No.280 幸福の香水3
連日、同じ話をしてしまっている。この話はこれでおしまいにしよう。
人が幸福になるのに、努力が必要だというのはおかしいと思う。
子供が「お母さーん!」と甲高い声で母親を呼ぶのは努力の成果ではないはずだ。
なんの話かというと、家庭環境の話をしたいと思っている。
家庭だけでなく、身近な、「環境」ということについて……
連日、いかにも駄文が続いてしまっていて、大変申し訳ない。
が、なぜかこのことは、緊急的に話したいという気がしたのだ。
昨日、「抑圧」ということの話をした。
抑圧といえば、社会の全ては基本的に抑圧なのだが、それは当然として、じゃあどの抑圧がキツいか、という疑問がある。
どの抑圧がキツいのかについては、単純な話、「身近な順」に、その抑圧はキツくなる。
一番キツいのは、幼子に対する両親からの抑圧だ。
たとえ両親がどれだけ幼子を迫害していたとしても、幼子はその親元で過ごさねばならず、親の言うことを信じて、従い、生きていかねばならないのだから。
身近さの順で言うと、そのように、家庭、学校、職場やクラブサークル、交際相手、社会全体……というような順番で、まあ並んでいると言えるだろう。
どんなものでも、それが身近でないならば、それはその人に強い抑圧を与えることがない。たとえば二泊三日の海外旅行先でいじめられたということは、小学校の六年間でずっといじめられたということに比べたら、問題にならない。
クラブ・サークルの先輩が、いやらしい人ばかりで、放課後のクラブ活動は憂鬱だったわ、ということの抑圧は、幼いころから両親の暴力を受けてきた、ということほどには深刻ではない。
幸福の香水、幸福の匂いの話だが、それは願わくば、全ての「環境」が上手くいって、環境によって、その人に宿され・与えられるものであるのが理想だ。
両親は愛し合っており、尊敬しあっており、父は娘である自分にときに強く怒ってくれた。教師も自分に怒ってくれたし、友人も自分に怒ってくれた。クラブ・サークルの先輩も、仕事の上長も、交際相手も、自分が愚かだったとき、強く怒りを向けてくれた、「ただそれだけよ?」というのが理想だ。
反省する余地もないほど、怒られて、怖かった、震えあがった、というのがいい。
もしあなたが、「この子は典型的に、幸福の匂いがすると思う」という女性に出会ったら、その子の父親はどうだったかを聞いてみたらいい。たぶん、「わたしが子供のころは、お父さんすっごく怖かった」と話すことが多いだろう。
詳しい仕組みを話すと冗長になるし、今は仕組みを話すためにこの話をしているのじゃないが、幸福の匂いがする人というのは、まずほとんどの場合、どこかで人に「怒り」をしっかり向けられるということを体験しているものだ。
主人に厳しく躾けられた犬の眼が落ち着いて輝いているようにだ。
(なんか犬の話ばっかりしてしまうな、すまない)
ときに、「この人はすごく上品で、やさしくて、善良だし、前向きで熱心で、賢いのだけれど」ということがある。「でも、幸福の匂いがしない、この人が幸福になっていく感じがしないの」と感じられることが。
そういう人は、たいてい、誰かにしっかりと怒りを向けられるということを体験せずに来ているのだ。
「幸福の香水」ということについて、環境はまったく大事だと思う。
全てを環境のせいにしていては、どうしようもないが、環境を無視して自分の努力だけでどうこうというのは、現実的ではないし、逆にわがままがすぎるだろう。
環境が大事ということは、「身近な」環境こそ、大事さの順位が高く、つまり身近なものほどインパクトが高い、ということになる。
だから、家庭環境がこのことに大きく影響するのは当然のことだ。
ただし、僕だって、別に家庭環境がよかったわけではないので、それを理由に自分をごまかすというのも、やはり逃げ口上に過ぎないだろう。僕の両親は憎みあって離婚してしまったし、僕は幼い頃から姉のヒステリックな暴力を受けて育っている。幼少期の僕は神経症に追い込まれる典型的な環境の中にあったと言えるだろう。
でも、それがどうしたという話で、それは子供のころの話に過ぎず、僕はいつまでも子供ではないのだ。引きずるのもバカな話だし、乗り越えるというのも、おセンチな気分に浸りすぎに思う。僕自身は正直、もうそんな過去のことに何の思い入れもない。乗り越えた記憶も別にないのだ。いつからか、「そんな過去のことに関わってられるか」と、忘れてしまった。
過去のことを未来に当てはめて憂鬱ぶるのは科学的でないので僕はきらいだった……まあその話は今はいいだろう。
抑圧という話を前回して、今回は「環境」ということについて話している。その、抑圧も環境も、まず「身近な」それが問題になる。身近なものほどインパクトが大きい。それで第一に話はやはり家庭環境になると思う。
よい家庭環境を与えられた人のほうが、やはり、天然の、幸福の香水を与えられてあることが多い。それは残酷なほど、はっきりしたことだ。
よい家庭環境というのは、家が広いとかきれいな洋服を着られたとか、そういうことじゃない。上品とか高級とかの環境ではなくて、こじれた抑圧がなかったかどうか。バリヤーがなかったかどうかだ。それで、「お父さんが怖かった」ということは、お父さんは娘にバリヤー状態を許さなかったということなので、よい環境が与えられたな、ということになる。
かといって、怒りというのはもちろん、DVではない。別に張り手の一発ぐらいどうでもいいと思うが、本質はそこではない。暴力的な父親というのは、家族におぞましく思われるだけで、その存在が畏怖を与えているということではない。強くバリヤーのない父親はきっと、「大好きだけど怖い」という存在だろうが、粗暴なだけの父親は「別に怖くはないけど、暴力振るうから危なくて嫌い」という存在だ。仏像とダイナマイトがあったとしたら、正しく怖いのは仏像のほうで、ダイナマイトは単に危険なだけだ。
そんなことまで話さなくてよかったが、とにかく、現実的なことを考えれば、多くの場合、幸福の香水は環境によって与えられ、宿されるものだ。
環境的に不利だった人、あるいは、今も不利である人は、とりあえず、「不利だな」ということを自覚しなくてはいけない。「怒られたことないもの」というのはすごく不利なことなのだ。
極端に言えば、「怒られたことないもの」という状態は、<<どうしても醜くなっていくように強制されている>>とさえ言えるほどのことなのだが……今はそこに重点を置いては話せない。
まあそこは、典型的には「ドラ息子とか、セレブ娘とかね」というあたりの含みだけで、今回は済まさせてもらう。
環境と抑圧の話を今回はしたい。
最大に身近な環境、家庭環境による抑圧というのは、ごく幼いころからも始まっている。
わかりやすい例で言えば、子供が両親を呼ぶときの声だ。
子供の声というのは本来、「お母さーん」「お父さーん」「おじいちゃーん」「おばあちゃーん」と、それを呼ぶ声が、まあタマランほど甲高いものだ。バキバキに声を出して呼びかけるものである。
ところが、環境的に抑圧がある場合、すでに幼子の頃からでも、「お母さーん」と呼ぶ声が、もうモソモソしている。
本能的に、声が届かないように呼びかけることを、すでに学んでしまっているのだ。
そのたいていの場合は、まあ、両親が不仲ということが一番多い。
不仲のまま、夫婦・家族関係を破綻させないために、強固なバリヤーを張り巡らして、お互い生活している。その中で、やはり子供も、バリヤーの存在に本能的に気づくのだ。
間違っても、「お母さーん!」と思い切り呼びかけて、「お母さんは、お父さんのこと、好きなの?」と聞いたりしてはいけない、ということを、子供心にわかっているのだ。子供だってそうして、家庭が破綻しないように本能的に気づかって振る舞うのである。
それで子供がどうなっているかというと、いい子にしているのだが、その「いい子」の正体はつまり「抑圧」だ。
「あっ、今はお父さんが不利だ、今わたしはお父さんのほうにいてあげなきゃ、かわいそう、お父さんとお母さんが壊れちゃう」というようなことを感じて、娘はお父さんの愛娘ぶりを振る舞ったり、割とするものである。
僕は幼い頃の記憶が消えない性質の人間なので……僕は母親から口移しで離乳食を与えられていたときの記憶がある。そしてそのころから、すでに人間は、食べ物について好き嫌いがあるものだということまで記憶している。僕は母親に抱かれながら、口移しに与えられるニンジンにガッカリし、そのたびごと、次は鶏肉が与えられると期待して待っていた。
まあそれはいいとして、とにかく、子供はそのように、子供心にもいろいろわかっているのだ。感じ取っている。ずいぶん幼い頃からでも、実は抑圧の中を生かされることがあるのだ。
そしておそらく、子供が実はそうしているということを、両親のほうも気づいている。心のどこかで。それできっと、両親のほうにも引け目になっている。その引け目があるともう、「父親は子供に厳しくしないと」なんて言ったって、引け目のせいでダメなのだ。娘が万引きをしてきたとして、それがうすうす、両親である自分たちの不仲が、こじれてそのような形で娘に噴出しているというのを、感じ取ってしまうものだ。それで「怒り」といっても、娘に怒りはぶつけられない。「どうしてこんなことをしたの!」と、言った瞬間、自分の背中に後ろめたさが走り抜けてしまう。「どうして」ということの真相を、本当は自分で知っているから。
そこで怒りをぶつけるのなら、本来、自分と自分のやっている不仲の夫婦関係にまずぶつけるべきだが、こちらの不仲ぶりはもう年季が入りすぎていて、まずどうにもならないものだ、日常的な範囲の中では。
そんなこんなで……家族として、「表面的に仲良く」、上品に、問題のない家族のように、<<やりくりしてきました>>、ということは、実際の例として、世の中に多いものだ。家族全員で抑圧を分担しあって、というような形。そりゃ抑圧しないとそもそも両親が不仲なのだからしょうがない。夫婦が今さらお互いに「愛していない、尊敬もしていない、それどころか正直世界で一番イヤ、この結婚が人生で最大のぬぐえない後悔」なんて対決できるわけがない。
もちろん夫婦だけでなく、嫁・姑というのも根深い不仲になることがあるし、血のつながった親子だって、長い軋轢の中で深く憎しみあっていることはいくらでもある。
家族というのは、制度としても文化としても、当然必要なものだが、必要でありながら、同時に強い抑圧を持つものでもある。その中で子供というのはもっとも抑圧を直接受ける存在になる。夫婦喧嘩で、夫婦は互いにヤケクソになれても、子供はヤケクソになれないのである。子供は抑圧に蹂躙されるしかなく、それで環境によっては、「お母さーん」と母を呼ぶ声さえ、弱くモソモソとした、抑圧の中で許される声しか出せなくなったりするのだ。この子供が学校に行くようになり、急に友人の名前だけ伸びやかに呼べるようになるというのは、単純に言って辻褄が合わない。人に思い切り呼びかけるということを、していいのか、またどのようにしたらいいのか、家族の中で学んできていない。
そうなるとやはり、学校でも豊かに友人と呼びかけあうということはできなくなり、いじめの対象になってしまうリスクも高くなるだろうし、たとえ友人ができたとしても、やはり家庭環境で学んでしまった、「とにかく壊さないように振る舞う」ということを続けてしまうだろう。すごくいい子、やさしい子、上品で、気遣いのできる子と言われながら。ときにはその意味で、「重宝」までされながらだ。
そうして育ってきた人は、やはり「いい人」だし、やさしくて、気遣いのできる、上品で、関係を壊さないように振る舞う人、になるだろう。そしてそれは、なんら問題があるようには見えない。表面上はひたすらいい人で、万事ちゃんとした、上手くいく人に見える。それは彼女の家庭が、「表面上ちゃんとした、何の問題もない家族」に見えたのと同じで。
でもそういう人には、もう自分にも他人にもそれと気づかれない、馴染みきったようなバリヤー状態がある。そのバリヤー状態は、人に迷惑をかけるわけではないし、こちらにストレスを与えてこないので、「そういう人」と、むしろ良いように「個性」の表れだと見て取られるばかりなのだが、それは本当には彼女の個性ではないし、本当は当人にとってしんどいのだ。当人はそれで慣れてしまっているから、そのしんどさにもう気づかなくなっていることが多いけれど。
それで、結果的にどうかというと、そういう人は、どう見てもバッチリいい人なのに、「幸福の匂いがしない」という感触になる。幸福の香水が漂ってこない。「すっごいイイ子なのに」と言われる。当人は誰よりも努力しているし、誰よりも弱音を吐かない頑張り屋なのだが……
何が足りていなくてそうなっているかというと、つまりは、一番初めにあるべきだった、子供のころの甲高い声なのだ。彼女から見て、両親は自分にやさしかった、決して悪い家庭ではなかった、わたしは両親のことを尊敬していると思う、「だけど」だ。子供のころ、「お母さーん!」「お父さーん!」と、甲高い声で呼びかけることを、環境として許してもらえていなかった。抑圧されてきたのである。そんな遠いところまで遡る必要がある。それは遠いところというよりは、「根源的なところ」と言うべきだろう。
ちょっと残酷だけれど、このことをはっきりさせる実験も、やり方としてある。たとえば、僕の10m前方に、あなたに立ってもらうとしよう。あなたは僕のほうに背を向けて立っているとする。
そこに僕が、あなたの名前で呼びかける。呼び捨てでいいだろう。たとえば「花子ー!」と。これは、呼びかけるということの、ごく当たり前の行為だ。10mというと、例えば学校の教室の隅から隅へ、対角線ぐらいの距離か。当然、声の届く距離だ。呼びかけられたあなたは当然僕のほうを振り向く。「はーい、何?」と。
これを、まったく同じ状態から、まったく同じように呼びかけさせるとして。そういう実験をすると、その「呼びかける」ができないのだ。<<子供のやるようにただ甲高く呼びかけるだけ>>というそのことができないのである。呼び捨てにすることさえ心理的に抵抗があって、「花子、さーん……」というような呼びかけになる。「気づいてくれたらいい、でも気づかれなかったら別にそれでもいいや、向こう次第」というような呼びかけ方。そんなものは本来「呼びかけ」といわない。
彼女は確かに、「イイ子で、上品で、人を気遣える人」なのかもしれない。けれど、どうだろう? 彼女という人間には、本当に、そうして10mの距離で背後から呼びかけるというような能力も具わっていないのか。そんな、野良犬でも持っているような当たり前の能力が、彼女に具わっていないわけがないのだ。
だからだ。続いているのである。「抑圧」が。おそろしいことながら。何十年もかけて。
「呼びかける」として、そのことの能力がもともと無いわけではない。発声器官が健常であれば、そんな程度の能力が具わっていないわけがない。問題は能力ではなくて「抑圧」なのだ。その抑圧は非常に強固なものだから、たとえばそれを解決するために三年間演劇学校に行った、劇団にも入った、舞台も踏んだ、としても、やはり解決しないのである。デカい声は出るようになるかもしれない。でも、ただデカい声(音)を出すのと、「呼びかけ」をするのとは別なのだ。だいいち、子供でさえ「お母さーん!」とできるようなそれを、いちいち専門の学校に通わないとできないなんてことあるはずがない。
幸福の匂い、幸福の香水というのは……もう想像がついていると思うけれど、たとえば待ち合わせ場所にいたとき、その背後から、呼びかけの声が届いてくる。僕の場合なら「九折さーん!」と。10m向こうか、ともすれば、信号をまたいだ向こうで、もう20m以上の距離から。それで振り向かされて、見遣ると、こちらに大きく手を振っている。その声と姿と振る舞いから、幸福の匂いがしないわけがない。そのような彼女が、全てを通して不幸に向かって行っているなんてことあるわけがない。彼女の呼びかけの伸びやかさに、誰が抑圧を見つける? あなたの場合だったらどうだろう、20mの距離があったとしたら、やはりスマートホンからチャットメッセージを飛ばしてしか、僕に呼びかけられないだろうか。人それぞれあるだろう。
前回もお話ししたとおり……僕は「抑圧」に押し込められている人を、それを理由に責めたり、馬鹿にしたりする気にはなれない。それこそ現在の「環境」が、何もかも許してくれない、ということだってあるはずだ。ただ、抑圧は苦しいことなのだから、その苦しさには気づかなくてはならないし、今すぐにはどうしようもないにしても、その抑圧への「怒り」を絶やしてはいけない。「今すぐにはどうしようもないけれど」と、納得なんかしていてはいけないのだ。怒りに燃えていなければ。
あなたも一度、誰にでもいい、背後のずいぶんな距離から、名前で、声で、思い切り呼びかけられたらいい。そのときあなたはきっと無性に嬉しいはずだ。何か心の奥がキラッと暖かくなるはずだ。それでどうなるかというと、あなたはその一瞬のよろこびから、逆に慌てて、自分用のバリヤーを張りなおすのかもしれない。そういうことだってきっとある。それを何とかしろというのは、僕の身の程を超えてしまうから、僕がただ言えるのは、そのときは自分のその反応に対して耐え難い怒りを覚えなくてはいけない、ということだけだ。人がバリヤー無しに呼びかけてくれているのに、自分だけ都合と習慣でバリヤーを張るなんて人間として最低の行為だ。どうにもできなくてもその「怒り」だけは保っていなくてはならない。
環境の影響は絶大だ、とつくづく思う。もちろん、環境のせいにしてナットクで済ませていたって何にもならないけれど。とはいえ、原型的には、たとえば、教師が自分の名を鋭く呼ぶ、それでズバッと起立するというような、当たり前のことなしに、「環境がなくても自分の素質だけで獲得しろ」というのは、現実的にいって無理だと思う。教師が生徒に呼びかけるのに、「○○さぁーん、○○さん。このページの、始めから、読んでくださーい」というバリヤーぶりでは、むしろ学校はバリヤー上手のやり方を生徒に教えていることになるだろう。
環境、特に、家庭環境というのは……それぞれに独特なところがあって、外側からは何とも言いにくい。家族、身内だからという甘えで、単に厚かましく馴れ馴れしいというだけの呼びかけになることも多いから、それはそれで、また違うしなあという話になる。言うまでもなく、家族同士で「イライラ」しあうのは「怒り」ではないし。
だから、あまりケースワークとして、考えるべきではないのだろうな。ただ必要なのは、不要な抑圧のない環境だ。子供なら子供らしく、甲高く、女なら女らしく、伸びやかに、男なら男らしく、太く強く、呼びかけたり、話し合ったりできる環境。当たり前の環境。その点は、「お行儀よく」というのは最悪だ。お行儀というのは、つまり「機能的抑圧」ということだが、そんなものは、根源的なことができるようになってから、上にかぶせて使うものだ。布施明の姿や振る舞いはまったく紳士然としているが、彼の歌声の芯まで「お行儀がいい」わけではない。わかりにくいか……
「幸福の香水」ついて連日話した。なぜか緊急的に話すべきだという気分になって、駆り立てられて話してしまった。正直駄文になっていると思う。別にそれはいいのだけれど。
なぜ急にこんなことを立て続けに話したのか、僕自身にもよくわからない。が、僕はどうも、<<万全に整備された美しい客船が、暗い海へと航海を進めている>>光景をしばしば見ているような気がする。船上の人たちはそりゃあ微笑んでいるだろう。バッド・ストーリーの映画というのは、もうタイトルが出る前の映像の雰囲気からして、「あっこれは幸福の匂いがするものではない」というのがわかるじゃないか。それと同じで、僕はそのスクリーン上にある微笑みの主に、待て、行くな、と呼び止めたいのである。おせっかいとはわかっているのだが、他にやり方がどうあるのかが僕にはわからない。
全てが僕の思い過ごしならいいな、と思うのだが、もうそんなことを僕は十年ぐらい思ってきた気がする。
もうひとつ、はっきりした理由もある。幸福の香水、幸福に<<向かう>>人の匂いというのは、わかってもらえたとしても、そのことの背後にある「抑圧」というようなことには、まずふつう気がつかないだろうという、このことには確信があったからだ。そんな、"ありふれた"抑圧、すっかり慣れて、問題とは感じなくなっている抑圧を、いちいち「抑圧だ!」なんて気づいてキックしようとするのは、よほどの抑圧ギライでないとやらないことだし、気づかないことだ。
だからそのことについては、僕のような奴が取り立てて話すことには、それなりの値打ちがあるだろうなと思った。「お前らにとっては問題でも何でもないだろうが、おれにとっちゃ大問題だぜ、こっちは抑圧アレルギーなんだから」というようなこと。
連作の話の冒頭に、確か、クソなものにはクソと言え、みたいなことを言った気がする。まさに駄文だと思うが、まあ今回に限ってはいいのだ。今回に限っているかどうかは大変あやしいが。
クソなものにクソと言えないのは抑圧じゃないか。クソなものにクソと言えない奴が、どうして好きなものに好きと言えることがある。どうして美しいものに美しいと言えることがある。どうして花子に「花子ー!」と呼びかけられるわけがあるのだ。
もちろん、年がら年中、社会生活の割り込む中で、常に抑圧なしでブチマケているわけにはいかないし、そんなことでは特に現代の集団生活はやりくりできないが、それにしたって抑圧は抑圧だ。怒れ怒れ、と僕は思う。
逆に、僕がクソだというなら、そのクソにはクソと言うべきという、伸びやかな声が聞きたいな。そのとき僕はきっと笑ってしまっていると思う。感情的になるのはだめだよ。話の始めに言ったように、ワンちゃんがしゃがみこんで尻から落としたものはクソだ、クソであるに違いないというのに、感情的になることはない。僕は今書いているこれを自分で駄文と言っているが、それはつまりクソ文ということで、クソ文と言わずにきたのは、単にクソ文というのが正式な国語として存在していないからに過ぎない。
さて、いよいよどうでもいい話になってきたから終わろう。
あなたは実は、抑圧されたバリヤー状態の中にいて、本来の力の1%ぐらいしか出せておらず、あなたのこれまでの「精一杯」というやつは、その1%を2%まで振り絞ってみたというぐらいに過ぎず、本当はその50倍ぐらいの力は出るよということで、
「あなた本当は心当たりあるくせに何言ってるの」
ということだった。
ではでは、またね。
[幸福の香水3/了]