No.268 コラム前コラム、「好き」の消失
どう書けばいいのか本当に見えないので、やむを得ずこういう手続き。
「好き」という現象そのものが、人人から消失していっている。
ウソじゃない。
ウソじゃない上に、ひょっとしたら、もうどうしようもないかもしれないので、まずい。
その歴然たる事実の前で、さすがに書き話す道筋も見えなくなり、こんな手続きを踏んでいるのだ。
本当に好きだった人が、あるとき突然、好きでなくなった、ということを、体験したことはないだろうか?
それはだいたい、環境の変化、人間関係の変化などから、価値観が変化して、好きな人が好きじゃなくなった、という感触で捉えられる。
ショックなようでいて、同時に、あまりショックでもないような、そういう心地に、そのときはなる。
僕は何度もそれを見てきた。
そして、それは「好き」ということの、変化、と捉えられるけれども、そうではないのだ。
「好き」の、消失なのである。
「好き」という、現象そのもの、心の機能が終焉を迎えるのだ。
どういうことかというと、その瞬間から、もう死ぬまでの一生、何事についても本当に「好き」ということは起こらずに暮らしていくのだ。
こんなおそろしいことがあってたまるだろうか?
けれども、だ。そもそも、その「好き」というやつが、いつまでも機能し続けるという前提自体、何か保証があったわけでもなかった。
一度壊れてしまった臓器が、もう元には戻らないように、本当に壊死してしまったらもう元には戻らないのかもしれない。
そうして、「好き」が消失しても、そんなことないわ、好きな人、好きなものは、ちゃんとあるもの、という気がする。
が、それは、過去にあった本当の「好き」を、丸ごと忘れてしまえるからだ。本当のそれではない「好き」が、純正品ぶってのしあがってくる、というだけだ。
本当の「好き」を、それ自体丸ごと忘れてしまえるのならば、結果的に同じだ、と思えるかもしれない。
でもそうではない。本当の「好き」が無い以上、何をどうやったって、充実や、自分が生きていることの実感、感動、歓喜といったものには、もう二度と触れられなくなる。
本当には好きでないものを「好き」扱いしているのだから当然だ。
どういうときに、その「好き」の壊死、消失は、起こってしまうか?
それは、失望や、傷ついた、ということが重なったとき、ポキンといってしまう。
急激な脱水と塩分過剰で、腎臓が壊れてしまうときのように。
具体的に言うとこうだ。あなたが僕のことを、本当に「好き」になってくれたとする。それで、仲良くいちゃいちゃする。その後あなたが一週間、何か別の仕事をしていたりして、立て続けに三回ぐらい、ショックなこと、傷つくことを体験したとしよう。
すると、ポキンといってしまう。一週間後、あなたは僕に会うと、もう僕のことが好きでなくなっている。その一週間、僕とは何の話もしていないのにだ。
あなたは記憶によって、僕のことが好きだったはず、と覚えているので、なんとかそれに沿おうとする。が、もう「好き」は終わってしまったので、どうしようもない。
ショックそのものは、時間が経てば失せていく。それで、治った、時間が癒してくれた、という気がするけれど、もう「好き」はその機構ごと、元に戻らない。
僕から見ると、僕は何もしていない、一週間呼吸をしていたら、あなたに嫌われた、という具合になる。
わけがわからない。
わけがわからないのは、まあ女心さ、と片付けてしまえばよいけれど、問題はその後、もうあなたが何をどうやっても、充実も感動も歓喜もない、本当の「好き」は得られない、ということにある。
失望や、「傷ついた」というのは、ウイルスのような性質を持っている。
ある地点までは、静養すれば、人体はそれを自然に駆逐し、快癒する仕組みになっている。
ところが、その治癒機能を超えてしまうと、ウイルスは体内で増殖し、住み着き、常在菌になってしまう。
角膜に失望のウイルスが入り込むと、もう全てが失望の色でしか、物事が見えなくなる。
ド根性でなんとかなるか、といっても、人は根性でウイルスを駆逐できるわけではない。
ましてこれが、アウトブレイクするようなことがあったら……
「好き」の消失が、個人的でない、全体的な規模で起こっている。
こういう言い方は、気が咎めるのだけれど、例えばコンビニに行って、陳列されている雑誌群を眺めてみてほしい。
綺麗な女性が、無数にその表紙を飾っているだろう。
けれども、その綺麗な顔、綺麗な姿、訓練された表情の中に、「好き」が見当たらないのである。
一枚の写真を指して、
「彼女は綺麗ですか」
「そうですね」
「彼女は何かを『好き』でしょうか」
「いいえ、それは見当たりません」
という具合。
人が何かを本当に「好き」というとき、その「好き」の機能を持っているとき、それはパッと見た目で判る。何であれ、「好き」なんだな、というのはなぜか判るものだ。
綺麗な女性は、表紙絵に実に綺麗なのだが、「好き」が無いのである。「好き」が無いのに、好きよ、みたいな表情や仕草をしている。萌え、と呼ばれる類のポージングも少なからずある。
初めからそれしか見たことがない人には、区別がつかないかもしれない。
比較としては、Youtubeにあるから、たとえば1980年代の、コカ・コーラのCMでも観てみたらいい。
古いものだから、ダサい、ヤボい、というふうに、見えると思うけれども、そこにある人人の表情に「好き」があるのは見て取れるはずだ。
「好き」が大規模消失するなんて、本当にまずい。
僕はこれについて、誰かを責め立てるつもりはまったくない。ウイルスのアウトブレイクなのだ。本人だって、感染したくて感染したわけじゃない。
「好き」の消失について、証拠めいたものはいくつもある。
全部を挙げていくわけにもいかないが、たとえば僕は、恋愛相談をよく受ける仕組みに、当然ながらある。
相談者は、「ある人のことが好きなんです」と、悩んでいる。悩むのは当然だ。
ところが――あなたも想像して「そういえば」と思い当たってくれたらよいと思うが――その「好き」ということが、なぜか「暗い」のである。
それはおかしいだろう。あの人のことが好きなんです、というとき、その瞳は深い黒色で、苦しいほど希望と悦びに満ち、腑抜けた笑いなんかは消えうせ、得も言えず光っていなくてはいけない。
それが、なぜか俯きがちなのだ。断じておかしい。好きな人がいないときのほうが明るいなんて、そんな馬鹿な話があるか。
他にはたとえば、これはつい先日の話だが、「サークルボックスに、泊り込んで、作業して、とても楽しかったんです」という話を聞いた。サークルボックスというのはいわゆる部室だが、これもおかしい。僕が学生だったころは、三日間ぐらい部室に住んでいる奴は日常的にいた。楽しかったからではない。部室に住み着いて、「ああ、ヒマだ」と嘆いていたのだ。なぜ住み着いていたかというと、「帰る意味がわからない」からで、要するになんだかんだで「好き」だから、住み着いてしまっていたのだ。別に青春とも思わない。そりゃそういうものだろ、としか思わない。
アイドルユニットやオタク向けアニメにハマっている、そのハマり方も、何かおかしい。「好き」というなら、四六時中それにハマっているはずなのだが、話を聞いてみるといまいちそうでもない。
たとえば僕は「もののけ姫」が劇場公開されたとき、それを八回観にいったが、それでも僕はそれをことさら「好き」とは捉えていなかった。「好き」とはそんな生易しい憑依を言わない。友人に「紅の豚」を三十二回観にいった奴がいた。しかも終日観ていたそうだ。もう飲食を含め、映画館で暮らしているような有様だったらしい。それはもう、「好き」だったのだろう。
僕が中学・高校だったころ、ゲームセンターに「出勤」した日数は、登校した日数より確実に多い。当時はまだ携帯電話がなかったから、用事があると父親がゲームセンターまで当然のように呼び出しに来たものだ。完全に住み着いていて、資金がなかったら人のプレイ画面をずーっと観ていた。店員を含め、そこに友人らが生まれた。
想像するに、いわゆる将棋が「好き」な人なども、そうして四六時中、寝ても醒めても魂は盤上に置きっぱなしで、その中で才能のある人はプロになっていったという、そういうものじゃないのか。
そして、いわゆる恋人が出来て、「好き」な人と付き合うことになったら、やはりそういうものじゃないのか。週に一回のデート、なんてのは老け込んでからの話だ。どちらかが一人暮らしなら、入りびたり、そうでなくても、毎日同じ待ち合わせ場所で同じように会う。部屋で、寝ても醒めても、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ、何曜日かも忘れて、耐えられないほど空腹になったときだけセックスを休憩する。学校や職場に行っているときは、あくまで恋人と会うまでの「間」に過ぎず、放課になれば「さあ今日も今日という時間が始まるぞ」と、気持ちが高ぶるもののはずだ。仕事の余暇時間に恋人があるのでなく、恋の余暇時間には仕事を済ますという。
恋あいなんてものは、特にそうで、だからこそ、一つの時期に人生の主柱になりうるほどの存在感がある、それは営みだったはず。「好き」というのは、休み休みするものではない。ポケッと離れて「好きだなあ」とか眺めるような、そんな余裕の無いものだ。
失望したとき、傷ついたとき、人はそのショックから、冷静にそれを考え、捉えなおそうとする。ところが、そうして物事を冷静に考えて捉えなおすという臆病な習慣が身体の深くまで感染したとき、それはもう「好き」という機能を奪ってしまう。
あなたは、これを読みながら、どういう態勢でいるだろうか?
よくわからないわ、と敬遠気味かもしれないし、フーンと中立かもしれないし、なるほどそのとおりよ、と好意的かもしれない。ホホウと感心してくれることがあったり、真剣に語ろうとする僕に尊敬を覚えていてくれたりもするかもしれない。
が、その実、あなたの態勢は、手早く「手仕舞い」にする、「帰り支度」の準備を、すでにしていないだろうか?
「好意」「感心」「尊敬」、そんなもの要らないのだ。僕の話をあなたが読む、それをあなたが「好き」でなければ、あなたはさっさと別のところへ行ったほうがいい。あなたの本当に「好き」なところへ。好意とか感心とか尊敬とか、そんな余興めいた感想を持たずに済む純粋なところへ。
僕が、話に書きたいと望み、でも書きようがないと苦しんでいるのは、まさにそこだ。本当の「好き」に行けばいい。ただ、その「好き」という現象そのものが大規模に消失していっている。好意や感心や尊敬は、むしろ邪魔者としてはびこっている。純正品のふりをしてだ。
***
あなたの敗北は、誰をも何をも本当には好きになれず、また誰からも本当には好きになってもらえなかったときだ。
もし、人人の全てが「好き」の機能を失ってしまったら、全員で仲良く敗北することになる。
だって、考えてもごらん、恐ろしい話だ。好きでない人と遊び、好きでない人と酒を呑み、好きでない人とドライブし、好きでない人と出会いにゆき、好きでないものを見つけにゆき、好きでない人と好きでない仕事をし、好きでない家庭を持ち、好きでない人と暮らしていくのだ。この中でもう何をどういじくっても人の勝利なんてありえない。
もともと、人が生きることなんて、たいして意味の無いことだ。宇宙規模で太陽系を見て客観的に人間の「意味」なんて言われても、それは「?」にしかならない。
ただ、そこに「好き」があれば別なのだ。僕はこれまでに何度も、本当に「好き」という眼差しを、人に向けてもらえてきた。全てのことは、あの眼差しに応えるものとしてのみ、意味を生じてくる。
だってそうだろう。あなたがピアノを弾く、聴衆がそれを聴く、なんて、なんの「意味」があるのだ。つまらない。音楽なんか聴いたって、娯楽にはなる、でも何か人間人生にたいしたことになるかといえば、ならない。そんなことに芸術を気取るほうがどうかしている。
でも、その正論を、「好き」だけは打ち砕くのだ。聴衆が、こうして客席に座っている、ホールの緊張感が高まっていって、第一の鍵が打ち鳴らされる、「ああ、好き」という目で壇上を見つめているから、そこには意味が生じてくる。「無意味でけっこう、ただしわたしはあの眼差しに応えてみせる」と、犯しようのない尊厳がその両者の関係から生まれてくるのだ。
ここで、「好き」の現象が、全体に消失したらどうなるだろう? 聴衆は、ウソの「好き」を壇上に向け、模造品の好奇心を壇上に向けることになる。何もかも「フリ」でしかなく、いやらしい小芝居だ。
こうなったら、むしろピアニストの側が地獄だ。応えるべき眼差しがどこにも無いのに、演奏だけさせられるのである。ホールの壁に音が全て吸い込まれるまで、「無意味よ! 無意味よ!」と内心で絶叫しながら演奏することになる。ピアニストはもはや無限に芸術を気取りつづけるだけのピエロだ。一種の拷問で、耐えられないに違いない。
好意や感心や尊敬というのは、これはむしろ、人が人に「付き合っていない」ことの証拠になる。僕がピアニストに向けて、「あなたの演奏には魅力があります。素晴らしかったです。どれほどの修練を積まれてきたのか、尊敬します」とコメントしたら、僕はウーンと喜びながら、さっさと帰ろうとしているということだ。「帰り支度」。付き合う気がないのである。そんな奴はもう初めからホールに来ないがいい。
「好き」だったら、映画などでもそうだが、客席を立てないはずだ。あるいは逆に、演奏が「終わってしまわないよう」、ダッと逃げ出してどこか暗闇でひとりで膝を抱えて座り込んでいるはずだ。
あなたは、おじいちゃんかおばあちゃん、大好きだった人の家に行ったとき、両親が「帰るわよ」と手を引くのに、絶対いやだ、と泣き叫んで抵抗したことはないか?
「好き」という現象そのものが消失している。それも大規模に。打つ手はまるで無い。しょうがないかといえば、しょうがないで済まされるような浅いダメージで済む話ではない。これを諦めたら自己の生も人人の生も完全な虚無になってしまい、何が残るかといえば気取りと諍いしか残らない。
だけど僕も話しようがない。僕が話す、それを聞いてくれるということ自体、もう「好き」じゃなくなったのなら、僕が語ろうとすること自体も「気取り」にしかならず、それは虚無だ。
どうすればいい? もう一度、言い方は気が咎めるけれど、コンビニエンスストアに行ったら、雑誌群の陳列を眺めてみて。そこにある綺麗な表情が、綺麗なのに、何をも「好き」ではない、「好き」の消失が見て取れるはず。
好意、感心、尊敬、興味、意欲、そういったものの全ては要らない。要らないどころか、邪魔だ。見た目がどれだけ綺麗でも、それは「帰り支度」をしている類なので要らない。
何をどうしても、自分は帰り支度をしてしまう、そういう感染をしていると気づいたとき、どうする? と、僕はそういう話を、当て所もなくしている。
恢復を目指すにしても、現況を捉えていなければ話にならないからだ。
僕は、「好き」という機能が、臓器のように失われたら元には戻らないと、完全に信じたくはない。深く押し込められるだけで、奥底で、死んでいるわけじゃない、と信じてはいる。ただしそれは、気持ちを明るくはしていられないほどの、奥底も奥底だ。
2012年は、重たかった、と僕は思っている。去年のクリスマスのことを、あなたは思い出せるだろうか? あまり記憶にないわ、という人へ、僕はまさにそのことを指摘している。去年はクリスマスが「無かった」のだ。失望の角膜にはクリスマスは虚無にしか見えない。次いで、2013年、今年の正月も存在しなかった。さらにはちょっとした予言もできるだろう。「あなたは今年、大切な人の誕生日を忘れていて、直前、自分でびっくりする」。
2011年、ちょうど今ごろの季節だった、大きな地震と、津波、原発事故が起こった。そこで我々は、見たくもないもの、正視も受け入れもしがたいものを、繰り返し見せつけられることになった。失望や、傷つくということが、立て続けにきたとき、「好き」の機能はポキンといく。
今まで、何千通というアンケートやメールを頂いてきた。その中で、完全に否定的な、僕を攻撃する意図のものは、これまで実は二通しかない。その二通ともが、あの大震災のすぐ後に来ているのだ。ポツンと、突然に。あのとき以来、日本人は全体規模で傷ついていると思う。傷ついたままだ。ショックだけが、時間と共に失せた。
[コラム前コラム、「好き」の消失/了]