No.279 幸福の香水2
それで昨日の続きなのだけれど、今猛烈に眠くて、なんとか気付けにきつい音楽を聴いている。
こんな、秋の端緒、どうせ残暑がぶりかえすんだろうとわかってはいても、どうしようもない秋の入口には、特に思うのだけれど……
人々は抑圧されてしまっている。
彼氏に束縛されるというのはいいが、束縛が抑圧になってしまってはだめだ。
抑圧というのは苦しいことだ。
苦しさに自覚が無かったとしても、それは苦しいことで、後になって真相に気づけば、ひどい落胆をする。
僕は間違ってもあなたに何をどうこうしろなんて言わない。
あなたを抑圧してかかるのは僕じゃなくてあなた自身じゃないか。
僕は、あなたが待ち合わせ場所で、ウンコ座りで待っていたとしても、煙草を二本同時に咥えていたとしても、そんなことにいちいち反応はしないだろう。
そんなことを抑圧しようなんて神経はどうかしてしまっている。
ただし、それで、ヘンに芝居がかっているのは別だ。
僕の眼には、いや誰の眼にだって本来そうだが、それは、「ウンコ座りして煙草を吸いながら芝居がかって、それが周囲にバレないと思い込んでいる」と見える。
別にそれで、「芝居がかりたいの」と笑ってくれるならいいのだけれど、あなたそこを突かれるともう笑ってくれないんでしょう。
じゃあ、そうして笑うことが抑圧されてしまうなら、そんな自分で気に入らないことはやるべきじゃない。
僕はあなたが伸び伸びとあなたらしくいてくれたらそれでいいのだ。無責任な奴だから。責任のある人は違う。たとえば先生やご両親はあなたに対して責任があるので、あなたに口出しをしないわけにはいかない。
でも僕はそうではないので、僕は何も気にしなくて済む、ただ、あなたが抑圧されていれば、抑圧されているなと見えるだけで、そのことは僕は好きになれないというだけだ。
抑圧されたあなたを何時間眺めたって、あなたの何を見ることがあるのさ。
幸福の匂いというのは、社会的常識幸福へ矯正されて整列・行進させられているところからは漂ってこない。
その行進の中でも余所見をしてしまうところから、幸福の香水が漂ってくる。
なんというのかな……
人と会ったとき、全身からもう、「バリヤーーーーー!!」という声が聞こえてくる人がいる。
情けないことに、僕ももうそれに慣らされてしまった。
それをどうこうしようというつもりはない、けど、ただ事実の体験の話がしたい。
どれだけ理屈をこねたって無駄だ、あなた僕がそっと近づくと、どうしたって逃げるもの。
いや、逃げていいんだよ。そのことを言っているのじゃない。
あなたが別に逃げたいわけでもないのに「逃げざるをえない」という状態に、抑圧され、その抑圧に慣らされてしまっていることを、僕はやりきれなく思っているのだ。
「初対面なので」みたいなことを言う人は多い。
それについていちいち、「じゃあ初対面の全員がそうか、この世界中に一人の例外もなく?」とか、そういう意地悪を言うつもりはない。
ただ、その「初対面なので」みたいなのは、ウソだろう。本当のつもりで話しているけれど、あなた自身が信じていないくせに。
ウソをつくなと言っているのではなくて、そんなウソを増やすぐらいなら、その「初対面だからうんぬん」みたいなことは、言わなくてよかったし、言わないほうがよかった。
逃げるなら、逃げてしまうなら、ううっと、ただ逃げてしまえばよかった。
だって今のところそうなってしまうのがしょうがないんだろう。それにいちいち点数をつけて問題を発見するような、さすがに僕はそこまでの痛々しい人じゃない。
ただね、あなたは、その「バリヤーーーーー!!」を、まずヌケヌケと見せ付けた後に、そこから徐々に、バリヤーを無くしていきましょう、みたいな発想をしているじゃないか。いつの間にか。
それ、もう根本的に間違っているからね。どこでどう、そんな思い込みを持ったのか。そこは根本が違うよ、人間と人間は、「バリヤー」を見せた瞬間に、基本的には「オワリ」だよ。戦場ならもう斬られているし、野生だったらもう食われている。初対面とか、関係ない。
子供に人付き合いを教えるのに、「まず、強い強いバリヤーを張るのよ、わかったわね」なんてあなた教えないでしょう。「人間が強いということ、やさしいということ、鍛えられていて豊かだということは、まずバリヤーーーーー!! なのよ」とは、あなた教えないでしょう。
「バリヤーを張った時点で人は"オワリ"よ、バカ言わないで、怒るよ」と言うほうがあなたもスッキリするだろう。
人と向き合うということは、根本的に怖いことだから、バリヤーを張りたくなる気持ちはわかる。
それにこのごろは、悪徳商法や詐欺がひどく横行しているし、社会的に猟奇的な事件も多い。
だから、万事につけ、世の中が怖いという刷り込みが強くなるのは当たり前だ。
僕だってむしろ、バリヤーを張らないと危ないよと、あなたに当然のこととして警告したいとは思っている。
ヘンな奴に気を許しちゃダメだよと。
新入生が大学のサークルに勧誘されてコンパについてったらレイプされたとか、そんな話は聞きたくないものね。まして自分がそんな被害に巻き込まれるなんて、考えるだけで恐ろしいよ。 それで「バリヤー」になるわけだけど……
ただ、それにしても、そのバリヤーの保険と安心感は、何も正しいことじゃないんだ。そこを誤解してはいけない。
バリヤーを張るように、慣らされているし、義務付けられているところがあることに、悔しさ、怒りを持っていなくちゃいけない。
わかってもらいたいのだ、それがさっきから言っている、「抑圧」なんだって。
あなたはまず「バリヤーーーーー!!」から始まって、その後もおおよそ「バリヤー」でやりくりしていく。人とつながらず、思うことをそのまま言うでもなく、おなかの底から笑うわけでもなく、腹が立ったことをそのままその人に言うわけでもなく、バリヤーの中から薄笑いをしていごまかしている。
それをやめろとは言わない。やめろとは今さら誰も言えなくなっている状況があると思う。
でも、腹を立てないとな。「抑圧」には。
どうしても保証するしかない、絶対ということがあって、それはつまり、「バリヤーの中にある人からは、絶対に幸福の匂いなんかしない」ということ。当たり前だ。バリヤーの中の幸せなんて馬鹿げた話は初めから無いね。
僕はできるかぎり、バリヤーなんか張らないようにしている。それでもし厄介な連中に付け入られたら、しょうがない、戦って倒すというつもりでいる。いざ戦って倒せるならバリヤーを張る必要は無い。
まあそれは、男性だからできることだけれど、かといって、男性だから常に大丈夫というわけでもないんだよ。最悪に悪質なのに絡まれたら、即日殺し合いになることだってあるのかもしれない。誰がナイフを隠し持っているかわからないじゃないか。
でもまあ、それで刺し殺されるようなら、僕が言うほど強くもなくて、運もなかった、つまり幸福の香水が途切れていたということなんだろうな。そのときはそれでしょうがないと思う。
破滅を引き受けるつもりなしに成功を探しに行くな、と、僕はよく言っている。大げさだが、よく言ってしまっているので、自分で言ったことは、あるていど自分で引き受けないとな……
街中でヘンな売り込みや手相がどうこう言う人が絡んでくると、ついそれがしつこい場合、「お前の顔からウソがにじみ出てるぞ」なんて、急に巻き返しをしてしまうことがある。「人の手相の前にお前自身の顔を鏡で見ろ、いやこれは真剣に」と詰め寄ってしまう。
そしたら向こうは作り笑いがガタガタになってどこかに行ってしまう。
宗教の勧誘が来て、脈がないのだからさっさと引き上げればいいのに、しつこいと、「声が出てないわ!」と食って掛かってしまうことがある。「お前の信仰やら修行やらいうのはこの程度の声も出んのかオイ」と、ゴモットモなことを言って巻き返してしまう。
バリヤーの中から、とは言わないけれど、「そんな内側にこもってボソボソ言われてもこっちには全然聞こえへんのじゃ」みたいに言ってしまう。すると向こうはすごすご帰っていく。
なんで帰るんだろうね。修行中じゃなかったのかよオイと、追いかけて捕まえて最後まで詰め寄ってやろうかという気がしないでもない。とっ捕まえて、「声を出せ、出してみろ」と一時間でも追い詰めて。修行ってそういう厳しいものだろう。
そうして、バリヤーの中でモソモソするのに慣れっこになってしまった人は、もう本当のことがまるでわからなくなってしまう。それで、たまには僕のような人間もいて、こっちがその気になればそんなものバリヤーでも何でもないのだ。バリヤーを無視して踏み入ってしまえばいい。
そうして不意に踏み入られると、バリヤーの中で安心していたやり方の全てがぶっ壊れてしまって、もう急いで逃げるしかなくなるのだ。
別にそれが悪いとは誰もキメツケられないだろう。そうしたバリヤーの中でしか現状をしのげないというケースだってもちろんあると思う。
が、結局のところ、「お前それでいいのか」ということ。「そんなふうになりたいのか」というと、やっぱり望んでそうなりたいわけじゃない。「みっともないと思わないのか」というと、やはり内心ではみっともないとは思っているのだ。
じゃあやっぱり、どうすればいいかというと、まず腹を立てるしかない。自分がなんだかんだ、抑圧されているということに。バリヤー無しで生きられないように抑圧されているのだ。そのバリヤーを、着たままでいいから、腹だけは立てなくちゃいけない。それはどんなにみじめでも、最後まで持っていなくてはいけない自分という人間への尊厳だ。
バリヤーがありありと有る人に幸せの匂いなんかするわけがない。
人間は、いかなるときも、バリヤーを張った瞬間に、いろいろと「オワリ」だ。逃げたとか負けたとか引きこもったとか言われる。誰に言われなくても自分でそう認めてしまう。薄々。
間違っても、「まずバリヤー状態からスタートして、徐々に……」なんて、思い込んでは決してダメだよ。それは純粋に、科学的という次元で間違っているから。
犬と仲良くなるためには、「まずクギバットと電気ムチと熊よけスプレーを構えてじりじり近づき、時間をかけて徐々に武装を解いていくのです、そして頑丈な軍手で撫でれば大丈夫です」なんてあなた言わないでしょう。
犬が好きで、犬をよく見てきた人は、目の前の犬の表情や身構え方で、仲良しなのかそうでないのかは、「見たらわかるじゃん」と言うだろう。
ただし、単なる犬好きや、猫かわいがりの「動物好き」はダメだ。僕の友人で、一時期このタイプだった人が、僕の目の前で、おばさんの連れている犬にいきなり手をガブリとやられたことがある。手の甲に犬歯が刺さって血が出るほど強く噛まれた。
彼女はそれですごくショックを受けたが、今はもうわかっている。引き続き、やっぱり動物好きで犬好きだ。でももう、ワンちゃんという記号に条件反射する可愛がり方ではなくなった。犬が両足を踏ん張っているとき、それは怖がっている身構えだということが、「見たらわかるじゃん」というようになったし、犬の視界は真上には狭くて、上から触ると犬は怖がるのだということもわかるようになった。キャンキャン鳴いて走り回る犬についても、興奮して怒っているけれど、噛み付いてくる犬じゃない、ということがわかるようになった。
そうなればもう、犬に対してバリヤーを張る必要はなくなる。「見たらわかる」んだから。バリヤー無しで、無防備であるわけじゃない。無防備だとまたガブリとやられるだろう。無防備なのではなくて、危険かどうかは「見たらわかる」から、いちいちバリヤーを張る必要はなくなったのだ。「触らないでね、怖いよ、噛むよ」という身構えをしている犬が、「見たらわかる」のだから、わざわざバリヤーを張ってそこに手を突っ込むようなことはしなくていいじゃないか。
そうして人間と犬ならわかりやすいのに、人間と人間ならすぐにごまかされてしまう。人間同士は確かに、バリヤーを張ったままで済ませられる用事がたくさんあるからだ。仕事中などはどうしたってそういう側面に縛られる。
でもバリヤーのままでは幸福の香水は決して漂ってこない。ちょっと昔話をしよう。僕が昔、通りすがりに女の子をナンパしたとき、僕が度肝を抜かれるぐらい、警戒心のない女の子がいた。それも、実はたくさんいたものなのだ。そして決まって、
「悪い人じゃないというのはわかったから」
と言ってくれた。
それにしても、「時間あまりないけど、それでもいい? じゃあ付き合っちゃう」と言って、向こうからいきなり腕を組んで歩いてくれた人がいた。もう過去のことだからバラすけれど、そういうことはそこまで珍しいことでもなかったのだ。特にこういう、秋の入口の明らかな日に。そういう人はよく、「わたしも男だったらね、こうしてナンパしてみたいと思ってたの」と言っていた。
もちろんそういう人は、新宿の駅前であるような、いわゆる名物としてのストリートナンパについていくわけじゃない。彼女自身、「わたしが男だったら」という基準があって、男だったとしてもそういうストリートナンパがしたいわけではなかったから、そういうものについていくわけではなかった。
終電に乗って、電車の中で目の合った女性と意気投合してしまい、ずっと話していて、彼女の駅が来た。連絡先を交換したかったけれど、そういう時間もあまりなくて、また当時は携帯電話がなくて家の電話しかないというのもあった。残念だけどここでお別れ、またどこかで会えたらいいな、みたいなことがよくあった。
それで、電車からとホームからとで、「バイバイ」と見詰め合って、電車が発車しまーすとアナウンスがあってから、彼女が急にバッと手を伸ばしてきて、僕を電車から引きずり下ろしてしまったことがあった。「え、あっ」と、引きずり下ろされて、「お前、バカ、これ終電……」と言うのに、言うが早いか、プシューとドアが閉まり、もう何か急にどうでもよくなり、二人でゲラゲラ笑ってしまい、彼女が指差すので振り向くと、電車の中で一幕を見ていたまったく見ず知らずの同乗者たちも、笑って、何人かはこちらに手を振っていた。「よろしくやりや」という声が聞こえた気がした。
そういうことがいくらでもあった。人間、初対面でホテルに行くというのはそんなに難しいことじゃないけれど、初対面で自分の下宿に連れ込むとか、もっとすごいときには、初対面から彼女の実家の部屋に忍び込むということまであった。「そーっと、そーっと……大丈夫、いっつもこうやって友達泊めてるから」と、ヒソヒソ声で廊下を案内されて。それで、確かに彼女の親御さんは二階に来ないからよかったのだけれど、弟さんが何も気づかずいきなりドアを開けて飛び込んできて、「おねえちゃ……うわ!」ということがあった。そういうときってどう挨拶したらいいのだろうね。まあ、はじめまして、としか言いようが無い。小さい声で。それで「おねえちゃん」が風呂に入っている間、僕と彼はプレステで勝負して遊んだ。ゲームは僕のほうが上手だったので「また来てや絶対」と言われた。
バリヤーが無い状態というのはそういう状態。僕は正直、生きるうちのけっこうな時間を、そうして縁も所縁もないところで「ほっつき歩いて」過ごしたことになるけれど、その中で結局、今までのところ、トラブルに巻き込まれたとか巻き込んだとか、厄介事になったということはなかった。もちろんナンパだけではなくて、知らないおっちゃんに焼き鳥屋に連れて行かれたり、ヘタすれば新幹線で隣り合った縁から「ウチの婿養子に来ないか」と真剣に口説かれたこともあった。
「幸福の香水」の話。何の話をしているかというとずっとこのことの話。
そんなナンパなんかで、ついていくのはどうかしている、まして実家にこっそり連れて行くなんて、ありえない、と、それがありえなく思えるのは、そこに「幸福の香水」が抜けているからだ。
昔の話としてだが、ナンパの極意を教えよう。彼女がいきなり腕を組んできてくれて、「悪い人じゃないというのはわかったから」というのは、つまり何のことを言っているかというと、幸福の匂いのことなのだ。「悪い人」といったって、そう街中に邪悪な人間がゴロゴロいるわけじゃない。そして、単に「悪い人ではない」という理由だけで、女の子がナンパに乗っかってきてくれたりしない。
そうではなくて、幸福の匂いなのだ。僕だって女性を見てアッと感じるときは、彼女から、幸福の匂い、「幸福に向かっている人の匂い」を感じるからだし、彼女が「あっ、来ちゃった」と僕の襲撃を受け止めて、笑って乗っかってくれたのも、そこに幸福の匂いがあったからだ。
「悪い人じゃないというのはわかった」というのは、この人と何をどうしたって、暗いことや不幸なことに引っ張っていかれることは無いと、直感的に信じられたから、ということだ。そのことが信じられなければ、見ず知らずの人間にそうホイホイついていったり、自分の家に連れて行ったりはしない。まして婿養子に来ないかなんて話を持ちかけたりするわけがない。
お互いのことを何一つ知っているわけではないのだ。でも、まさに「匂い」であるから、お互いに何も知らなくても、その匂いはわかるし、「この人は幸せのほうへ行く」というのはわかる。そしてそれがわかるのならば、差し当たり十分じゃないか。逆に言えば、その人が幸せのほうへ行くのか不幸のほうへ行くのかがわからなかったら、その他のいくらゴモットモなことを説明されたって、そんなことはアテにならないし役に立たない。
いわば幸福の香水、その匂いがするということは、最優先のパスポートみたいなもので、これがなくては根本的に話にならないし、これさえあれば、多少の手続きはすっとばしても、なんとかなるものなのだ。
昨日は「怒り」について話したけれど、怒るべきときに人に怒りを向けられない人は多い。帰宅してから「ムカついた」とツイートするばかりという人はとても多い。それは、怒るべきときに人に怒るというのは、バリヤーを取り払い、突破して向き合う行為だからだ。何も感情的になることはなく、怒りをはっきり向けて、一発言ってしまえばすべて済むことを、バリヤー状態から出られないから、いつまでも済むべきことが済まずにいく。
一言でいって、そういう奴は、根本的に信用できないじゃないか。どこか、肝心なところで。人に怒りを向けない人は、一見いい人に見えるけれども、その「いい人」は、必ずしも「信じられる人」ということではない。たとえば父親が娘に対するのだって、煙草を吸ったり髪の毛を染めたりするのは、ものすごく怒って絶対に許さなかった、だけど、「進学か就職かはお前自身で決めたらいいよ」と、そちらには笑っているのなら、ああこれはお父さんの声なんだ、と信じられる。それが、怒るべきときに怒らないで、「煙草を吸うかどうかはお前が決めることだし、進学か就職かもね、お前の決めることだよ、でも父さんは○○ちゃんの喫煙は好きじゃないなあ」みたいになことでは、いったいこの父親は娘に向かって何が言いたいのか、まったくわからないじゃないか。こんなものは娘から見たって父親のことを「信じられない」となるわけだ。
バリヤーを張っていない女性だったからこそ、僕のだらしないナンパにも、彼女は笑って乗っかってくれたわけだった。でもその彼女が、気弱で流されやすくて、人に向ける怒りの力を持っていないかというとそうじゃない。僕は一度驚かされたことがあった。駅のホームにいたとき、いわゆる「鉄オタ」が、電車の写真を撮っていた。でも夜だったから、階段から、ふらふらと酔っ払ったおじさんが降りてきたのだ。それで、写真の画額におじさんが入り込んだのだろう。鉄オタは、「おい、どけよ!」と怒鳴った。言われたおじさんはびっくりした。鉄オタも、彼は彼なりに、その一枚に必死になっていたのだとは思うけれど……
それで、僕の脇に座っていた彼女は、喫となって怒った。「なにあれ、おじさんかわいそうじゃない!」と怒った。「かわいそう」というのは、酔っ払ってごきげんだったところにいきなり罵声を加えられて、楽しい時間をつぶされたから、ということだろう。確認していないけれどそうだと思う。「かわいそうじゃない」という彼女の声は、僕ははっきり覚えているのでそれ自体は間違いない。ずいぶん昔の話だが、僕は実家の自室をあされば彼女の写真がまだあるはずなので、彼女の眼差しの勁(つよ)さもまだ覚えている。
彼女は、小柄で細身で、いかにも女の子なのに、立ち上がってその鉄オタに詰め寄ったのだ。「あなた何なんですか? あなたが勝手にやっていることなのに、おじさんかわいそうじゃない!」と。その迫力といったらなかった。鉄オタは震え上がったし、僕まで一緒に震え上がってしまった。鉄オタは、最もみっともないことだと思うが、何も言えなくなって、とにかく自分をごまかす表情で、ひたすら逃げるように去っていってしまった。そこにある正当なものの全てに無視を決め込んで逃げていった。
この彼女が、まったく見ず知らずの僕が「居酒屋に行こう」と誘うのに、「いいね、行きましょう」と笑って答える女の子なのだ。あらゆる意味で"バリヤーが無い"という意味がわかってもらえると思う。
そして、そのような彼女は、そこから不幸になっていくだろうか? 僕はまるでそんな気はしないし、あなたもきっとそんな気はしないはずだ。彼女には彼女の大変さが、生きていく中ではあるだろうけれど、全てを通じて、彼女が不幸になっていくという気はしない。それは、もし彼女が困難や不幸にぶつかったときには、必ず誰かが彼女を助けるだろうと信じられるからだ。それは、もし自分がそのとき彼女の近くにいたら、ほうってはおけない、なんとか力を貸そうとしてしまうだろうと、自分でわかるからだ。そのとき彼女のことはきっと自分にとって他人事ではない。バリヤーの無い間柄でやりとりした誰かのことを、人は他人事には感じないものだ。
このようなことは、原則、昔のことだと言わねばならない。悲しいけれど、時代の変化を認めないというのは現実的でない。ただ、時代が変わったとはいえ、全てが消えうせたわけではなかろうし、たとえば彼女の逸話が尊敬に足るもので、彼女はきっと幸福になっただろうと信じられる、その幸福の香水の名残までが認められなくなったわけではない。
しかし、もし、人はそうしてバリヤー無しに人と向き合うべきで、鉄オタに怒りをはっきり向けて対決するのも、一方でだらしないナンパに乗っかるのも、実は同じこと、ひとつのことなんだと、認められるとしたらだ。なぜ今は、誰しもそのように認めながら、そのような自分へとは進んでゆけないのだろう。そうして進んでゆくことは容易ではないにせよ、進んでゆくのが容易でないということと、進むべき道がつぶされてしまっているのとでは、やはり話が違う。
そうして、本当には尊敬できて、認められるところへ、自分が行けない、その道がつぶされているというのは、「抑圧」だと僕は思うのだ。この「抑圧」は今巨大なもので、なんとかなるさとごまかせるような状態ではすでにない。それで、結局どうしようもないか、どうしようもないところはあるにしてもだ。それが「抑圧」であること、そして自分がそれによって「抑圧」されており、本来の進みたい方へ進ませてもらえないということには、怒りを絶やしてはならないと思うのだ。「時代さ」とか「そんなもんさ」とか達観ぶるのは簡単だ。そしてそれは簡単であるだけに、それをやってしまってはいけない。それはただのお上品な敗北だ。同じ敗北をするならせめて、悔しさに血が滲むようでなくてはいけない。
一時期から、インターネット上でブログというのが流行り、「前略プロフ」とか、その他SNSといったものが、爆発的に流行した。今も流行しているし、個人が枠を借りて活動する動画サイトや、ソーシャル・ゲームなどの新しい形態も増えていっている。
でもそれらの全てが流行したのは、結局のところ、何かしらの形で、人とのつながりを拡大したかったからだ。言わずもがな、人は一人ではつまらないものだし、状況によって、学校生活や社会生活だけでは、人とのつながりが偏ってしまい、また広がりが得られないことがあるから、人は自分なりの拡大の道筋を持ちたかったし、その拡大ができる自分でありたいと望んでいた。
元々の、その、人とのつながりを広げてゆきたいという当たり前の衝動がなければ、SNSはここまでヒットしなかった。今でも「LINE」などで、夜中のチャット相手を探し回る人はいくらでもいるのだけれど、これは今から二十年近く前、ポケベルの流行と共にあった「ベルトモナロ!」のメッセージと変わらない。テクノロジーが進化しただけで、やっていることや求めているものはまったく変わっていない、同じだ。
でも、そういったツールに頼るというのはだ。結局のところ、本来の方法である、「幸福の香水」を感じ取りあい、保ちあう、という方法からの脱落だった。
言い方は悪いが、SNSにアカウントを持って、いわゆる「絡みやすい」ふうに自分を仕立てて、「絡んできてください」と宣言したり、自分なりに「絡みにいく」テクニックを身につけるのは、誰でもできる。簡単なことだ。別に小学生でも出来ることだし、事実そうして小学生でも巻き込まれうるから社会的に潜在する問題になっている。極端にいえばそんなものは、そういうのが得意な奴に「代行」させることだってできるのだ。それぞれの端末の向こうで誰がタイピングしているのかなんてわからないのだから。僕のように膨大な量をタイピングするというならちょっと無理があるが、今むしろ「絡みやすい」といえば、受け取りに容易な短文をマメにやりとりするのが主流だろう。その点、逆に言えば、僕はその気になれば、その「代行」の役割を、十人分でも二十人分でも引き受けることができるだろう。チャット・メッセージ程度にそれぞれのキャラクター付けや「絡みやすさ」を演出するなんて簡単なことだ。
でも本当に、誰もがそんなことをやりたかったのか。代行で済んでしまうような、アカウント上のやりとりで「意気投合」なんて。もちろんそれをツールとして利用するのは、現代の事実だし、利用できるものを利用しないというのは、頑なで不自然だと思う。けれども、「本当にやりたかったことは?」といったとき、本当にはそのアカウント上のことではないと思う。「幸福の匂い」がそれぞれにあって、見ず知らずですれ違ったときから、何かお互いに、「そうだよね」と仲が良かった。お互いのことをまったく知らなくても、お互いに初めから信じあうことができた。お互いに、「この人は幸せの匂いがするもの」と。それだけ知っていれば、その他のことはどうでもよくて、その他のことをあまり知ろうとするのは、逆に「野暮」よと、そう胸を張って言える中を、本当は行きたかったのではなかろうか。
もし、本当に行きたかったのはそっちの側で、でもそちら側への道がつぶされているというのなら、それは「抑圧」だ。つまるところ、「あなたには、あなたが求めている本当のものを、生涯与えられません」「ネットでゴニョゴニョしてガマンしてなさい」という。これには怒りを持たないほうがおかしい。
バリヤーの中からモソモソ話す。いくら上等なことを上手に話したって、バリヤーの中からでは声はモソモソにならざるをえない。
声を出すということには、実はたいへんな勇気が要る。人に声を向けて、言葉を向けて、人に声を伝えるというのには、実はすごく勇気が要るのだ。単に大きな声を出すというだけなら簡単かもしれないけれど、声に「輪郭」を持たせて発話するというのはとても勇気が要るのだ。あなたがもし専門のボイストレーニングに掛かるときがあったとしたら、先生に、自分の声に「輪郭」があるかどうかを訊いてみたらいい。まず「無い」と言われるだろう。初めから声に輪郭があるなんて何百人に一人かしか持たない才能だ。
もちろん、発声の技術として声に輪郭を持たせたからといって、それだけでどうなるわけではないのだけれど、その発声の技術として声に輪郭を持たせることさえ、実は勇気が要るのだ。声楽のソリストかボイストレーニングの先生に訊いてみたらいい、「声を出すのって"怖い"ですか」と。そしたらきっと、「そう、だから怖がってはいけないんだよね」と言ってくれる。
声ひとつを出すだけでも、本当はそれぐらい難しい。いっそ、ほとんどの場合、人は自分の本当の声を出さずに人生を終えるものだと言ってしまってよいぐらいだ。ましてそれを伸び伸びと人とぶつけあうなんて。そんなことはできないように「抑圧」されているし、あなたはどれだけ自分で勇気を出したつもりでも、まずほとんどの場合、人のバリヤーを破壊しない程度に、無意識の加減をして声を出してしまっている。その習慣は本当におそろしく根深いものだ。
でも、「もし」、全てが僕の話している通りだったらどうする? つまり本当に、あなたが本当の自分の声を、一度も出さずに生きていくのだとしたら。そのとき、僕はどうやってあなたから本当の声を聞けばいい。どうやってあなたと本当のことを話したらいい。あなたの声は、これまでもこれからも、人に本当届くことは、なかったし、これからもないのだということだったら、あなたはどうする。怒らなきゃいけない。
僕はあなたをヘコませたいのではないし、気持ちを消沈させたいのではない。僕はあなたを抑圧したがっている側の存在ではない。もちろん、抑圧されてバリヤー状態になっているあなたのことを、「お前が不甲斐ないんだ」と厳しく見る視点もあるだろう。そちらも半分以上正しいとは思う。けれど僕は自分の身の程から考えたとき、そういう視点に立つ気持ちになれない。ただ「抑圧されている」と見えて、それは僕にとってはなにやら悔しいことなのだ。
あなたの怒りをあなた自身にに許していないのは僕ではなくてあなた自身のはずだ。
バリヤーを張っている側と張っていない側なら、張っている側のほうがもちろん疲れる。ひどく疲れる。バリヤーの分のエネルギーをそこに割いているのだから当然だ。だいいち、そういう息苦しさの中では、安心はできても疲労は溜まるものだ。
バリヤーを張っていない側は、その分疲れずに済む。バリヤーが無い分、人とぶつかる感触は激しいけれど、そのぶん人のことがよくわかるし、自分がどういう未熟さで人とぶつかってしまうのかというのもよくわかるようになる。そこにはたくさんの痛みが残ることもあるし、あるいは嫌われることも多くなるのかもしれないが、そうした痛みの感触が残るというのは疲れるということとは違う。
特に、嫌われるというのは大事なことで、人は人にある程度嫌われていなくちゃだめだ。全員に気に入られようなんて虫が好すぎるに決まっているし、それはそれで人のことを抑圧しているのだ。目の前の人について、「自分を嫌いになる権利」を抑圧している。そんな、人の心の権利を侵害するようなことをしてはいけないよ。伸び伸びと、こちらを嫌うなら、嫌わせてやったらいい。
嫌われるというのは、別に大したことじゃない、雨の日に傘を差さずに出たら雨に濡れるというだけのことだ。バリヤーが無いのだから。でもそんなことで人間はヘコたれるわけではないし、むしろこちらが堂々と、本当に堂々と、「あなたが僕を嫌いになる権利に口出しはしない、伸び伸びとしていてくれ」という態度でいると、もちろん本当に嫌われはするのだけれど、そこから逆に、「でも嫌いじゃない」という態度が返ってくることがある。そういう気概のある人からは特に。
逆に言ってみれば、本当に人に嫌われようと自分から積極的になってみても、そうして「嫌われる」ということだって、実は難しいものだ。気概のある人からは、「あなた面白い人よね」と言われてしまうし、ましてこちらの幸福の香水が切れていなければ、どう嫌われようとしても微笑まれてしまうことさえある。一度やってみればわかるが、そういう正面からのやり方で人に嫌われるというのはそんなに簡単なことじゃない。もちろん汚らしくすれば、その汚らしさで嫌悪されるのは簡単だけれども、そんなものはツイッターで人の悪口ばっかり言っていれば済むのだから、そんなことは考えなくていいだろう。
女性にちょっかいを出して、ビンタというのは実際にはまず無いけれど、手首のあたりをバシッと平手打ちで払われることはある。ところが、こちらが堂々と、「あなたにはそうして僕を嫌って拒絶する権利がある、それだってあなたの声だね」という態度を貫いていると、その平手打ちでむしろ「打ち解ける」ということさえあるのだ。手首程度といっても、人の身体を平手打ちするのには勇気がいる。バリヤーを突破してついに飛び出した彼女の行動を、こちらがバリヤー無しで受け止めたら、彼女は「あれっ」となる。「嫌いだけど、バリヤー無しで、わかりあえる人ではあるんだ」と、その平手打ちの感触で瞬間的にわかってしまうことがあるのだ。それでむしろ打ち解けるということがある。嫌いだけど信用はできる、みたいなことによくなる。
「フヌケ」という言い方がある。漢字で書くと「腑抜け」で、腑とは五臓六腑の「ぷ」のことで、要するに内臓のことだ。はらわた。もちろん解剖学的な意味ではなくて、東洋人が感触として得てきた内臓的な感触のことを、言葉として「腑」と当てた。フヌケというのは、この内臓感触が無い、弱く失われて、抜けている、ということを指している。
よく人のことを悪く言うのに「カラッポ」という言い方をするじゃないか。あの人言うことは立派だけど中身はカラッポよ、なんて。そのカラッポというのはつまり、腑が抜けていてカラッポだということだ。人と人とが、バリヤー無しで接触するのには、カラッポというわけにはいかない、腑がみっしり健やかに詰まっている必要がある。そうでないとカラッポでふわふわ、流されるままになってしまって、こんなものはもう人間ではない。
そして、もう言わなくてもわかってもらえるかもしれないけれど、この「腑」が、「怒り」の器官でもあるのだ。よく「腹が立つ」「はらわたが煮えくり返る」という。それは「頭にくる」とか「むかつく」というのとは違う、正しく腑から沸き起こる怒りだ。人間は、この腑があるから、人間同士として付き合える。この腑がなければどうしようもないから、そのどうしようもなさを諦めて言うとき、人は人に「フヌケ」と言わざるを得ないのだ。
腑抜けになってはいけない。いくら抑圧があるにしても、抑圧されていることへの怒りまで絶やしてはいけないというのはこのことのため。腑を失ってしまったら、いつかのとき、人とちゃんと触れ合える機会があったときに、もう抑圧とは関係なく、自分の機能として人と触れ合うということができなくなってしまう。
スマートホンを指先でモゾモゾいじっていたって、そんなことに腑は関係ないというのはいかにもわかる。もちろんスマートホンは便利だからいくらでも使ったらいいが、それしかしないとかそれに頼り切るとかいうのでは、腑のほうはやがて弱りきって抜けてしまう。現代、人と付き合うのに、初対面からバリヤーで、その後もバリヤーのままなんとかしていくというのは、表面上は上手くいくように見える。実際そのほうが上手くいくところもあるだろう。が、そのバリヤーの中の安心感のうち、腑のほうはどんどん弱りきっていく。やがて行き着く先には、お互いに内心で、互いが腑抜けだということを知っていながら、むしろそれだからこそ付き合いやすいなんて、バリヤー越しのやりとりでひまつぶしをして生きていくのかもしれない。そんなことになってはもちろんだめだ。僕が見てきた限り、そんなゴマカシで最後まで生きていけるように人間はお気楽に作られていない。どこか途中で絶対に叫びだしてしまう。そして冷酷だが、そうして叫びだしたときにはもう恢復はほとんど不可能なのだ。
余談だが、中国武術には、背中から身体を壁にドシンドシンと打ちつけて、内臓を鍛えるという発想があるらしい。もちろん専門的にはもっと精密にやるのだろうけれど、内臓への発想自体があるのが面白い。太極拳の先生が「イライラしやすい人は内臓が鍛えられてないね」と言っていたのを聞いたこともある。武術の専門的なことはわからないけれど、でも確かに、いわゆる「ちゃんとした人」「しっかりした人」、腑抜けでない人というのは、その姿の見た目にも、内臓がしっかりと強いような印象を受ける。あなたも色んな人のことを、その姿の印象として思い出してみたらいい。いくら細身の人でも、バリヤーの無い人、幸福の匂いがする人、ちゃんとお腹から怒りを向けられる人というのは、その姿に内臓がしっかりしている印象がある。意識がアタマや顔面に集中していない感触がある。それでなんというか、自分がドシンとぶつかっても、この人はヨヨと崩れたりしないだろうな、という直感が、なぜかあって分かるものだ。
幸福の香水、幸福の匂いのこと。幸福に<<向かう>>人からする匂いのこと。見ず知らずの人の、何がわかるって、「内臓が好い、腑が好いって、見たらわかるもの」ということ。それに比べて、何が「バリヤー」だ、そんなものはいかにも馬鹿馬鹿しい。腑が強くてしっかりしているなら、そうそう用事もないのにバリヤーを張って過ごすことはない。そうしてバリヤーの無い人は、バリヤーを張らなくていい分、疲れずに、色んな人と触れ合うことができて、もちろん怒るときはすっごく怒って怖いだろうけれど、何はともあれ、幸せになっていく。「この人は幸福のほうへ行く」と直感できる。そのことの匂いだ。その幸福の香水が、あなたの身体からいつも出ていなくてはいけない。それはあなたにとって、全てに優先して、本当に大事なことだ。
今すぐにというわけにはいかないだろうし、本当に壁に背中をドシンドシンぶつけたって、そういうのは専門家の指導なしには良い影響は得られないものだ。逆に内臓を悪くするだろうからやめたほうがいい。今のところは「腑抜けバリヤー君」であったとしても、それはしょうがない。僕はそれを今馬鹿にする気にはなれない。ただ、それならそれで、自覚しないでは行き先がないし、何より、そのような状態へ自分が押し込められていることの、「抑圧」への怒り、この怒りがなくては話にならない。怒りが全ての端緒になると思うし、怒りがなくてはきっとどこにも糸口はないと思う。
あなたの話は、つまらない話でいいんだ。つまらない話でいいから、あなたの腑からの声が聞きたくて、あなたとあなたの姿から漂う、幸福の香水を嗅ぎたい。
[幸福の香水2/了]