐待で、悪行だろうか? 「どんなマンガを読んでもいいし、どんな遊びをするのも好きにしたらいいが、それで人の気持ちがわからないようになっていいと思ってるのか!」と。
僕には人を教育する気質がなく、たとえ子供でも、それがもし実子であったとしても、教育をしようという意志は起こらないだろう。もし殴るとしたら単に「許せない」からという一点に尽きる。別に教育の正しさなんかはどうでもよくて、僕はじっさい、こういうことには「許せない」という炎がただ起きる。議論の上で正しいとか正しくないとか言われても、僕が許せないのだから結果は同じだ。
みんなは(という呼びかけは抽象的だが)、これが「許せる」のか?
祖母はもちろん大人で、それどころか成熟したご老人だ。人それぞれ個人の自由があるから、どう受け取るかは彼の勝手であって、自分の愛が報われなくても自己責任だ。そうして愛が上手くいくと思い込むのがジコチューなんだよね、と、このおばあさんを捉えるべきか。
つまりこのおばあさんは、前もって退屈な顔で買物をして、光の中を歩くのでなく、悪くなった膝を呪いながら帰ってくるべきだったか。
それが、祖母から孫に向けてよい愛の正しいありかただ、と。
馬鹿げている。
先の例では、子供が可哀想、母親がアル中だから悪い、と言えたけれど、この例はそうはいかない。子供はまだ教育される側で、責任を問えない。
誰が悪いのか? と考えて、とにかく結論を出そうとする、その発想のはたらきは全て不毛だ。
問題は、祖母の愛は、報われなかったが、それはどこへ消えた? ということだ。
子供は親に愛されないと、愛されなかったことへの怒りが溜まる、というのは、やはり十分ではない。別に子供でなくても同じだ。祖母の愛は行き場を失って、地底湖に溜まる怒りの一滴になる。それで祖母が鬼のような顔になるかというと、ならない。祖母は怒りの感情を覚えるわけではない。これはもっと、意識の届きようのない、深い深い奥の話だ。
人を愛し、報われず、応えられなかったとき、その愛は怒りとなって蓄積する。
理屈に合っていようが、いまいが、関係ない。
人の心はそういう仕組みで出来ていて、望もうと望むまいと、これを引き受けるしかない。
愛してしまうということと、怒りを、引き受けるしかないのだ。
あなたとあなたの彼氏の場合はどうか。彼もあなたへのクリスマスプレゼントを買って、歩調を力ませ、光の中を歩いたかもしれない。彼はセンスがなくて、プレゼントはダサいかもしれないし、それ以前に、そもそも恋愛なんて流行らないかもしれない。
あなたの彼氏は、やさしくて、あなたが物憂げな振る舞いしか示さなくても、怒ったりしないだろう。じっさい、彼は怒りの感情を覚えるわけではない。彼はちゃんとわかっている。喜んでもらえるとは限らないし、あなたにはあなたのそのときの事情や気分や、いろんなことがあると。
また、そのことをもって、あなたの態度を変えろとか、愛を受け取ったら必ず喜べとか、そういうのも違う。
そんな説教じみた話をしたいのじゃないし、僕は人が意識で自己に何かを強いるのがきらいだ。
それぞれ、気持ちのままであっていい。
ただ、報われなかった愛は、解決するように見えて、解決はしないのだ。怒りとなって溜まるのである。それはときに、人を死の運命にまで押しやりさえする。最後の最後まで、当人が、その仕組みに気づけないほど、それは深い地底湖で起こる。
なんとかしてやれ、とは思わない。
そうではなく、ただこの仕組みを知っていたら、人はそれぞれ、人の心に対する感じ方が、変わるのではないかと思うのだ。
人は、人を愛してしまい、報われなかったら、深くどうしようもないところの怒りとして、静かに溜め込む。実に屈託のない、幸せそうな表情の向こうで。
それは「切ない」と、人は感じ方そのものを、つまりは人間そのものの捉え方を、変えられるのではないか?
***
子供にせよ老婆にせよ、「光の中を歩いたやつがバカ」なのか。人への愛、喜びが沸き立って歩調が力むようなことは、幻想に囚われた自己中心性の人間の醜さなのか。
そうではあるまい、と、誰もが言いうると思うが、残酷な話、我々はそれを採用している。
「光の中を歩いたやつがバカ」なのだ。
この話を続けることには、すごいためらいがある。
今たとえば、映画を観にいくとして、その楽しみに、予感に、「光の中を歩く」人がどれぐらいいるだろう? ほとんど皆無のはずだ。
もちろん、それなりに楽しみにはする。やっぱテンション上がるよね、ぐらいには感じるだろう。でもそれは光の中ではない。歩調がぐいぐい上がってしまう、という喜びの沸き立ちはない。
「まあ、映画っていってもさ」と、賢明な前提が用意されているはず。
新作の音楽CDが出る、続けて買っている単行本の新刊が出る、少年が最新作のゲームを買う、それぞれに楽しみにしてそれを買う。けれども、その発売日に、光の中を歩ける人はもういない。
代わりに、思っていたものが得られなくて、悲しくて泣いた、苦しんだ、「わたしすごい楽しみにしてたから」、という人もいなくなったけれども。
これから年末がくる。年末には、テレヴィ番組が充実するので、楽しみにしている人は多いだろう。中には好きな定番企画があって、それを特に楽しみにしている人もあるだろう。
けれども、その楽しみにしていたものが、期待はずれにだらしなくなっていて、「すごい楽しみにしてたから」と、苦しくて泣いてしまう、なんて人は、もう皆無に等しいはずだ。
本当には、皆無だなんて、僕は信じたくはないし、信じているわけでもないのだけれど……
とはいえ、もしそうして光の中を歩く人がいたとしたら、現在の全ては、その人にとってつらすぎる。どれだけ裏切られ、どれだけ泣かなくてはならないか。
そんなことは、意識的に努力したって、不可能だし、不可能だったとしても、誰も責められたものではない。
我々はいま、何をしているのか。
愛をやめているのだ。
それをやめないと、個体がもう保たないから。
地底湖にたまる怒りが、あまりに膨大に、一方的に増えるので、危険だ、と察知して、愛そのものをやめているのだ。
愛と怒りは同じものだ。
愛をやめれば、怒りもやめることができる。
人が何かを愛したとき、その愛の行方は二通りだ。報われれば、愛のよろこびとして蒸散する。報われなければ、地底湖に水滴となり、怒りとなって溜まる。
今の状況で、自分が何かを愛したら、蒸散より地下水になるほうが遥かに多い。地底湖はただちに危険水位まで上昇する。そのことを予感している。
このことは、危険だが、あなた自身で確認することもできる。
レンタル屋でいいので、DVDのひとつを、適当に手に取ってみる。そして、自分の奥底、一番根っこの素直な心に、許可を与えてみたらいい。
あなたはそれを、愛そうとしてしまう。愛せると信じて、愛せるものに出会える喜びに、沸き立とうとしてしまう。
だってそこにあるのは、映画だからね。
人間は、砂浜の石さえ、油断すると愛してしまうのに、映画の魅力的なパッケージを見せ付けられたら、愛さないわけがない。
そういうものなのだ。愛するという機能、愛してしまうという機能があるのだ。
子供が、油断していると、母の日、カーネーションと聞いただけで、おかあさんの喜ぶ顔を確信してしまうように。
すっごくすてきなことがある、と、心が輝いてしまうのだ。歩調を力ませ、映画を胸元に抱えて、半ば走るふうに帰ってしまう。
これは、あなた自身で確認できる作業だけど、危険な作業だ。
もし、自分がそれを、手に取った映画のDVD一本さえも、愛そうとしてしまうことに気づいたら、それがなんと切ないことか、と気づいてしまう。
そして、それを前もって、きっと大して面白くないだろうと、落胆に退屈な顔をしてからしか観られないということが、どれほど残酷なことかと、気づいてしまう。
それは本当に危険な作業だ。やってみろ、とはちょっと言えない。
でも本当にはそうなのだ。映画の一本、一冊の本、一篇の読みきりマンガ、一本の新作ゲーム、一個のプレゼント、一つの店、一品の料理、そして一人の人について、ある一日会うだけのことについてまで、人は実は、愛そうとしてしまう。それら全てについて、光の中を歩けるのだ。
だから世界は、世界であるだけで光っていたし、自分が生きていることは、それだけで光に包まれていた。つらいこともあるけれど、そんなことで消えるような、それは軟弱な光ではない。二つ三つ、あるいは四つ五つと、愛したものが裏切られたとして、向けた愛がどうしようもない地底湖の水滴に怒りとなって落ちたとして、どうということもなかった。人は強くあろうとするだろう。
けれども、それが数千、数万と連続するというのでは話が違う。それはもう、向けた愛の全てがただ怒りになる、全て地底湖にいく、とみなさざるを得ない状態だ。
怒りは悪いものではない。愛が報われなかったとき、怒りとなって溜まるのは正常だ。それはしょうがないことだけれど、それでもあくまで、怒りを溜めるためにわれわれは愛するということをするのではない。
蛇口をひねったとき、水の数滴は、蛇口でないどこかへ漏れたりするだろう。それはしょうがない。
けれども、99%がどこか漏れるというのでは、それはもう蛇口ではない。その水道はもう使うべきではない。漏れた水はどこに溜まるかわからず、それでも家屋の土台を腐食させたりするのだから、使うだけ危険だ。
怒りは悪いものではない。怒りが溜まるのを「おかしい」と責めるべきではない。それは正常なことだ。
僕には今、何物も責めるつもりがない。
ただ、気づいてしまったのだ。愛が報われなかったとき、それは怒りの水滴となって、静かに溜まるのだということを。
それは感情的なものではない。怒る、腹が立つ、むかつく、苦しい、そういったものではない。恨みが起こるものでもない。
いくらでも抱え込めるなら、抱え込みたいと思う。99%が怒りの水滴になるなら、それでかまわない、と思う。
こんなもの、いくら溜まっても、なんの影響もない、なにしろ地底深くの湖のことだ。
だが、そう都合よくいくものではないらしい。
僕はいま、その地下水を解消できる方法を、個人的な営みとして、いくつか見つけはじめている。が、これは個人的なものなので、人それぞれで違うのだろう。
それを、人はそれぞれ、いつの間にかやっていたりするし、まったくやっていない人もいる。
僕はまだ、それについて言を述べられるほど、その営みの経験を豊かには持っていない。
葡萄酒と熾火の混沌とした眠りの中で、地底湖に水滴が落ちる、その音を聴いたとき、僕にあったのは、純粋な驚きと、現象の深さへの畏怖のみだった。
まるで少年が、長い冒険の末に、世界の仕組みの根幹を、ついに目撃した心地。
「あーっ! 愛は、ここまで降りてきて、怒りになって溜まるんだ!」
***
僕は、人を「がっかり」させるのが苦手だ。
前にもきっと、そんな話はしていると思う。
この「苦手」というのは、実は、僕の内側では、「許せない」という声なのだ。
しかもその「許せない」というのが、判断において、というのではない。
異論を聞く余地などまったく持たない、ひたすらの「許せない」なのだ。
僕の直接の友人に聞けばわかる。この点だけに関しては、「ああ、それはマジですね」と、彼らは知っている。
なぜ「許せない」のかは、僕にもわからない。理由をつけることはできるけれど、理由なんてウソで、意識が理由を追跡するよりはるかに早く、その「許せない」は屹立してしまう。
判断としての「許せない」は、たとえば戦争であるとか、汚職であるとか、性犯罪であるとかだ。
通りすがりに、女性の身体にいたずらをしていく、そういうのは許せない。
が、正直に言うと、僕の「許せない」の機構はもうひとつ、まったく別にある。
少女が、何もない日ではなく、これから大好きな人と初めてデートに行く、おめかしをしてきた、どきどきする、喜んでくれるかな、と必死でときめいていたとして、その少女にすれ違いざまにいたずらする奴がいたら、僕はそれが「許せない」。
単なる性犯罪を見かけたら、僕は男を捕まえて、警察に突き出すだろう。
が、もし少女の大切なときめきを、「がっかり」にする奴がいたら、僕は自分で直接彼に刑罰を加える発想が起こる。
そんなことが、正しいとか正しくないとか、そんな議論はどうでもよくて……そりゃそうだ、どんな議論があっても、僕は「許せない」のだから、結果は同じだ。
しかも、その「許せない」が、僕の判断でもなんでもなくて、初めから僕自身に具わっている。
これについて聞かれても、これまで僕自身ほとんど答えられなかった。答えがあるなら僕が聞きたいほどだった。なぜ自分はこういうことが「許せない」のかと。
もう時効だから言うが、僕もまだガキだったころ、三人組に飛びかかって、一人を叩きのめしたことがあった。それもコンビニの店内でだ。
そいつが、子猫が食べようとしていた、おやつのチクワをわざわざ踏み躙ったからである。
いわゆる不良っぽい奴だったから、自分を悪ぶって鼓舞し、遊んでいたのだろう。
チクワを踏み躙って、ワルでござい、みたいにコンビニに入っていったとき、僕はそのまま店内に踊りこみ、そいつにそのまま殴りかかった。男は転倒したので、僕は半ば彼に馬乗りになった。
そして、そういうとき、人間は恐ろしいものである。とっさに、自分の目が武器を探した。そして陳列にあった缶詰を掴んで、その缶詰を力任せにして男の顔面を殴りつけた。
それはもう、殴られる男も、わけがわからないし、残る二人も、わけがわからない。仲間がやられているのに、あまりに突然のことで呆然としていた。そしてなぜだろう、女性もいたのに、誰も悲鳴を上げなかった。
僕は「天誅」が済んだので、鼻息を荒くしてコンビニを出た。そのあたりまではよかったが、後日になって鼻息が止むと、少し自分が不気味でもあった。
どう考えたってやりすぎだ。しかも、そんなことをして子猫のエサが旨くなるわけでもない。客観的にはただの凶行だ。感触として、自分に清潔感も覚えられなかった。僕が言っても説得力がないが、いかなる理由があれ、このような犯罪行為はするべきでない。
僕の凶行については、もう時効だし、まだガキのころだったので、どうか許してもらおう。「許せない」というのが、何について話しているかを分かりやすくするため、これを話した。
いまはもちろん、大人だから、そんな直情的なことはしない。あと、僕がガキのころは、近所の治安がけっこう悪かったのもある。不良ブームの時代だった。
「がっかり」させるのが「許せない」という性質は、大学生のとき、合唱団で指揮者をしていたところで、顕著に出た。
演奏会をすれば、客が1000人ぐらい来る。ご年配ばっかりだが、それは特に問題ではない。
なんであれ、足を運んで来られるからには、ちょっと楽しみにして、いらっしゃるはずだ。
これを、「がっかり」させてはならないと、がっかりさせることは「許さない」という、その性質が僕にあきらかになる。
僕は計算までしてしまう。客が1000人きたら、その中の3人は誕生日だと捉えるべきだ。
どれだけ赤の他人であっても、人の誕生日は、「がっかり」になってはいけない。それはとうてい、許されることではない。
さらには、中には、
「ばあさん、結婚記念日だし、このビラに書いてあるコンサートに、行ってみようか」
と、恥ずかしそうに言われた方もあるかもしれない。
そう考えると、もう、それを「がっかり」させることは絶対に許せない。
逆に言うと、がっかりさせなければ、あとはもう何でもいい。演奏なんかヘタで構わない。ヘタでもがっかりしないものはあるし、上手でもがっかりするものはいくらでもある。
何かひとつでも、嘘じゃない、必死コイているものがあれば、人はがっかりはしない。
だいいち、世界中の誰が、合唱なんて地味なものに真剣な興味を持つわけがあるんだ。
演奏の上手か下手かなんて、どうでもいい、ということで、僕のその「がっかりさせるのだけは許さん」という気配だけがムンムン出ていたので、プレイヤーもついてきてくれて、あのときのあれはもうついてくるなんて次元のものではなかったけれど、とにかく何かをやれた。
僕はどうも、その「がっかりさせるのだけは許せない」という一点だけ、自分がまともな人間であれるような気がする。それ以外のことは、なぜだろう、どうでもいい、まったくのクズのような気がする。
正直ついでに言ってしまうと、僕はその「がっかり」うんぬんだけが唯一真剣で、その他のことは、いくら真面目にやろうとしても、自分の中で冗談になってしまうのだ。
そして、今までは、その理由が自分でもまったくわからなかったのだけれども、件の音を聴いてから、その理由が少しわかった。
理由は愛と怒りの等価性にある。
ご年配が、興味のあるはずもない、合唱演奏会のチラシを見て、行こうかな、と思い立ってくれる。思い立てば、当日、ちょっと楽しみにしてくれる。
それはもう、愛してくれているということなのだ。当日、歩調はちょっと力まれるだろう。どんなに微細であっても、光の中を彼らは歩かれる。
それを「がっかり」させることを考えると、僕は急にうつむいて、「それだけはだめだ」と言う。それだけは許せない。説明を求められても、「許せない」と言っているのだから、それで十分だろ、と答えてしまう。
性質の特徴としては、それが、何も僕や僕の所属する集団に限らないということだ。隣の合唱団だろうが、向こうの演劇集団だろうが、なんであろうが、それが人を呼びつけて人を「がっかり」させる類だったら、僕はそれが許せない。別に怒りくるうわけじゃなくて、ただ許せないのだ。それは感情的なものではないし、感情とさえ呼びがたいものだ。
僕は十代のころ、ゲームセンターに入り浸るタイプの人間だった。僕はあの場所を愛していたが、UFOキャッチャーと呼ばれるクレーンゲームが大流行し、ゲームセンターの敷地を侵略してきたとき、僕はあの装置を大変憎んだ。許せない、と、ずっと怨嗟を向けていた。実は今でも許せない。いい大人が遊ぶぶんには構わないが、子供が思わずお金を入れてしまい、ぜんぜん獲れない、それでひたすらお小遣いを吸い取られていく、という様子を、僕は本当に見ていられなかった。その光景は「許せない」のだ。あれはバネの強さが内部で設定できる仕組みになっている。そして遊技場の立地によって、インカム率やペイアウト率は厳しくノルマを課されるから、つまり都心部のクレーンゲームなんてまともに遊べたものではない。もともと絶対に獲れないように設定されているのだ。
それに子供が小遣いを吸われている様は本当に見ていられない。魅力的なぬいぐるみを見せ付けたら、子供は欲しがるに決まっているだろう。クレーンがついていれば、「獲れますよ」というふうに、子供には見えるに決まっているじゃないか。子供は物欲でそれが欲しいのではなく、それをただちに愛してしまうものだ。あれはどうやら獲れるものだと見て、あれを抱きしめて持って帰ることができる、と、そう確信的にイメージしてしまったら、彼はもうその光の中を進んでしまう。それはもうゲームセンターのゲームじゃないだろう。ヴィデオゲームなら、なんであれ、百円を入れたら飛行機は操作できるじゃないか。
大人がパチンコをやるのはいい。あれは土台が物欲や金銭欲で、パチンコ台やパチンコ玉を愛して営む遊びではない。見た目だけ派手で、設定は最低で絶対出ませんとなっていても、かまわない。でも子供は欲で遊ぶわけではないし、大人はパチンコで「勝負」するというのを知っているが、子供はクレーンゲームで「勝負」させられるなんてこと知らされていない。
絶対に獲れない装置を用意して、子供の小遣いを巻き上げて、それを横から見てクスクス笑っているのは、ただの残虐なイジメだ。
子供は小遣いをカラにして、手ぶらで帰るんだぞ。
勉強になったとか、そんなふざけた話じゃなくて、子供はただ「がっかり」するという体験を連続で与えられるだけだ。
さらに正直に言えば、これはもう明らかに一般論ではなくなるが、たとえば食品メーカーが新作のカップラーメンを出すというとき、それが食べて「がっかり」するようなものだったら、僕はそれが許せない。それは、日雇い労働のおじさんが、コンビニでそれを見つけて、「お、うまそうやんけ」と選んで、よろこんで楽しみにしてしまうからだ。お湯を入れて三分間、どれだけ笑ってくれてもいいが、彼は光の中を過ごすのだと、僕は感じている。そんなところに差別はない。もしそれが「がっかり」の類だったら、僕は正直、そんなものを発売するな、と「許せない」の気持ちが立ち上がる。
映画の宣伝などを見ると、僕はひとつの恐怖を覚える。それは、その映画が、「がっかり」のものだったらどうしよう、という恐怖だ。それが「がっかり」のものだったら、僕自身がそれを観なかったとしても、僕は「許せない」の怒りを、勝手に引き受けてしまうのである。僕がそう望んでいるわけでもなく、自動的にだ。その「許せない」のひとつひとつは、いつでも起こるのだが、正直にいうと、すごくしんどい。だから僕は、あのしんどい「許せない」の引き受けを、またするのかもしれないと、恐怖するのだ。
映画の予告編などはまったくタチが悪い。当たり前だが、とにかくすごく面白そうに予告編を作ってくる。人はそれを愛してしまう。すごく素敵なことがある、と、油断していると、愛してしまう。ある冬の日、友達と、映画館に向けて歩き、その歩調は少し力む。光の中を歩いていて……というとき、僕はそれを見かけるだけでもキリキリするのだ。たのむから、出来の良い悪いなんかどうでもいい、「がっかり」はしない映画であってくれと、必死で祈る気持ちが起こる。彼らの愛、その光の中を歩いたことが、必ず報われ、応えられますように、と。それをもし、「がっかり」させるようなことをしたら、許さない、おれが許さん、と、冗談ではなく思っている。思うも何も、勝手にそうなるし、それから僕自身逃れられないのだから、どうしようもない。
少年が、コンビニに陳列されている、マンガ本の新刊を、ひったくるように取ってレジに駈けていく……というとき、同じだ。キリキリし、ヒヤヒヤする。マンガの内容は知らないし、興味もない、が、それ100%面白いだろうな? おい? と、胸倉を掴んで誰か責任者に確認したい。「がっかりさせるようなことはないよな?」と。
その点で、僕はロングセラー商品などが、キリキリしなくて済むから好きだ。おじいさんがチキンラーメンを買っていくとき、ああ大丈夫、あれはいつもどおりのやつで、がっかりとかそういうのではないからな、と安心する。それでも、無事何のトラブルもなく、ずるずるっと食えるところまで、ちゃんといってくれよ、じいさん、と、頼むような心はあるが……いつもどおりのチキンラーメンでも、楽しみにはしてらっしゃるのだろうから。
おしゃれふうの店が、デート中のカップルを誘いこみ、彼らに光の中を歩かせたくせに、中身はグダグダでがっかりさせるようなら、それはとうてい「許せない」もので、と、こういうことは、取り上げるともちろんキリがない。無数にあるが、無数にあるという事実があって、じっさい僕はその中でキリキリさせられながら生きている。
その意味では、本末転倒だが、何事にも興味がない、無関心で、物事にとにかくケチをつけるのが好きだ、という、つまり愛の欠片もない人を見かけると、僕は逆に安心する。僕は彼にキリキリする必要がないからだ。彼は何事にも「がっかり」はしないだろうから、僕は気を揉まなくて済む。
けれど、そんなものは、もちろん本末転倒だ。
愛をやめたら、怒りも引き受けずに済むけれど、それは本末転倒だ。
二〇一二年、愛がないといえばないけど、かわりに怒りの溜まりもない。それを良いとか悪いとかは一概に言えない。
この言い方は、来月には過去形になっている。
***
「今」のことについて、僕は何かが「うまくいっていない」とは捉えていない。
逆だ、全てうまくいっている。
人は明るく生きようとし、強く生きようとし、人にやさしくしようとし、また実際にそうしている。
ただ、愛するのはやめてしまった。
楽しみは増えたけれども、光の中を歩く、ということはやめてしまった。
報われないということが、あまりに前提になってしまったので、やめてしまった。
それは合理的なことであって、今現在、そこを非難することは誰もできない。
もし今、尾崎豊が再び転生してきて、同じように歌っても、「アツい!」と賞賛されるだけだ。
愛されはしない。夜の校舎の窓ガラスが壊して回られるということはない。
僕の出身中学では、僕が入学する前、じっさいにそうして窓ガラスが割って回られ、新聞に載ってしまった。僕は入学前、それなりにビビっていた。
そういうことがもうないということは、うまくいっている、ということだ。これは揶揄ではない。
どういえばわかりやすいか。
たとえば、百円を出して、百円の価値のものが買えたら、これは百円が報われた、ということになる。
これが、百万円出したのに、百円の価値のものしか買えなかった、となったら、どうなるか。
怒りになる。九十九万九千九百円分の怒りが溜まる。
その金額分は報われなかったのだ。
お金で例えるのは下卑ているけれど、とりあえずわかりやすくだ。
僕が今回話しているのは、それが「無駄」になると思われていたのが、そうではない、行き場を失って、信じられないほど深い地底の「怒り」になって、溜まっているんだ、という話で、その音を聴いたんだ、という話だ。
今、すべてがうまくいっているというのは、全員が札入れを家に置いてきて、小銭入れだけ持って出る、その上でうまくいっている、という状態だ。
そもそも百万円を使うには、百万円分の何かが街で売られている必要がある。
それが一切売られていない、百円ショップしかないということであれば、百万円の使い道はない。
じゃあ、札入れを持って出てきても、リスクになるだけだ。どんなアクシデントで、百円の物に対して一万円を出してしまうかわからない。
我々は怒りを得るために買物に出るのではない。
札入れは、はじめから持ってこないほうが安全だし、合理的で、正しい。
それで、うまくいっている。百円ショップが立ち並び、小銭入れだけをもった人人でにぎわうなら、全てはうまくいっているのであり、間違いはない。
ただ、それではどうしても面白くはないわけだ。根本的に面白くなりようがない。
一箱一万円のチョコレートを買えば、歩調は力むかもしれないけれど、一箱百円のチョコレートだと、限度が知れている。光の中を歩くことはできない。
かといって、現在、百円ショップが林立して「うまくやっている」のに、そこに札束を振り回して乱入する男がいたら、その男は現実的でない。
あなたが店員だったらどうするだろう。
男はあなたに百万円を差し出す。けれども、店内をどう見渡しても、百円の商品しか置いていない。
このとき、「ごめんなさい、受け取れません」と固辞する人は、感性が保たれていると思う。
何か知らないが、そのような授受は、あってはいけない、してはいけないと、感覚のどこかで掴んでいるのだ。
一方、判断がつかなくて戸惑い、「せっかくそう言ってくれているのだから」と、本人なりに善意で、悪びれず百円商品と百万円を交換する人もいる。「よくわからないけれど、あの人にとっては、これに百万円の価値があるのよね」と。
それは詭弁だ。百円の価値しかないものだということを、彼女は疑いなく知っている。
消えた差額分は怒りになった。
彼女は彼に、百円の商品と、九十九万九千九百円分の怒りを、与えて差し上げた。
こんな状況があったら、これはもう、札束を持って出歩くやつが馬鹿だというしかない。
本来はどうあるべきか。本来は、ああして百万円でも振る舞おうという人があるのだから、こちらも、もっと値打ちのある、真剣な商品を置かなくちゃだめだ、と勇み立たなくてはならない。
ただし、それで勇み立っても、もう百万円を持ってくる人がいなかったとしたら、それは経営判断のミスということになるから、これもやはり馬鹿だというしかなくなる。
今、全てがうまくいっていて、誰も非難されるべきではないというのは、そういう状態だ。全員が「成功」している。
面白くはない、ということを除けば。
面白いというのは、百万円をぶつけたら、二百万円のものが返ってきた、それで負けじとこっちは三百万円ぶつけたら、今度は一千万円のものが返ってきた……「負けたよ」と、借り分を返済するのに時間の猶予をもらう、そういうおれになってみせるから少しだけ待っていてくれ、と、そういう状態だ。
まもなくこの国に大きな選挙が始まる。
これからどうすればいいだろうか。
このところの僕自身に、何が起きたか、何を感じているか、正直に話そう。
あるとき僕は、いつものように、ひとつの文章を書いていた。その冒頭をすらすらと書いているとき、ピシッと手を叩かれたように、その作業が止まった。
「あ」
と気づいた。
いつの間にか、このようなものがスラスラ書けるようになっている。
正直に言うと、「そうか、文学が、身についたんだ」と感じた。それは身についてしまうと、何ほどのものでもなかった。
何かを工夫して書くのではなく、事実のまま、自分の体験のままを書けばいいだけだった。
書くのが難しいのではなく、自分が本当には何を体験しているのか、体験したのか、ということを、捉えることが難しいばかりだったのだ。
そういえば、もう何年も、ひょっとしたら一日の例外もなく、これをやってきたものな……と。ひとつのことが身についたので、僕なりにささやかな誇りも生まれる。気取るという気持ちにはまったくならない。何しろ、何を工夫して書くのでもない、事実のまま、体験のままを書くだけだから。
そして、体験なんて、誰だってしているのだ。
僕はこれを身につけることを目指してきたし、これを身につけたらそれでいいんだ、と思ってきた。それは間違いではなかったが、大きな見落としがあった。
その見落としのせいで、僕は身につけるべきを身につけるほど、静かに、死のほうへ押しやられていた。このところは、特にそれが色濃く感じられてきて、「おかしい」とさすがに気づかざるを得なかった。
なぜ僕は死のほうへ押しやられているのだ?
それはつまり、文学だろうが何だろうが、自分が本当に何かをするというときは、それが必ず愛を伴う営みになるということだった。本当に何かをするということは、非常に危険な、光の中を歩くということなのだ。そのことを知らずに、ノンキにやっていると、地底湖の水位がぐんぐん上がる。
その水位の上昇を、さすがに危険だと、精神の深いレベルが警告の必要を認めて、僕の意識にその水滴の落ちる音を聞かせた。「こうなっているからだよ」と、バカめ、と、僕は教わり、そうだったのか……と、つまりはその一滴の音で全てを直覚させられた具合だったのだ。
こんなことが付随してくるとは、まったく僕は想像もしていなかった。全ては要するに、僕の愛が足りないことが問題で、僕がつまらない人間でなくなるためには、愛を豊かにすればいいんだ、それから逃げなければいい……としか思っていなかった。愛と怒りが同じ成分のものだなんて、考えてもみなかった。
怒りは悪者ではない。怒りは、溜まったとして、やっつけるものでもない。かといって、放置されてよいものでもない。愛が放置されてはいけないように、怒りも放置されてはいけない。そのことを、僕自身不可解だった、「がっかり」に対する「許せない」の声だけが、先行して知っていたということになる。
愛も怒りも、同じひとつの液体で、「生命」そのものなのかもしれない。きっとそうなのだろう、と感じている。その液体は、それ自体がエネルギーだから、気を許せば勝手に奔騰するし、それが対抗するエネルギーとぶつかり合えば、エネルギーの本分を果たして蒸散する。けれど地底湖に溜まったものは、エネルギーを残したままのエネルギーが、本分を果たさずにジッとして溜まっている。これは、何とかしないといけないのだ。
僕は、この人間の持つ心の機構を、切ない、そしてロマンチックだ、と感じている。信じられぬほど深くの地底に、実は人の知らない湖があるというのは、ロマンチックではないか。
溜まった怒りを、解消する、という、臨床心理学的な捉え方は、やはり違うな。これは地底湖にあるからこそ怒りなのであって、地表に出るときはもう怒りではない。愛も怒りも、どちらも同じ、「生命」というエネルギーなのだから、これを蒸散させるということはむしろ……この話はやめておこう。愛が報われるとき、生命が生命に報われて、蒸散するということだから、つまり人と人は……と、このこともやはりやめておこう。「今」はやはり、全員が「成功」していると改めて確認される。
怒りを怒りとして認めなくてはならないのは、ただ地底湖の存在を掴むためだけだ。怒りを否定的に捉えるためではない。
この年の困難な状況、逆に全てがうまくいっていて、全員が「成功」しているからこそ、その困難を極めているという状況は、来る年には過去形になる。過去形になりながら、まだ続くかもしれないが、それでもひとまず過去形にはなるのだ。
まもなく大きな選挙が始まる。与党と野党は入れ替わるだろう。どっちがマシなのか知れたものではない。どちらも同じ穴のムジナかもしれぬ。
そのことが身につまされるように、我々も、愛と怒りのどっちがマシなのか知れたものではない。来る年には入れ替わりが起こるだろう。
[了]