No.273 ドライブ・アウェイ
(あなたは僕の話に食いついてはいけない)
(あなたが普段やるように、「積極的」に、僕の話を読みに来てはいけない)
(そんなことをしなくても大丈夫なように僕は必ず書く)
(はじめはつまらないことから、そしてそのうちわかってくる)
(あなたは、鋭敏に、落ち着いているべき。そして、厳しく。ありもしないものを認めはしないし、同時に、何かあったなら、そのあったぶんだけ認める)
(あなたが僕のことが好きか、嫌いか、よく知っているか、見ず知らずか、そんなことは関係ない)
(そういうことを必要としないやり方があるので、そのやり方をする)
(重要なことや、大事なポイントというようなものは、ひとつも無い)
(そういうのは、ただの引っかかりになるだけなので、こちらは決して持ち込まない)
(これから当たり前のことだけをする。特別なことは何もしない)
(あなたがするべきことのマナーは、感心したりしないこと、また、真っ最中に、勉強なんかしないこと)
(あなたはひどく冷たくてかまわないので、ただマナーから脱落しないことだけが約束)
(ありもしないものに食いつかないように、だいたい、そういう余計なお人好しが多い)
(僕に対しては「なにこいつ」で結構、そのほうがうまくいく)
(コミュニケートしようなんて邪心は捨てて。僕とコミュニケートするなんて悪趣味です)
(それでは、ドライブ・アウェイ)
***
横丁の看板のすみっこに、青い服着た少女が座る。その脇で僕は少女のねだった売店のソーセージを剥き、ふたりで夏の日陰に隠れて喰らう。なんでもない高校生の名前は……リカ。なんでもない少女の履いた青いスカートは厚い生地で、このなんでもなさをこそすれ違うあばずれ女の年増はうらやむ。それはそう、うらやむものだ、そのことまで含めて人の長い長い青春という。
こんなところに……少女の唇についた淫猥に赤いケチャップはさておき、ブラウスに小さなごまつぶのような蟻が這うのを僕は指でつまんで取り上げた。その仕草の中に男の誰でもがそうするように、まだよく判られていない胸の膨らみをさぐって逃げる。それは割りとはっきりと触る。リカはそうされると無関心で、でも汗を掻くようでスプライトの端を少しこぼしながらラッパ飲みした。飛行機雲が……二重にありそれは駐屯基地からの戦闘機の残した軌跡。飛行機雲はどんどん膨らむ。こんなところに座ってたら尻がこげよお、と通りすがりのおばさんが見咎めて口を挟んで去ってゆくのだ。
和風で牧歌的な……それは辻にたたずむかわいそうな、つぶれた喫茶店の看板だ。キロ、と黒字に白抜きで書かれてあって、窓に板が貼り付けてある。覗き込むと何かしようとしたのか電気の配線とドリルだけが錆びて置かれている。中にはダルマと金の招き猫が置かれてあって、ひょっとすると中には誰か住んでいるのかもしれないとも見えた。リカがすぐ脇にきてリカの少女の香りが立ち上る。すうっと、子供のころのプールの景色が水色づいてよぎっていった。
僕たちは誰もがそうするように、ふたりは性的に交合するしかないことを知っていた。やがてそうなるというよりは、それは常より始まっているのだ。我らはその発端を焦るようでありながら、同時に引き伸ばそうとも焦っていた。気を病んで彼女の祖父が亡くなった夜、見舞った僕がオーディオのスイッチを入れると、レコードから狂ったような大音量のバルトークがちゃん・ちゃん鳴った。それが壮大な故人の遺言に聞こえたので、ソファにかけて僕とリカとで過ごした時間、ふたりは交合して傷つけあい同時に慈しみあうという、お互いの記憶を人知れず背負うことを宿命づけられた。そのようなことは、どこにでもあり、悲しくもあって、よろこばしくもあった。わたしたちは壊す力を失っていった。
しかし時は現代である。リカの姉の車を借りて、リカの地元の田舎道、天の川がにぶく光る野蛮な獣じみた夜を、僕とリカは走ったのである。どこへ向かうかといってリカは鋭く答えた。
「都会!」
なるほどこの泣きたくなるような夜を、彼女は金属的かつ樹脂的に過ごすことに決めたのだ。それは雄叫びを奮いたくなるような、リカの若気のアイディアだった。このままどこまでも、高速道路の機械電飾を、溶けて溶けて、世界が乱暴なエボナイトの平行線になり、色とりどりになるまで、わけもわからずゆこうと決めた。そのうちリカがシートベルトを外して、運転する僕の唇へ、ふさがりこんできて、舌を差し込んで動かしてきた。シートベルトを警告するベルがキンコンキンコン鳴る。青い印はヘッドライトのハイ・ビームだ。後続車は獲物を狙う海賊のように左右に揺れて威嚇し、性能差を見せ付けて四国の横断橋へと消えていった。
リカはベルトに噛み付くように、僕の下腹部を開いて陰茎を吸った。引きずり出しては自分も引きずり出されるように、粘膜と身体のねじりを放出した。遠くに見え出したビル群はひどく懐かしく、それはわざわざそう見えるように並べられてあると見えた。リカは酔ってもいるし泣いてもいた。淡白な涙が熱を垂らした。誰でもがそうするように、初めてのことだから、初めての特別の淫猥と下品で、それをする。わたしたちは嘘偽りなく、都会独特のハンバーガーショップの巨大看板にあこがれてまっすぐ走った。誰にでもそのようなところがあるはずだった。
オーケストラが空港の脇で野外の練習をしている。僕はその遠巻きに車を止めて窓を開けたが窓からは虫の音のほうがうるさくあった。僕はかわいそうに見えるリカのきれいな髪の後頭部を自分の股間へ押し付けて、そのまま固定して地団太のように射精した。くっ、くっとリカのほうが痙攣するのをなお押さえつけてリカにそれを飲ませた。リカは急速にそのまま眠りたがったので、少しそのままにして眠らせた。眠ると歯が噛んで僕のペニスを挟んだ。僕はリカが回復するまでたばこをえんえん吸い続け、煙った車内は無数の幽霊に取り囲まれていると錯覚した。
我らの時代は現代だ。近代的な現代だ。近代的な現代で、我らは生身の人間だ。ショックから立ち直ったリカはむくりと背を上げ、少女の本能はルームミラーで髪型を直した。熱い芯の入ったあたらしい身体になったリカは、新しく丸くなった赤い顔で、僕ににこっと笑って、
「ごめんね、痛くなかった?」
と嬉しそうに言った。リカは幸福な笑顔で僕を見つめ、はじめましてというような、今度はやさしい親愛のキスをくれた。
***
(すこし中断を入れる。ただし中断だからと気を抜かないで。まだ続いている)
(今のところ僕の側にたぶんチョンボはなかったろうし、だいたいこんな感じで行く。やっているうちにできるようになる。あまり成功とか失敗とかを考えないほうがいい。今のところ、そういうことではまだまだないので)
(引き続き、積極的に食いついたりしないよう、それだけマナーしてお願いする。厳しく、シビアに。それでちゃんと大丈夫なように、進めている)
(では再開、引き続きドライブ・アウェイ。夏が終わり、ここから秋になる)
***
おなかが真っ直ぐな、リカのおなかは、それだけで大切なものに思えた。秋の高い高い空に、リカのおへそがぽっかり口を開けていて、それは生きることをあきらめた茶色いバッタが、稲藁に跳ねるように、清潔な何かだった。秋空はリカに抵抗の力を奪う。かといって僕にも秋空は陵辱の力を奪った。時間の流れるのと空の高いのとに屈服していた。リカのおなかに鼻を寄せると温泉の湯の匂いがした。収穫には少し農作業を手伝うリカの身体はくたくただった。くたくたの身体が、寝転ぶだけで音を立てて回復していく。健康な血がぎゅんぎゅんめぐり、リカのおなかはどれだけ撫でても冷ややかだった。手でこすっているうち、紋章が現れるのだ、という気がして気がくらくらして遊んだ。
秋には何も歌うことがない。リカとこうして時間に押しつぶされている間、一切の感激はありえず、全ては清らかで絶望的すぎるほどだった。秋の深まる、時間の暮れ行く、最先端で取り残されていた。リカはこのとき枯れた野原に合一していて、僕を受け入れて、かつ軽蔑していた。僕には置いていかれたそれが寂しかったのである。
ピンクと黄緑と水色の、めかしこんだチンドン屋が、近く開催されるバザールの、宣伝を三人で歩いている。誰もいない畦道を、ちょんちょん・ちっちと、こぼれた稲を狙うスズメに等しく歩いていた。物悲しいかれらの向こうにレジャー用のプロペラ機が飛んでいた。リカは仰向けに手にひらをぱんぱんと叩き、僕を招いてその冷たい手のひらで僕の両頬を挟んだ。材質だけが触れ合った。こうして愛が失われることもある、それは小紋の花が咲いてゆくような、細かい無数の幸福だった。まだ夏服のリカの身体は両手両足が何の印象ももたらさず、ただ肘と膝だけが機能性を主張していた。このときリカの身体には触るところがなかった。唇の奥に唾液の匂いが見えている。
思春期の少女はこうして危険だ。こっちからあの世を覗き込み、あの世からこちらへ顔を出しに戻る。何の気分も必要ないときよくそれをする。男はこのとき怖くて彼女を抱くことができない。数秒後にはリカは突如僕に別れを告げそうであり、同時に今は永遠にいてくれる様相でもある。リカもいよいよそれに厭(あ)いているようで……建前を探していた。思春期の少女はこのとき多く軽薄で肌の汚い男とぶつかって自分を汚濁させようとする。僕はリカがそうして自ら陳腐へと犯されていくことを恐れた。けれど動機も持たないリカのことを誰が止めることができようか?
日が西に赤くなってから、農機具の小屋に立ち寄って、リカの自転車のギアの部分に、具合の悪い機械用の油を差した。井戸水と尾瀬の水が合流したザリガニのひそむドブだまりに赤茶色のカエルがけろけろ鳴き始めた。僕はしゃがみこんだリカのスカートのはだけた内に手を差し込んで、下着の膨らむところをまさぐったが、冷ややかなリカの身体は今予想のとおりこの世のものではなかった。僕はひたすらリカに許されたくて、また見放されることを恐れて、リカにしがみついていた。リカは正当な軽蔑と同情をする。まったく気持ちの混ざらない、記憶のとおりの丁寧なキスをしてくれて、僕をなぐさめようとしてくれた。リカは帰りの時刻が来るのを待っていた。
今はもう使わなくなった水車小屋の裏に回り、僕の気力が潰えてどすんと座り込むと、リカは僕の頭に制服のスカートをかぶせ、顔に太ももを押し当ててきた。互いの顔が見えないなら少し気が紛れるようだった。布と肌が薫るばかりの神秘的なスカートの内部で、僕は飢餓児童のようにリカの下着から無理に舌を入れようと努めた。奥へ押し込めば押し込むほど舌に血の味が混じって慰められた。そのうちにリカもスカートの上から僕の頭をぐっと押さえつけるようになり、指先の力感がリカの単純な燃え上がりを伝えてきた。リカはなんとかいこうとして、僕もなんとかいかせようとして、けれどもうまくいけなかった。酸欠じみてついにスカートから頭をぼんっと脱出させると、あたりはすっかり夜だった。きんきんに冷えた夜風が蒸気まみれの顔をびゅうと冷やしていった。
それでリカのほうもかなり機嫌を直してくれていたのである。見るとまたつまらない明日へ向かう楽しみにリカの顔は躍動していた。このときリカと僕は互いを好きあっていた。リカの情けない精神が情けないまま立ち上がっていて、リカは珍しく眠たがることもなしに僕の手を引き、自宅の近くまで送らせた。僕はまるでリカをこの世に留まらせるためだけの仕事をしているようで……急に真後ろに誰かがいる気がした。後ろには誰もいなかった。
***
(秋の章は、いかにも明るく行こうとしたものの、どうしてもそう気楽な美しさにはゆけない、そういう切実さが表れている。この章が僕は好きではないが、手をつけられることではないのでしょうがない。逆にこの章が好きだという人の気持ちも僕はわかる気がする)
(工夫というのが僕は好きではない。何かを練習するというとき、その方式としての工夫はあったとしても、そうではない、本質的なことにおける工夫というのは、何か本質的なことが面白くできていないから、工夫に逃げているということが多い)
(当たり前のことに当たり前の面白さが出なかったとしたら、それは我々が愚鈍なだけだ)
(やるべきことは、工夫とか、積極的とかではなくて……アイディアというのは、あったらいい。けれども全てに最優先されるのは、精密に、見て当たり前のことを当たり前にすること)
(うまくいかないとか、面白くないとかいうのは、悪いことではなくて、そこは何か、まだ見えるべきものが見えていないというだけのこと。それはまたお互いにやりなおしていけばいい)
(まずは、あるがままやってみて、終わってから、そこに何があったか、何が無かったか、確認するようではなくては。前もってよいものが得られると横着な仕込みをしてはいけない。仕込むのは何度も確認を塗り重ねてからのことだ)
(いわずもがな、確認しなくても、狙わなくても、勝手に出現してくるものもある。真相が、こうだったのか、と。それはお互いによろこぶべき瞬間だ。あまり仕込みを盛りすぎるとね、その肝心な瞬間もなくなってしまうから)
(上手いとか下手とかは関係なしで。ひとまずあるがままゆくしかない。上手い下手なんて点数をつけない限りは気にしなくていい)
(では再開、ドライブ・アウェイ、今度は冬になる、ここはずいぶん調子が変わる)
***
裏手に倉庫が並んでいるいかにもの港町で、地面に雪が氷を張って、ビリヤード台と酒の周りで、リカはすっかり人気者だ。行きがけにオカマに化粧をさせたのがよく効いた。ペンキみたいな赤いルージュを大げさに塗ったのがよく効いた。誰よりリカ本人に効いたのだ。楽しいね、楽しいね、とリカはすっかりおおはしゃぎだ。右から左へ、左から右へ、外人がいつものクセをつい出して急ぐ動作はバスケットボールだ。こんな誰も好きではない夜を、それでも始まってしまった以上、誰も遅れずについていかねばならないときがある。僕はすばやく答えねばならない、あれはテキーラ、あれはラム。あれはジンだし、
「あの赤いの飲みたい!」
あれはカンパリ。
六階建ての新築ビルは、遊び場にして高層ビルだ。この夜はいつ始まるのかと、みんなして気が急いていたところ、気がついたらそれがもう始まっていたという、そういう夜はドタバタだ。ラーメンを四皿も頼んだ奴は誰だ。オカモチにボーリングのピンを入れてやるのはやめてやれ。雪の寒いのに誰も応えずに自動扉がガアガア開いて新しい客人を呼び入れてしまう。もう混雑だ。混雑の解決人が寄せ集まった混雑だ。この寒いのにサンダル履きの奴がいた。
古い友人、オールド・パルを、したたかなバーテンダーがきちんと薄く仕込んでくれて、ほっと胸をなでおろしていると、若手が棚からクリスマス用のクラッカーを見つけてしまい。両手に持ってパンパンやってやけどした。やけどは痛快だ。ぎゃっぎゃっきゃと笑う、ワンレングスの女が献身的に指を冷やしにやってくる。リカが飛びついてくるのを回転しながら受け止めると、リカはするする僕の肩まで登ってターザンのように片手を上げた。しかし触れ合う中で見たぞ、激しすぎるよろこび、たのしさ、それに耐え切るぎりぎりで、リカの腹筋がぴくぴく震えて痙攣していた。それは脳が痙攣しているのである。リカは手首の太い剥げ頭に箒をもってバサバサ追われ、ギャーというまにウサギのようにビリヤード台の下に逃げ込んだ。野良猫の気分になってリカは容姿まで野良猫になった。
こんな夜は決まって怪我人が出る。それはしようのないことだけれど、僕は勢いに任せてエゴイスティクに、リカだけはなんだかんだその怪我の当事者にさせないように見張っていた。立派な皮のサッカーボールはバインバインと空間を跳ねた。それもう当たると怪我をする球筋だ。あまりに騒がしいので、住み込み階下の商店の主が、クレームに来たかと思えば両手に酒を持ってきた。感じやすい男である彼はもう自動扉が開くなり恍惚で真っ赤になり涙を浮かべていたのだった。女房を早くになくした真面目な男の特権だ。ひゅごうと歓声がたちまち湧いた。その隙にするりとビリヤード台から出てきたリカは僕の腕にぐいんとぶらさがって、僕が撫でようとした手に上手にがぶりと噛み付いた。唾のついたところをリカは撫でさすって拭ってくれ、
「楽しいよ」
と、こっそり泣きそうになっているのを我慢している少女の声を、いかにも僕が好きだろうというふうに聴かせてくれた。
案の定、AVラックの角に転倒した男は前歯を折って、ひどく血が出てから人々の熱気は落ち着いた。商店の主が年長らしく床にどっかと座ると同調者が出て座談になった。かつてわしらは正しかったし、あんたらも正しい、人は正しいことをしてかにゃけん。商店の主が熱く言いたがるのを誰も馬鹿にせずに聞いていた。リカはワンレングスの女にかわいがられて、その胡坐の長い足に乗せられて座らされている。ワンレングスの女は自分のことよりも今リカのことを愛しているようだった。彼女はリカを守ってくれるだろう。リカは友人を得ていた。
バーテンダーが気を利かせて入れたヴォーカルの鋭い音楽が人々の頭上を通り過ぎてゆく。結局だ、結局現代というのも懐かしいのさ。僕は深夜癖のつきはじめたばかりらしい若い男にそんな話をした。誰だって現代だからな。現代ですね。そうだな。古い米問屋の祖父を殴り飛ばして勘当されてきた彼はもういちど恋をすることに決めた顔になっていた。彼は蓄積の貧弱ばかりを身にまとっていたが、彼が何の可能性もない若者であることは今夜すがすがしいものだった。
未明に店は閉まり埋立地独特の外灯と街路樹を歩いていくうち、リカは猛烈に僕を押してきて、抱いて、と初めてはっきりした言葉を言った。リカがあまりに押すので僕はがっさり音を立てて植え込みに沈み込むことになった。雪がはらはら落ちてきてコートの上に点滅した。それから互いに噛み付くようなキスをしたが、その最中にもリカの意識はぷつぷつと途切れた。息が白く煙るので窒息しそうだった。リカを宥めるとリカはすぐに腕の中で眠ったので、僕は座り込んでそれを大荷物のように抱えて耐えた。尻が冷えて痛むのを無視して……体中の筋肉がニキニキ笑った。実はまだ僕は生きているのさ、と告白したい気持ちに駆られた。
やがてカツカツと女の靴が踏み鳴らされて、
「あ、いた」
とワンレングスの女がやってきた。父親が乗用車で迎えに来てくれるそうだ。眠る前にリカを風呂に入れてやる必要があった。父は理解あるから、というワンレングスの複雑な言いようはともかく、このあと改めてリビングで食事をしようという案はたまらず僕を愉快さにげらげら笑わせた。楽しみでしょうがないことを言うからだ。あたたかい気配が集まってきたのにリカがンンと眼を開けたので、ワンレングスは雪に濡れたタイルの地面に膝を折ってやさしく「寝てなさい」と言いつけた。リカの手に女の手がやさしく重なるところ、僕も手を重ねると、その野暮らしさにうふふふと女は笑った。それは友情の起こりであった。
***
(中断)
(やはり気をつけるべきは、意気込んでしまうこと、勢いづいてしまうこと)
(あくまで他人事なのだから……ひとつひとつ、しっかり最後まで見届けること)
(他人事なので、最後まで見届けなければ、それが何であるかがわかるはずがない)
(多く、自分で「感じて」いるつもりのとき、勝手に期待や思い込みを持ち込んでいるだけだ)
(その証拠に、見届ける前に勝手に感じている)
(それでは、始まるべきことも始まらないので……)
(むしろ、何か「感じる」ことがあったとしても、感覚としては「耐える」べきだ)
("取り乱さない"ように。あなたが最大限までリラックスしていたとしても、ちゃんとついてこられるように、僕は書いている)
(だからどうか、フォロー気味になることだけはやめていただいて。それが役に立つつもりでいるのは大いなる誤解だ)
(それでは、ドライブ・アウェイ、最後の章へ行く)
***
桜がいよいよ咲き始め、リカと僕のことも終わろうとしていた。小川をやはり雪解け水が流れている。遠くの山々から、この麓まで、決まり決まったことのように……すべてのことは嘘であるように。リカはときどき布のブレスレットをするようになり、番号のついたスポーツ・キャップを被るようになった。全てのことが似合い始め、友人の輪に呼ばれれば今にも気化して溶け込んでいってしまいそうだ。
リカは僕のものではなくなろうとしていた。リカ自身のものでさえなくなろうとしていた。まもなくリカは天地自然のものとなる。少なくともリカの数年が消え、僕が再会できるとしても数年先のことになるだろう。それは寂しいことではなかった。どうせまた、いつか思い出の降り注ぐ日に、痛むほど泣くことがあるにしても、今は自分が何かしら一仕事を終えたような達成の気持ちが強かった。リカはこれから何でもない日々の無数の新しいことに引き込まれていくだろう。これからリカに出会う新しい人々は、リカが見事に整えられていて、また芯も厚く撚り合わされてあることに、驚いて恋などすることだろう。それを思うと誇らしくあった。
リカは景色と物音に、神秘を見るのをやめていた。これからの旅の準備が忙しいというように、本能がそれを閉ざしていた。リカがこの先……かつて見た全てと新しいものとを綯い合わせるのは、ずっと先のことになるだろう。僕はリカが知らない誰かと親交を深めるのに水族館にゆき、缶ジュースを飲みながらイルカのショーを見物することを夢想した。そういうことはきっとあるだろう。僕のことを、はるか昔のこととして、思い出してくれるときもあるに違いない。そう思えば、僕にはもうリカにしてやれることが残っていなかった。まもなく誠実な別れがやってくる。それはなんだかんだ、リカも僕も、お互いに真面目に付き合えたことの証だった。このリカの音もしない船出のようなことを、リカと僕しか知り得なくて、きっとリカのほうは後には忘れてしまうのだ。僕も次のところへゆかねばならなかった。僕はその後すぐに気持ちがさばさばするのだろうと、先走りに想像しては気持ちが愉快になった。
まるで洗濯物でも集める動作で、リカは服と下着を脱ぎ、特に他にすることもないので、リカと僕はまた交合もした。まるで現在までの平均値を取ったような、何の特徴も持たせない、手順どおりの交合だった。けれどもそれは、確かにこのときの僕とリカとでしか唯一絶対にできない交合だとも、生々しく感じられた。不謹慎な僕が、悪癖によって必要以上にリカを燃やそうとするのを、リカの手が冷たい他人のようにそっとたしなめた。リカは僕の下でときどき面倒くさそうな顔を見せ、ときどき何かを思いつめたようにぎゅっと眼を閉じたりした。リカの部屋もすっかり僕の眼に見慣れたものになった。リカの今後の予定は知らないけれど、すでに部屋は見放されて近く引き払われるのだろうという気がした。
交合の続く態勢のまま……リカは夕刻には出かけねばならなかった。僕がきょとんとしてそれを聴いていると、
「車の免許取りにいくから」
とリカは思い切ったことを言った。それは途端に、確実なお別れの挨拶となったので、僕はふざけきろうとしたもののうまくゆかず、交合の動きを途中で萎えさせて停止した。
無数のことがこの一時に積み重なって、それは震えるしか仕様のないことに感じられた。放っておいてくれ、という気分に僕はなったのだが、リカはうーうー唸って泣きはじめ、僕の中へ割り込んできた。あるはずもないやりのこしを、あればいいのにと探し回りながら……リカは苦しそうに、阿呆阿呆と僕のことを罵った。僕はその罵りを受けてはっと目覚めるように、
――なぜ生まれるなどしてきてしまったのだろう?
と自分の無価値を感じ取った。自分はこの世に生まれてくるべきではなかったし、今もなおこうして存在しているべきではない。手早くまとめて死に始末をつけるべきだ。そのことに気づいては、自分の引き起こしたリカへの迷惑も厚かましく忘れて、愉快になり、
「お前に運転なんかできるのかよ」
とリカを茶化した。まだ泣き止まないリカは、できないよ、とすばやく攻撃的に答えてきた。
死に始末をつけるのはよいことだった。お前に嘘をつきつづけてやる、と言うと、リカは、うん、そうして、と張り裂けそうに言った。迷惑をかけつづけてやる、と言うと、やはりリカは、うん、そうして、と言うのだ。不幸にしてやると言うと、うん、不幸にして、と答えた。また行こうなという話をして、今度はお前も運転を代わってくれよなと言うと、リカは眼を閉じたまま、それに縋るように何度も何度もうなずいた。大切な……大切なものが砕け散ってしまわないよう、ぶらさげておく紐が必要だった。まったくそう、まったくそう、とリカは頷いていた。大人の女がやる仕方で。
僕とリカはこうしてようやく、恋人になることができたのだった。……今もこの国の端々で、エンジン工業の支えるこの現代に、同じようなことが起こっている。これはその中の懐かしい思い出の、ひとつである。
***
(今体験されたように、この話はこれで終わった)
(僕は打ち上げというのがあまり好きでない。終わったものの感想を持ち歩くことをしたくないので。帰り道は、また新しく帰り道というのをするべきだ。あまり堅苦しいことを言うつもりはないが、原則としてはそうだと思う)
(感想というやつを、持ち帰ってもよいが、それはしょせん荷物であって、次のことをするにはどうせ邪魔っけになる)
(終わったものは、もう終わったので、何であったかを抱えていくのはやめにして……)
(つまり、またやりましょう、ということを、僕はあなたに言いたいわけだ。また、やりましょう。それで、今日のところはおしまいです。また明日か、またとにかく、近いうちに、またやりましょう)
(それでは、おやすみなさい)
[ドライブ・アウェイ/了]