No.276 恋人は初めからホテルにいる
初めて会ったそのときから、なあに、なんだよ、と、周囲の雑音は消えていって……初めから恋人だったということがある。満ち満ちたるとき、日々は主にそうだ。夕暮れには夕暮れの赤紫の、午前には午前の空の青さ。空の青さは海の青さより青い。その青板にカモメはロケット弾頭である。そのときは静かなものだ。陽光に灼熱する白ビル群は背を伸ばして角を湾曲させている。
どうしようもないよろこびに骨が溶けていくようだ。そこにはほんのわずかな恐怖も付きまとっている。有限の命があるというよろこびは、やがてやってくる死を背後に冷やして用意している。まあそれはしょうがない。こうして骨を溶かしてやがてわからぬうちに死ぬのならさして不服はないだろう。真実真理など見極めないまま溶けて死んでゆくのだ。
恋人は初めからホテルにいる。その足元がどのような場所であろうとも。むしろホテルの二人が駅前に立っていることがちぐはぐなのだ。なぜだろう、そうして会った二人だけは、そのことを互いに通じ合っていて、同時に、そのことが周囲にバレてはいけないということも、なにやら可笑しく、共有している。それで二人してホテルへ――何かしら二人の居場所たるところへ――逃げ込む。
骨の溶け、骨を溶かす笑みを向けていた少女は――僕には僕の側の顔はわからない、きっとマヌケだ――ホテルに逃げ込んで、一抹の不安にいちいち納得を噛みあわせて解決しながら、やはりわずかに震えているのをなるべく隠そうとして、裸身を自ら抱えシーツに倒れこむ。そして不安のまま愛され、抱かれ始めると、涙をぽろぽろこぼして泣く。どうしたのと訝っても勿論「ごめん気にしないで」と明るげだ。やがて痙攣するようにヒッヒッと声を上げて泣き始めることもある。正しいことを取り戻した確信に震えて流れる涙。危うかったところ、今日からは自己の生を無為にせずにゆける――正しいことを取り戻したのだから――ということの震える涙。勿論いくらかは、少なからぬ時間をこれまで無為へ失ってしまったということの無念さ、つらさ、悔しさもある。
後に聞いたところ――それを訊くのはまったく悪趣味だが、ごめん――やはり狎れた常識世界の観念があるにはあって、絶対大丈夫とは思っているものの、外形を意識で走査すればやはり危険で誤ったことをしているとも見えるらしい。それでも直感や直覚、骨と肉が確信する幸福と安らぎの感覚としては、大丈夫なのだから安心しなさい、ましてもう引き返すつもりも本当はないくせに……と、自分が往生際悪く駄々をこねるのを説得するところがあるそうだ。しょうがないと僕は言い、実際しょうがないと思うし、そのようであるほうがよいと思う。そうした感覚と常識観念の相反があることまで含めて全体的な健全と思うのだ。そして感覚のほうを優先して結局本当のところでは迷いなどなかったというのは、その少女が命をきちんと生かして生きていたということだと思う。そのことには勇気が要ったことだろう。誰に言われずとも少女は一人、<<やがてやってくる死が背後に冷やして用意されている>>ことを、受け止めねばとまっすぐ誓って生きてきた。そしてその勇気が本当に試されるとき、彼女は結局泣きながらも一歩も退きはしなかったのだった。
このようなとき二人の周囲の声はまったく意味を為しては聞き取られないが、そのぶん世界からは不潔さの一切が消え去る。不潔なものなどこの世界にはないということで余分な力を抜くことができる。清潔さを求めんとするいつからかの不潔さからも離れることができる。まったく血と汚泥の溜まったギャングタウンの路地裏でさえ不潔なものなどなかったのである。いまや不潔さそのものに直面すること自体が不可能なのであれば。触れ合う肉身や唇は味噌汁のように工夫の要らない事実だ。工夫が要らないとはイメージが要らないということである。誰がいちいち味噌汁のことなどイメージで膨らませようとするだろう?
聞き取られぬ周囲の声の主らについて、眺めて敢えて言うならば、あれらは巨大な誤解の時空へ絡め取られている。それはまったく巨大な誤解の時空だ。誤解の断片同士が今や密接につながり、誤解の構造体を為しているのだ。ただのその構造体は危難を回避するのにしばしば有効であるから、いかなる恋人もいざというときはその構造体を利用する。敢えて飛び込む。ちゃんと帰ってくるからと目で約束して飛び込み、途端、誤解時空の勇士となる。
誤解の時空も悪くはない。それどころかよいものに見える。それだけに厄介だ。それがよいものに見えること自体、すでに誤解の時空へ絡め取られているのだ。誤解の時空は誤解の時空なりの広大な構造を持っており、その奥行きに見えるものが人を強く勧誘する。勧誘はまったく正義に思える。それで彼は置いてきた者のことを忘れる。初めから恋人であった者のことを。出会う前から恋人であった幸福な何かのことを。
そうして誤解の時空へ絡め取られた者は、自身は誤解の時空構造を探検しているつもりでいても、いつの間にやら、それは息を止めて潜水できる時限をとうに通り越している。彼は彼自身自分を置いてきたのであるから、彼が彼自身から剥離してゆく。彼は彼のままでありつづけるが血肉を失った誤解時空の迷子である。やがてそこが彼自身の棲家なのだと思う。それは彼に安定と安心と、誤解の友人を授けるが、そのまま偽の幸福で最後まではゆけない。死はやってくるのだから。誤解時空に縫いこまれている死についての定義を、メリメリ引き千切るようにして、冷やされて充実しきった死の実体が夜毎に接近してくる。それは地鳴りのように近づいてきてやがて無視できない。自分はこれを知っているぞ! 懐かしささえそこには伴う。けれどもそれを懐かしく思い出したからには、全てどこかに置いてきたまま時間が過ぎてしまったこと、そして骨を溶かすよろこびに日々の自分が乱反射していくという満ち満ちたる日々を過ごしそこねたこと、そしてそれは明らかに取り返しがつかないということにも、同時に思い至らざるを得ない。誤解の時空はまったくそのように人を構造に絡めとっていく。それは初め興味深く、中途ずっとやさしいが、最後の最後に本性を表し牙を剥く。何しろそれは誤解の時空だ。誤解の時空が彼に最後に告げることは、――あなたは誤解していたのです、ずっと、という最悪の嘲弄でしかない。人が誤解の時空に"決して"勝てなくなってから、悠々とそのことを告げにやってくる。
恋人と出会うよろこびは、互いが見知らぬことのよろこびだ。あなたはどこから生まれてきたのか、不思議でならないというよろこび。埠頭の石棺に鎮座しては、一人を缶飲料でも買いにやらせて、そのままうずくまっていれば、それでも見知らぬその人は互いの分を買い抱えて戻ってくるよろこび。見知らぬ者から見知らぬ者へ、缶入りの珈琲が手渡されるよろこび。どうしようもなく愛せる骨の入った指を絡めて遊ぶよろこび。互いに果てしなく、あなたは一体誰なのと、問い詰めずに問い続けるよころびに、時間は天体物理のまま過ぎてゆく。二人にとっては天体が時計だ。互いがいつまでも見知りえない、それでも会ったときからの恋人であるということは、決して解けない謎としてずっと二人を包んでゆく。この謎が二人の信仰である。謎の本尊に手を触れないことが教義である。何らの"気分"も入り込まないよろこび。ここが底だからこれ以上は掘り深めようがないという明らかさに、二人の手や意欲などはずっと休み水平にのみゆく。
そのような恋人が世界中に数多いる。出会う出会わぬには関わらず――何しろ早死にする人もある――会う前からも人は恋人でありえる。会ったときに起こるのは、ほとんどそのことの確認だ。確認でしかない。このような"正しいこと"が、やはりあるのだという確認だ。こうして正しいことがあるのならば、この日々を乱反射するように生きてゆこうと自然にうなずく。まったく誤解の無い中を。時計は天体であって人為が作るものではない。人がその理に出会おうが出会うまいがその前から元々あった。恋人もそのようであって天体物理のように人為が作るものではない。これは誤解がないかぎりは自明のことだ。
林間に迷子にならぬようリボンを括りつけるならわしを真似して、誤解の時空にそれらしきものを結びつけておきたい。僕とてしばしば誤解の時空に用事を持たざるを得ないからには。まして僕は目の前の安っぽい興味や勧誘に薄弱に引き込まれてしまうだらしなさであるからには。人は誤解時空の中を歩くのでなければ、まったく数多くの恋人に出会える。誤解のない中を歩く同士なら、その誤解の無いことが元々の恋である。数メートルも離れていればまだしも、互いに手を伸ばせる手前までに近しくなれば、もう「なあに」「なんだよ」と、恋人は初めからホテルにいて、恋人は初めから恋人である。確認用途の場所がホテルである。二人はただ周囲に傷つけられないよう逃げ込むにすぎない。音楽家らが雑音のない公会堂へ逃げ込もうとすることに変わらない。
乱反射はまったく物理に沿っている。四角四面秩序の平面に居座ることこそ天地自然のエントロピーに反した異常だ。日々の天然が乱であるなら自然にはそれに反射するのみ。満ち満ちた日々はまったくそう。過ぎ去る時間の主はほとんどが恋人である。誤解のない時間も存在も、それ自体、そうと名前をつけなくてよいほどの恋人だ。光はただ直進することに倣うように、骨を溶かすよろこびを日々として乱反射すればよい。手や足や心が止まるのが恋人である。完全な見知らなさにある深い仲に困惑して笑みや戯言がこぼれて、骨がとけてゆくよろこびのどうしようもなさが恋人だ。そして生きるということはきっと、そのようなものが世界中に数多あふれているということを自身で確認する乱反射のことだ。
[恋人は初めからホテルにいる/了]