No.299 笑うのをやめてから笑え
大晦日の、夜の七時だ。呑み始めているし、イクラもたらふく食ったので、すでに集中力はほとんどない。
先日のこと……場所は郊外の大型複合店の、茫漠と広い駐車場だったが、夜、僕は借り受けたハイエースの中で、狭さに膝を畳むようにして、一冊の本を読んだ。旅先で時間が余る具合だったので書店に寄って本を買ったのだった。耐え切れずエンジンを回しても、ウインドウに降り積もるミゾレで車体は凍るようだったが、まだ走り出す予定は立たなかったのでずっと読んでいた。氷に閉じ込められたふうで孤独だが車中は不衛生で臭い。村上龍の有名なエッセイ連作の新刊にあたるそれはタイトルを「賢者は幸福でなく信頼を選ぶ。」と冠されていた。僕は気に入らない本は初めの二ページも読まずに捨てるタチだが、これは大いによろこんで読んだ。章順01の副題が「寂しい人ほど笑いたがる」となっており、僕はこのことをよろこんだ。
(以下、抜粋)
「なじみのホルモン・焼き肉屋に行くと、ひっきりなしに大声で話し笑い合っている若者の集団といっしょになることがある。その店は肉もおいしいし、雰囲気も悪くないのだが、一人2980円で飲み放題というコースがあるので、若者もよく利用するのだ。専門学校生の飲み会みたいな雰囲気で、うるさくてしょうがない。楽しく飲んでいるのだから大目に見ようと思うのだが、わたしが還暦を過ぎて不寛容になっているせいなのか、眺めていて、どうも楽しそうには見えない。そんなに大声で笑わないといけないのだろうかと思ってしまう。誰かが何かを言うと全員が、思いっきり大声を上げて笑う。飲み放題のコースは時間制限があるので、彼らはたいてい早めに解散するのだが、帰り際には、哀れで見ていられないほどの寂しそうな表情になる。一人になるのがいやなのだろうと思う。」
「不自然な大声で笑うのは若者たちだけではない。定宿のホテルのバーには、たまにおじさんたちの集団がいて、彼らも不自然なバカ笑いを繰り返す。(中略)おじさんたちの集団は、若者たちと同じように爆発的な笑い声を響かせる。」
「バカみたいに大声で話し、笑い合う人々を見るたびに、きっと辛い人生を送っているんだろうなと思う。一人で暮らしていてほとんど他人と話すことがない人が、たまに誰かと会うと爆発的に喋るのと同じだ。誰かと笑い合うという雰囲気に飢えていて、たまに実現すると、大量の電気信号が脳を流れ、興奮物質が異常に分泌されるのだろう。」
「アジア系ロシア人のユーリ・アルバチャコフというボクシングの世界チャンピオンがいた。(中略)ユーリは、寡黙で、目を合わせても、ニコリともしなかった。もちろん愛想笑いなど皆無だった。そのことを言うと、『笑う理由がない』と答えた。本当にかっこよかった。ユーリは、理由もないのに笑う必要がなかったのだ。」
「テレビのCFでは、誰もがよく笑っている。もっとも笑顔が多用されるのは住宅のCFかもしれない。三世代住宅のCFでは、祖父母から孫までが、何が可笑しいのかわからないままニコニコしている。いつも何かに似ていると思って見るのだが、新興宗教のパンフレットだった。」
(章順06)「大声を上げて話し笑い合う若者のグループがいると、わたしも大声を出さなければいけなくなる。たいてい仕事の打ち合わせも兼ねているので、ものすごく非効率的だし、とにかく疲れる。」
「大声で話している割りには、若者たちのグループが何について話しているか、ほとんどわからない。とにかく誰かが、大声を発し、発作的な高笑いが起こる、単純なその繰り返しだ。ほとんど会話になっていない。」
「一人が話し、それをみんなでじっと聞く、などということはほとんどない。誰かが大声で何か言うと、みながいっせいに笑い、また誰かが非常に大声で叫ぶように話し、そういったやりとりがえんえんと続く。」
(抜粋終)
……年越しにムードが浮かれるのにあやかって、もうそろそろ話してもよいかなと甘やかして、あのときのことをバラしてしまおう。再開させたパーティ企画の、何回目かのとき、僕はこのことについて話した。「笑ってごまかす"習慣"があるから」と僕は指摘した。そして、そのゴマカシ笑いを一時的に、実験として禁じた。
それで、何が起こったかというと、途端に、いくつかの、はっきりとした険悪さの、言い争いのようなものが起こった。それぞれ正論じみているが、それよりも剣呑さが限度を超えてある。そのような実験をしたらそのような結果を生じるということを、僕はもちろん知ってはいたわけだ。そのうち、きつい言葉が交換されるばかりになって、それを中間で傍聴していた女性が、神経が細いタイプだったので、ショックに耐え切れずに、やがて泣き出してしまった。
うら若き女性が人前で泣き出すというのは、威力のあるもので、途端に、「どうしたの」「どうして泣いているの」と手を差し伸べる具合になった。けれども僕は――先に、自分のおとなげなさについてお詫びしておく――彼女をショックに泣き出させた当事者が、どうやら本格的にその自覚が無いようだったことに、驚きと怒りをカッと覚えて、そのまま、
「お前らの話し方が冷たいからやろが!」
と、その当事者らを怒鳴りつけてしまった。「どうしたの」「どうして泣いているの」、じゃない、その当事者がお前らだろうが! ということは、怒りとして正当に思えた。
そのとき、僕の隣にいて、その怒号を直撃された女性が、胴体をビクッとさせて、目を丸くして驚いたことを、映像的にはっきり憶えている。自分でやっておいてマヌケな話だが、あんな怒号はおよそ日常的に耳にする声ではない。頭に来て大声を出す人はいくらでもあるが、腹を立てて怒号を発する人は今とても少なくなった。僕の書き話すものにシツコイほどの読み解き方をしてくれている人は、「頭に来る」というのと「腹が立つ」というのとはまったく別の現象だと、理論上に限ったとしても、ご存知でいてくれているはず。
怒鳴られて目を丸くした女性は、後に、「あんなに人に怒られたのは生まれて初めて」と話した。誰でも想像がつくように、その事件依頼、彼女は僕に親しみを覚えてくれている。たとえ怒りであっても、はっきりとした感情を向けられたとき、人の距離は遠ざかるのではなく近づく。人の営みは、胴体でするものだと、このところ、自分でうざったく思うほど、話していると思う……
だけど、本来僕は、そんなことを、テクニカルに分析して捉えたいわけではないし、営みをするための胴体開発のメソッド、みたいなものを作りたいわけではない。
まあ、年末だし、大晦日だし、もう集中力もないので、文体と論調を慎重に作り上げることは、放棄してしまおう。無礼講というやつだ。文体の構築なしでそのまま言えば、つまり、村上氏の言うように、街中で見かける大声の「楽しそう」というやつは、全部ニセモノなのである。本当には何も楽しくなくて、仲良くもなくて、営みでもない、会話にもなっていない、ただの神経の興奮習慣でしかないのだ。だから結果的には疲れる。疲れるだけで、人との距離なんか縮まらないし、人に親しみなんか覚えないし、人のぬくもりなんか感じられない。人と人、お互いがいることで励まされる、というようなことも起こらない(ただし、「慰め」にはなる)。そんなことは、人間の本来の営みではないので、そのことをゴマカすために、随所にゴマカシ笑いを挟むことが必要になっている。
そのあたり、詳細にどういう仕組みかということについては、それこそ「現代と恋愛」に全部書いてあるはずだ。でも僕は、本当にはそんな話をしたいわけじゃないので、それでも必要に駆られる感触で書かざるを得なかった、それで分類が「レクチャー」として新設されてあるのだった。まあそんなことはいいか。
いわゆる「楽しそう」とか「リア充」とか、「イケてる」という感じや、「仲間」というふうのもの、あれらは全部ウソのニセモノである。誰でも、薄々は気づいているんじゃないかと思う。それをやっている当事者でさえ。どこか自分と自分たちがウソくさくて、本当は楽しくない、しかも本当は疲れているということを、薄々は知っているのではないかと思う。でもたぶん、「かといって、どうしようもない」と、それをやめたら、いろいろ手詰まりになってしまうのだろう。時にはもちろん、その薄々知っていることに目を向けることもある、でも、手詰まりで、その手詰まり感に押し潰されるとき、「病んでるわあ」と自分の情況をツイートするのだと思う。
こういう言い方は不遜で不潔な感じになってしまうが、まあ無礼講だ。いつも僕が「聞き流せ」と嘯くアレである。まず、笑ってごまかすという習慣、このゴマカシ笑いの習慣は、今ほとんど全ての人に、強固きわまる習慣として染み付いているのだが、これをやめた途端、人は今のところ、衝突することしかできなくなる。冷たくて、剣呑で、殺伐とした、険悪さに向かってしまう。そのことについて、僕自身はどうかというと、そりゃもちろん衝突せずに、人とコミュニケートすることができる。これまで何度もその実演をさせられて、その実演を目撃した人も、これまででもう、結構少なくないはずだから、年末ぐらい不遜に言い放ってしまってもいいだろう。それで、いい加減、その見世物のような実演を要求されるのも、御免こうむりたい。夜中の公園で、絡んできたタチの悪いホームレスを、手早く、かつ愉快に、ホームレスのおじさんに笑い声まで与えながら、追い払う、ということまで実演してみせた。それはそのときの分かりやすい実演例にはなったろうが、僕は本来、こういうのは人に見られないようにこっそりやるものだと思っている。好奇心の見世物にされるのは誰にとってもすさまじく不快だ。
無礼講の続き。極限まで平たく言えば、現代日本人は、「イケてる」「リア充」「楽しそう」という演出の中で、本当にはただ「イヤなこと」をお互いにやっている。お互いに「イヤなこと」をやっているので、そのたびごと、ウソ笑いでごまかしを入れていくしかないのだ。そのウソ笑いを取り去ったらケンカになってしまう。なにしろ、それで実際にケンカになってしまったのでもあるわけだ。これはまったく、今ものすごく多くの人が、この状態にある。
僕はこのことについて、ダメなことだ、問題だ、と、短兵急に責め立てる意図はない。問題だから責め立てる? そんな安直な発想は、もう何年も前に置き去りに捨ててしまった。とっくの昔に、最早そんなイージーな問題ではなくなっている。その問題がシリアスすぎるということで、以前に、「胴体インポテンツ」という話をしたはずだ。インポテンツは、ご存知のとおり深刻である。不能になってしまったものは、不能になってしまって、しょうがないのだから、深刻だ。
うーん、たとえば、必死で「イケてる」ふうに、努力を気張っている人間に、「お前のやっていることは全部ウソのインチキで、お前はイヤなことしかできない人間。だからいつも笑ってごまかしている」だなんて、いきなり指摘できるか。そんなことはもう、心理上も人道上も、するべきではない。当人だって、やりたくてやっているのではないのである。そんなところで踏ん張っている人間を追い詰めたら、彼はもう脅迫的態度をもってしかこちらに向き合えないだろう。
まあ、無礼講として、聞き流してね、という前提でだ。僕自身は、僕の周囲がもう十分に目撃しているように、愛想笑いなんかしないし、大声で話したりしないし、爆発的・発作的に笑ったりなんかしない。僕一人が話し、みんながそれをじっと聞く、ということは、僕に限ってはしばしばある。でもそれでも、僕の実物の印象は、笑わない人、などではないはずだ。こちとら大阪のアホ学区のアホ小中高校の出身だ。二十四時間いたずらのことばかり考え、悪評で屈指の内申書を書かれるように育ってきたのだから、実物の印象は、よく笑う人のはずだし、笑えること・笑わせることばかり考えている人間の印象であるはずだ。
僕の場合は、あまり褒められたことではなくて、愛想笑いとか空気を読んでノリを合わせるとか、そういったことへの耐性や体力が、あまりにも少ないだけだ。愛想笑いを、しないではないのだが、コンマ数秒で力尽きてしまう。力尽きると、「あっ、もういいや、変人だと思われよう」ということで、「ああこれでスッキリした」となってしまう。僕はアタマを使うことや神経を使うことがひどく嫌いで耐性が無いのだ。それで、「イケてる」「リア充」「楽しそう」「仲間」といった類の気配からは、最大に遠いのである。僕は神経から声や態度を出すのが大キライなのでしょうがない。
それで、さあ、何の話をしているのかまったくわからなくなってきたが、じゃあとりあえず新年は、みんな、笑うのをやめよう。愛想笑いやゴマカシ笑いをやめよう。それで、ゴマカシ笑いをやめて、人と衝突するばかりだったら、それはあなたがそういう人間なのであって、ただそのことへのゴマカシをやめたというだけだ。それはうれしいことではないが、事実のことなので、まあしょうがないことである。
愛想笑いやゴマカシ笑いの変わりに、ムスッと威圧的になってみたり、高飛車になってみたり、「不思議ちゃん」になってみたり、いろいろある。でも、それらのどれもが、とにかくウソのインチキなので、まあやっていることは同じだ。そういったことも全部やめよう。全部やめよう、という前に、「それって何をやっているんだよ」という話なのだが、そうしてボヤいたり警告したりする時期はもうとっくに過ぎた。ボヤきや警告がありえたのは最低限でもあの震災以前である。もう足掛け三年前になろうとしているのだ。だからもう、そんな手遅れの段階は無視して、とにかく全部やめる。ウソとインチキの態度や顔面や声や言葉をやめるのだ。うーん、これは少なからざる人にとって、「お前の持っている全てをやめろ」と言っているに等しくなるが、しょうがない。
いつから人は、おいしくないものについて、おいしいと感じてもいないのに、「おいしーい」などと言ってしまうようになるのだろう。むしろ本当においしいときは、人は無言で「……えっ?」と驚くものだ。そして笑う。ようやく本当に笑う。おいしすぎるものは可笑しいのだ。まあそんなことはいいか。
恋愛を題材に、話をしてきて、もう何年になるのだろう。毎年毎年、時代と状況が変わっているのだなあということを、ひしひし感じる。特にこういう年末のときは。
何も恋愛に限ったことではないが、とりあえず二〇一四年は、笑うのをやめたら、まともな恋愛が始まるよ、ということにしておきたい。始まるかもね、ということだが、たぶんこれは、リスクもありながら最短距離だ。
***
一つ前のコラムで、シリアスな話をしてしまったので、あの重たい内容のまま、年越しをしたくない、という気持ちがある。封建主義なんて、今はもうひたすらハズカシイだけだし、その封建主義文化の中で女性を脅迫して迫害するなんてもってのほかだ。
もってのほかなのだが、同時に、まったく別次元のことも、僕は知っているつもりだ。つまり、先のコラムは、女性たちに「まったくそのとおり」と受け取られうる一方で、女性として、「テンションが下がる」という側面も持ち合わせている。これはしょうがないことなのだ。しょうがないことだが、それにしても、脅迫とか迫害とか封建主義とか、とにかくハズカシイから禁止、ということを先行させることを論旨にした。第一、ストーカーにしたって、それって何十年前の遺物なんだ。法や倫理道徳以前に、古すぎてハズカシイという理由だけで十分ハズカシイものである。
ただ、それでも……たとえば岡本太郎は、「レイプがセックスの原型かもしれない」と指摘した。レイプ願望に耽る男性も女性も、この岡本太郎の言を、「わかる」というつもりになり、本当には何もわかっていないのだが(年末だからって口が悪いな)、とにかく、本当のことを言えば、迫害しないと濡れない女性がいるし、迫害されないと濡れないと自覚している女性もいる。迫害というのはセックスの上で必要な要素でもあるのだ。このことは、取り扱いに危険なテーマなので、まず一般には話されないし、一般でなくてもふつう話さないほうがよい。
そのことについて僕が話そうとしているのは、しょうもない、一種の数学の話なのだ。迫害はセックスの重大な一要素であり、迫害されないと濡れない女性がいる。かといって、
「だから女性を迫害していい、女性は迫害されていい、という話にはならない」
ということだ。これは数学として見ればきわめて簡単な論理の接続問題だが、前も言ったように、もっとも単純な動物であるようなタイプの人間は、この初等の数学が、どうしたってわからないのである。
たぶん、ある種の男性は、どこかでそうして、「女性を迫害すると何か特別な感じになるよ!」ということだけ、偶然発見し、快感的に学習するのだろう。それで、そのやり口をひたすら繰り返すようになる。ものすごいアホについて話しているみたいだが、それでも例えば麻薬中毒者はこのようにして出来上がってしまうのだ。
お互いにリングに上がることに合意して、ゴングが鳴れば、そこからお互いに、獣のように殴り合っていい。それで「特別な感じになるよ!」というのを体験し、よろこび、追求していくのはかまわない。が、その「特別な感じになるよ!」ということしかわからず、ゴングが鳴っていないのに殴りかかるのは、それ以上説明のしようのない、ただの「間違い」だ。男女それぞれに具わっている性について起こる、性の営みだって、そういった仕組みがあり、その仕組みから逸脱したら、同じくただの「間違い」になる。
女性には確かに、迫害しないと濡れないところがある。そういう性の性質が具わっているのだが、この性質に、勝手に触れてよいわけではないのだ。当たり前だ。そうではなく、むしろ逆で、女性は、迫害されないと濡れないということを、どこかで知っているので、「この人になら迫害されてもよい」という人を、慎重に選ばねばならないのだ。もし女性にこの性質がなく、濡れることと迫害とが無縁であったら、きっと女性はもっと気軽にセックスの相手を選べるだろう。
少なからぬ女性が、若い頃に、「とにかくたくさんの人とセックスしてみよう」と発想して、それを実際やってみて、「そうか、これじゃやっぱり、こんな程度にしかならないんだ」ということを体験で確認して、その「たくさん」の時期を卒業する、ということがある。それは、そうして彼女のトライした「たくさん」というのが、性的な友好としてのセックスばかりでしかないからだ。それは、性的に「たいしたことない」ことでしかないから、そうして「たくさん」できるのである。それはそれでレクリエーションとしての効果はあるだろうし、性的に欲求が旺盛な人には生活様式の一部にもなるだろうが、やはり友好の範囲でしかないので、性的なテンションは高まらない。それで適宜、納得と、裏側にはガッカリも含めて、その「たくさん」のトライアルを「卒業」する。
女性を迫害するなという話が、女性を納得させつつも、テンションを下げるというのもそこだ。女性への迫害を完全に禁じてしまうと、それはつまり友好としてのセックスしか存在しないことになり、そのことは女性にとって「あまり濡れない」、テンションの低い世界像となる。
それで、僕としては、女性のテンションを下げて、あまり濡れない話で一年を締めくくるのはイヤだなあということで、この話を付け足しのようにしている。ただそれにしても、社会的な営みをしている中の女性に対し、脅迫や迫害を勝手に仕掛けるというのは間違いだ。その間違いがあったとき、女性は恐怖するし、混乱もするし、それ以上に失望する。迫害によって女性は濡れる性質があるが、女性は何も濡れるためだけに生きているわけではない。
簡単に言うと、女性を濡らしてはいけないのだ。濡らしてほしいと思っているとき以外には。また、この人に濡らされたいと、思うか興味を持ち始めているとき以外には。男性が女性を口説くというのは、男性が女性を濡らすということではなく、女性に、「この人に濡らされたら素敵かも」という想像力を起こさせるということだ。だから口説くというのは、その時点ではほとんど性的ではないのである。
女性は迫害によって濡れる性質があるが、女性がそれを幸福と認めるときにしか、濡らしてはいけない。女性が幸福に迫害されるために必要なものは、不安でなくむしろ安心である。この人になら迫害されても大丈夫、この人は大丈夫、と信じられる安心感なしには、女性は迫害されて濡れることを良しとも幸福とも認めないだろう。この、「女性が自分で濡らされる人を選ぶ権利」を侵したとき、法律と罰の量刑は厳しいのである。厳しくあるべきだし、アクティブでもあるべき、なのである。
***
そんなわけで、まったく上手く話せていないし、書けてもいないが、もう時間が差し迫ってしまったので、終わりにしよう。年越し蕎麦を食べたい。僕はこの一年、すごく長く感じて、かつ、切れ目がないほどに、幸福だった。この一年は、長い間、幸福でヘトヘトになった、という感触がある。幸福というのは、もちろん疲労はしないが、エネルギーをごっそり昇華するので、ヘトヘトにはなるのだ。
ただ、僕がそうであっても、僕だけが世の中にあるわけではなし、周囲のことについて仄聞するところでは、不幸や不安や、陰鬱ばかりを、周囲巻き込みながら、生産する人々もあった様子。世の中は、僕だけではできていないし、同時に、そいつらばっかりで出来ているわけでもない。実にくだらない話で申し訳ないが、今年もあと二時間なので、そんな当たり前のことに感慨深くなってしまう。
来年は、誰も彼も、笑う理由がないのに笑う、みたいなことをやめたらいいし、その中で、優れて満たされる人は満たされればよい。満たされない人は、何かが優れていないのだろう、そういったことは事実のことなので、しょうがない。
僕はこのところ、なぜだろう、人と話すのに、「正しい情報が無いのに、正しい判断ができるわけがない」というようなことを、よく言うようになっている。その「正しい情報」というのは、自分のことについて、ゴマカシ笑いをやめることで、得られてくるだろう。ゴマカシ笑いをやめたとき、自分はどういう人間で、周囲にどう受け取られ、どういう存在で、どういう能力があるのか、または無いのか、ということがわかってくる。笑うのをやめろというのは、その自分についての正しい情報を得るためにそうしろ、と言っているようなものだ。そしたら、どれだけ自分に落ち込むことがあっても、正しい情報を得ている分、正しい判断をすることには、近づけているわけだ。そうしたら、少なくとも、正しい情報と判断に向かっている、その眼差しの透明度ぐらいは変わるだろう。それが少々、低い位置からの再生であったとしても、眼差しから濁りが抜けていっている人のことを、あまり人はバカにしないものだ。
ではでは、来年もよろしく。
[笑うのをやめてから笑え/了]