No.265 二〇一三年のメモランダム
やることがはっきり見えたので記録しておく。それと同時に、今はもう告白してもよい、これもまたはっきり見えてしまったものについても、隠さずに書き述べておく。
全身全霊
僕の知識の中には、大江健三郎の文学作法が入っていて、その中に書き手と読み手(受け手)の構図があるのだが、この構図は僕の求めるところを満たさなかった。書き手が全身全霊をそこに投げ込んだとき、書き手というのは消失していなくてはならない。このことが構図に盛り込まれていなかったので、僕は僕の生きてきた中で観た妙境の断片と文学作法が重ならなかったのである。全身全霊とは自意識を燃え立たせることではなく、自意識を決して残さないことだ。文学が受け取られるとき、そこにある魂はいっそ<<読み手の魂だけでよい>>のである。
このことは次のようにも言い換えられて、これは少なくとも僕にとっては有意義になる。<<人が僕の眼を見てくれず、黙って言葉を聴いてくれないとしたら、それは僕が石などの物体でないからである>>。人は僕のfigureなら受け取って傍に置いてくれるのだ。端的には、僕がすでに故人であり、「墓石」であったなら、人は僕の言葉を安心して聞けるのである。
次へ
芸術が、また美が、未知・新しいものへアプローチするものであるのは、すでによく知られたことだ。けれどもその「新しいもの」という言葉の充てかたは僕の実地によく当てはまらない。
人が現在立っている、土台となるステップ。これに、まだ未知の、しかしありえる真実味の力を持った、「次の」と呼ぶべきステップを作り出す。そして自らがその「次の」ステップに立ち、人に呼びかけたとき、現在のステップではだめだと、飛躍の求めを内心に抱えている者が、想像力のうちにステップを感応し、そこにひょいと乗っかってくる。一人でなく二人がそこに立ったとき、そのステップはすでに新しく実在となったものだ。
創作の原義はこのステップの創出にあり、「なぜ創作物を人に見せねばならないのか」という古くからのテーマはこれに回答される。自分の作り出したステップに、自分だけでない誰かも乗ったのであれば、そのステップはすでに機能を持って実在したのである。この、受け手によって創作行為が完成する現象を、差し当たり僕は受け手によるrealizationと呼ぶことにする。あたかも、旅客機が旅客を目的地に運んで初めて旅客機たりえるように。
創作とその授受の目的は、受け手を飛躍させることではなく、創作そのものにある。受け手が「次の」ステップに乗れてこそ初めてその創作は改めて実現に至ったというべきで、<<受け手というのは決して受動的ではない>>。受け手は導かれるようでいてやはり自身で飛躍している! 右手でも左手でもない握手を差し出すのが作り手の側だとしたら、その握手に見事応じてみせるのが受け手の側だということである。その握手がrealizeするのは、むしろ受け手側がそれをはっきり掴み応じてみせた瞬間だ。右手でも左手でもない、「次の」握手。
***
僕がこのところしばしば見た、また自身として受け取りもしたいくつかの、実体験のシーンについて、そこには、
――人間は、これほど人間を無視できるものだろうか?
という鋭い感興が残った。これは現在になって疑問形が解決されている。代わりに、
――考えが甘かった!
という、今はさすがに落ち着きはした、しかし当初は笑い出したくなるほどの、恐怖を伴った理解に変わった。
仕組みはどうやら単純であった。ただし、あまりに大規模だったので、そのようには中々捉えられなかったという具合である。
「考えが甘かった!」……僕が元来熱く信じていたところでは(その信じるところ自体が僕において変わったわけではない)、人はそれぞれ人間でありながら、制度によって立場を付与されているということ。それはたとえば、親と子であったり、教師と生徒であったり、店と客であったり、敵チームや他校の生徒、折衝相手の会社員や、身内と他人、戦争においては敵国であったりする。戦争などではいかにも典型的なように、別に銃弾を撃ち合う直接の兵士たちが目の前の敵兵を憎んで射撃しているのではない。立場によって射撃し、殺傷しあっている。憎むも何も、互いに敵兵という立場があるだけで、本当には互いの名前も性格も、顔すらも見えないまま撃ち合っているはずだ。
僕がこれまで熱く信じて、また今も信じ続けてはいるところでは、人はその制度に付与された立場をやりくりしながら、けれども一個の人間である、という体験をするものだった。立場そのものが、そう簡単に消失するわけではない……けれども、ふとしたとき。目の前の人間が、立場をホロリと取り外すものだから、こちらとしては単なる一個の人間を受け取ってしまい、こちらもつい、それを受け取りましたよという一個の人間のありさまを提出してしまうことになるのだ。
そこにある独特の感触。長く染み付いて、それが自分の世界の前提であったかのような「立場」、それが取り払われたとき、世界は急激に生まの味わいを取り戻す。目の前の一個の人間を象徴に据えて。そこには不必要な親しさはなく、かといって立場による距離感もない。そこに重なる視線は互いを苦笑させ、何年かぶりに人間とあいさつをした、というような心地をもたらす。それを僕は、「出会い」と呼んできたし、誰だって生きてきたうちの真の出会いとはそのようなものであるはずだった。
けれども、考えが甘かった。僕は数ヶ月か数年かにわたり、「時代」という語を押し立てて、それに対する違和感をあげつらってきたように思う。今僕が告白するのは、それはとっくに、違和感などという次元で済まされることではなかった、ということだ。いかにも出遅れた報知であるように感じられて、恥ずかしさがある。
今やすでに、多くの人が(割合の数字は直接にはわからないが)、むしろ逆、付与された立場が取り外されて一個の人間が出現することを、自分についてであれ他人についてであれ、嫌悪か、もしくは憎んでいるのだ。
それはちょうど、これまで僕が、制度に付与された「立場」というものを、いつまでも憎らしく眺めてきたのと、ちょうど裏写しのことになる。僕は、本能によってと信じて、自分と他者が互いに一個の人間に<<殉ずる>>ことに悦びを見出してきた。それが、いますでに多くの人にとって、能動的に逆転しているのだ。彼らにおいては、互いに付与された立場に<<殉ずる>>ことを本懐にしているのである。その中で、自分の内に、また他者の内に、一個の人間が潜んでいるということを、憎らしく眺めているのだ。
僕は医学生理の専門家ではないので、そのようなことが、人間の生理として矛盾なくありうるのかどうかはわからない。けれども、差し当たり諸外国にも同じことが起こっていると捉えるのは現実味がないから、この国が、という言い方をして、もし専門の知識を持たない僕が予感するところが実現したとすれば、<<三十年後のこの国にはとんでもない風景が広がる>>ことになる。専門性の根拠なく、そのとんでもなさがどのようであるのかを直接述べることは、さすがにこの小稿においても控えたい。けれどもそれは、まだ人類の歴史で出現したことのない、大規模で、すさまじい、はっきりと病的なこととして、歴史に記録されるものだ。
僕がまだ、個人的には信じ続けている「出会い」について、典型的なものが、網膜に残る形で記憶にまだ鮮やかである。それについて言うとこうだ。
僕は新米の会社員として、重役に気に入ってもらえたものの、そのお小姓のように、夜の六本木に連れまわされることになっていた。ドレスを着飾った上等のホステスらがいて、僕はそれなりに気分をよくしたが、自分も含めた全員が僕をお小姓と認めているので、気持ちの九割方は平たくいえば蚊帳(かや)の外である。
いつぞや、店を出て、接待した客方を、重役がとりなしている……そこで寒空、僕はぼうっとしてその夜の締めくくりが終わるのを待っていた。同じく一人、締めくくりのシーンに入り込みそこねた、ホステスキャスト陣の中でもずいぶん若手の凛々しい女性が、店から出てきてなんとなく僕の脇に立った。
そこで待つ間、立ち話をした……僕はその夜遊びの土壌についてまだよく知らなかったので、どうしても頭を掻いて話すしかなく、また彼女の話をいちいち真に受けてしまった。その中で僕は、いかにも真に受けた愚か者の言い方として、
「Tさんのこと本当に好きなんですね」
と言ってしまった。
それを受けて、赤いドレスを着た彼女から、声ではないが、「違うよ!」と、まぶしく笑うような声が聞こえてきた。まぶしく笑ったのは事実である。彼女の、ホステスキャストとしての微笑が取り払われ、まさに見る見るうちにという鮮やかさで、そこにただ美しいだけの、まるで学校帰りかのような少女の笑顔が出現した。
僕の受け答えが、あまりにも馬鹿馬鹿しく愚かで、彼女もある種の転倒をして、気がゆるんだのだろう。つまり立場から脱落した。視線が重なると、互いに「しまった」と困惑するような笑いが湧いてきそうになり……そこで彼女に、業務陣からの呼び声が掛かってしまったので、彼女は振り切ってそちらのほうへ駆け出して行った。僕は独特の感触の中で、また明晩にでもお小姓として彼女に会うかもしれないけれども、会いたくない、と胸が痛むように思った。そのときから彼女は、瞬間的にではあれ、僕の友人であったから、友人が素直な本性を隠してその仕事をしているところを横目で見ることはなにやら悲しいと感じたのだ。僕が見てしまった彼女は、夜一緒に酒を呑むだけでお金を取るような女では、まるでなかったからには。
僕はこのときの記憶をまぶしく残している。それは、僕が熱く信じるというところの、信仰の根拠のひとつになりえるものだ。人は立場から脱落すると、ああいう笑顔を見せる、と、その事実は体験された知識であって取り消しはきかない。
けれども今や、僕はこの熱く信じるところを、僕自身においては取り消しようもないにしても、人を誘い込んでよい根拠にしてよいとは、すでに思わなくなっている。それはここしばらく、あるいはいつからか、ずいぶん前からそうだったのか、まるで逆の出現も、横目に見てきたし、自身にも直接受け取ってきたからである。
ふとした弾みに、人が立場から脱落する。人間に、その立場というものを認識する感覚器があるとすれば、僕のそれはいかにも機能が貧弱だろう。すぐに僕自身、立場から脱落してしまう者だ。それで、向こうも転倒して、あるいは馬鹿らしくなってか、立場から脱落する……
そこに出現する顔が、笑顔でない場合がある。<<顔が歪む>>のだ。まるきり、見たくないもの、触れたくないものに、接触してしまったように。
僕はそれについて違和感を覚え続けてはきたものの、このところになって、いつか「アッ!」とはっきり認めることになった。彼女の顔が歪むのは、彼女が自分自身も含めて、一個の人間という存在を、嫌悪しているからなのだ。彼女の歪んだ顔は、それが彼女の<<この世でもっとも憎むもの>>であることを示している。
新人類という言い方がクタビレて使い物にならないなら、新世界、という言い方がふさわしいように思う。われわれはいつの間にか、すでに新世界に踏み込んでいるのだ。これまで、人は一個の人間でありながら、「立場」というものを背負わされてきた。そう僕は信じてきたし、多くの人はそう信じてきたはずだ。けれどもすでにそれは多く逆転している。「立場」の中に、一個の人間なるものが<<潜まされて>>いるのである。
――人間は、これほど人間を無視できるものだろうか?
そのとおり、一個の人間は、一個の人間を、それほど無視しない。できないものだ。体験される現象はすでにその次元に無い。「立場」の中に潜まされた一個の人間という存在は、とっくに奥深くに封印されているか、もしくは、それはすでに消失に等しい断片になっている。あるいは元々それ以上には育成されず、機会ごとに粉砕されてきた、原初のころから……
そこに出現している現象は、一個の人間による無視ではなく、迷いのない「立場」純粋物の振る舞いなのだ。
***
それでも僕は、僕自身の熱く信じるほうへ生きようとすることをやめない。それは決意というより、自分の信じないほうへ生き進んでいくことなど、どうせ出来ようもないからにすぎない。ただひたすら、考えが甘かったということを、出遅れた感触と共に痛感しているのみだ。一個の人間、という表現に相対させるなら、一方は差し当たり「立場ユニット」と呼ぶべきだろう。立場ユニットは立場しかレセプトしないし、一方、一個の人間は一個の人間しかレセプトしない。ここで、僕が新世界の誰かと相対したとき、先方は僕に立場関係を問い、僕は先方に一個の人間を問うことになる。互いにレセプトが起こらず、互いに憎むほうを問うばかりになるが……やりくりでどうにかなるのかはわからない。けれども僕は結局、生きる中で唯一浴してゆくべき「歓喜」が、一個の人間としてしか覚えられないものではないかと思うのだ。思うだけでなく、経験からそのように判断さぜるを得ない。あるいは、立場ユニットにおいて、立場そのものが歓喜するというようなことがあるのだろうか? それはわからないし、どうせ僕の追求するべきところではない。
むろん、このようにも考えうる。場違いなのであまり精密に説明じみたことはしないが、動物はその機能全体を発達させるにおいて、その原初期、人間であれば乳幼児〜幼児にあたるが、ここで機能・能力を手に入れていくというより、無数に具わった能力のうち、<<必要でないと判断されたものを切り捨てていく>>という発達の過程をとる。いわば「ぜいたく」な、チョイスの方法を採るのであり、この段階で切り捨てられてしまった機能・能力は、後に訓練しても恢復されない。このことのレポートは、動物の生態に直接的・実験的に詳しい、畑正憲氏の著書によく語られている。
仮に、乳幼児〜幼児の両親が、
「あなたは一個の人間なのですよ」
「あなたは一つの立場なのですよ」
と、それぞれ教育したら。両親が子に対し、自ら一個の人間として接すれば、芳醇にある機能・能力の選択のうち、子は自身を一個の人間として応じる機能を切り捨てはしないだろう。
このような段階での教育の違いがあったとすれば、それはどちらに教育が足りているとか足りていないとかの話ではなく、単に違う生理体として育成されたということになる。そのとき、彼の機能が損傷していると捉えるのは正確ではなく、明瞭さのために簡易に言えば、「機種が違う」ということになる。僕が、考えが甘かったと反省するのは、そのような機種別までありうるとは発想の視野に入れていなかったからだ。思想や価値観や人格が異なるという程度で、生理そのものが根本的に違うという可能性は見ていなかった。
さて、僕は自分の熱く信じることを、むしろ正々堂々と擁護してゆきたい。「あなたは一つの立場なのですよ」という、乳幼児への教育は、本能的だろうか? 僕はそれを否定し続けるだろう。赤子、乳幼児から幼児まで、彼らは「立場」というものを持っていない。だから周囲の人間誰にでも、勧誘されるとついていってしまう。彼らは「他人」という立場を眺める目をまだ持っていない。誰でもが知っている、人の相好を崩すあの眼差し……その目は「間違っている」のか?
動物がその初期の発達過程で、芳醇に具わった機能のうち不要なものを切り捨てていく、そしてそれは後には取り戻されないというのは、きっと事実だ。けれども、その事実を、十分に畏れながら、僕はそれでもそれを信じたくはないのだ。一個の人間が引きずり出され、そこに本来あるべき笑顔の代わりに出現する<<歪んだ顔>>。僕はその顔に、嫌悪、憎しみ、のようなものを見たが、それ以上に、苦しみを見た。恥ずべき、一個の人間としての虚無、それを見られたことへの、また自己虚無そのものについてへの、憤怒と恥辱の顔。
僕自身、やることがはっきり見えたというこのメモランダムは、そこのところによく繋がっているため、このように書き綴られるわけである。
[二〇一三年のメモランダム/了]